陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フォークナー 「納屋は燃える」その7.

2008-10-18 22:48:48 | 翻訳
その7.

 一同が冷たい夕食を食べているあいだも、絨毯はそこにかかっていた。それから寝る時間になって、誰が命じることもなく、自分の希望を主張することもなく、それぞれにふたつの部屋に分かれていった。母親はベッドのひとつに、そこにはあとから父親も横になる。兄はもうひとつのベッドに寝て、彼と叔母さんとふたりの姉は床に藁ぶとんを敷いて寝るのだ。だが父親はまだ寝に来ない。深い眠りに落ちる前に、最後に少年が覚えていたのは、帽子をかぶって上着を着た父親のとげとげしい影が、絨毯にかがみこんでいる姿で、つぎに父が自分を見下ろしているのに気がつくまで、目を閉じるか閉じないかの間だったような気がした。背後の火はほとんど消えかかっている。足音で少年は目を覚ましたらしかった。「ラバを出すんだ」父親は言った。

 少年がラバを引いて戻ってくると、父親は真っ暗な戸口に、巻いた絨毯を肩に担いで立っていた。

「乗っていくんじゃないの?」

「いや。おまえの足を貸せ」

 少年は膝を曲げると、父親はそ膝の下に手を差し入れた。針金のような腕には驚くほどの力があって、少年の体はそのまま持ち上げられたかと思うと、そのままラバの裸の背に乗せられた(昔は鞍があったのだ。少年はいつ、どこでそれを見たのか覚えてはいなかったが)。父親は今度も雑作なく絨毯をふりあげると、少年の前に載せた。そうして星明かりの下、ふたりは午後来た道をふたたびたどっていった。スイカズラの匂いがむせかえるほどの埃っぽい道を抜け、門を通って、真っ暗な私道のトンネルをくぐり、灯りのついていない家に着いた。そこで少年がラバを停めると、腿にかかった絨毯のごわごわした感触が消えた。

「手伝おうか?」少年はささやいた。父親は何も言わなかったが、やがてまたこわばった足が、ひとけのない玄関ポーチの床板を踏む時計のように規則正しい足音が聞こえてきた。体重よりはるかに大きな音だ。父親は絨毯を肩から振り落とすのではなく、おおいかぶさるようにそっとおろしたが(少年には暗闇の中でもそのことがはっきりわかった)、壁や床にぶつかって、雷のような音がした。それからまた悠々とした大きな足音が響いた。家のなかに灯りがともり、少年はすわったまま、緊張しながら、規則的な呼吸、静かだがふだんよりいくぶん浅い呼吸をしていた。足音は少しも早まることはなく、ゆっくりと階段をおりてきて、やがて少年にも父親の姿が見えた。

「帰りは乗るんだろ?」少年はささやいた。「今度はふたり乗れるよ」
家のなかは別の場所が明るくなり、ゆらめいたかと思うと低い場所へ降りていく。あの男がいま階段をおりてるんだ、と少年は思った。ラバは少年を乗せたまま乗馬台のわきへさしかかった。そこで父親が後ろに飛び乗り、手綱を倍に延ばすと、ラバの首筋を叩いた。だがラバが速足になるまえに、堅くひきしまった腕が少年の体に回され、ごつごつと節くれ立った手が手綱をぐいっと締めたので、ラバは並足に戻った。

 明け初めた赤い陽がのびる庭で、ふたりは二頭のラバに鋤きをつけていた。栗毛の牝馬が今度は足音も響かせず、いきなり姿を現した。馬に乗った男は、カラーもつけず、帽子もかぶらず、身をがたがたと震わせながら、ちょうど屋敷にいた女のように震え声で話したが、馬上を一瞥した父親は、そのままかがんでくびきを結わえる作業に戻ったために、男はうつむいた背中に話しかける羽目になってしまった。

「おまえは絨毯を駄目にしたことをわかっているのか。ここにだって女手のひとつぐらいはあるだろうが」震えながら言葉を切るのを少年は見ていた。兄が厩の戸口にもたれ、噛みタバコをやりながらゆっくりまばたきしたが、実際はその目には何も映っていなかっただろう。

「百ドルもしたんだぞ。だがな、おまえに百ドルの金があるはずもなかろう。金輪際、持つことさえあるまい。だから、わしはおまえの収穫分から、トウモロコシを500キロ、取り立てることにする。契約書に書き加えておくから、今度代理人のところへ行ったときに署名をしておくんだ。そんなことでミセス・ド・スペインの気持ちは治まるまいが、まあ、おまえにとっちゃ、勉強にはなっただろう。人の屋敷に入ろうというときには、自分の足くらいちゃんと拭いておくというな」

 それだけ言うと、男は行ってしまった。少年が父親の方を見ると、黙ったまま目を上げようともせず、くびきの鉄球棒の位置を直していた。

「父さん」父親は彼を見た――何を考えているのかまるでわからない顔つきで、もつれた眉の下の灰色の目が冷たく光っている。少年はいきなり父親のそばへ駆け寄って、また急に止まった。

「父さんはできるだけのことをやったんだ!」彼は大声で言った。「もしあの人がちがうふうにやってほしかったんだったら、もうちょっとここにいて、どうやってやったらいいか教えてくれれば良かったんだ。あんなやつに500キロ渡す必要なんてないよ! やつには一粒だって受け取る権利はない! 収穫したら隠してしまえばいいよ。集めたら全部隠してしまえばいいんだ! おれが見張っててやるから……」

「おまえはおれの言うとおりに、ナタをまっすぐにして片づけたか?」

「まだです」

「じゃ、やっておけ」

 それは水曜日のことだった。その週の残りをずっと、少年は自分のできることを探して――ときにはそれを超えることまで――懸命に働いた。一度命令されれば、もう二度と言う必要がないほど、熱心に働いたのだ。このやり方を学んだのは母親からだったが、ひとつちがっていたのは、ともかく好きなことをやろうとした点だった。たとえば、薪割りをするなら、母親と叔母さんがやりくりして、どうにか金を貯めてクリスマスプレゼントに買ってくれた小ぶりの斧を使うようなことである。母親や叔母さんと一緒に(一日の午後あいだだけ、姉の一人も加わった)子豚と雌牛の囲いも作ったが、それは父親と地主の契約の一部に含まれていた。ある日の午後、父親が一頭のラバに乗ってどこかに行ったあと、少年は畑へ出た。

 いまはちょうど畝立て機を使っているところで、兄が鋤をまっすぐに起こしているあいだ、少年が手綱をあやつりながら、鋤を引くラバの横を歩いた。裸足のかかとは冷たくしめった肥沃な黒土をふみしめる。たぶんこれで片づいたんだ、と少年は思っていた。たった一枚の絨毯に、500キロも納めなきゃならないなんてひどい話だけど、それも父さんがこれからもう二度と、前やってたようなことをしなくなるんだったら、安いもんじゃないか。それは考えているというより夢を見ていたようなものだったから、兄は、ラバに気をつけろ、と厳しく注意しなければならなかった。――きっと、500キロの取り立てなんて無理だろう。たぶん、収穫して、計量して、精算したところでそのまま消えてしまうんだ。トウモロコシ、絨毯、火。恐怖も悲しみも、二頭の馬に別々の方向に引っ張られるみたいにして、そのまま永久にどこかへ行ってしまうんだ。



(この項つづく)