ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平荘町・上荘町をゆく(44) 報恩寺(6) 殺生禁断

2024-04-30 07:25:15 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

     平荘町・上荘町をゆく(44) 報恩寺(6) 殺生禁断
 先に、報恩寺は、西大寺真言律宗の寺であること、そして、伊派の石工集団と深い関係を持ったことをみました。
 報恩寺の十三重の層塔の話題にもどします。
 花崗岩製の層塔は、伊派の活動拠点のひとつである摂津の御影で造られ、この地に運ばれたものかもしれません。
 運搬・製作には大きな出費を必要としたと想像されます。
 層塔は、単なる寺の景観をつくるものではありません。層塔に意味をこめられています。
 真言律宗は、らい患者・遊女等の救済そして、社会事業にも取り組みました。
 叡尊の取り組んだ一つの例を紹介します。
 京都宇治に「宇治浮島十三重層塔」という高さ約十五メートルの堂々とした層塔があります。
 この層塔は宇治橋の修造時に、その記念として造られたのですが、叡尊は同時に川にかかる網代の全面撤去を求め、層塔の下に網代を埋めました。
 こうした叡尊の行為は、殺生禁断という教義に基づくものです。
 網代の撤去は漁民の盛業を奪うことになるのですが、叡尊の立場から言えば、それは来世の安穏をあたえているのであり、救済事業の一環でした。
 報恩寺の古文書(永正十七・1520)を再度読んでおきます。
 賀古河之流、平・都染・益田三箇庄之内、殺生禁断之処、塞簗、背制法之族在之云々・・・
 意味は、「現在の平荘町・上荘町・益田(東神吉町)は、殺生を禁止されているところですが、簗などで川を塞ぎ、法に背くものがある・・・」とあります。
 宇治川の場合と同様、殺生禁断の戒律が求められています。
 殺生禁断の象徴として、報恩寺の十三重層塔は造立されたのでしょう。
 殺生禁断は漁民たちの生活の手段を奪うことになります。
 歴史学者の山川均氏は、さまざまな事例から「網代・簗以外の漁は許可された可能性が強いのではないか」と述べておられます。
*『石造物が語る中世職能集団(山川均著)』(山川出版社)参照

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平荘町・上荘町をゆく(43) 報恩寺(5) 報恩寺は真言律宗の寺

2024-04-29 11:39:25 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

         平荘町・上荘町をゆく(43) 報恩寺(5) 報恩寺は真言律宗の寺

 鎌倉時代、戦乱・自然災害等で世の中は乱れました。
 人々は、新興の仏教(浄土宗・一向宗・日蓮宗など)に救いを求めました。
 新興の仏教は、「念仏を一心に唱えれば浄土は約束されている・・・」と説きました。。
 鎌倉仏教は、庶民の間に急速な広がりをみせました。
 しかし、一部には「念仏さえ唱えれば、他は何をしてもよいんだ」という風潮さえうまれました。つまり、修行を怠り破戒をあえてするものまで続出したのです。
 このような風潮を嘆く声もうまれました。
 真言宗の信者であった叡尊(えいぞん)は、衰えた戒律を復興するために、西大寺に入り真言律宗を唱えました。
 叡尊の唱えた真言律宗は、大いに広がりました。
(余談ですが、日本史の教科書では、真言律宗・叡尊についての記述がほとんどありません。もっと評価されべきだと思えます)
 叡尊は、たんなる南都の律宗(奈良仏教)の復興ではなく、らい患者に対する救済、各地の土木事業の遂行、その他社会福祉にも取り組みました。
 西大寺の真言律宗は、播磨地方へもひろがります。
 加古川関係では「西大寺末寺帳」に西大寺の末寺に、常楽寺(現:加古川市大野)・報恩寺、そして成福寺(場所は不明)がります。
 報恩寺は、西大寺の真言律宗の影響下にあったてらでした。
 伊派は、叡尊と結びつき真言律宗の末寺等に石造物を多数残しています。
*図は報恩寺に残る室町時代の後期に描かれた「報恩寺参詣曼荼羅図」。
 報恩寺は、随分栄えた名刹でした。
 現在の報恩寺は、真言宗の寺院です。
*写真: 西大寺(奈良)

