その4.
次の日、一家はそこにやってきた。午後のまだ早い時間に荷馬車が停まったのは、ペンキの塗っていない二間きりの家で、これまでの十年間に少年が過ごした十数軒の家とうりふたつだった。そこからまた、これまでの十数回と同じように、母親と叔母さんは荷馬車から降りると、荷物を降ろし始めた。ふたりの姉も父親も兄も動こうとはしない。
「ブタも収まらないかもしれないね」片方の姉が言った。
「いや、なかなかいいところだし、おまえたちみんな、ブタみたいに気に入るだろうさ」と父親は言った。「椅子から腰を上げて、母さんの荷下ろしを手伝え」
ふたりの姉は牛のような大きな体に、安っぽいリボンをひらひらさせながら、荷馬車から降りた。ひとりはごちゃまぜの荷台から壊れたランタンを引っ張り出し、もうひとりはぼろぼろのほうきを引っ張り出す。父親は手綱を兄に渡すと、ぎこちない足さばきで車輪のてっぺんに上った。「荷物を全部降ろしたら、こいつらを厩に連れてって飼い葉を食わせろ」それからつぎの言葉を、初め少年はこれも兄に向かって言ったのかと思ったのだが、そうではなかった。「ついて来い」
「おれ?」少年は聞いた。
「そうだ」父親が答えた。「おまえだ」
「アブナー」母親が声をかけた。父親は立ち止まって振り返ると、もつれた灰色の不機嫌そうに寄せられた眉の下から、険しく冷たいまなざしを向けた。
「おれはな、明日っから八ヶ月間、おれの体も心も自分のものになるとでも思っていやがるようなやつと話をして来るんだ」
ふたりはいま来た道を戻っていった。一週間前なら――いや、実際には昨晩より前ならば、少年も自分たちがどこへ向かっているのか聞いたかもしれなかったが、いまはそんな気にはなれなかった。前にも父親が彼を殴ったことはあったが、その理由をあとになって考えてみようとしたことはなかった。だが、平手打ちの音とそれに続く冷やかで怒りに満ちた声が、いまなお耳のうちで鳴り響き、谺しているような気がする。子供であることの不利をいやというほど味わわされたのだ。体の軽ささえ、生まれてからわずかの年数しか経っていない証拠のようで、それでいて世界から自由に飛び立つにはその体重でも邪魔で、かといって地に足をつけて、抵抗し、成り行きを変えようと試みるには重さが足りないように思えるのだった。
じきに、カシやスギ、花の咲いた木々や灌木が見えてきた。家はそこにあるらしいのにまだ見えない。ふたりがスイカズラやナニワイバラの繁る生け垣に沿って歩いていくと、二本のレンガの柱のあいだに門が揺れている。そこでやっと大きくカーブを描いた私道の向こうに、初めて家が見えたのだった。その瞬間、少年は父親のことも、恐れも絶望も忘れてしまい、父親のことを思いだしたときでさえ(父親は立ち止まることもなかった)、恐れと絶望はよみがえってこなかった。
というのも、十二回の引っ越しも、これまでは貧しい田舎の小さな農場や畑や家の並ぶところばかりで、こんな屋敷は一度も見たことがなかったからだ。こいつは群庁舎ほどにも大きいじゃないか、とひそかに考えながら、心に平安と喜びが――幼すぎて、その気持ちをうまく言葉にあてはめることはできなかったが――わきあがるのを感じていた。ここの人たちなら父さんがいても安全だ。こんなに平和でお上品なところに住んでいるんだから、父さんだって手の出しようがないにちがいない。父さんなんてここの人たちにしてみたら、ぶんぶん飛び回るハチみたいなものだ。ちょっと刺して、しばらく痛い思いをさせるかもしれないけど、それぐらいがせいぜいなんだ――たとえ父さんが何かたくらんだとしても、ここの平和で上品な魔法のおかげで、納屋も厩も家畜小屋も、ちっぽけな火なんかじゃ燃やせないだろう……。
この平安も喜びも、こわばった黒い背中に目をやった瞬間に消えてしまった。足を引きずって歩く父の固く無慈悲な姿は、屋敷を前にしても少しもちっぽけには見えない。おそらくそれは、どこにいても格別大きく見えたわけでもない父の背が、荘重な円柱の立ち並ぶ屋敷を背にして、これまでにないほど超然として見えたからだろう。何かブリキの板を無造作に切りとったような感じ、うすっぺらで、たとえ横から日が差しても影ができそうもない感じだった。
その姿を眺めているうちに、父親がひたすらまっすぐに進んでいることに気がついた。父親のぎくしゃくした足は、さっき私道に立っていた馬が落としたばかりの糞のかたまりを、ほんの少し歩幅を変えれば避けられたであろうに、まともに踏みつけたのである。だがその出来事も、少年がうまく言葉にして考えることができないまま、この屋敷の魔法のなかを歩き続けるうちに、すみやかに消えていった。屋敷が自分のものだったらな、と思ったものの、気持ちのなかにはねたみも悲しみも、ましてや鉄のような黒い上着を着て前を行く父親の胸の内にある渇望や嫉妬のこもった怒りとも無縁だった。きっと父さんもそのうちそんな気持ちになるだろう。きっと父さんがそう抱かずにはおれないような思いさえ、この家は変えてしまうだろう。
(この項つづく)
