ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

別府町をゆく(2) 地名(1) 別府(べふ)

2022-09-30 09:10:39 | 加古川市歴史探訪・別府町編

          別府町をゆく(2) 地名考(1):別府(べふ)

 「加古川市誌(第二巻)」を読んでいます。1085ページの膨大な加古川市誌です。この市誌については、若干説明が必要のようです。

 昭和26年101日に別府町は、加古川市と合併しました。当時、別府町は、別府町誌の編集をはじめていました。そして、合併の条件に「現在編集中の別府町誌を完成させること」という一項を加古川市に認めさせたのです。

 そのため、この膨大な「加古川市誌(第二巻)」は、加古川市誌というものの、内容は完全な別府町誌です。

 その市誌から別府地名についての記述をお借りします。

    ◇地名別府◇

 全国には、別府(別符も含む)の漢字をあてた市町村が46カ所あります、しかし、その読み方は、次のようにさまざまです。

   ベップ         15か所

   ベフ(ベッフ)     17か所

   ビフ          12か所

   ビユウ          1か所

   ベヨウ          1か所

 なお、「別府」について、ある説を紹介しましょう。別府は、昔(平安時代の末)役所が発行した開拓許可証を意味していました。その別府により開拓された土地を、「別府」と呼ぶようになったといいます。

 加古川市の別府(ベフ)は、海岸部で、農業地としては適さず、遅れて「別府」により開拓が命じられて土地のようです。

  *写真:山陽電車、別府(べふ)駅。

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別府村の誕生

2022-09-29 07:18:00 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 野口町の次は、何処を取り上げようかと考えていたところ、9月ある病気で入院しました。

 その留守中に、別府町のGさんから町の古い写真を家自宅に届けていただいていました。

 2007年に別府町を一度紹介していますが、この写真加え、文章を書きなおして、再度紹介します。

 

    別府町をゆく(1) 別府村の誕生 

 私たちの地方では、別府と書いて「べふ」と読みます。

 が、他の地方の方に読んでいただくと、おそらく「べっぷ」でしょうね。別府の呼称については次回にとりあげます。

 別府は、かつて浜風の中で賑わったところです。

 江戸時代、この地に別府村、新野辺村(しのべむら)そして西脇村がありました。

 これら3ヵ村は、明治22年4月1日、新しい町村制により加古郡別府村が誕生し昭和3年11月5日、加古郡別府町になり、さらに昭和26年10月1日、加古川市と合併して現在の加古川市別府町が誕生し、現在に至っています。

 なお、昭和45年3月25日、海岸埋め立てに伴い金沢町が分離独立しました。

 *『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県総務部地方課編集)参照

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秋です(5) アサギマダラと初対面

2022-09-28 06:24:47 | 余話として

 

     秋です(5) アサギマダラと初対面

 アサギマダラが本州から沖縄などへの離島へ渡ります。

 不思議です。あんなに弱弱しいアサギマダラが沖縄・台湾あたりまで飛ぶなんて信じられません。



 昨日(27日・火)、午後稲美町の「水辺の里公園」に出かけました。

 その時、女性の職員の方(蝶の専門)がフジバカマにとまった蝶を撮影されていたんです。

 聞くと、今年初めて飛来したアサギマダラを撮影さてているとのこと。

 ほんとうにラッキーでした。

 アサギマダラが海を越えて飛ぶということは聞いていたのですが、実際にアサギマダラ見たのは初めて。

 感激でした。

 *写真:アサギマダラ(いなみ野水辺の公園にて 27日撮影)

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秋です(4) 円照寺の彼岸花

2022-09-27 08:34:23 | 余話として

         秋です(4) 円照寺の彼岸花

 22日(木)の神戸新聞の一面に東志方町広尾の円照寺の彼岸花が紹介されていました。昨日(26日:月)に出かけました。

 休日でもないのにたくさんのカメラを持った見学者が来られていました。以下は、神戸新聞からの引用です。



 色とりどり5色のヒガンバナが、兵庫県加古川市志方町広尾の円照寺境内を彩っている。

 一般的な赤をはじめ、ピンク、オレンジ、白、黄の約千株が見頃を迎え、参拝者を楽しませている。

 上月義宗住職(75)が約20年前に栽培を始め、珍しい品種をインターネットで購入するなどし、現在は約3千株が植えられている。

 中でもピンクの花は珍しく、関東から訪れる愛好家もいるそうだ。・・・



 もうすこしの間、楽しませてくれます。お出かけください。

 *写真:円照寺のヒガンバナ

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秋です(3) 人生の秋

2022-09-26 10:38:37 | 余話として

    秋です(3) 人生の秋

 