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平荘町・上荘町をゆく(42) 報恩寺(4) 伊派石工集団

2024-04-28 08:22:02 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

     平荘町・上荘町をゆく(42) 報恩寺(4) 伊派石工集団◇

 報恩寺の墓地に、相輪部は後に補修しているが十三層の立派な層塔があります。
 この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。
 近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすため、安くできます。
 報恩寺の層塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料としています。
 先に紹介した報恩寺の四基の五輪塔も花崗岩でした。
 『加古川市史(第一巻)』を読んでみましょう。
 ・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。
 その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の層塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・(『加古川市史・第一巻』より)

 報恩寺の層塔は、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがなさそうです。
 報恩寺の層塔の銘を読んでおきましょう。


   銘文   常勝寺
        元応元年 巳未(1319)
        十一月六日


 銘には、常勝寺とあり、報恩寺ではありません。「報恩寺は、もとは常勝寺であり、後に西大寺の末寺の真言律宗寺院になった」とする説が一般的ですが、別の場所にあった常勝寺から移されたのかもしれません。
 真言律宗・叡尊・忍性については、さらに続けます。
 *『加古川市史(第一巻)参照』
  写真:十三重の層塔(県指定文化財・元応元年(1391)・高さ:564cm) 

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平荘町・上荘町をゆく(41) 報恩寺」(3) 宇都宮長老

2024-04-27 08:31:54 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

     平荘町・上荘町をゆく(41) 報恩寺」(3) 宇都宮長老


 報恩寺の五輪塔の左から2番目五輪塔に眠る主は、宇都宮長老です。
 宇都宮長老とは、どんな人物でしょうか。
 宇都宮長老について、『東播磨の歴史(2・中世)』(神戸新聞出版センター)で郷土史家の山本祐作氏は、分かりやすく解説されておられるのでお借りします。

       宇都宮長老と報恩寺

 ・・・・宇都宮長老がどんな人だったかについては、播磨の中世地誌『峰相記(みねあいき)』のなかに、宇都宮長老という僧が、宿願にて法華山(一乗寺)の講堂を造った。
 正中元年(1324)、十一月二十七日の上棟、建武二年(1335)に文観上人をもって供養おわんぬ(されました)。
 西国一の大堂である。・・・

 文観上人と宇都宮長老との結びつきが分かります。
 このことからも、法華山一乗寺が(真言)律宗寺院として栄えていたと同時に、宇都宮長老が法華山の前住職であり、その後報恩寺で亡くなったことが分かります。*以上『東播磨の歴史(2・中世)』より
 突然、僧・文観、「真言律宗」という宗派が登場します。
 文観・宇都宮長老・真言律宗について、また報恩寺との関係をさらに調べることにします。
 *『東播磨の歴史(2・中世)』(神戸新聞出版センター)参照

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平荘町・上荘町をゆく(40) 報恩寺(2) 報恩寺の五輪塔

2024-04-26 09:11:38 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(40) 報恩寺(2) 報恩寺の五輪塔

 報恩寺は、鄙の寺ではありません。地方史をこえた、壮大な歴史を持っています。
 しばらく、報恩寺について『加古川市史』を読みながら調べてみましょう。

       報恩寺の五輪塔(四基・県指定文化財)

 報恩寺の五輪塔(写真)を訪ねてください。
 これほど立派な四基の五輪塔が並ぶと壮観です。
 そのうち、手前から二番目の五輪塔が最も大きく、端正さがあり、造立者の意欲が感じられます。
 花崗岩製で、1.9メートルの五輪塔で、銘は正和五年(1316)で宇都宮長老の墓とあります。
 正和五年の五輪塔は、市内では最古であるばかりでなく、播磨一円でもそれ以前のものは見当たりません。
 もっとも、この「正和五年」は被葬者の没年月日か、この五輪塔の造立月日かはっきりしませんが、ともかく古い五輪塔です。
 この五輪塔から陶製の蔵骨器と金銅製の骨蔵器が出土しています。中には火葬の骨が納められていました。
 宇都宮長老の骨と思われます。宇都宮長老とはどんな人物でしょうか。。
 次回のブログで紹介しましょう。

