ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

別府町をゆく(106) 別府町新野辺(32)  浜ノ宮神社の伝承(2) 浜ノ宮天神社・元宮は十五社大神社

2023-01-19 08:43:23 | 加古川市歴史探訪・別府町編

  別府町をゆく(106) 別府町新野辺(32) 

     浜ノ宮神社の伝承(2) 浜ノ宮天神・元宮は十五社大神社

 九州の大宰府に流された菅原遣真は、延喜年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなりました。59歳の人生でした。

 道真の死後、京都では天変地異がしきりに起きました。

 旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、ひどく動揺しました。

 このため、朝廷は神社を建立して道真の霊を慰めようとしました。

    浜ノ宮天神社の元宮は十五社大神社

 それを伝え聞いた里入たちは、ゆかりの十五社の境内に天満宮をまつり、道真をお祀りしました。

 その後、室町時代に、十五社の神主の夢枕に神様が現われ「昔、筑紫に下るとき、尾上の東の松林の中にしばし休息したが、この地に私のお宮を建てよ・・・・」と。

 神主は、たちまち夢からさめました。

 そこで、さっそく浜の松林に出かけて見ると、松の木がうっそうと生い茂った中に、夢の中と同じ風景の場所がありました。

 神主は、これは天満天神のご威光であって、たいへんありがたいことだと思い、宮殿を造営し、文安元年(1444)831、十五社の宮より神様を新殿に移しました。

 これより、この浜の松林の中にある宮を浜ノ宮天神社と称することになりました。

 *写真:浜ノ宮神社境内    (完)



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別府町をゆく(105) 別府町新野辺(31) 浜ノ宮神社の伝承、 菅原道真のお手植えの松

2023-01-18 09:19:58 | 加古川市歴史探訪・別府町編

        別府町をゆく(105) 別府町新野辺(31) 

       浜ノ宮神社の伝承、 菅原道真のお手植えの松

 延喜元年(えんぎがんねん・901)、正月の下旬の頃です。

 右大臣という位の高い菅原道真(すがはらのみちざね)が、藤原氏のはかりごとのため、筑紫(今の福岡県)の大宰府(だざいふ)に流される途中、新野辺の沖を航海されていたときでした。

 空が急に暗くなり、海上は大しけとなりました。

 そこで船を浜に着け、松林に避難されました。

 そして、安田の十五社大神と尾上の住吉神神社(尾上神社)に航海の安全を祈られました。

 しばらくすると、ふしぎと急に風雨がやみ、海上が静かになり、ふたたび九州に向かわれました。

 そのとき、菅原道真は、松の根を上にして逆にして植えられました。

 しかし、ふしぎやふしぎ、その松はぐんぐん大きくなり、村人を驚かせたということです。

 浜ノ宮天神社の拝殿(はいでん)の西にある松が、その松であるといいます。

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別府町をゆく(104) 別府町新野辺(30) 浜ノ宮の松林

2023-01-17 09:39:44 | 加古川市歴史探訪・別府町編

         別府町をゆく(104) 別府町新野辺(30) 浜ノ宮の松林

 田山花袋の「播磨名所」に、次のような記述があります。一部を紹介しておきます。



 ・・・高砂尾上とはまるで別々になって了ったが、昔は確かに一村落であったに相違ない。

 そして今の尾上に、やゝその面影を残しているやうな松林がこの海岸一面に連なりわたって居て、松の影は松の影と相重なり、波の音は波の音と相雑(あいまじ)って、他に見ることの出来ないやうな荒涼寂莫たる趣を呈してゐたに違いない・・・・



 浜ノ宮中学校から浜の宮神社(加古川市尾上町口里)にかけての松林は、神社の境内地として保護され、明治維新以後は、官有林に編入され同神社や氏子によって維持されてきました。

 満州事変以来、この松林には陸軍病院、航空整備隊、さらに陸軍航空通信学校尾上教育隊が開設されるなど、多くの松は切り倒されさらにその後、多くの松が松くい虫にやられました。

