陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

読むこと、聞くこと、思い返すこと その3.

2008-10-02 23:14:46 | weblog
先日のこと。
Aさんに会ったら、Bさんがわたしのことを探していたという。Aさんがさっそく「Bさんに連絡してあげる」といって携帯を取り出すので、わたしはてっきりAさんが電話をかけてくれるのだろうと思っていた(わたしはBさんの番号を知らなかった)。

ところがAさんはメールを打ち始めた。短いメールだったので、すぐに打ち終わり、送信も完了したのだが、わたしの方はメールなんかで連絡したら「いつになるかわからないのではないか」と思ったのだ(実際、わたしはパソコンのメールさえ、一日に数回しかチェックしない)。ところがすぐに折り返しメールの着信音が鳴り、Bさんからそちらへいく旨の返信が届いた、と思ったら、Bさんはまもなく現れたのである。実際に電話をかけたのとどれほども変わらない。緊急の用件であればてっきり電話をかけるものだとばかり思っていたわたしは、自分がずいぶんずれているような気がしたのだった。

Bさんと打ち合わせを終えてから、なぜ電話ではなくメールを使うのか、Bさんに聞いてみた。すると、メールの方がお金がかからないからなのだそうだ。なるほど。だが、おもしろいと思ったのはそれに続く言葉だった。
「それにメールだと、あとで見たとき、件名を見ただけで、あのとき何をしたかが思い出せるでしょ」

確かにそれほど複雑なことでなければ、会って何を決めたかも、その件名を見ただけで思い出すことができるだろう。携帯メールを頻繁に使う人にとって、メールは一種の備忘録であり、同時に日常の記録ともなっているはずだ。

昔、家計簿をつけていた母が、「家計簿はお母さんの日記。これを見たらその日、何を食べたか、何をしたかわかるから」と言っていたのを思い出す。改まって日記という体裁をとらなくても、レシートやカードの請求記録、図書館の貸出票など、さまざまなものが、日々の記録となって残っていく。いまに残る大昔の土地の権利書や地租の台帳は、当時の生活を知る重要な手がかりである。

このように文字に残すというのは、空間に出来事をつなぎ留めておく方法である。書きつけておく媒体はさまざまに変わっても、なんであれわたしたちが「書き残す」ことの目的は、これにつきると言ってもいい。

だが、文字を持たない言語というのは地球上に数多く存在する。だが逆に、音声を持たない言葉は存在しない。このことを考えると、声や話されるものである言葉を文字に記すことによって、視覚的な空間のなかに、相手の話を再構成するということは、人間にとって別に当たり前のことでもなんでもないのかもしれない。

文字を持たない人びとにとってのコミュニケーションでは、その話を保存する方法は、聞く側が記憶しておくしかないのだから、おそらくは文字を使うわたしたちとはくらべものにならないほどその話し合いは真剣なものにちがいない。相手の言うことに耳を傾け、重要な箇所は自分も繰り返して口にしながら自分の頭に刻み込むだろう。聞き手は自分の時間をそっくり話し手に譲り渡す時間でもある。

一方、文字を媒介としたコミュニケーションというのは、実にさまざまなものがあるが、共通するのは、声による話を「もの」化して送り手から切り離し、受け手に送り届けられるという点だ。基本的に受け手は送り手の都合に合わせることなく、自分の都合のいい時間にそれを読むことができ、途中で止めることもでき、読み返したり、最後だけ読んだりすることも可能である。それでもそれを理解しようと思えば、つまり「そこに何が書いてあったか」を自分のなかで再構成しようと思えば、途中とばし読みにするにせよ、とにかく最初から最後まで読まざるを得ない。文字の助けを借りることができない情況ほど不自由ではないが、やはり自分の時間を書き手に譲り渡さないわけにはいかない。

