ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(80) 福沢村:傾斜地に広がる集落

2022-04-30 07:34:19 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     

   神野町をゆく(80) 福沢村:傾斜地に広がる集落

 ・・・(福沢は)神野村の南端にあり、大正年代まで戸数わずか30戸程度の小村で藁屋根が多く、各家は真竹の藪で囲まれ、冬は寒い風を防ぎ、夏は暑さを凌ぐ、いかにも素朴な農村でした。

 ・・・明治9年に地方区画制に伴い合併して石守村になりました。

 福沢は高燥地帯で、水利が悪く、昔から稲作はわずかで、ほとんど畑作にたよる貧村で特記するものがない・・・

 『福沢三百年誌』で著者・竹中佳次氏は、その序で以上のように述べておられます。

 福留の交差点から福沢を通り曇川に向かって歩くと、福沢は傾斜地に広がる地区であることがわかります。

 曇川の両側の地形は高くなっており、曇川は谷の底を流れています。

 曇川に沿った場所は、水田となりますが、あまり広くはありません。

 曇川から少しはなれた高い場所に村落・水田をつくりたいのですが、今度は水がありません。

 高いところには水は流れてくれません。そのため地形の高くなっている曇川の上流から水路を引く必要がありました。

 「用水」です。曇川には、幾筋もの用水がつくられました。

 「青之井用水」もその一つで、寛文4年(1664)中一色(現:稲美町)より引水して、石守地区の田畑を灌漑しています。

 青之井用水は、福沢の皿池へ流れ込み貯水されました。

 「青之井用水」につては「神野町をゆく(35)」をご覧ください。

 しかし、水はそれでも充分ではありません。福沢集落のお百姓さんたちは、水との闘の歴史でした。

なお、『福沢三百年誌』に明治30年の福沢村の絵図があります。福沢村の位置・福沢の34軒の家並から村のようすを想像ください。

  

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神野町をゆく(79) 笠塔婆

2022-04-29 10:05:18 | 加古川市歴史探訪・神野町編

   神野町をゆく(79) 笠塔婆

          じもとでは、ハッタイ地蔵と呼んでいます 

 兵庫県加古川医療センターをから見て、南を流れる曇り川に突き当たった所に小さな垣根に囲まれた一角があります。ここに、今日の話題の傘塔婆があります。

 さくら咲く季節以外、あまりここを訪れる人もないようです。

 石守の人に大切にされてきた笠塔婆です。が、詳しいことはわかりません。

 傘塔婆の横に加古川市文化財保護協会の説明がありますので読んでおきます。

    〈笠塔婆〉

 この笠塔婆は、凝灰岩製で、無銘のため造立年代はわからないが、おおそらく室町時代に造られたものと思われる。

 現在、宝珠を欠き、塔身と笠だけである。蓮座を石の表面より直接刻出し、舟型をを彫り込んで像を像を浮かせている。

 仏像は南 釈迦 西 阿弥陀 東 薬壷を持つ薬師如来かと思われる。

 塔身高 9.1センチ 仏高 18.5センチ。

 なお。この笠塔婆は石守の人たちからは、ハッタイ地蔵として信仰されている。

 

 この仏像は、前号で紹介した「たごり地蔵」の伝承と混線していますが、それだけ病が当時の重要ごとだったのでしょう。

 

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神野町をゆく(78) たごり地蔵

2022-04-28 07:02:00 | 加古川市歴史探訪・神野町編

          神野町をゆく(78) たごり地蔵

 県道八幡・別府線の石守のバス停から東へ200メートルばかり行くと、田んぼの中に小さな公園があります。

 そこに3体の石仏が並んでいます。

 入り口から一番奥(東)の石仏は「立石地蔵」(写真)ですが、地元では、もっぱら「たごり地蔵」と呼んでいます。

 南北朝時代の石仏です。

 それにしても、「たごり」とは、聞きなれない言葉です。

 「たごり」は、もともと動詞の「たごる」からきており、「咳をする」という意味です。てっきり、この地方の方言かと思っていたのですが、辞書には、次のようにあります。

  吐る(たぐる・・・①口から吐く。もどす。 ②咳をする。また、こみあげる。(『大辞林』小学館)                