 松林の風景は大きく変わりました。

 しかし、この松林は、播磨風土記に見える「賀古(かこ)の松原」の面影を今に伝えているようです。

 *写真は、浜ノ宮公園の黒松

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別府町をゆく(103) 別府町新野辺(29)    新野辺西部地区の土地区画整理事業

2023-01-16 07:25:38 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

 別府町をゆく(103) 別府町新野辺(29 

           新野辺西部地区の土地区画整理事業

 新野辺の西部地区は、駅徒歩圏内(山陽電車別府駅・浜ノ宮駅から)という立地条件の良さから、このままでは無秩序に宅地化が進むのではないかと心配されました。

 そのため、土地区画整理事業により公共施設を整備しようとの機運が盛り上がり、平成2年1月に組合設立発起人会が結成され困難な取り組みの末、平成18年に完成しました。

      土地区画整備事業・平成18年に完成

 平成2年(1990)  組合設立発起人会結成

 平成6年(1994)  地元説明会

 平成7年(1995)  組合設立認可

 平成10年(1998) 起工式

 平成18年(2006) 工事完成・検査

 昭和19年(2007) 市道の全面共用開始

 

  写真(上):土地区画整理事業以前の新野辺西部地区の写真(平成712月撮影)

  写真(下):土地区画整理事業後の写真(平成199月撮影)

比べてください。まず、道幅が広くなったことが目につきます。

 

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別府町をゆく(102) 別府町新野辺(28) 陸軍航空通信隊尾上教育隊(2)

2023-01-15 10:26:14 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

   別府町をゆく(102) 別府町新野辺(28)

      陸軍航空通信隊尾上教育隊(2)

 前回の陸軍航空通信隊尾上教育隊の続きです。 戦後、一部は浜ノ宮中学校校舎として利用されました。

      陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図

 戦史研究家・上谷昭夫氏のパンフに「陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図」があるので掲載させていただきました。

 ・・・・

 終戦後の一時期、加古川飛行場を管理した連合国占領軍が、兵舎として利用し、また、兵舎の一部は浜ノ宮中学校としても利用されました。

 現在、この教育隊の跡に次のような説明があります。読んでおきましょう。

     <教育隊跡地の説明> 

 「当公園内には、戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎が建設され、約1,500人の隊員が駐留していました。

 戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基礎石が存在していました。

 ここにあの不幸な歴史を二度と繰り返さないことを誓い、基礎石の一部を保存し、後世に伝えることにしました」

       加古川第一陸軍病院

 なお、上記の図の左端(西端)病院があります。

 この病院は、昭和12年(1937)に加古川飛行場に付属する「加古川陸軍病院」として開設されました。

 診療は、内科・外科・眼科があり、歯科は姫路陸軍病院へ行かねばならなりませんでした。

 昭和16年に、神野兵舎付属の陸軍病院(現在の「(私立)甲南加古川病院」)が開設されたので、名称を「加古川第一陸軍病院」と改めています。

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別府町をゆく(101) 別府町新野辺(27)  陸軍航空通信尾上教育隊(1)

2023-01-14 09:05:42 | 加古川市歴史探訪・別府町編

       別府町をゆく(101) 別府町新野辺(27)

           陸軍航空通信尾上教育隊(1)

 *時代が大きく前後して申し訳ありません。時代を整理してお読みください。



 戦時中、加古川は小軍都でしたが、幸い大きな空襲から免れました。「もし」もう少し戦争が長引いておれば、大災害は免れなかったと思われます。

 今回の話題は「陸軍航空通信学校尾上教育隊」です。

     陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)