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平荘町・上荘町をゆく(39) 報恩寺(1) 五箇荘・印南荘屏(平)

2024-04-25 09:45:47 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

    

     平荘町・上荘町をゆく(39) 報恩寺(1) 五箇荘・印南荘屏(平)

 律令制度の時代、公地公民制が採用されました。つまり、全ての土地と人々は、国家のものでした。
 やがて人口が増え、土地が不足するようになりました。
 それに、重い税に耐えかねた農民の逃亡が重なり、税がうまく集まらなくなりました。
 そのため、国家が率先して耕した土地の私有を認めたのです。
 これら私有化された土地が「荘園」です。
 奈良時代・平安時代、加古川地方の荘園については史料が少ないためいため詳しいことは分かりません。
 やがて平氏の天下となり、東播一円は、ほとんど平氏の支配するところとなり、仁安二年(1167)、清盛は印南野に大功田(国家に特別の功績があった人に、永世にわたり子孫にあたえられる土地)である五箇荘(ごかのしょう)が与えられました。
 やがて、平家は滅び五箇荘の地は、平氏に代わり源氏の支配するところとなります。
 源氏の支配も長くは続きませんでした。
 時代は混乱し、後醍醐天皇の支配する時代を経て、南北朝時代となります。
 後醍醐天皇の時代から加古川地方は、後醍醐の勢力をバックに、赤松氏が支配するようになりましたが、東播磨の赤松氏の具体的な支配のようすははっきりしません。
 そして、戦国時代に突入し播磨地方の中世は終わりを告げ、荘園は歴史から消えました。

  ◇印南荘・屏(平)
 五箇荘は、清盛の得た大功田を中心にその付近の五つの荘園を取りこんで五箇荘と名づけたと思われます。
五箇荘の範囲は、はっきりとしませんが大きな荘園であったようです。 
 その五つの荘園に賀古荘・今福荘・大国荘・魚住荘そして、印南荘が含まれていたのは確実です。
 五箇荘の内、印南荘に注目します。屏(平荘)は、印南荘に含まれていた一地域です。
 現代の平荘地域とほぼ重なります。
 中世・屏(平)を含んだ印南荘を管理する役割を持ったのが報恩寺でした。
報恩寺を訪ねましょう。
*写真:報恩寺(平荘町山角)

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平荘町・上荘町をゆく(38) 白沢(3) 古い歴史を持つ白沢 

2024-04-24 09:10:30 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

        平荘町・上荘町をゆく(38) 白沢(3) 古い歴史を持つ白沢 

 地図をご覧ください。
 これらの古墳は昭和63年(1988)10月から11月にかけて発掘調査され、神子谷古墳群は円墳8基、カメ焼谷古墳は円墳7基で構成され、ともに出土した土器等から古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初期)の古墳であることが確認されました。
 白沢では、これらの古墳群のほかに古墳時代後期の古墳が数基確認されています。
 白沢は、その後も須恵器等の生産地として栄えていました。

            白沢旧石器人

 白沢では、古墳時代に先立つ弥生時代・縄文時代の遺跡は、現在のところ見つかっていません。
 時代をはるか昔にさかのぼります。
 今から1万年ほど前、地球は現在とほぼ同じ温暖な気候になりました。
 それ以前は寒く、かつて日本列島には人が住んでいなかったと考えられていましたが、加古川市内でも約二万年以上以前に人が使っていた石器(旧石器)が多数採集されています。
 彼らは、既に火を使い、暖をとり、獣から身を守ってろり、物を焼くという調理法も取り入れていました。
 白沢には、旧石器時代の足跡があります。
 集落のすぐ東の大池の南西の畑から旧石器がみつかっています。
 上荘地区での旧石器の発見は、この一例だけです。
 白沢は現在の小野市の黍田町、そして加古川の流れに向かって広がった土地で、とてつもなく古い歴史を持つ地域のようです。
*『加古川市史(第四巻)』参照