次の日、一家はそこにやってきた。午後のまだ早い時間に荷馬車が停まったのは、ペンキの塗っていない二間きりの家で、これまでの十年間に少年が過ごした十数軒の家とうりふたつだった。そこからまた、これまでの十数回と同じように、母親と叔母さんは荷馬車から降りると、荷物を降ろし始めた。ふたりの姉も父親も兄も動こうとはしない。
「ブタも収まらないかもしれないね」片方の姉が言った。
「いや、なかなかいいところだし、おまえたちみんな、ブタみたいに気に入るだろうさ」と父親は言った。「椅子から腰を上げて、母さんの荷下ろしを手伝え」
ふたりの姉は牛のような大きな体に、安っぽいリボンをひらひらさせながら、荷馬車から降りた。ひとりはごちゃまぜの荷台から壊れたランタンを引っ張り出し、もうひとりはぼろぼろのほうきを引っ張り出す。父親は手綱を兄に渡すと、ぎこちない足さばきで車輪のてっぺんに上った。「荷物を全部降ろしたら、こいつらを厩に連れてって飼い葉を食わせろ」それからつぎの言葉を、初め少年はこれも兄に向かって言ったのかと思ったのだが、そうではなかった。「ついて来い」
「おれ?」少年は聞いた。
「そうだ」父親が答えた。「おまえだ」
「アブナー」母親が声をかけた。父親は立ち止まって振り返ると、もつれた灰色の不機嫌そうに寄せられた眉の下から、険しく冷たいまなざしを向けた。
「おれはな、明日っから八ヶ月間、おれの体も心も自分のものになるとでも思っていやがるようなやつと話をして来るんだ」
ふたりはいま来た道を戻っていった。一週間前なら――いや、実際には昨晩より前ならば、少年も自分たちがどこへ向かっているのか聞いたかもしれなかったが、いまはそんな気にはなれなかった。前にも父親が彼を殴ったことはあったが、その理由をあとになって考えてみようとしたことはなかった。だが、平手打ちの音とそれに続く冷やかで怒りに満ちた声が、いまなお耳のうちで鳴り響き、谺しているような気がする。子供であることの不利をいやというほど味わわされたのだ。体の軽ささえ、生まれてからわずかの年数しか経っていない証拠のようで、それでいて世界から自由に飛び立つにはその体重でも邪魔で、かといって地に足をつけて、抵抗し、成り行きを変えようと試みるには重さが足りないように思えるのだった。
じきに、カシやスギ、花の咲いた木々や灌木が見えてきた。家はそこにあるらしいのにまだ見えない。ふたりがスイカズラやナニワイバラの繁る生け垣に沿って歩いていくと、二本のレンガの柱のあいだに門が揺れている。そこでやっと大きくカーブを描いた私道の向こうに、初めて家が見えたのだった。その瞬間、少年は父親のことも、恐れも絶望も忘れてしまい、父親のことを思いだしたときでさえ(父親は立ち止まることもなかった)、恐れと絶望はよみがえってこなかった。
というのも、十二回の引っ越しも、これまでは貧しい田舎の小さな農場や畑や家の並ぶところばかりで、こんな屋敷は一度も見たことがなかったからだ。こいつは群庁舎ほどにも大きいじゃないか、とひそかに考えながら、心に平安と喜びが――幼すぎて、その気持ちをうまく言葉にあてはめることはできなかったが――わきあがるのを感じていた。ここの人たちなら父さんがいても安全だ。こんなに平和でお上品なところに住んでいるんだから、父さんだって手の出しようがないにちがいない。父さんなんてここの人たちにしてみたら、ぶんぶん飛び回るハチみたいなものだ。ちょっと刺して、しばらく痛い思いをさせるかもしれないけど、それぐらいがせいぜいなんだ――たとえ父さんが何かたくらんだとしても、ここの平和で上品な魔法のおかげで、納屋も厩も家畜小屋も、ちっぽけな火なんかじゃ燃やせないだろう……。
この平安も喜びも、こわばった黒い背中に目をやった瞬間に消えてしまった。足を引きずって歩く父の固く無慈悲な姿は、屋敷を前にしても少しもちっぽけには見えない。おそらくそれは、どこにいても格別大きく見えたわけでもない父の背が、荘重な円柱の立ち並ぶ屋敷を背にして、これまでにないほど超然として見えたからだろう。何かブリキの板を無造作に切りとったような感じ、うすっぺらで、たとえ横から日が差しても影ができそうもない感じだった。
その姿を眺めているうちに、父親がひたすらまっすぐに進んでいることに気がついた。父親のぎくしゃくした足は、さっき私道に立っていた馬が落としたばかりの糞のかたまりを、ほんの少し歩幅を変えれば避けられたであろうに、まともに踏みつけたのである。だがその出来事も、少年がうまく言葉にして考えることができないまま、この屋敷の魔法のなかを歩き続けるうちに、すみやかに消えていった。屋敷が自分のものだったらな、と思ったものの、気持ちのなかにはねたみも悲しみも、ましてや鉄のような黒い上着を着て前を行く父親の胸の内にある渇望や嫉妬のこもった怒りとも無縁だった。きっと父さんもそのうちそんな気持ちになるだろう。きっと父さんがそう抱かずにはおれないような思いさえ、この家は変えてしまうだろう。
(この項つづく)