その2.
「その黒んぼはどこにいる? あんたはそいつを捕まえたのかね?」
「見たことのねえ黒んぼだったって言ったでしょうが。そいつがどうしたかなんてわしは知らねえです」
「だがそれでは証拠とは言えんよ。証拠というには無理があるとあんたも思わんかね?」
「あの坊主をここへ呼んでくだせえ。やつだったら知ってるはずです」
しばらくのあいだ他の人びとと同様、少年も男が言っているのは自分の兄のことだと思っていたが、ハリスは続けた。「いや、そいつじゃねえです。ちっこいほうの。あの子だ」
あぐらをかいていた少年は、年の割に小柄な、父親そっくりの痩せてひきしまった体つきをしていた。つぎの当たった、小柄な体にさえ小さすぎる色のあせたジーンズをはき、まっすぐな茶色い髪には櫛を入れたあともなく、吹きすさぶ嵐にも似た灰色の荒々しい瞳をしている。彼は人びとが両脇に分かれて、テーブルまでの道を開け、厳しい顔の人垣を作っていることに気がついた。突き当たりには判事がいる。古ぼけた服にカラーもつけず、白髪混じりの頭で眼鏡をかけた判事は、少年に向かって手招きした。剥き出しの足は床を感じないのに、自分に向けられた厳しい表情は実際に重くのしかかる、そんななかを少年は歩いた。父親は黒い一張羅を着込んでしゃちほこばっているが、それも裁判のためではなく、引っ越しのためだ。息子の方をちらりとも見ない。父さんはおれに嘘をつかせるつもりなんだ。気も狂いそうな悲しみと落胆がまた押し寄せてきた。だからおれはそうしなきゃ。
「坊や、君の名前は何だね?」判事が言った。
「カーネル・サートリス・スノープス」少年はささやくように言った。(※カーネルは「大佐」の意で、サートリス大佐は地元の名士である)
「なんだって?」判事は聞き返した。「もっと大きな声で言ってくれんかね。カーネル・サートリスだって? この町でサートリス大佐の名前をもらった人間は、ほんとうのことを証言しないはずはないと思うのだが、どうかね?」
少年は何も答えなかった。敵だ! 敵なんだ! と考えていたのだ。しばらくのあいだ、まともに見ることさえできなかったので、判事の表情に優しげな色が浮かんでいることにも気づかなかったし、ハリスという男に「わしにこの子を尋問しろというのかね?」と尋ねる声音にも困惑の響きがあることもわからなかった。それに続くいやに長い数秒のあいだに少年の耳もまた聞こえるようになったが、人でいっぱいの小さな部屋は物音ひとつせず、押し黙った人びとのはりつめた息の音だけが聞こえていた。まるで彼が深い谷底の上でブドウのつるの先端にぶらさがって揺れていたら、一番高く振れた瞬間がいつまでも終わらなくなってしまい、重力も麻痺して重さもまったく感じなくなったような感じだった。
「できねえよ!」ハリスは乱暴な、感情を爆発させたような声を出した。「ええい、くそっ! あの子をここから出してやってくだせえ!」
その瞬間、時間と移り変わる世界はたちまち彼の足の下に戻り、チーズと缶詰の魚、あるいは恐れや絶望や昔からの血の悲しみのにおいをついて、人びとの声が彼の耳元に届いたのだった。
「本件はこれにて終了。あんたを有罪とする理由は認められんよ、スノープス、だがな、忠告をしておく。この土地を離れるんだ。戻ってきちゃならん」
少年の父親はそのとき初めて口を開いた。冷たく険しいが平板で抑揚のない声だった。「そのつもりだ。ここにとどまるつもりはない、こんな……」それから何か活字にできないような忌まわしい言葉をだれに言うともなく吐いた。
「よかろう」判事はそう言った。「自分の馬車で暗くなる前にここから出ていくことだ。訴えを却下する」
(この項つづく)