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平荘町・上荘町をゆく(37) 白沢(2) 渡来人

2024-04-23 10:06:15 | 歴史・文学

        平荘町・上荘町をゆく(37) 白沢(2) 渡来人

 「白沢」について石見完次氏は、『古地名新解』で、次のように説明しておられます。
 文章を一部書き直して紹介させていただきます。
 ・・・「白沢」は、天和八年(1622)、ここに白沢新村が開かれたが、白沢の地名は、それ以前からあったらしい。
 近年の調査では、奈良時代から約100年間、この谷で土器(スエキ)が焼かれていたことがわかった。
 シラサワの語源については、シラが問題で「シラ」は新羅人(渡来人)のことで、ここに渡来人の窯人がいたと考えられる。
 この山間の古道は、加古川を遡ってきた古代人が入りこんだ道であろう。
 シラサワの北にある来住村(キシムラ:小野市)のキシは新羅国の官位の名称であるし、点在する古窯は、朝鮮技術のある窯人がひらいたものと考えられる。
点在する古窯跡から須恵器が見つかっているが、5号窯から写真のような人形が発見された。
 高さ12cmの人形である。頭部は扁平な笠をかぶっている。中国・朝鮮の貴婦人のようである。
 右肩から紐が垂れている。おそらく太鼓をぶら下げていたのであろう。どこか大陸につながる雰囲気の人形である。
 白沢は、「新羅(シラ)」の人が須恵器を焼いていた場所であったと思われる。
 「沢」は流れのある谷間の意味である。とすると、「白沢」は渡来人のいた谷間を意味する。
 ここには、渡来人の伝承が残っていた・・・
*『古地名新解』(石見完次著)・『加古川市史(第四巻)』参照

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平荘町・上荘町をゆく(36) 白沢(1) 白沢の地形

2024-04-22 08:22:44 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     平荘町・上荘町をゆく(36) 白沢(1) 白沢の地形

 「上荘町白沢(しらさわ)」と言われても、すぐその場所が分からない方も多いのではないでしょうか。
 図で、白沢の場所を確認してください。
 白沢は、山に囲まれ、小野市との境に位置する谷間の小さな集落です。
 ここに東西に細長い耕地が続いています。
 最近は、山陽自動車が突き抜けたので白沢の風景も随分変わりました。

       白沢の地形

 白沢を囲む山々は、風化の進んだ地質でできています。
 そのため、この周辺では遠い昔から土砂崩れが頻発しました。
 土砂崩れは、小さな谷を形成するとともに谷間を埋め谷底平野をつくりました。
 こんな自然の営みが繰り返されたのです。
 周囲は、山地です。
 雨は、この谷底平野に集まり小川をつくりました。
 白沢は井ノ口(上荘町井ノ口)の北に位置しています。
 江戸時代の初期、農業(土木)技術が急速に発達しました。
 井ノ口の百姓は、「ここは耕地になる・・・」と考え、天和八年(1622)、井ノ口村から白沢に入植して新村をつくり、村名を「白沢新村」としました。
 さらに、白沢の話を続けます。

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 平荘町・上荘町をゆく(35) 小野 薬師堂の石棺(上荘町小野)

2024-04-21 07:29:50 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

             平荘町・上荘町をゆく(35) 小野 薬師堂の石棺(上荘町小野)