 浜国道(現:県道25号線)がすぐ隣に走るが、騒音は気になりません。静かでした。

 陸軍航空通信学校尾上教育隊施設跡(写真)は、松の木漏れ日の中で戦争があったことを伝えています。

          陸軍航空通信学校尾上教育隊跡

 加古川市尾上町の浜の宮公園には、陸軍航空通学校『尾上教育隊』の兵舎の跡が残っています。

 ここで学んだ少年兵たちが住んだ兵舎の名残です。

 ここで学ばれたKさんは、「外出できたのは一度か二度、夜は上官の制裁が日課のようでした」と厳しかった生活を証言されている。

 航空教育隊は、昭和13年7月5日、朝鮮の平壌(ピョンヤン)で編成され新兵の教育を実施しました。

 昭和16年2月5日、加古川に移駐し、その後、紹和18年9月17日、加古川航空通信学校として改編されました。

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別府町をゆく(100) 別府町新野辺(26) 新野辺村と長砂村(現:野口町)の水争い

2023-01-13 10:26:44 | 加古川市歴史探訪・別府町編

      別府町をゆく(100) 別府町新野辺(26)

            新野辺村と長砂村(現:野口町)の水争い

 寛政九年(1797)にも新野辺村と長砂村の水争いがおきました。長砂村は、新野辺村を相手取って姫路藩に訴えました。

 長砂村のいい分は次のようでした。

 「・・・五ケ井用水の余り水を受けている長砂村の者が、日照りで水が入りにくくなったため、認められている余り水を受けている水筋の取水口から桶・抱え桶・踏車・龍骨車などで、水を取り、長砂村の田地に水を入れただけです。

 そこへ、新野辺村から庄屋以下大勢の人足がやって来て、悪口をはきながら熊手やとび口・唐鍬などで寵骨車などの道具を破壊し、さらに村の者をなぐる等の争いになりました・・・」と。

 ・・・・

 この訴えに対して、新野辺村は、次のように答えています。

 「・・・長砂村が(認められた)川筋だといっているのは、新野辺村への五ケ井用水の川筋で、安田村から坂井村まで達する川のうちの、長砂村と新野辺村の境を流れる溝の事で、間違いです。

 そのことの立て札を立てるために10人が出向いたところ、長砂村の者が水を取っているので中止させたのです。

     新野辺村の主張が認められる

この水争いは、新野辺村の主張が全面的に認められ、長砂村に次の条件を確認する一札を入れました。

 ① 長砂村の105石余の田地への水については、新野辺村の指図に従い、余水をもらうので、水料として米6升を渡す。

 ② 壱丁田にある両堰をするさいには、長砂村は人足二人を差し出す。

 ③ 水入れの世話料として米一斗を新野辺村に渡す。

 ④ 今後は、取水口の用水について新野辺に差しさわりになるようなこと。

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別府町をゆく(99) 別府町新野辺(25) 旱魃(寛政元年・1789)

2023-01-12 05:59:01 | 加古川市歴史探訪・別府町編

          別府町をゆく(99) 別府町新野辺(25) 旱魃(寛政元年・1789

 「寛政元年(1789)の明細帳は、新野辺村の旱魃について下記のようにのべています。(一部省略)

 「・・・・新野辺村の田植えは遅れ、5月24日から溝筋付近で植付けを始めた。しかし、その頃から五ヶ井の水が減じ、新野辺村まで下ってこなくなった。

 それでも、溝の水を汲み上げ田植えを続けた。

 この年、安田・長田・口里村では、麦の取入れがおくれ、まだ田植えにかかっていなかった。そのため、加古川の水を抜き落としていた。

 そこで、新野辺村は口里村に交渉して、田植えの水にあてることができた。

 このような旱魃のため、鶴林寺では5月24~26日まで、浜之宮の天満宮では6月2・3日雨乞いの祈祷が行われた。しかし、雨と言うほどの雨は降らなかった。

 5月末の段階で新野辺村の田52町1反のうち16町5反9畝あまりは、まだ田植ができなかった。

 6月3日、五ヶ井の水が少しばかり新野辺まで下った。

 しかし、上手の長砂村が揚水機(竜骨車)で水を汲み上げたので、水が新野辺村に来なくなり、新野辺村は長砂村に抗議している。

 その後、6月8日ごろから口里村は田植えに取り掛かったが、たちまちに水不足になり、この時、新野辺村は字、壱丁田の溝口の堰を落とし口里村へ水を回している・・・」

 新野辺は、特に水には泣かされた集落でした。

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別府町をゆく(98) 別府町新野辺(24)  新野辺住吉神社