 「たごり」は「たごる」が変化した言葉です。

 現在では医学が発達し、栄養状態もよくなりましたが、昔はちょっとした病が命にかかわりました。

 そうした中で、野の仏に願をかけると病気がなおると言う信仰が生まれたのでしょう。

 「たごり地蔵」のおかげで病が癒えると、はったい粉を持ってお礼参りをしたといいます。

 地元の郷土史家の石見完次氏は、「この地は、昔の望理里(まがりのさと・主に現在の八幡町・神野町)と北条郷(大野付近より南の地域)の境、つまり関にあたる場所にあり、関が咳に通じるところから、たごり地蔵と呼ばれるようになったのかもしれない」と想像されています。

 「たごり地蔵」は「立石地蔵」であり、今の場所より少し東の「立石」という田にあったようです。



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神野町をゆく(77) けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

2022-04-27 09:32:05 | 加古川市歴史探訪・神野町編

  神野町をゆく(77) けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

 芭蕉の没後、播磨地方には芭蕉を敬慕する数多くの俳諧師が、きらぼしのごとく輩出しました。

 松岡青蘿(まつおかせいら)もその一人で、蕪村などとともに「芭蕉中興の六人」に数えられています。

 青蘿は身持ち不慎のため、23才の時、姫路から追放されました。

 身持ち不慎の理由は、賭博とも言われています。

 その後、諸国を遍歴し、好きな俳諧の修業をつんで、明和四年(1767)播州にもどりましたが、姫路には入れてもらえませんでした。

 そのため、加古川(寺家町)の大庄屋・中谷家の庇護のもとに居を構えました。

 これが、栗本庵(幽松庵)です。

 明和五年(1768)、加古郡福沢新村(現:神野町石守)の善証寺の元へ参禅し、剃髪しました。

 *善証寺・・・寛永四年(1627)創設

 その日は、芭蕉忌でした。

 「青蘿(せいら)」は、その時、和尚から授けられた俳号です。

    けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

 これは、この時の句です。

 福沢の善証寺のそばに、この青蘿の句碑(写真)があります。

 句碑は、昭和578月建立されました。

 

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神野町をゆく(76) 庚申信仰(こうじんしんこう)

2022-04-26 10:22:32 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(76) 庚申信仰(こうじんしんこう)

 県道八幡・別府線の福沢の交差点の北東隅に、写真のようなユーモラスの三猿が 「青面金剛」の前にありました。

 「ありました」と書いたのは、200710月に来て「三匹のサル(見ざる・聞かざる・言わざる)」の写真を撮ったことを覚えています。先日、久しぶりでここへ行ってみました。

 サルの像はなく、ピカピカの御影石の「正面金剛像」の石碑に代わっていました。

 この時、次のような文を書いています。再掲しておきます。



 県道八幡・別府線の福沢の交差点の北東隅に三匹サルの像を見つけました。これは 旧福沢新村(現:神野町石守)で、庚申信仰がおこなわれていたことを物語っています。

 江戸時代、ずいぶん盛んであった庚申信仰も現在ではすっかり姿を消しました。

 庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことです。

 庚申の夜、(60日に一回)、人体に住むというサンシチユウと言う虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといいます。

 そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像をおがんだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。

 そのとき、多くの場合「青面金剛像」を拝みました。新しくは三猿も拝みました。

 いつしか、この行事は人々が集まって、酒を酌み交わすというレクレーションも兼ねた楽しい行事に代わっていきました。

 庚申の日に夫婦が交わって子どもができると、その子は盗賊になるともいい、石川五右衛門は、その例であるともいわれます

 