だが、読み手はたとえ黙読していようが、どこかに書き手の声を聞いているはずだ。たとえ書き手が名前を持たないものであろうと、新聞記事には新聞記事の「声」があるし、広告には広告の「声」がある。まして書き手を知っていれば、受け取る「声」はそれぞれにちがうはずだ。たとえ受け取るのは液晶画面に浮かび上がる文字であっても、そこから受ける印象は、送り手によってまるでちがうはずだ。わたしたち自身が「もの」を声に戻しているのである。

こう考えるとバラエティ番組に出てくる字幕の性質もはっきりとしてくる。
あれはわたしたちが書かれているものを読むのとは反対に、現在話をしているその人と深く結びついている話をその人から引きはがし、短い文字にまとめることによって「もの」化し、一目でわかる情報として送り届けようとしているのである。

だが、わたしたちは日常でもこういうことを現にしているのではあるまいか。
話している人の話を遮って、「要点は何?」と聞くことによって。ある程度の長さのあるものを読むうちにじれてくるようなとき。

 話すためには、もう一人の人間あるいは人びとを相手に話さなければならない。…
なぜなら、どんな現実あるいはどんな空想(された情況)を相手に話していると思うかによって、つまり、どんな反応が返ってくると思うかによって、わたしの言うことは違ってくるからである。だからわたしは、おとなと小さな子どもに対して、まったくおなじメッセージを送るようなことはしない。話すには、話そうとしている相手の精神と、話しはじめるまえに、すでにある意味でコミュニケーションができていなければならない。そうしたコミュニケーションができるのは、〔相手との〕過去の関係をとおしてかもしれないし、また、視線を交わすことによってかもしれない。…あるいは、その他無数にあるやりかたのどれかによってかもしれない(〔そうしたことが可能なのは〕ことばは、ことば以外のものによってもつくられている一つの〔全体〕状況の一様相だからである)。つまり、わたしの発言がかかわりうる他人の精神を、わたしは〔話すまえに〕なんらかのかたちで感じとっていなければならない。人間的なコミュニケーションは、けっして一方向的なものではない。それは応答を要求するだけでなく、あらかじめ予想された応答によって、まさにその形式と内容においてかたちづくられているのである。…

わたしがメッセージをもって他人の精神のうちに入るには、あらかじめその他人の精神のうちになんらかのかたちで入っていなければならない。そしてその他人もまた、わたしの精神のうちに入っていなければならないのである。なにをことばで表現するにせよ、わたしは一人ないし複数の他人をすでに「精神のうちに」もっていなければならない。
(ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』
桜井直文 他訳 藤原書店 1991)

話をすることに対して、書くことは、相手が不在であることが前提となっている。書く行為、書かれたものを読む行為は、相手不在のところで孤独になされる行為である。それでも何かを書こうと思えば相手を想定しなければ書くことはできない。

だが、読むということが「もの」を読むことにとどまる、つまりは単に情報をすくい上げることにとどまってしまえば、わたしたちは書き手の声を聴き取ることができなくなってしまう。それは単に読む能力の低下ばかりを意味するのではない。コミュニケーション能力そのものの低下、オングの言う「一人ないし複数の他人をすでに「精神のうちに」も」てなくなってしまうことなのかもしれないのである。

バラエティ番組に出てくる字幕スーパーは、一瞬で情報を伝えてくれるありがたいサインなのだろう。この番組は耳を傾ける必要はないのだというサインである。だからそのサインが出てきたらわたしたちがやるべきこと。リモコンを持ってチャンネルを変えるということだ。もちろんスイッチを切ってもかまわない。


(※ここ数日、体調を崩して寝ていました。やっと今日当たりからぼちぼち復帰することができました。話のあいだが開いてわけがわかんなくなったかと思いますが、また後日サイトにまとめたいと思っています。コメントくださった方、ありがとうございました。訂正、後日やります)