 なんとも間抜けなおじいさん(私)と、おばあさん(妻)の写真です。

 きょう、妻は80歳になりました。

 私も、もうすぐ80歳。

 人生の秋ですね。ひょっとして冬かもしれません。

 最近入院が続いています。

 これかも、もう一息頑張ってみます。ご迷惑をおかけしますが、お付き合いを宜しくお願いします。

 *写真:娘と孫が作りました。

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秋です(2):今年もドングリが稔ります

2022-09-25 07:50:12 | 余話として

  

  秋です(2):今年もドングリが稔ります

 三年ほど前の散歩中でした。

 用水と車の多い道路の間で、あまり高くないドングリの木をみつけました。

 木の下にいっぱい大きなドングリが落ちていました。

 こんな街中(尾上町)の道路沿で、思いがけなくドングリ拾いができたんです。

 あまり大きくないドングリの木ですが、今年もいっぱい実をつけています。

 去年は、小学校の先生にもらっていただきました。

 今年も、もう一か月もすると茶色い立派なドングリになりそうです。

 子どもは遊んでくれるだろうか・・・ヤジロベエでも作って遊んで欲しいね。

 場所は、秘密にしておきます。交通事故でけがをすると大変ですから。

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野口町の次は、どこを歩きましょうか

2022-09-24 06:51:18 | 余話として

  

     野口町の次は、どこを歩きましょうか

 「歴史シリーズ・野口町をゆく」を前回でとりあえずおわります。

ただ、紹介したかったハリマ化成・岡田酒造が抜けています。

 まだ調べていないためです。後日、紹介します。

 地域を知る(好きになる)ために一番大切な方法は、まず、その歴史を知ることだという思いが、強くなっています。

 加古川市へ転居されている方(Iさん)から、私の『かこがわ歴史散歩』を読まれ、「加古川が好きになりそうです・・・」という言葉を寄せていただきました。嬉しかったですね。

 その歴史が、いまガラガラと音たてながら消えています。また、語られなくなっているようです。

 もちろん、不都合な歴史も含めての身近な歴史を記録(知ること)をする必要を感じています。

 入院中にある方から「別府町の昔の写真」を届けていただきました。ありがとうございました。

近いうちにぜひ紹介をします。



 しばらく(一週間ぐらい)、地域の秋を散策してみます。

 そのあと、歴史散策を再開します。まだ、どの町の歴史散歩に出かけるか決めていません。ご提案ください。

 加古川市以外の播磨町・高砂市でもいいです。一緒に歩きましょう。

 *写真:隣家の空き地の秋







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野口町をゆく(105) 大庫源次郎物語(31) 波乱の生涯

2022-09-23 09:02:49 | 加古川市歴史探訪・野口町編

         野口をゆく(105) 大庫源次郎物語(31) 波乱の生涯

 その後、 経済背景は、一段と高度で能率的なコンベヤの要求となり、社業繁忙につながりました。

 そして、昭和43年、社名も「オークラ輸送機株式会社」しました。



 昭和44年4月24日未明、突如心筋梗塞が襲い、きのうまで元気だった源次郎は、一瞬にして天国へ旅立ちました。

 まさに、波乱続きの生涯でした。(完)



 大庫輸送機株式会社から源次郎の生涯を描いた『創造の人 大庫源次郎の生涯』をいただきました。

 一気に読んでしまいました。すばらしい内容の本です。

 そのため、このFBでもブログ(ひろかずのブログ・2)でも紹介することにしました。

 しかし、なにせ200頁を越える著作であるため、その全部を紹介できていません。大幅に省略しています。文体も変えさせていただいてます。

 大庫源次郎の生涯が正しく伝わっているか、若干心配です。会社からお叱りがありそうです。

 お詫び申し上げます。

  「大庫源次郎物語」をお読みいただきありがとうございました。 

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野口町をゆく(104) 大庫源次郎物語(30) アイディアで勝負

