ひとりっこで育った人間とちがって、きょうだいがいる環境で育った子供は、果物であろうがお菓子であろうが、冷蔵庫のゼリーやプリンやヨーグルトであろうが、冷凍庫のアイスクリームであろうが、「これは自分ひとりだけのものではない」ということを骨身にしみて知っている。自分がどれだけそれを食べたくても、ひとりじめすることは許されない。「もう少し食べたい」と思っても、決して思い通りにはならず、下がいればなおさら、下がほしがれば上は譲ってやらなければならない。きょうだいがいなければなあ、ひとりっこだったらなあ、せめて下がいなかったらなあ、とため息をつく羽目になる。
大学に入って最初に思ったことのひとつは、自分は自由なのだ、ということだった。これからはテレビだって好きなだけ見られるし、遅く帰ってきてもでっち上げる理由に頭を悩ませなくてもいいし、夜更かししようが朝寝をしようがかまわない、ハーゲンダッツのパイント入りのパックだって好きなだけ食べていい、一度にまるごとだって食べられるのだ。だれもわたしに文句は言わないし、わたしのやりたいことを止めることはできない。
ところが結局わたしは果物だのお菓子だのゼリーだのプリンだのアイスクリームだのを思いっきり好きなだけ食べるということをしなかった。ハーゲンダッツのパイント入りパックも買うことはなかった。というのも、そんなことをしてしまうと、自分の生活費にたちまち事欠くようになってしまうからなのだ。自分の時間にしても同じこと。もちろんどう使おうが自分の自由であったとしても、その結果はかならず自分のところに返ってくる。どれほど引き受けたくなかろうが、まるで自分宛に手紙を書いたように、かならず自分のやったこと・やらなかったことは、自分の元に戻ってくる。何かひとつでもことを起こそうと思えば、そうするとどうなるかという結果のことを考えなければならず、結局は「自由」という範囲などおそろしく限られてくる。「自由」には、カスタードプリンにカラメルソースがかかっているごとく、もれなく「責任」が一緒についてくるのだった。
それまで、親と一緒にいるときは、「責任」という言葉はたいてい説教のなかで口にされるものだった。テストの点数が悪ければ、それは勉強しなかった自分の「責任」、忘れ物をしてしまえば、前の日からちゃんと準備をしておかなかった自分の「責任」、悪い結果が出れば、かならずほかならぬ自分の責任であることを指摘され、「もとはといえばだれが悪いのか」と自分で認めさせられる羽目に陥る。そのころは自由というのは責任とは縁もゆかりもない言葉、むしろ、責任を負わなくてもいいような状態とばくぜんと思いこみ、あこがれていたのだ。
ところが説教する親はいなくなっても、事態は一向に変わらない。何かをすれば、かならず結果はついてまわる。ことを起こせば賞賛か認可か無視か非難がついてまわる。説教はされない自由は手に入れた。だが、その代わり、のぞましい評価を得ようと思えば、あらかじめ自分で自分を「説教」しなければならなくなる。責任をいやがってそこから逃げようとすれば、自由に何かができる時間も一緒に減っていく。まるで天秤棒をかついでいるようなものだ。「自由」の度合いが増えれば「責任」も重くなる。
ところで、いつのまにか市民権を得たのか、しばらく前からあちこちで目にするようになった言葉に「自己責任」というのがある。だが、なんだかこれは奇妙な言葉だとずっと思ってきた。
これは「馬から落ちて落馬」式の畳語だ。責任の基本は、ある行為の行為者が、行為の結果に対して取るものである。その行為は行為者以外に責任がとれないのだから「自己」なんていう言葉をつけなくても、すべからく「自己責任」しかあり得ない。
もちろんその人が子供だったりして、誰かの監督下にある場合、その人以外にも責任を負うべき人は出てくる。それでも、その人の年齢に応じて、あるいは応じて、行為の責任をその人が負わなければならないことには変わりはないのだ。
ところがこれを他人に向かって言う人は、「自己責任」といいながら、実は「結果がどうなっても自分は何もしてやらないからな」「金なら出せん」「力は貸さない」「おまえのために何もしてやるつもりはない」と言っているのだが、そういう代わりに「自己責任」という言葉を使う。「金は出せんが、それはおまえが蒔いた種だからだ」という言い方で、出せない自分を正当化している。
いや、当否を言っているのではないのだ。そう言いたくなるような場面だってきっとあるだろう。
だが、なんともそういうことをしたくなる精神というのが、ミミッチイなあ、と思っちゃうのだ。「金なら出せん」でいいじゃないか。「力を貸してくれ」と頼まれて、「そういうことはできない」というのなら、それでいいんじゃないか?