 小野(上荘町小野)の薬師堂に来ています。
 ここに五輪塔の残欠が集められています。
 その中に、この石棺(写真)があります。
 一見して、「これは石棺の蓋?」と疑ってしまいます。それほど他の石棺と形が違っています。小さい割りに、背が高い。
 加古川市では、この形式の石棺はこの一例だけです。
 説明には「・・・この家型石棺の蓋の形式は、一般的な石棺と多少ことなり、棟の部分がつくられており、数少ない貴重な資料です・・・古墳時代後期の石棺・・・」(加古川市教育委員会)とあります。
 おそらく、この近辺の古墳から出土したのものでしょうが、詳しいことは分かりません。
 記録によれば明治時代には、既にここにあったといいます。
 この外に、薬師堂の境内には、いずれも後期古墳の石棺材が数基見られます。
 境内に、石棺の説明板の前に、組み合わせ式石棺の蓋石が地中からニョキッとその一部を見せています。

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平荘町・上荘町をゆく(34) 新池・塔池・下池(上荘町)

2024-04-20 08:22:33 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

     平荘町・上荘町をゆく(34)  新池・塔池・下池(上荘町)

 きょうの話題は、新池・塔池(とうのいけ)・下池です。
 地図で、これらの池の場所を確認してください。

         新池・塔池・下池 

 上荘地区の地形は北が高く、ほとんどが山地です。
 平地に出てからも土地は階段状で徐々に低くなり、川に落ち込んでいます。
 土地は、水が少なく、たまりにくい。しばしば旱魃に見舞われました。
 高いところに水さえあれば、水は流をつくり美田になります。
 この地域では、昔から小さな池をつくり灌漑をしていたが、水は常にたりませんでした。
 大規模な池を計画した人がいました。見土呂の大西吉兵衛知雄です。
 彼は、通称吉兵衛と呼ばれていました。
 彼の計画した池は、新池・塔池・下池を一体的に結び付けて使用するというものでした。
  新池には、近くの山から水を集め、砂を沈殿させます。その水を塔池へ流し、貯蔵しました。
 さらに、塔池から下池に水を引き、小出しにして田に分水しました。
 計画から完成まで10年、文政10年(1827)頃、池は完成しました。
 以後、見土呂村・都染村・井ノ口村の稲は枯れることはなかったといいます。
 村人は大いに喜び、彼の功績をたたえ、塔池の北の隅に塔をつくり功績をたたえました。
 塔には、世話人の名も刻んでいます。一部を紹介しておきます。
   嫡子   大西吉兵衛親賢
   嫡孫   大西直次郎知時
   見土呂  庄屋  爲 平
   都染   庄屋  善兵衛
   井ノ口  庄屋  彌一郎
   *以下各村(見土呂・都染・井ノ口)の世話人は省略
 池の名称は、この石塔があるので塔池といわれています。

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平荘町・上荘町をゆく(33) 薬栗(2) 長慶寺山古墳発掘の顛末

2024-04-19 07:45:54 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(33) 薬栗(2) 長慶寺山古墳発掘の顛末

 上荘町薬栗の標高40㍍にある長慶寺山に七基の古墳があります。
 前方後円墳1基、方墳1基、円墳5基からなる古墳群です。
 このうち、前方後円墳は前期初頭(4世紀)の古墳で、最も古い時期のものです。
 写真の鏡(内行花文鏡)は、その前方後円墳から出土しました。
 この古墳は、昭和30年に地元の中学校地歴部が発掘しています。
 若干問題を引きおこしました。以下その顛末です。
 発掘が行われたのは、昭和30年8月でした。
 当時、既に文化財保護法ができており、無届の古墳発掘はできなくなっていました。
 学校は、古墳の土地の所有者の許可を得ただけで、同校の地歴部の活動の一環として発掘したのです。
 学校は、教育委員会からお叱りを受け、教育委員会は、警察から注意を受けました。
 学校は、さらに県からお目玉を頂戴しました。
 古墳前期の古い時期の古墳であり、貴重な鏡が出土したことにより各方面から注目さるようになりました。
 とにかく、報告書はまとめられ発表されました。
 『加古川市史(第七巻)』は「・・・(中学生による発掘)の結果は、同年に『長慶寺山古墳を発掘して』と題する簡単な報告書にまとめられているが、専門分野の指導者を欠いた発掘であったため、内容は理解にくるしむところが多い・・・」と簡単に述べています。
 なお、この前方後円墳以外の6基の古墳は、若干時代は下るものであるが、出土物等詳細はわかりません。