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神野町をゆく(75) 民話:はいどらの観音さん

2022-04-25 08:55:43 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(75) 民話:はいどらの観音さん 

 石守村に、こんな話がつたわっています。

 ・・・・母里村の野寺(稲美町)の観音さんを「はいどら観音」と呼んでいます。

 昔、奈良に都があった頃のことです。神野の石守に法雲寺にというお寺がありました。

 この寺は焼け落ち、本尊の観音像は、焼け残った堂に祀つられていました。お寺は荒れ放題。

 ある夜、二塚村の稲根神社の神があらわれ、「野寺へお移しするように」とのお告げがあっりました。

 村長(むらおさ)は、観音さんを「はいどら」に入れて野寺へ移すことにしました。

 ところが、少し行った畠の道で、観音さんを運んでいた男は、キリキリと腹がこわり、道端に座り込んでしまいました。

 村長は困りはて、「観音さん・・窮屈ですけど、どうぞ辛抱しておくんなはれ・・」と一心にお願いしました。

 すると、男たちはフッと立ち上がり、元気に観音さんを背負い歩き出しました。

 二人は、念仏を唱えなながら、一里あまりの野寺まで歩き続けました。

 休むごとに、「はいどら」の中を覗き込み、「観音さん・・すんまへん、もうすくだッせ・・」といって歩きました。無事に野寺へ着くことができました。



 野寺の観音堂では、鬼追いの行事がおこなわれていますが、その日は石守の村役が顔を出さないことには、鬼追いの儀式は始まらなかったと言います。

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照

 *写真:高薗寺の観音堂の本尊(十一面千手観世音菩薩立像)。「はいどらの観音」であると伝えられている。

 

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神野町をゆく(74) 福留日岡神社の謎・若狭の水が加古川の井戸から? 

2022-04-24 09:01:06 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 神野町西条の話が続きました。しばらく西条を離れて石守の散歩をしてみましょう。

 2017920日の神戸新聞に福留日岡神社の伝承の記事があります。「神野をゆく(10)・もう一つの日岡神社(1)」の続きとしてお読みください。

 

    神野町をゆく(74) 福留日岡神社の謎

     若狭の水が加古川の井戸から? 

 奈良・東大寺二月堂の「お水取り」に使うとされる福井・若狭地方の聖水が、兵庫県加古川の神社の井戸に湧く。福留日岡神社(加古川市神野町福留)の氏子の間に伝わる伝承を、県いなみ野学園(同市平岡町新在家)の大学院生3人が調べ、伝承が残る井戸の存在を広める活動を始めた。3人は「より多くの人に、歴史あるロマンを感じてほしい」と話す。(神戸新聞より)

 

 20159月、ラジオ関西(神戸市)が同学園と共同制作する番組「いなみ野シニアの元気ニュース」の取材で同神社を訪れ、井戸の存在を知った。

 宮総代の茨木貞夫さん(71)から「かつては、若狭の聖水として井戸水を本殿に供えていた」と聞いたが、既に井戸は埋められた後だった。高田さんは「残念に思ったけど、由来について調べようと使命感を持った」と振り返る。

 若狭と加古川の結び付きを求めて1511月、3人は福井県小浜市へ。毎年32日に聖水を東大寺に送る神事「お水送り」で知られる神宮寺を訪れた。そこで、古来から若狭と奈良は地下を通る水の道で結ばれているとされ、近くの川から注がれた聖水は二月堂の「若狭井」に湧くという言い伝えを取材。さらに住職からは、若狭と関係が深いとして、丹波市春日町の兵主(ひょうず)神社の存在を聞いた。

 3人は後日、同神社を訪れ、地域住民から、かつて付近の池で若狭の水流に生息していた魚が見つかったと聞いた。また、同市は加古川の源流にあたり、水は福留日岡神社近くの曇川まで流れていることも調べた。