2022-09-22 06:24:09 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口町をゆく(104) 大庫源次郎物語(30) アイディアで勝負

 源次郎は思うのでした。

 「よーし。アイディアのオークラをうち樹てよう・・・・」

 また、東京に研究所を持つ南川利雄工学博士の協力を仰ました。

 源次郎と南川氏とのつき合いは、昭和30年に逆のぼります。

 コロコンの製品化には高度な技術を必要とするところから南川氏の門をたたきそのアドバイスを受けることにしました。

 源次郎は、コロコンキャリヤーの新しい応用範囲を拡大することに主眼をおき数多くの品種を開発しました。

 「製品は、アイディアで勝負」と源次郎は、常に自分に言い聞かせて研究に取り組みました。

 

 続々と続々と生まれてくる新製品のなかでもフローラックは、源次郎の創意が生んだ傑作です。

 「企業はマスプロ化され、製造工程はあらゆる部門が自動化されているのに運搬と貯蔵はあまり進歩していません。

 それを一つのシステム化して自動化をはかるのが、われわれ運搬機メーカーの責任である」という考えが、この傑作を生みだしたのです。

 棚とコロコンキャリーとかローラーコンベヤーを組み合わせました。

 源次郎は生産ラインの流れそのものを「倉庫」と考えのです。

 つまり、原料供給から出荷までの流れを、一貫した倉庫システムとして、位置づけました。

 現在、フロープラントシステムの出現で、倉庫の概念がすっかり変わりました。

 *写真:部品格納用フローラック

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野口町をゆく(103) 大庫源次郎物語(29) 一喜一憂

2022-09-21 10:31:42 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 一週間ほどある事情で雲隠れしていましたが、昨日何とか無事に帰宅でしました。悪いことはしていませんよ。

 お休みしていた「大庫源次郎物語」を続けます。よろしくお願いします。



       野口町をゆく(103) 大庫源次郎物語(29) 一喜一憂

 昭和30年から32年にかけて、世の中は「神武景気」を諏歌しました。

 しかし、景気はたちまち下降線をたどりました。

 第二次(昭和32)、第三次(昭和35)と合理化計画を完了し、企業体質の強化を計りました。

 また、自らニカ月間、欧米運搬機業界を視察、研修もしました。

 二年余りの景気低迷期が過ぎると、再び春が訪れたのです。

 昭和35年から36年にかけての岩戸景気です。

 所得倍増計画、国際収支の改善、国内設備投資の活発化、耐久消費財の大衆化などを軸として、景気はめざましい立ち直りをみせ、前の神武景気を上回る大型ブームの再来となりました。

 これまで漸増傾向に過ぎなかった売り上げは大きく増え、従業員数も倍に増えました。

 製品は、どんどん売れるようになりました。

 企業も「一安心」と思ったのも束の間、またしても不況。

 好、不況は背中合わせ。好景気のあとには必ず不景気がきます。

 さきの岩戸が大型のブームだっただけに、その裏目の不景気は深刻で、しかも長がくかかり「ナベ底景気」と呼ばれました。

 大庫輸送機は、体質改善を計ってきたといっても、まだまだ企業基盤は弱く、しかも、作る製品も限られています。この不況はたちまち売り上げ面に影響しました。

 世に出た当初は「画期的な商品」と人気を呼んでも、それほど設備投資を要求される商品でないだけに、同業他社から簡単に同類が生まれました。

 *写真:昭和36年の本社工場正面玄関





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野口町をゆく(102) 大庫源次郎物語(28) 販売に一苦労