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平荘町・上荘町をゆく(32) 薬栗(1) 薬栗村と年貢

2024-04-18 08:34:38 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

     平荘町・上荘町をゆく(32) 薬栗(1) 薬栗村と年貢

 薬栗(上荘町薬栗)の岡田家に残る『明細帳』(元文二年・1737)のはじめの部分を読んでおきます。
 ・・・・
 薬栗は、何時のころ村が始まったのかは分かりません。
 薬栗は、もと今の集落より二丁ばかり南南西にあったのですが、姫路城主・榊原忠次の時に今の場所へ移っています。承応年間(1652・9~55・4)のことでした。
 薬栗に古屋敷・町屋敷という小字(こあざ)があります。古屋敷は、元の薬栗村があったところで、町屋敷が今の薬栗の発祥の地です。
 元の古屋敷は、加古川本流の洪水で削り取られたのでしょう。
 また、小字「寺の元」は、もと長慶寺があった場所で、長慶寺も洪水のために今の場所に移動したと考えられます。

            薬栗の免(年貢率)
 「明細帳」から薬栗の年貢率をみておきます。
 「高 弐百四拾六石一合  免四つ取」
 免とは税率のことで、江戸時代の年貢は個人にたいてではなく、村に一括して課されました。
 それを庄屋が中心になり、村人に年貢を割り振るのです。
 この時、村人と庄屋との間で、もめ事がしばしば発生しました。
 薬栗村の収穫は、146石8升1合で、その4割が年貢でした。
 税は年貢だけではないが、この税率(4割)は、加古川地域の他の村々と比べて少ない方です。
 当時の税は、生産の高い村々から多く、少ないところの税率は低くなっていました。
 つまり、生産の少ない地域から多くの税を取れないのです。
 免(税率)が低いのは、薬栗村だけではなく、上荘地域の村々に共通しています。
 江戸時代、上荘地区の人々の生活は豊かとはいえなかったようです。
 先人は、日照を恐れた。そして、しばしば洪水に備えなければならかったようです。
 

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皆さんのお宅では、いかがでしたか

2024-04-17 11:21:06 | 余話として

 

 

    皆さんのお宅では、いかがでしたか

 午後8時ごろ、激しい雷雨とともに直径1センチほどのひょうが降り、大きな音をたてて窓ガラスや屋根をたたきつけ、何事かとびっくりしましたね。
 今朝調べてみると、チューリップがやられていました。
 それに、安物で古くなったサンルーフは穴だらけ。大損害でした。

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平荘町・上荘町をゆく(31) 見土呂(5) 小作契約書

2024-04-16 07:34:48 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(31) 見土呂(5) 小作契約書


 見土呂村(現:上荘町見土呂)の大西甚一平は、明治20年(1889)に7郡にまたがって耕地と宅地192町、山林52町あまりを所有していた、県内でも有数の大地主でした。
 大西家に残る当時の地主と小作の関係を示す「小作証書」から、地主と小作の関係をみておきます。
 文書の内容は次のようです。

     小作証書(小作契約書)

 ① 小作契約は二年間であること。
 ② 米の作柄にかかわらず11月15日までに小作料を納めること。
 ③ 期限までに納められなかった場合は、請け人(保証人)が代わって小作料を納入すること。
 ④ 契約期間内であっても地主から要求があればいつでも小作地をかえす。
 また、別の契約書には、納入する小作米は大粒の高品質のものに限ることや米俵の種類の指定まで定めていまあす。
 当時の地主と小作の関係が分かります。
 小作の恨みの声が聞こえてきそうです。
 小作は何時までも黙っていません。やがて、小作の嘆きは、小作争議として爆発します。

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