 その後、調査の経緯や内容を、番組で3回にわたり紹介。「物理的にありえないけど、面白い」などとリスナーから反響が寄せられたという。

 昨年3月には氏子らが井戸を掘り起こすと、底から冷たい水が湧き出たという。「村の大切な宝として、後世に引き継ぎたい」と茨木さん。看板を立てるなど周辺を整備・保存する予定で、高田さんは「歴史的文化財として市内外にアピールしたい」と話した。 

 *写真:伝承のある井戸を調べた(後列左から)粟野勝介さん、安藤興一さん、(前列左端の)高田繁範さんと氏子ら

 

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神野町をゆく(73) 西条に、「新神野」誕生

2022-04-23 07:44:33 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    

   神野町をゆく(73) 西条に、「新神野」誕生

 昭和37917日発行の「広報かこがわ」は、都市化に伴う大規模な県営住宅の建設のニュースを「大規模なモデル県営住宅地、神野町西条に用地決定」の見出しで取り上げています。

 読んでおきましょう。 *文体は変えています。

     大規模モデル県営住宅建設(新神野) 

 県で東播地方の急速な工業化に伴って、当地方最大のモデル住宅団地を建設を進めます。

 場所は、神野駅を中心に県道加古川-小野線の両側で約66万平方㍍(約20万坪)の宅地を造成し、完成後は1万人の人口がふえることになる予定です。

 具体的な建設構想は、今後中央と協議して決定されますが、大規模なため、モの中には公共施設、例えば上下水道、ガスの設傭、交通の問題や道路、公園の建設などはもちろんのこと学校、郵便局、消防施設など、にわかに一都市が生れることとなります。

 工事は来年早々から宅地の遭成に取りかかる予定です。

     消えた群集墳

 付け加えておきます。

 新神野増設には、西条山手の多量の土砂が使われました。

 日岡山から東の西条山手の住宅開発地には、県下でも珍しいほどの古墳時代(主に5世紀)の群集墳が見られた地域でした。

 宅地開発といいながら、あまり論議のないままに大規模な行者塚・人塚・尼塚だけを残し無残にも削り取られてしまいました。

 古代人の生活の跡は簡単な記録にその歴史をとどめるだけとなりました。

 *地図:新しく住宅地として開発された地域

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神野町をゆく(72) 城山物語(16) 城山の城主は、赤松一族か?

2022-04-22 08:17:37 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 前号では、新田義貞・沼田家と城山の関係を見てきました。今回は「城山の城主は赤松一族」という説です。

 『西条まちづくり文化・歴史』(西條まちづくり文化・歴史調査・編集会)の記述の一部をお借りします。

         城山の城主は、赤松一族か?

 ・・・室町時代の守護は鎌倉時代の守護と違い幕府の政治は有力守護の合議制であった。

 室町幕府中枢を担う管領(かんれい)と侍所所司になれるのは三管領と四職(ししき:赤松氏・山名氏・一色氏・京極氏)と呼ばれる家柄に限られ、赤松氏は四職の一員となる。赤松氏は幕府要人として京都に常駐し、配下の武士に城・砦を築かせていた。

 宝暦12年(1762)ごろに完成した『播磨鑑(はりまかがみ)』は「西條ノ城山」として、「・・・在西條村より二丁西の方 赤松則村(円心のこと)の旧跡、 その後建武3年(1336)一宇建立紫雲山宝雲寺と号す。今下西條村に東の山に寺跡のみ残れり」とあります。

 その後、赤松氏は、内紛が続き勢力は衰えます。

 最後は、慶長三年(1598)、則房は病魔に侵され、ひっそりと他界しました。歴史は、赤松氏の最後を赤松則房としています。この後、赤松家は廃絶同然となりました。

 赤松円心から赤松家滅亡まで城山との関係は、もう少し伝わっていてもいいはずです。はっきりとしません。

 赤松氏との関係を書いたものがほとのようですが、すっきりしません。

    沼田家説を支持したいのですが?