2023-01-11 08:21:35 | 加古川市歴史探訪・別府町編

    別府町をゆく(98) 別府町新野辺(24)  新野辺住吉神社

 現代、新野辺の住吉神社は、新野辺以外の人にはあまり知られていないようです。

 かつて境内には松が生い茂っていた立派な神社である」という記録(社寺明細帳・天明二年)がありますが、今は、広い境内の一角にちょこんと本殿があるだけです。

 写真は、昭和46年に撮影されたの新野辺住吉神社です。『加古川市誌(第二巻)』の写真(665p)に大きな拝殿が残っています。

 玉垣は、大庫輸送機さんの協力より新しい玉垣になっています。

    綿屋源四郎

 残された社殿を囲む玉垣の前に一対の灯籠があります。

 向かって左の灯籠の文字は、はっきり読むことはできませんでしたが、右の灯籠は、延享二年(1745)正月の綿屋源四郎寄進の銘をはっきりと読むことができます。

 江戸時代後期~明治時代の初めの頃、加古川地方、特に浜手は木綿の生産が盛んでした。

 燈籠にある綿屋源四郎は、どんな人か確かめることはできませんが、綿を商う商人で成功し、そのお礼の印に灯籠を奉納したのであろうと考えられます。

    ◇新野辺住吉神社に残る「肥料王」の玉垣

 先に、「別府町をゆく(45)で、肥料王(主)多木久米次郎」を紹介しています。 久米次郎は、設立当時、自分の像に誇らしく「肥料王」と刻んだのです。

 時代は戦前で、天皇の時代に、いくらなんでも「マズカロウ」との声が上がりました。 そのため、久米次郎は「王」を「主」とごまかしました。

この時他の石碑の「肥料王」も「肥料主」と変えていますが、新野辺住吉神社の玉垣の石碑銘は行書のためかは訂正されていません。



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別府町をゆく(97) 別府町新野辺(23) 伝承:お薬師さんと兵衛

2023-01-10 07:39:18 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

     別府町をゆく(97) 別府町新野辺(23) 伝承:お薬師さんと兵衛

 薬師堂に祀られている薬師仏の話です。薬師堂は円福寺を建て替えたものです。

 薬師堂の「お薬師さん」には、こんな伝承があります。

        お薬師さんと兵衛

 新野辺の薬師堂には、霊験あらたかな「薬師如来(やくしにょらい)」安置されています。「お薬師さん」といって村人からたいそう信仰されていました。

 何か困ったことができたとき、一つだけ、このお薬師さんに願をかけ、自分でも何か一つだけ誓い(ちかい)をたてて、それを守れば、その願いは必ずかなえてくださいました。

 むかし、新野辺に兵衛(ひょうえ)と言う人が住んでいました。

 兵衛は、ちょいちょい胸が痛むので、お薬師さんに願いをしました。

 そして、兵衛は「三年の間、好きな雑煮(ぞうに)を食べませんから、胸が痛くなるのを治してください」とお願いしました。

 兵衛は、それからは好きな雑煮を断って、その年の正月も、次の年の正月も雑煮を食べませんでした。

 ところが、三年目の正月でした。

 遊びつかれて家に帰ると兵衛は、あまりの空腹にたえかねて、台所をさがすと、そこに雑煮のあるのをみつけました。

 思わず食べてしまいました。

 「ハッ」と気がついたとたん、兵衛の胸は急に痛んできました。

 兵衛が誓いをやぶったためでしょうか、兵衛は気の毒にも、夕日が落ちるころ、痛みがひどくなって、ついに息をひきとったといいます。

 兵衛のお話は恐ろしい話ですが、このお薬師さんは願いごとを聞いてくれる仏さんなんです。

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 別府町をゆく(96) 別府町・新野辺(22) 廃仏毀釈