2022-09-13 09:47:16 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

   野口町をゆく(102) 大庫源次郎物語(28) 販売に一苦労

 源次郎は、販売に経験がなかっただけに苦労させられましたが、幸い、この動力を必要としない軽運搬機は予想通り産業界にアピールしました。

 取引には、どんなにいそがしくとも約束の時間は守り、相手方に不快感を与えないことを心掛けました。

 見積りの段階では、できるものはできる、できないものはできない、ときっぱりした態度を示し、納期は絶対に守りました。

 昭和30年、大阪営業所を設置し、徐々に売り上げは伸びていきました。

       大成功の展示会

 でも、かけずり廻って売るという販売方法を続けていては、いずれ限界がくると悟った源次郎は、昭和31年、東京の日比谷公園を会場にした機械展示会に出品することにしました。

 出品するにあたってカタログを大量に作製し、会場にはコロコンキャリヤーの実物を展示、その前に名刺受けとカタログを積み、源次郎自ら会期中、必死でした。

 多くの参観者は、この一風変った運搬機器の前に足を止めました。

 展示会への出品は大成功でした。

 会期間中に商談が成立すると、電報や電話で加古川の本社へ連絡、製作にあたらせました。

 また、あらかじめ調査しておいた資料をもとに、東京近在の売ってくれそうな問屋を訪ね回わりました。

 話がまとまるとすぐ代理店契約を結びました。代理店の数は東京都内や、近郊の都市にふえました。

 展示会が終わると、こんどは集った名刺を頼りにセールスの開始です。

 一週間東京で宿屋住いをして注文をとり、それを持って加古川の本社に戻る生活でした。

 苦労したかいがあって、コロコンキャリヤーに対する反響はかなりでてきました。

 この年、東京営業所を新設し、販売の拠点としました。

 東京が終ると、こんどは名古尾を中心とする東海地区への進出を計画をしました。

 名古屋は、もともと保守的な土地がらで、大庫機械製作所の名前など誰も知りません。でも、源次郎は、一応東京地区でかなりの成果をあげただけに、東海地区でも販売の基盤をつくりあげておきたいと考えました。

 たまたま「名古屋まつり」にちなんだ第一回優良機械展の開催があり、東京以上の成果を得ました。

 そうこうするうちに「山之内製薬」・「大正製薬」・「エスエス製薬」といった製薬会社から注文がきはじめ、さらに「協同乳業」から注文が舞い込みました。

 「協同乳業」からの注文は、源次郎にとって最初の大口注文でした。

 金額にして一千万円、当時の大庫機械製作所にとってはびっくりするような注文量でした。

 *写真:東京国際見本市会場、コロコンキャリーの実演風景(昭和34年)

〈お詫び〉 

 いま、「大庫源次郎物語」を連載していますが、都合(後日お知らせします)で1週間程度、お休みしなければならなくなりました。ご了承下さい。

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野口町をゆく(101) 大庫源次郎物語(27) 資金工面に四苦八苦

2022-09-12 08:45:20 | 加古川市歴史探訪・野口町編

   

