陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

もうすぐ年末

2008-10-29 22:37:29 | weblog
毎年、カレンダーの残りも薄くなり、文房具売り場に新しい手帳が並び始める時期になると、なにがなし、焦るような、ため息をつきたいような、なんとも複雑な気持ちになってくる。

今年初めに一年間でやろうと思ったことの数々を思い出す。本棚を見れば、目に付くところに並んでいるのは古本屋で手に入れた、ハインリヒ・マンの分厚い『アンリ四世の青春』『アンリ四世の完成』の二冊。今年こそ読もうと思ったのではなかったか。おそらく去年の初めにも。もしかしたら、その前の年にもそう思ったかもしれない。

それと一緒に、今年こそ、と思っていた数々のこと、着なくなった古い服の整理とか、押入の中の整理、もはや再生手段もなくなったカセットテープやビデオテープの整理。そのほかにも毎日ストレッチとウォーキングをして、もう少し仕事を増やして貯金もしようと考えたはず。勉強して、まとまった文章もいくつか書いて……。

整理をしよう、片づけようと思いながら、本ばかりが増えた結果、押入れどころか部屋全体が物置化しつつある隣の部屋を横目で見ながら、わたしは本格的なため息をついてしまう。

毎年毎年新年に、そうして四月の新学期にもう一度、今年やること、やろうと思うことを考えるのは、いっそやめてしまおうか。やろうと決心したところで、結局自分がすべて、あるいはそのほとんど、少なくとも大部分、やがて、あるいは思いついたその直後には、破ったり、忘れてしまったり、忘れたわけではないけれど手も出せず、ずるずる引き延ばして290日ぐらいが経ってしまったりするのをさんざん経験したものだから、また新たに決心し直しても同じこと……という気分に否応なく襲われるのである。

小学生のころから、夏休みに入る前には、夏休みの計画をいつも立てていた。夏休みを通してやること。日々のスケジュール。計画を立ててもなかなか、というか、そのほとんどは実行できず、日が過ぎるに連れて、何度も計画を立て直した。いっそ計画を立てるより、そのあいだに何かやったほうがいいのではないか、と思っても、それでも半ば意地のように立てていた。

考えてみれば、当時にくらべていま、どれほどのことを知り、どれほどのことができるようになったのか。計画を立てるだけ、計画倒れの数々がここまで積もりに積もって、このていたらくになってしまったのではあるまいか。

だが、おそらく計画を立てるということは、先に希望を抱き続けるということなのだ。たとえ夏休みの残りが一週間になったとしても、その残りを少しでもちゃんとできるように、それも結局ダメになる、とわかっていても、立てつづけたのだ。

自分に望みがあるのなら、自分がそのように生きたいと願うしかない。できなかったことがまた増えていくだけかもしれないけれど、それでも何かをやろうとすれば、つぎにやるべきことを望まなければ、やるべきことを決めることもできない。

ハインリヒ・マンは本棚に並べておけば、いつかそのうち手に取る日もくるかもしれない。今年は無理で、来年ももしかしたら無理かもしれないけれど。