陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

図書館にて

2008-10-05 22:36:38 | weblog
先日、図書館で書庫請求をしてから、その本がくるのを待っていた。ちがう分野の本を三冊頼んだので、ある程度時間がかかるだろうと思って、貸し出しカウンターの端っこに立ったまま、一緒に借りるつもりにしている本を読んでいたのだが、そこに同じように書庫請求におじさんがやってきたのである。

職員が「取ってきますので、ここでお待ち下さい」と言うと、そのおじさんは「ほかにも借りる本があるから取ってくるわ」と言う。そこで職員が「では、貸し出しのときに、一緒に書庫請求なさってください」と言うと、「何でいま取ってきてくれんのか」と言うのである。職員(若い女性だったのだが)は一瞬ひるんで、「そうすると、貸し出し手続きが一度ですみますから」と言った。するとそのおじさんは、「あんたが取ってきてくれるあいだに、借りる本を取ってくりゃええんやろ」と言い置いて、書架の方へ行ってしまった。その職員はちょっとため息をついて、書庫に下りていくと、どうやら見つけやすい本だったのだろう、すぐにそれを持って戻ってきた。おじさんの姿はもちろんまだない。その職員は、あたりを見回して、おじさんの姿がないことを確かめると、その本を脇に置いて、貸し出し業務に戻った。

すると、つぎもまた書庫請求のおじさんだったのである。
その職員の女性は、先ほどよりやや強めに「ここでお待ち下さい」と言った。すると、さきほどとは別人なのだが、やはり同じく五十代後半から六十代前半とおぼしき年代のおじさんは、「借りる本を探してくるから、その本、こっちへ持ってきといて」と言った。「持ってきたら呼び出ししてくれりゃわかるから」

職員は諦めたように、「館内呼び出しは非常用ですから、ここからお呼びして声の届く範囲にいらっしゃってください」と言って、書庫へまた下りていった。

今度もまたすぐ見つかったらしく、その人は雑誌を片手に戻ってきた。
「××さん」と呼んだが、もちろんそのおじさんの姿はない。最初に取ってきた本の上にその雑誌を乗せて、疲れたようにため息をつくと、その人は貸し出し業務に戻った。

そこでわたしの本を探しに行ってくれた人が「お待たせしました」と取ってきてくれたので、それからあとどうなったかは知らない。書庫請求というのは、カウンターで取ってきてくれるのを待つものだとばかり思っていたわたしは、驚いてしまったのである。自分が待つのはいやだ。まあここまではいい。誰だって待たされたくはない。だが、そこで自分が待たされるのを拒否すると、逆に、他の人を自分が待たせることになるのだ。わたしが驚いたのは、たったそれだけのことに思い至らない人がいる、ということである。

他の人に自分の便宜を図ってもらうようなときには、相手の手を煩わせる割合を最小限に留めるよう、自分も協力する。このことは、だれでも成長過程において学んでいく種類のことなのではあるまいか。たとえば教科書を忘れて、隣のクラスの友だちに貸してくれるように頼むときに、「自分はちょっと外で遊んでくるから、自分の席に教科書を置いておいて」と頼むようなものではないか。

実際のところ、そういう人の割合がどれほどを占めるのか、わたしにはよくわからない。たまたまそういう人が間近なところで続いたので、目についただけかもしれない。だが、自分の行動が、非常にわかりやすく「身勝手」であることに気がつかない人が、あちこちで目に付くようになったことは、何となく、日々感じるところではある。

一方で、よくわからない犯罪が、つぎつぎと起こっている。耳目を驚かせるような事件が、ひとつ起こったかと思えば、どう考えてよいのかもよくわからないうちにまた別の事件が起こる。親が子を殺し、別のところでは小さな子どもが殺される。その犯人もつかまらないうちに、新聞の紙面を別の大きな事件が埋め尽くす。

もはやひとつひとつの事件に衝撃を受けることもなく、まるで疲労が蓄積していくように、よくわからない事件から受ける違和感だけが積み重なっていく。そこから来るのは、自分たちが生きている社会は、よくわからない、自分にはどうしようもできない場所だ、という意識だ。まるで無力な子供のような意識だ。無力な子供がそんなおそろしい社会で生きていこうと思えば、できるだけ巻き込まれないように、自分を傷つけないとわかっている少人数だけとつきあって、世間など締め出して、ささやかな世界を快適に整えていく、ということになってしまう。

だが、確かにいろんな事件が起こっているとしても、自分が現実に生きている世界というのは、実際のところ、ごくごく狭いものなのである。自分が果たすべき責任だってあるし、自分にできることもある。自分が何かをすることで、人を助けることもできるし、自分の周囲を変えていくことも、人を動かすこともできるのだ。

なんだか、あふれるほどの報道で、わたしたちは現実の距離感を失っているのではないか、と思う。自分の関われる範囲で、自分にできることはまちがいなくある。
そうした責任を果たすことが、わけのわからない犯罪を減らしていくことにもどこかでつながっていくような気がするのだ。もしかしたら、風が吹けば桶屋が儲かる、ぐらいの因果関係かもしれないのだけれど。