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2 コメント

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文字について,徒然なるままに (imai)
2008-10-04 11:23:56
先日学会で台湾に出張した際,空いた時間を使って故宮博物院へ行って参りました.それほど時間もないので,商(殷)・周時代の文物を中心に見て回ると決めていました.そこではじめて甲骨文字,金文(銅銘文)などの文字に触れることができましたが,そこにあるのは明らかに誰もが使いこなすことの難しい,したがって祭祀に携わる者にしか流布しなかったであろう絵と文字の中間のものでした.驚くべきことに,時代が下って周の代になっても,春秋時代になっても,金属製の器に彫られる文字は商代のものと大差の無いものだったのです.そこから得られる感想は,文字は少なくとも春秋時代に至るまで祭祀との密接なつながりを持った,したがって文明ではなく文化的側面の強い道具であったということです.
ところが春秋時代にあって異彩を放つある国の器が展示されていたのです.それが,秦のものでした.彼らの器には,文字が彫られていないのです.そして,その後の戦国時代.今までとは明らかに違う,現代の我々に馴染みの深い文字とよく似たものが,やはり秦の器に見られるようになります.隷書です.このことは,私に様々なことを考えさせられました.秦は周・春秋時代,少なくとも文化的には後進国だったのでしょう.おそらく文字の導入も中原の諸国に比べて相当に遅れたのでは無いでしょうか.その結果,文字の持つ,情報を記録するという機能の面のみが秦において切り取られ,祭祀に供するといった文化的な側面は置き捨てられたのではないか.合理化です.そして,この合理化の能力こそが,秦をして史上はじめて中国を統一する原動力になったのではないか,ということです.
さて,翻って現代の携帯メール事情です.私もまだインターネットが日本には無かった頃からパーソナルコンピュータを使っていましたので,メールは専らPCから,という人間です.もちろんメールを送ったら,返事が来るのは一日か二日,という感覚です.したがって用件を早く伝えたいときには,当然電話に頼ることになります.ところが,携帯メールから入った世代の人々は,携帯メールの応答間隔はあたかも電話のような,正確には直接話すよりは若干の遅れがありますので準即応性がある,という感覚を持っているように思います.だからこそ,メールの着信遅延がちょっとでもあると,携帯電話会社のサービスが悪い,という評価になるわけです.
この準即応性,文字が新たに手に入れた機能ではないでしょうか.時間的制約を大幅に緩和しています.合理化です.そしてその合理化の持つ利便性がテレビの字幕という形で表れてきているのではないでしょうか.その合理化によってAさんも新しい用途を見いだしているのでしょう.

"「それにメールだと、あとで見たとき、件名を見ただけで、あのとき何をしたかが思い出せるでしょ」"

長々と失礼しました.大変面白い読み物でした.
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Unknown (陰陽師)
2008-10-08 10:21:42
imaiさん、お久しぶりです。
台湾へいらっしゃったのですか。
ご活躍なさっておいでですね!
故宮博物館、わたしもぜひ一度行ってみたいと思っているところなんです。
だからコメント、興味深く拝見いたしました。
ありがとうございました。

> 甲骨文字,金文(銅銘文)などの文字に触れることができましたが,そこにあるのは明らかに誰もが使いこなすことの難しい,したがって祭祀に携わる者にしか流布しなかったであろう絵と文字の中間のものでした.驚くべきことに,時代が下って周の代になっても,春秋時代になっても,金属製の器に彫られる文字は商代のものと大差の無いものだったのです.

長い間、中国では祭祀に使われる「聖なるもの」だったのですね。
こういう文字の扱いは、おそらくはヨーロッパにはあまりないものだと思うんです。すごくおもしろいと思いました。

> 秦は周・春秋時代,少なくとも文化的には後進国だったのでしょう.おそらく文字の導入も中原の諸国に比べて相当に遅れたのでは無いでしょうか.その結果,文字の持つ,情報を記録するという機能の面のみが秦において切り取られ,祭祀に供するといった文化的な側面は置き捨てられたのではないか.合理化です.そして,この合理化の能力こそが,秦をして史上はじめて中国を統一する原動力になったのではないか,ということです.