 少し素人の想像を書いてみます。

 私は、前回紹介した沼田家説を支持したいのです。

 沼田家は、新田義貞の滅亡ともに、その地位を失い、下野して、百姓となったのでしょう。

 時代は、江戸時代になりました。

 江戸時代、西条(上西条村)に沼田家は大庄屋となり登場します。大変失礼な言い方ですが、こんな田舎から大庄屋の中でも有力な大庄屋として登場したのです。不思議です。

 なにかその基盤があるはずです。沼田家は下野したのちも、経済的に、精神的に地域の指導的地位にあったのでしょう。

 江戸時代に廃寺となった城山にあった紫雲山宝雲寺は沼田家の建立した寺であるとも伝えられています。

 城山の詳しい歴史をご存じの方は、ご教授ください。

*写真:赤松円心像(法雲寺、神郡町)

 

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神野町をゆく(71) 城山物語(15) 沼田氏の居城か

2022-04-21 10:00:16 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

    神野町をゆく(71) 城山物語(15) 沼田氏の居城か

 城山の歴史は、はっきりしません。残された文書等から想像します。今回は一説です。

 『稲美町史』(昭和五十七年発行)から、第第三編第四節「諸家系譜にみる印南野」の一部を読んでみます。

 ・・・一般的に家譜(家系図)は、そのまま真実であるとは言えませんが、当地方の一端をうかがうことができます。

 沼田家(稲美町加古新田の開祖)の家譜によると、沼田家の初代は朝定(ともさだ)で系譜は新田義貞につながるといいます。

 新田義貞は、鎌倉攻めに功があったとして、元弘3年(1333)、播磨の国守任ぜられました。

 義貞は、新田家のつながりの強い朝定を目代(国主に代わって政治をする役職)にしました。西条辺りに居を構えたと思われます。後に新田義貞が赤松則村(円心)を攻めるに際し、加古川に逗留したのは西条の城山付近であったらしいのです。

 西条の城山の件ですが、少し時代はさかのぼります。

 村上源氏につながる季房(すえふさ)が播磨の国主となり、野口町の古大内に居を構えていたのですが、後に佐用町の白旗城へ居を構え、その後、都に帰って三河守となっています。都に帰る前に城山に謙退所をつくり隠居したと考えられています。その謙退所が現在の西条の城山でした。

 城山は、82メートルの小高い丘で守りやすい、景色の良い所です。

 季房(すえふさ)が没して20年ばかりが過ぎていますが、その間縁者いたのでしょう。朝貞は、そこを修理して自分の城としたと考えられます。

 現在、この場所に江戸時代、沢才兵衛(加古新村開発の開祖)が勧請した愛宕神社があり、愛宕神社の横に「西条構居跡」の加古川市文財保護協会の説明板があります。

 * 写真:城山の頂上にある愛宕神社

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神野町をゆく(70) 城山物語(14) 新田義貞のこと

2022-04-20 07:30:56 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(70) 城山物語(14) 新田義貞のこと(1)

 今日は、神野も西条も登場しません。新田義貞の話です。教科書の記述のようで面白くないでしょうが、次回の「城山物語」の予習としてお読みください。

 

 新田義貞と足利尊氏は、ともに八幡太郎義家の孫にあたる源氏の名門です。

 当時、幕府は蒙古襲来により鎌倉幕府の財政は火の車でした。それに時の執権、北条高時の無能により幕府へ不満を抱く武士たちはどんどん増えました。

 このような時代の大きなうねりの中で、元弘3年(1333)、新田義貞は、元弘3年(1333)天然の要塞である鎌倉を海からの奇襲しました。幕府は、たちまちに崩壊し、高時は自刃し、ここに140年続いた鎌倉幕府はもろくも滅亡しました。

