ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(5)  渋沢栄一と今市札(藩札)

2021-12-31 07:21:06 | 石の宝殿の謎

    石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(5)

         渋沢栄一と今市札(藩札)

 まず、藩札(今市札)で播州今市に注目ください。

 渋沢は、売買の便をはかるために木綿預手形(今市札・藩札)を発行しました。

 この木綿手形の背景には、当時金相場が高騰して正貨である幕府貨幣の流通が滞っていたという事情がありました。

 人々は正貨の代替物として、どの藩も藩内で通用する藩札を求めていたのですが、それには、なによりも「信用」が大切でした。

 とはいうものの、どこの藩(天領を含む)の台所は火の車でした。

 そこで、渋沢は裕福な者から銀を借りて、準備金を用意することを考えました。

 この出資者は、揖東郡日飼村(たつの市)堀彦左衛門(2500)、加東郡垂水村(加東市)藤浦常八(1250)、多可郡下比延村(西脇市)広田傳左衛門(800)のほか地元・今市の村伊藤長次郎(600)、同村入江十郎(300)、同村鈴木又蔵(200)両、同村入江亀太郎(150両)などから、総額6330両を集めました。利息は年8朱で10年返済としました。

 一橋家領の木綿預手形(藩札)は、一匁のものはいつでも一匁と額面通り流通したといいます。

 これらの出資者は、すべて産物会所及び引替所の役職に就きました。

 ほとんどの藩が藩札発行に失敗する中で、一橋家の発行する手形は、どこの藩よりも大きな信用を作りあげることに成功しました。 

 今市村の商は、大いに繁栄しました。

 今市地区を散策ください。現在でも大商人のご子孫の大きな家の多いのにはビックリします。

 *写真:今市札(藩札)、『高砂市史(伊保篇)』(注:『旧高砂史』より)

         〈お礼とお知らせ〉

 ブログ・フェイブックをお読みただき、ありがとうございました。

 ブログ、フェイスブックの「石の宝殿の謎」は、202215日(水)までお休みとし、続きは6日(木)を予定しています。よろしくお願いします。



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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(4) 渋沢栄一、今市で一橋家の財政を確立

2021-12-30 09:10:08 | 石の宝殿の謎

  石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(4) 

       今市・中島・曽根・東志方ヶ村は小田原藩領に

 宝永年(170711月23日(現暦:1216日)、「宝永の噴火」として知られる富士山が、空前の大爆発をおこしました。

 小田原藩のほとんどが「亡所」、つまり廃墟同然となってしまったのです。 

 当時、小田原藩の藩主・大久保忠増は幕府の老中(現在の首相にあたる)でした。非常手段をとりました。

 なんと、小田原藩の領土のほとんどを一時、幕府に返上してしまったのです。幕藩体制の成立以来こんな例は、外にありません。

 そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永年に、復興がなるまでという期限つきであったのでが、新たな領地を得ました。東志方のヵ村・今市・中島・曽根もその一つでした。

      そして、今市・中島・曽根・東志方9ヵ村は一橋家の天領に

 八代将軍の吉宗は、家康によって創設された御三家にならって田安家(吉宗の二男)・清水家(将軍家重の二男)・一橋家(吉宗の四男)をもって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。

 江戸時代初期におかれた御三家が、江戸時代の中期になると将軍家との関係が次第に疎遠になって来たためでした。

 御三卿には、それぞれ領地があたえられました。

 吉宗の四男・宗尹(むねただ)の一橋家にあたえられた土地は約10万石でした。

 今市・中島・曽根・そして東志方の9ヶ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から今度は、そっくり一ツ橋領に組み込まれ、一橋領の一領地として江戸時代の終わりまで続いています。

* 明治92月、吉と柏が合併し、その村名の末尾の文字を合わせて、現在の「広尾」となっています。

       渋沢栄一、今市で一橋家の財政を確立

 11代将軍・家斉(いえなり)、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は、一橋家出身の将軍でした。

 ことしの渋沢栄一を主人公にしたNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、素晴らしい内容でしたね。放映の日が楽しみでした。