単純に比較することもできないのですが、昔のヨーロッパでも登場して間のない書物は、まず聖書だったわけですが、それは読み上げられる助けのものでした。何よりも神は人間に「語りかける」ものであり、文字を「書き送る」ものではなかったからです。文字は「話される言葉の影」のようなものと受け取られていた。あくまでも補助的手段だったのです。

おそらくそれは当時の書物が羊皮紙という、粘土板や金属にくらべて書き込むのが容易なものだったこととは無関係ではないでしょうね。

「書く」道具の使いやすさ、それへの近づきやすさというものが、文化を規定する、ひいては人の思考そのものを決定していく、という側面があるのですね。

わたしは『声の文化と文字の文化』を読んでいて、ヨーロッパとは別のたどりかたをした歴史があったということを、ついうっかり忘れてしまっていたのですが、確かに中国はちがいますし、さらに日本もまたちがう。imaiさんの書きこみを拝見して、そのことに気がつきました。

身近なところでは、いまから十五年くらい前、まだ手紙のやりとりも頻繁だったころ、欧米人からもらう手紙の読みにくさに参ったことがあります。男女を問わず、殴り書きをしたような文字で、字の大きさもバラバラなんです。内容は深く考えたことがうかがえるような文面なのに、それが拙い、子供のような字体で書かれている。ああ、タイプライターの文化の人たちなんだなあ、と思ったものでした。
私信だけでなく、公式文書ですら枠に収まっていない、乱れたアルファベットを何回も目にしました。

また彼らが受け取った手紙をぐしゃぐしゃに丸めて捨てるので、どうしてそんなことをするの、と聞いてみたら「もう読んだから」とこともなげに言うのに驚いたこともあります。日本人であれば、手紙に対してそんな扱いができるのは、ダイレクトメールか、よほど腹の立つ手紙に限られるでしょう。

日本人の書いた私信で、そんなに雑な書かれようをしたものを見たことはなかったし、まして公式文書なら、できるだけ間違いのないよう、丁寧な字で記すでしょう。
文字、書くこと、書かれたものに対する意識がまるでちがうのだと思ったものでした。

それから時代を経て、文章を書くことも手書きであることはまれになりました。ワープロが出始めのころ、ワープロの文体はすぐわかる、みたいなことが言われていましたが、手で書いている人の方が圧倒的に少なくなったいま、やはり手書きの文章とのちがいは明らかなんでしょうか。わたしにはよくわからないんですが、わからないのは、それはわたしがどの程度の文章であれ、パソコンで繋いだり、削ったりを繰り返しているからかもしれません。

こうなれば、欧米人と日本人の文字に対する意識、書くことに対する意識も近づいてくるのでしょうか。

本のなかでもオングは「文字は言葉の「もの」化」というふうにとらえているのですが、そう言われてみれば単に「もの」化とだけ言えるんだろうか、という気もしてきます。

日本では言語学者の時枝誠記が「言語過程説」のなかで、〈もの〉と〈こと〉を分けているのです。

一般にヨーロッパの言語学は言葉を〈もの〉ととらえる傾向が強い。それにたいして、日本では〈言〉と〈事〉をともに〈こと〉として同一視する傾向が強い、というものです。「言う事」の根本に「心」があって、その心が発動されて「言葉」になる。「言語過程説」はそこからまた独特の文法論としてあるのですが、その根っこのところにある「〈事〉=〈言〉としての言語観」というのは、なんだかとってもしっくりくるものがあるような気がします。

>この準即応性,文字が新たに手に入れた機能ではないでしょうか.

この点は文章を最初に書いた時点では、わたしの頭にまったくなかった視点でした。
ああ、そうだ、と思った点です。これは確かに従来なかったものですよね。文字情報というのは、「あとからくる」と考えられていました。
即時的に届いてくる文字情報というのは、おそらく映像文化のありかたをも変えていくのだろうと思います。どうなっていくのか、すごく興味深い点ですね。

言葉のこと。それを媒介するツールのこと。ツールによって変わっていくわたしたちの思考のこと。
これからも考えていきたいと思います。

いろんな経験をなさっている方からのお話をうかがうのは、とても楽しいものです。
大変参考になりました。
またお話、聞かせてくださいね。

書きこみ、どうもありがとうございました。
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