    野口町をゆく(101) 大庫源次郎物語(27) 資金工面に四苦八苦

 いよいよ本格生産による商品化です。

 その前に、彼はこの重力コンベヤのネーミングを考えねばなりません。

 商品名も製品そのものと同様に、売るための大きな要素であり、その良し悪しによって売り上げがずいぶん違ってきます。

 この重力コンベヤも「コロ」を応用したものである。そのコロの上を物がコロコロと転がっていく製品です。

「コロとコロコロー」

 源次郎は、この語呂あわせに満足し、躊躇することなく「コロコンキャリヤー」と名付けました。

 名前はつきました。後はそのための資金手当です。

 しかし、その資金も、これまでの不況ですっかり使いはたし、神戸銀行高砂支店にかけいました。

銀行は、創業以来の付き合いもあり、簡単に貸してくれるものと思っていたのですが、よい返事はもらえません。

 源次郎は、コロコンキャリヤーの試作品を見せて説明したのですが、結局、不成功に終りました。

 つぎに、中小企業金融公庫にかけ合いました。

 やっとのことで、兵庫相互銀行を窓口に、中小企業金融公庫から四年間の期限で三百万円の金を借りることができました。

      まだ、つぶれてまへんか

 やっと手に入れた三百万円で、源次郎はさっそく、プレス一台年賦払いで買い入れました。

 これがコロコンキャリヤ一生産開始のとっかかりになりました。

 「運搬の合理化」という言葉は、まだ耳新しいころだっただけに、果してこの運搬機器を本格生産しても大丈夫かという、一抹の不安はありました。

 そのこころ、マスプロ工場における生産工程のコンベヤ化は源次郎の予想以上に進もうとしていました。でも、運転資金がたりません。

 兵庫相互銀行から借りた300万円は、ほとんど機械の購入、材料の手当に使ってしまっていました。

 源次郎は、コロコンキャリヤーの生産に励むかたわら、せっせと銀行通に精をだす毎日でした。そのあとがまた大変でした。

 銀行員が工場へくるたびに「大庫はん。まだつぶれておりまへんな」と、源次郎をからかうのでした。

 ぼつぼつ、コロコンキャリヤーに買い手がつきだしたのは昭和32年の頃からです。

 

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野口町をゆく(100) 大庫源次郎物語(26) ドタン場のカンフル注射

2022-09-11 09:53:51 | 加古川市歴史探訪・野口町編

        野口町をゆく(100) 大庫源次郎物語(26) ドタン場のカンフル注射

 源次郎は自力で製品を開発していこうと決意しました。

 昭和28年の夏も終わりに近いころ、彼は兵庫県商工労働部の中小企業経営診断士、大中信夫氏を訪ねました。

 さっそく、大中氏は大庫機械製作所を診断するため同社を訪れました。

 同社は、機械修理工場としては大きすぎ、その設備の半分は動いていませんでした。

 大中氏は「遠からずつぶれてしまう」と判断し、新製品への切換えを勧告しました。

 新製品といっても、同工場の技術と施設にふさわしいもので、絶対他社に負けない売れる商品ということです。

 大中氏は、運搬機器に対する技術に自信があるものと判断し、スクリューコンベヤ、ベルトコンベヤ、ポータブルコンベヤ、などの 運搬機器の製造等を勧告しました。

 源次郎の考え方と勧告案は一致したのですが、より以上の高度な技術が要求されます。

 大中氏は、自分の友人の阪井英人氏を源次郎に紹介しました。

 阪井氏は当時、すでに運搬工学に関する第一人者で、源次郎は、阪井氏を大庫機械製作所の顧問として招きました。

 こうして新たに製作をはじめたコンベヤ類は、戦後の運搬機械化の波に乗って、好調な売れ行きをみせ、半ば仮死状態だった大庫機械製作所も大きく息をふきかえしたのです。

      コロコンのヒント

「こんなことで油断してはあかん。どんな不況が訪れてもびくともせんような新製品を開発しておかないと、また泣くような破目になってしまう」源次郎は、真剣に構想をねっていました。

 ある日、彼の机の上に置いてあったソロバンの上を、ライターがわずかな傾斜ですべり落ちたのです。

 「こいつや、エネルギーはゼロ、チョットの勾配がありさえすれば、ライターの重さが動力に代わりとなる。・・・」

 源次郎は、思わずヒザを叩いたのでした。

 コロコンキャリヤー開発の糸口は、こうして開かれた。

 だが、当時は運搬の合理化などという言葉はまだ耳新しく、労働力も豊冨にあり、労賃も安い時代でした。製品化するにはかなり勇気がいります。

 源次郎は、現場幹部たちを会議室に集め、完成した設計図を広げて見せました。ところが、現場の反応は意外に冷たいものでした。

 「社長、そんなものより、今までの製品に力を入れた方が得策と違いますか、業績もあがっているじゃないですか」

 これまで、どんな苦境の時で常に従ってきてくれた従業員も、こんどばかりは反対しました。気持ちはよくわかった。が、源次郎は、計画を推し進めました。

 昭和29年の春、正月まで後わずかでした。

   *写真:コロコンキャリヤー開発のヒントになった長いソロバン

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野口町をゆく(99) 大庫源次郎物語(25)  会社は、やっと軌道に乗ったが・・・

2022-09-10 08:56:35 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口町をゆく(99) 大庫源次郎物語(25)