 この時は、足利尊氏は、幕府の拠点である京都の六波羅探題を滅ぼしており、当時幕府を倒したのは、新田義貞ではなく足利尊氏だと思われていました。

 そして、京都に帰還した後醍醐天皇は年号を建武と改め政(まつりごと)を始めました。「建武の新政」です。「建武の新政」は、貴族を中心とする政治であったため、武士は当然のごとく、これに不満を持ちました。

 足利尊氏は、反旗を翻しました。朝廷方の総帥・新田義貞は、鎌倉の尊氏追討に向かいました。

 義貞は、楠木正成らと協力して尊氏を九州に追放して京都の武者所の長官に就任します。

 しかし、義貞は、尊氏を追わずに播磨の赤松円心(則村)がこもる播磨の白旗城攻撃に一か月もの月日を無駄に費やしてしまいます。

 その間に、尊氏軍は50万という大軍を集めて京都を目指し攻め上って来ました。

 あわてた後醍醐天皇は、御所を後に比叡山へ難を避けます。

 そして、尊氏は比叡山の後醍醐天皇に和解を申し入れました。天皇はこれを受け入れ下山してします。

 後に残った義貞は、ハシゴを外されたようで宙に浮いてしましました。後醍醐天皇は、恒長親王(つねながしんのう)に位を譲り、しばらく越前に行き様子を見るようにと義貞に命じ、義貞は北国に落ち延びます。壮烈な敦賀の金ヶ崎城への逃避行でした。囲まれました。

 新田一族の多くは、ここで討ち死にしました。

 義貞は、逃れました。が、途中で馬が矢を浴びて倒れました。そして、起き上がろうとする義貞の眉間の真ん中に矢が命中しました。この時、義貞は38歳でした。

 *挿し絵:新田義貞のつもり(インターネットより)

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神野町をゆく(69) 城山物語(13) 地名考:下西条村

2022-04-19 10:07:33 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

   神野町をゆく(69) 城山物語(13) 地名考:下西条村

 江戸時代、現在の神野地区には手末村(てずえむら)・二塚村・西ノ山村・石守村・福沢新村・福留村・横市新村・下西条村(しもさいじょうむら)の八ヵ村がありました。

 そのうち、明治9年に手末村と二塚村が合併して神野村に、石守村と福沢新村が合併して石守村に、 そして、福留村と横市新村が合併して福留村になりました。

 明治2241日、全国的に市町制度の改革により神野村・西ノ山村・石守村・福留村・下西条村の5ヵ村が合併して、神野村が誕生しました。

 なお、「神野」ですが、中世(鎌倉時代~室町時代)この地域は「加納庄」と呼ばれていました。

 「神野」は、その「加納(かのう)」の音が変化してできた名称です。「神」とは関係がなさそうです。

 ところで「西条」について調べてみましょう。

 現在の「西条」は、明治22年は神野村が誕生した段階では「下西条」でした。

 現在の八幡町に上西条・中西条がありますがその続きの「下西条」の意味です。

 しかし、下西城は地理的に神野地区です。それに、「下」にはどうしてもマイナスのイメージ付きまといます。

 そのため、神野村町になり30年近くを過ぎた大正6年(1916)に下西条の名称を「西条村」に改めました。

 その名残でしょうか西条村の祭り等は「下西条八幡神社」として現在でも行われています。

      新神野・西条山手の誕生  

 昭和35年から45年にかけて加古川市へ猛烈な勢いで流入がありました。そのため、神野地区の大規模な住宅開発が計画されました。

 西条地区に西条山手のから量の土砂が埋め立てに利用され住宅地が造成されました。

 埋め立てられた造成地は、昭和43年新神野に、西条台地は昭和49年「西条山手」となりました。

 *写真:下西条八幡社

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神野町をゆく(68) 城山物語(12) 古代人が見た城山からの風景

2022-04-18 09:54:58 | 加古川市歴史探訪・神野町編

        神野町をゆく(68) 城山物語(12) 古代人が見た城山からの風景

 きょうの記事は、歴史ではありません。思考力の弱くなった年寄り(78歳)のたわごとです。



 ・・・・最近、城山(じょやま)へよく登ります。それも夕日の時間がほとんどです。頂上は、開けているのですが、周囲の木のためにのために、夕日は良く見えません。そのため途中で休んで、そこからしばらく夕日眺ることにしています。