2023-01-09 07:53:10 | 加古川市歴史探訪・別府町編

       

                別府町をゆく(96) 別府町・新野辺(22) 廃仏毀釈

 一般に「廃仏毀釈」と言えば、慶応4年にでた太政官布告(通称神仏分離令)、明治3(1867)に出された政策によって引きおこされ仏教施設の破壊などを指し、廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動をさします。

 明治4年(1871)ごろ終そくしましたが、仏教に対して大きな影響を与えました。

 さらに、1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で境内を除き、寺や神社の領地が国に取り上げられることになりました。

      加古郡の27ヶ寺が廃寺に(明治4年)

 加古郡の場合、この時期に27ヶ寺が廃寺に追い込まれました。

 この27ヶ寺のうちに、新野辺村の円福寺・長谷寺・正覚寺が含まれました。

 廃仏毀釈で特に標的にされたのが、浄土宗の寺々でした。

 明治新政府は、浄土宗に厳しい取り締まりの目を向けました。

 というのは、江戸幕府を開いた徳川家が浄土宗であり、江戸時代、浄土宗に手厚い保護をあたえていたからでした。

 もちろん、新野辺村の3ヶ寺は、経済的に維持できない状態であったようですが、廃仏毀釈の影響をもろに受けた寺だったと思われます。明治4年、新野辺村の3ヵ寺は廃寺となりました。

 *写真:現在の正覚寺跡(新野辺住吉神社の東に隣接する写真手前の空き地)

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別府町をゆく(95) 別府町・新野辺(21) 幻の三ヵ寺

2023-01-08 07:33:00 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

   

 

  別府町をゆく(95) 別府町・新野辺(21) 幻の三ヵ寺

 前号の続きとしてお読みください。

 かつて、新野辺村に3ヵ寺があったことを明細帳(写真)で確認しておきます。

     まぼろしの三ヵ寺

 明細帳は、新野辺村の寛延三年(1750)の一部です。

 この明細帳から新野辺村には寛延三年にいずれも浄土宗の末寺であった円福寺・正覚寺・長谷寺があったことを知ることができます。

 寺の管理・修復も新野辺村の責任の寺でした。

 寺のあった場所を確認しておきます。

 円福寺は、新野辺集落の薬師堂がありますがその場所です。

 正覚寺は、新野辺住吉神社の東に隣接する地です。

 長谷寺は住吉神社から南へまっすぐに行きった旧浜国道に突き当たるあたりに地蔵堂があります。その、地蔵堂がかつての長谷寺のあった場所です。

 余話になりますが、そのあたりに長谷川姓が多いのは長谷寺に由来するとする説もあります。

 *写真:明細帳と現在の新野辺の薬師堂薬師堂に祭られている薬師如来



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別府町をゆく(94) 別府町・新野辺(20) 浄土宗から鶴林寺(天台宗)に転宗

2023-01-07 10:56:43 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

     別府町をゆく(94) 別府・新野辺(20

         浄土宗から鶴林寺(天台宗)に転宗  

  新野辺には、鶴林寺(浄心院)の檀家が多くあります。

 その理由を『加古川市誌(第二巻)』にみてみましょう。

 新野辺には、もともと長砂村(現:野口町長砂)の西方寺を本寺とする浄土宗に属した三ケ寺の村でした。

 それらの寺は、円福寺・長谷寺・正覚寺で古文書等で確かめられています。

 新野辺村は、西方寺の檀徒だったのです。

 これらの寺は、天明の頃から村は寂れついで無住になり鶴林寺(天台宗)の浄心院へ転宗したものと考えられています。明治4年(1873)についに廃寺となってしまった。

 新野辺村は、やむえず他の寺へ転宗してゆかねばならなくなりました

 当時、新野辺村は浜の宮神社の氏子の村であり、鶴林寺は浜の宮神社の「神宮寺」でした。

 *神宮寺・・・神仏混合で神社に付属した寺でのこと

 また、鶴林寺の浄心院の歴代住職のうち4代が新野辺村出身の梅谷氏でした。その後、浄心院は出火し全焼してしまいましたが、梅谷家の財力で再建したから」という説もあります。