       会社は、やっと軌道に乗ったが・・・

 昭和24年から25年にかけ「ドッジ旋風」が吹き荒れました。

 目的は、超均衡財政の強力な実施で、一挙に戦後のインフレを根絶しようというものでした。

 この荒療法ともいえるデフレ政策の強行で、中小企業の倒産が続きました。

      線香花火の(朝鮮)動乱ブーム

 昭和25年6月の朝鮮動乱は、まさに「干天の慈雨」でした。

 国連軍の大規模な軍需物資が日本に対して発注され、沈滞していた産業界は、にわかに活気づいたのです。

 源次郎のところにも、大企業からの下請け仕事がどんどん舞い込みました。

       源次郎、加古川市会議員に

 源次郎は、26年、土地の有力者に説得されて加古川の市会議員に立候補し当選しました。

 (朝鮮)動乱ブームは、昭和26年7月から休戦会談がはじまると軍需景気は目に見えて後退しました。

 好景気は、線香花火のようにパッともえて、さっと消えてしまったのです。

 大庫機械製作所の仕事量も、あっという間に十分の一ぐらいまで減ってしまいました。

 加えて、これまで仕事を出してくれていた親企業へ出向させていた工員20人が帰ってきました。

 仕事量はガタ落ち。人はふえる。これでは企業が成りたつはずがありません。

 集金にかけずり回ったり、在庫品を処分したり鋳物工場を鎖して、その中のクズ鉄をトラック一杯10万円で売り払って、支払い給与の足しにしたのもこのころのことです。

 とにかく、源次郎は、この時ばかりは下請け企業の悲哀をいやというほど味わいました。

 「これからも下請け仕事に依存しとると、いつまたこんな事態が起るともからん。これを避けるためには自力で製品を開発し、販売しなければいかん。メーカーとして立つ以外生きる道はない・・・」と考えるのでした。

*加古川市会で演説する大庫源次郎(昭和27年撮影)

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野口町をゆく(98) 大庫源次郎物語(24) ナベ・カマ時代

2022-09-09 09:24:33 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

     野口町をゆく(98) 大庫源次郎物語(24) ナベ・カマ時代

 日中戦争から大平洋戦争へ。政府は国防国家体制を一段と強化しました。

 昭和19年にサイパン島が陥落しました。

 ここを基地としたB29の日本本土爆撃が全国にわたって激烈に行われるようになりました。

 昭和20年8月6日、広島市が、9日には長崎市が原子爆弾が投下され、15日ついにポツダム宣言を受諾し、戦争は終結しました。

 工場の外は真夏の太陽がやけつくように照りつけました。

 源次郎は、血と汗の浸み込んだ旋盤や機械類を馬力に一台ずつ積んで、付近の農家へ運び込んみました。工場の設備が米軍に押収されることは、耐えられなかったのです。

      ナベ・カマ時代

 源次郎にとって敗戦のショックはあまりにも大きくのしかかってきました。

 創業以来、今日まで営々として築きあげてきたものは、すべて無に帰してしまったのです。

 工場の被爆はまぬがれたものの、軍需省監督工場としての仕事は、この日を境になくなってしまいました。源次郎は、50才近くなっていました。

 工場のこと、従業員のことを源次郎は思い悩むのでした。

 かといって、手をこまわいているわけにもいかず、とにかく何か手がけて生計をたてねばなりません。

 とりあえず、急場しのぎに作りはじめたのがフライパン、ナベ、カマ、パン焼き器、ワラ押し切り機類の製造でした。

 なにぶん鉄材の不足していた時代だけに、品物は飛ぶように売れました。なんとか、大庫機械製作所を存続させることができたました。

 戦後のインフレーシンはブレーキのない車のように進行しました。

 このような日本に復員者がどんどん帰ってきます。

 荒廃した祖国を見る復員者の顔には、これからの生活に対する不安がただよっていました。

 事実、彼らの就職問題は深刻でした。

 源次郎は、工場で真っ黒になって働き、勉強の合い間に典雄(故前社長)も手伝いました。

 はぎ能も結婚後長らく子供ができなかったので、毎日会社へ出て事務関係一切をきり回しました。

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