 川向こうの山の端にストンと隠れる寸前の太陽はみごとです。

 そんな時、教信(野口の教信寺の僧:平安時代)のことをよく考えます。

      教信のこと

 承和三年(八三六)の秋でした。

 興福寺ので修行に満足を感じなった教信は、山陽道を西へ向って行脚していました。

 須磨、明石を過ぎ、播磨路にはいりました。

 山は遠くで、平野がひろがっています。

 野口で見た夕日は、まさに西方浄土のようでした。ためらうことなく、ここを修行の地としました。

      古代人が見た城山からの太陽(夕日)

 城山は、敵から自分たちを守るだけの山(要塞)ではなかったと想像します。

 まだ、仏教が日本に入っていない時代の西条の台地に眠る古墳時代人も、きっと城山から見る加古の流れと太陽に限りない宗教心を感じたことでしょう。

 そんなことを想像します。



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 神野町をゆく(67) 城山物語(11) 望理里(まがりのさと)

2022-04-17 10:50:49 | 加古川市歴史探訪・神野町編

   神野町をゆく(67) 城山物語(11) 望理里(まがりのさと)

 『播磨風土記』が作られた奈良時代、神野・八幡地方は、望理里(まがりのさと)と呼ばれました。

 風土記の一部を読んでおきます。

 ・・・景行天皇(けいこうてんのう)が巡幸の時、この村の川の流れが曲がっているのを見て「この川の曲がり具合は、はなはだ美しい」と仰せられた。それで、この地を「望理里」という・・・

 加古川は、今も美嚢川(みのがわ)と加古川が合流点あたりから、流れは西に弧を描きながら流れています。

 『播磨風土記』が書かれた奈良時代、この辺りの流れは現在の流れと大きく異なっていたようです。

 きょうは、城山に登り『風土記』の時代の八幡地区の風景を想像しましょう。

*(注)現在、城山の頂上は空間があります。が、周囲は木が生い茂り眺望はよくありません。ここにお城(構)や寺があって眺めの良い時代を想像しています)

 当時、加古川の流れは、宗佐(そうさ)の辺りから、国包(くにかね)の東を流れ、船町・下村のあたりから流路を変え、中西条の西に流れていたようです。

 八幡地区は、加古川が大きく曲がった東岸の地域に広がった、まさに「曲がりの里」でした。

 城山から眺めた望理里は、まさに絶景でした。景行天皇ならずとも感激したに違いありません。

 「しかし」、古代より加古川は、暴れ川で、八幡・神野周辺は台風や長雨の時など、きまって洪水を引きおこしました。

 望理里は、まさに洪水の直撃をくらう地域でした。

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神野町をゆく(66) 城山物語(10) 行者塚古墳(3)・加羅への援軍

2022-04-16 10:09:32 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(66) 城山物語(10) 行者塚古墳(3)・加羅への援軍

 古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)の研究等から行者塚は、5世紀初期の古墳であると結論づけています。

 以下は、素人()の無責任な想像です。

 行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多く出土しています。

 これは中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えられますが、それにしては行者塚古墳には多すぎるのです。

 行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えません。

 5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っています。

 つまり、お互いに相手の領土を狙っていたのです。

 行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)と関係が深いと想像できます。

 加羅は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)でした。

 とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり援軍を求めたりしたのでしょう。

 西日本や北陸の海岸にある古墳にも、行者塚と同じく、加羅地方の遺物を多く持つ古墳があります。

 これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのではないか。あるいは、食料援助をしたのではないかとも考えられます。

 そして、「その見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と想像するのです。

 あくまで、素人の推測として読んでください。

*写真(行者塚古墳出土・盾形埴輪)

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