 新野辺村と鶴林寺の間には、浜の宮神社を介して深い関係がありました。



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別府町をゆく(93) 別府町新野辺(19) 北海道へ(3)・塗炭の村

2023-01-06 06:04:41 | 加古川市歴史探訪・別府町編

        別府町をゆく(93) 別府町新野辺(19) 北海道へ(3)・塗炭の村

      *今年もよろしくお願いします。「別府町・新野辺(18)の続きです。



 北海道移住計画が持ち上がった明治15年当時、一般的に交通機関も発達していません。

 世情に疎い人がほとんどでした。

 移民等の問題になると誰も確信がなく、当局としても、進んで許可を出す状況でもありません。

      北海道への移住計画消える・・・

 そんな時でした。

 郡役所は、「徳島県人で北海道へ移住した人たちが、全員困りはてて、帰るにも帰れずに難渋している、という噂を聞いて、新野辺村からの出願者に対する処置もなるべく慎重に対処するよう決め、そして、活路を他の安全な道を歩むように」と村人に説得することにしました。

 そして、この計画は「危険きわまる無謀な計画であるから、宣伝に乗ってはならない」と、郡当局により阻止せられました。

 そのため、その後は集会ごとに人数が減り、ついには万難をおかしても決行したいという者は、わずかに8家族となってしまいました。

 これらの8家族も熱心でしたが、子どもが多く、労働条件の悪い家ばかりでした。

 そのような家族を引き連れて移住しても到底初期の目的を達することができないことは目に見えていました。

 結局、北海道移住に対する恐が広がり、これらの家族もやがて意欲をなくし、移民の計画は中止となりました。

 しかし、苦しい生活は容赦なく新野辺村を襲いました。

 北海道移住は、取りやめになりましたが、神戸や大阪へひそかに夜逃げだし、行方をくらますも百十数戸におよび、二百数十戸あった新野辺村は百五十戸たらずの貧しい村となってしまいました。

 *「新野辺住吉神社の由緒」参照

 「新野辺住吉神社の由緒」は、戦後、新野辺自治会長として活躍された塩本繁武氏の書き残された綴りです。山本幸一氏がコピー保存された記録の一部を参照させていただきました

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別府町をゆく(92) 別府町新野辺(18) 北海道へ(2)・甘いささやき

2022-12-31 09:13:49 | 加古川市歴史探訪・別府町編

    別府町をゆく(9) 別府町新野辺(1) 北海道へ(・甘いささやき

 新野辺村のS氏の知人で、その遠縁にあたる士族で加西北条町の小学校長をしていた倉賀野氏が校長引退後、神戸赤心社事務員となり、北海道の石狩への移民担当係りをしていました。

 この人に相談して救済策を講じたところ、倉賀野氏は「北海道に肥沃な開墾のしよい土地があり、一家族に町歩~10町までを貸し与えることができるので、世話をしてやろう。

 また、費用としては補助金10円を給し、農具その他の開墾に要する道具類は貸与することになっているから入居者は入る衣類だけを持って行けばよい・・・」ということで、新野辺村の北海道移住計画は動き始めました。

 計画では、明治18月から出発し、百家族の移住を実施し、新野辺村の分村をつくり、北海道から当地方に肥料を送り、こちらからは綿を送って相互交換を始めようという計画でした。

 新野辺村と赤心社は、移住許可の手続きを執るために加古郡役所(現在の寺家町にあった)へ願い出ました

 写真:加古郡役所(役所は明治12寺家町に置かれ、この建物は明治17月新築)

 

 *お知らせ*

 今年も、あまり面白くない「フェイスブック・ひろかずのブログ2」をお読みくさいましてありがとうございました。

 明日~5日(木)まで「フェイスブック・ひろかずのブログ2」はお休とします。よろしくお願いします。

 素晴らしい新年をお迎えください。

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