「その黒んぼはどこにいる? あんたはそいつを捕まえたのかね?」
「見たことのねえ黒んぼだったって言ったでしょうが。そいつがどうしたかなんてわしは知らねえです」
「だがそれでは証拠とは言えんよ。証拠というには無理があるとあんたも思わんかね?」
「あの坊主をここへ呼んでくだせえ。やつだったら知ってるはずです」
しばらくのあいだ他の人びとと同様、少年も男が言っているのは自分の兄のことだと思っていたが、ハリスは続けた。「いや、そいつじゃねえです。ちっこいほうの。あの子だ」
あぐらをかいていた少年は、年の割に小柄な、父親そっくりの痩せてひきしまった体つきをしていた。つぎの当たった、小柄な体にさえ小さすぎる色のあせたジーンズをはき、まっすぐな茶色い髪には櫛を入れたあともなく、吹きすさぶ嵐にも似た灰色の荒々しい瞳をしている。彼は人びとが両脇に分かれて、テーブルまでの道を開け、厳しい顔の人垣を作っていることに気がついた。突き当たりには判事がいる。古ぼけた服にカラーもつけず、白髪混じりの頭で眼鏡をかけた判事は、少年に向かって手招きした。剥き出しの足は床を感じないのに、自分に向けられた厳しい表情は実際に重くのしかかる、そんななかを少年は歩いた。父親は黒い一張羅を着込んでしゃちほこばっているが、それも裁判のためではなく、引っ越しのためだ。息子の方をちらりとも見ない。父さんはおれに嘘をつかせるつもりなんだ。気も狂いそうな悲しみと落胆がまた押し寄せてきた。だからおれはそうしなきゃ。
「坊や、君の名前は何だね?」判事が言った。
「カーネル・サートリス・スノープス」少年はささやくように言った。(※カーネルは「大佐」の意で、サートリス大佐は地元の名士である)
「なんだって?」判事は聞き返した。「もっと大きな声で言ってくれんかね。カーネル・サートリスだって? この町でサートリス大佐の名前をもらった人間は、ほんとうのことを証言しないはずはないと思うのだが、どうかね?」
少年は何も答えなかった。敵だ! 敵なんだ! と考えていたのだ。しばらくのあいだ、まともに見ることさえできなかったので、判事の表情に優しげな色が浮かんでいることにも気づかなかったし、ハリスという男に「わしにこの子を尋問しろというのかね?」と尋ねる声音にも困惑の響きがあることもわからなかった。それに続くいやに長い数秒のあいだに少年の耳もまた聞こえるようになったが、人でいっぱいの小さな部屋は物音ひとつせず、押し黙った人びとのはりつめた息の音だけが聞こえていた。まるで彼が深い谷底の上でブドウのつるの先端にぶらさがって揺れていたら、一番高く振れた瞬間がいつまでも終わらなくなってしまい、重力も麻痺して重さもまったく感じなくなったような感じだった。
「できねえよ!」ハリスは乱暴な、感情を爆発させたような声を出した。「ええい、くそっ! あの子をここから出してやってくだせえ!」
その瞬間、時間と移り変わる世界はたちまち彼の足の下に戻り、チーズと缶詰の魚、あるいは恐れや絶望や昔からの血の悲しみのにおいをついて、人びとの声が彼の耳元に届いたのだった。
「本件はこれにて終了。あんたを有罪とする理由は認められんよ、スノープス、だがな、忠告をしておく。この土地を離れるんだ。戻ってきちゃならん」
少年の父親はそのとき初めて口を開いた。冷たく険しいが平板で抑揚のない声だった。「そのつもりだ。ここにとどまるつもりはない、こんな……」それから何か活字にできないような忌まわしい言葉をだれに言うともなく吐いた。
「よかろう」判事はそう言った。「自分の馬車で暗くなる前にここから出ていくことだ。訴えを却下する」
(この項つづく)