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野口町をゆく(102) 大庫源次郎物語(28) 販売に一苦労
源次郎は、販売に経験がなかっただけに苦労させられましたが、幸い、この動力を必要としない軽運搬機は予想通り産業界にアピールしました。
取引には、どんなにいそがしくとも約束の時間は守り、相手方に不快感を与えないことを心掛けました。
見積りの段階では、できるものはできる、できないものはできない、ときっぱりした態度を示し、納期は絶対に守りました。
昭和30年、大阪営業所を設置し、徐々に売り上げは伸びていきました。
大成功の展示会
でも、かけずり廻って売るという販売方法を続けていては、いずれ限界がくると悟った源次郎は、昭和31年、東京の日比谷公園を会場にした機械展示会に出品することにしました。
出品するにあたってカタログを大量に作製し、会場にはコロコンキャリヤーの実物を展示、その前に名刺受けとカタログを積み、源次郎自ら会期中、必死でした。
多くの参観者は、この一風変った運搬機器の前に足を止めました。
展示会への出品は大成功でした。
会期間中に商談が成立すると、電報や電話で加古川の本社へ連絡、製作にあたらせました。
また、あらかじめ調査しておいた資料をもとに、東京近在の売ってくれそうな問屋を訪ね回わりました。
話がまとまるとすぐ代理店契約を結びました。代理店の数は東京都内や、近郊の都市にふえました。
展示会が終わると、こんどは集った名刺を頼りにセールスの開始です。
一週間東京で宿屋住いをして注文をとり、それを持って加古川の本社に戻る生活でした。
苦労したかいがあって、コロコンキャリヤーに対する反響はかなりでてきました。
この年、東京営業所を新設し、販売の拠点としました。
東京が終ると、こんどは名古尾を中心とする東海地区への進出を計画をしました。
名古屋は、もともと保守的な土地がらで、大庫機械製作所の名前など誰も知りません。でも、源次郎は、一応東京地区でかなりの成果をあげただけに、東海地区でも販売の基盤をつくりあげておきたいと考えました。
たまたま「名古屋まつり」にちなんだ第一回優良機械展の開催があり、東京以上の成果を得ました。
そうこうするうちに「山之内製薬」・「大正製薬」・「エスエス製薬」といった製薬会社から注文がきはじめ、さらに「協同乳業」から注文が舞い込みました。
「協同乳業」からの注文は、源次郎にとって最初の大口注文でした。
金額にして一千万円、当時の大庫機械製作所にとってはびっくりするような注文量でした。
*写真:東京国際見本市会場、コロコンキャリーの実演風景(昭和34年)
〈お詫び〉
いま、「大庫源次郎物語」を連載していますが、都合(後日お知らせします)で1週間程度、お休みしなければならなくなりました。ご了承下さい。