「自己責任」という畳語を使ってわざわざ相手を非難までしようと言うのなら、非難するという行為の責任も、した人は負わなければならないのではあるまいか。
もちろん説教する自由はある。だが、説教した責任は負わなければならないだろう。
人に頼らなければならない状態というのは、確かにあまり望ましい状態ではない。自分の行為に十分に責任を負っていないから、そういう羽目に陥るともいえるのかもしれない。けれども、そういう状態に陥っている、ということで、その人はある意味で自分の行為に責任を取っているとも言えるのである。
手を貸す余力がなければ、あるいはそんな気になれないだけでもいいのだけれど、だとしたら、「できない」といって断るだけでいい。
少なくとも、これまで誰かに迷惑をかけたことがあるような人は、迷惑というのは自分の行為に十分に責任が取りきれなかったことにほかならないのだから、「自己責任」などということは言わない方がいいような気がする。
一度も人に迷惑をかけたことのない人はいないだろうし、仮にいたとしたら、逆にわたしはそんなおっかない人とはあまり仲良くなりたくはない。
大学に入って最初に思ったことのひとつは、自分は自由なのだ、ということだった。これからはテレビだって好きなだけ見られるし、遅く帰ってきてもでっち上げる理由に頭を悩ませなくてもいいし、夜更かししようが朝寝をしようがかまわない、ハーゲンダッツのパイント入りのパックだって好きなだけ食べていい、一度にまるごとだって食べられるのだ。だれもわたしに文句は言わないし、わたしのやりたいことを止めることはできない。
ところが結局わたしは果物だのお菓子だのゼリーだのプリンだのアイスクリームだのを思いっきり好きなだけ食べるということをしなかった。ハーゲンダッツのパイント入りパックも買うことはなかった。というのも、そんなことをしてしまうと、自分の生活費にたちまち事欠くようになってしまうからなのだ。自分の時間にしても同じこと。もちろんどう使おうが自分の自由であったとしても、その結果はかならず自分のところに返ってくる。どれほど引き受けたくなかろうが、まるで自分宛に手紙を書いたように、かならず自分のやったこと・やらなかったことは、自分の元に戻ってくる。何かひとつでもことを起こそうと思えば、そうするとどうなるかという結果のことを考えなければならず、結局は「自由」という範囲などおそろしく限られてくる。「自由」には、カスタードプリンにカラメルソースがかかっているごとく、もれなく「責任」が一緒についてくるのだった。
それまで、親と一緒にいるときは、「責任」という言葉はたいてい説教のなかで口にされるものだった。テストの点数が悪ければ、それは勉強しなかった自分の「責任」、忘れ物をしてしまえば、前の日からちゃんと準備をしておかなかった自分の「責任」、悪い結果が出れば、かならずほかならぬ自分の責任であることを指摘され、「もとはといえばだれが悪いのか」と自分で認めさせられる羽目に陥る。そのころは自由というのは責任とは縁もゆかりもない言葉、むしろ、責任を負わなくてもいいような状態とばくぜんと思いこみ、あこがれていたのだ。
ところが説教する親はいなくなっても、事態は一向に変わらない。何かをすれば、かならず結果はついてまわる。ことを起こせば賞賛か認可か無視か非難がついてまわる。説教はされない自由は手に入れた。だが、その代わり、のぞましい評価を得ようと思えば、あらかじめ自分で自分を「説教」しなければならなくなる。責任をいやがってそこから逃げようとすれば、自由に何かができる時間も一緒に減っていく。まるで天秤棒をかついでいるようなものだ。「自由」の度合いが増えれば「責任」も重くなる。
ところで、いつのまにか市民権を得たのか、しばらく前からあちこちで目にするようになった言葉に「自己責任」というのがある。だが、なんだかこれは奇妙な言葉だとずっと思ってきた。
これは「馬から落ちて落馬」式の畳語だ。責任の基本は、ある行為の行為者が、行為の結果に対して取るものである。その行為は行為者以外に責任がとれないのだから「自己」なんていう言葉をつけなくても、すべからく「自己責任」しかあり得ない。
もちろんその人が子供だったりして、誰かの監督下にある場合、その人以外にも責任を負うべき人は出てくる。それでも、その人の年齢に応じて、あるいは応じて、行為の責任をその人が負わなければならないことには変わりはないのだ。
ところがこれを他人に向かって言う人は、「自己責任」といいながら、実は「結果がどうなっても自分は何もしてやらないからな」「金なら出せん」「力は貸さない」「おまえのために何もしてやるつもりはない」と言っているのだが、そういう代わりに「自己責任」という言葉を使う。「金は出せんが、それはおまえが蒔いた種だからだ」という言い方で、出せない自分を正当化している。
いや、当否を言っているのではないのだ。そう言いたくなるような場面だってきっとあるだろう。
だが、なんともそういうことをしたくなる精神というのが、ミミッチイなあ、と思っちゃうのだ。「金なら出せん」でいいじゃないか。「力を貸してくれ」と頼まれて、「そういうことはできない」というのなら、それでいいんじゃないか?
「自己責任」という畳語を使ってわざわざ相手を非難までしようと言うのなら、非難するという行為の責任も、した人は負わなければならないのではあるまいか。
もちろん説教する自由はある。だが、説教した責任は負わなければならないだろう。
人に頼らなければならない状態というのは、確かにあまり望ましい状態ではない。自分の行為に十分に責任を負っていないから、そういう羽目に陥るともいえるのかもしれない。けれども、そういう状態に陥っている、ということで、その人はある意味で自分の行為に責任を取っているとも言えるのである。
手を貸す余力がなければ、あるいはそんな気になれないだけでもいいのだけれど、だとしたら、「できない」といって断るだけでいい。
少なくとも、これまで誰かに迷惑をかけたことがあるような人は、迷惑というのは自分の行為に十分に責任が取りきれなかったことにほかならないのだから、「自己責任」などということは言わない方がいいような気がする。
一度も人に迷惑をかけたことのない人はいないだろうし、仮にいたとしたら、逆にわたしはそんなおっかない人とはあまり仲良くなりたくはない。