 渋沢栄一は、幕末、ひょんなことで一橋家の慶喜に仕えます。そして彼は、高砂の「今市」で、一橋家の財政を「今市札(藩札)」(写真)で確立させたのでした。今市札については、次回もう少し説明しましょう。

 *写真:今市札(藩札)を持つ栄一:詳細は次回、NHKドラマ「晴天を衝け」より)

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(3) 富士山大噴火

2021-12-29 07:50:51 | 石の宝殿の謎

   石の宝殿の秘密(2部) 石の宝殿界隈を歩く(3)

        富士山の大噴火

 竜ヶ鼻・金時井顕彰碑を訪ねました。ここまでくると近くの「今市(いまいち)」まで、足を伸ばさねばなりません。

 話題は突然に、江戸時代の「宝永噴火(1707)の話になります。

 後に「今市」と関係しますので、今回は予備知識としてお読みください。

        宝永大地震

 宝永四年(1707)、10月28日(旧104日)東海~南海巨大地震である宝永地震(M8.4)が発生しました。

 津波による家屋の倒壊は2万戸、死者は少なくとも2万人に達したといわれています。   

       ◇富士山の大噴火

 宝永地震の49日後の1216日(旧1123日)の朝10時ごろでした。富士山の大噴火が始まります。

 江戸でも、その後10日あまり黒い砂が降り、家々の屋根に落ちる音は大雨のようだったと言います。

 特に、噴火の大きな被害を直接受けたのは、小田原藩の各村々でした。

 人々は、すべての収穫を奪われ、その後たちまち飢饉が襲いました。

 小田原藩は、米一万俵を各村々に分配したのですが、その程度では、とうてい飢饉を救うことはできません。

 その上に、降り積もった焼け砂や灰を除去するには多大の労力と経費を必要としました。

 この窮状に対して、幕府も救済の手を差し伸べざるを得なくなりました。

 翌年、被害の大きかった村々を一時幕府の直轄領とします。

 そして、幕府は被災地域救済のために、全国の公領・私領を問わず、高100石につき両の義捐金を課しました。

 諸国から集まった義捐金は、40万両にも達しました。

 が、幕府が実際に被災地の救済に使ったのは16万両にすぎず、残りの24万両は江戸城の修理に流用してしまいました。

 このような体たらくですから、復旧もままなりませんでした。

 悪いことは重なりました。火山灰で川底が埋っているところへ8月日(旧621日)午後から翌日にかけ、激しい豪雨が襲い、土石流や土砂崩れを引き起こしました。

 *写真:宝永大噴火の時にできた富士山宝永火口

 

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(2) 金時井顕彰碑

2021-12-28 08:30:35 | 石の宝殿の謎

    石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(2)

       金時井顕彰

 「金時井碑」は、前号で紹介した「竜ヶ鼻」の前の道路の反対側を南へ10メートルほどの小高い場所にあります。    

 江戸時代、伊保崎村と新村は毎年、干害に悩まされました。

 金時宗五郎は、いろいろと思案し、漫然と海へ流れる水を田畑に引くことを思いつき、文化年間(180417)、村民を説き工事を進めたのが金時井堰です。

 しかし、費用が足りません、水はごく一部の田にしか届きませんでした。

 約15年後、元庄屋の中村五郎右衛門が藩主の許可を得て事業を引き継ぎ、31(天保2)年に工事を始めて2年で完成させました。

 全長680メートル、幅2.7メートルの溝に1200両の資金を要したといわれています。

 注目されるのは、川の下に石積みのトンネルを造り、水路を立体交差させていること。そして、木樋を埋め、平津側から導水する工事は困難を極めました。

 完成後、現在の伊保地区、梅井地区とも豊かな水を確保できました。

 村民は57年(安政4)に竜山の麓に二人の功績を顕彰する碑を建てました。

 この碑(写真)は、「ふるさと文化財」に登録されています。

 *写真:金時宗五郎・中村五郎右衛門の顕彰碑。

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(1)  竜ヶ鼻(たつがはな)  

2021-12-27 07:26:11 | 石の宝殿の謎

    石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(1) 

         竜ヶ鼻(たつがはな)

 「竜ヶ鼻」は、明姫幹線が法華山谷川を渡った交差点(竜山大橋西詰)を南に折れたすぐの法華山谷川の右岸(西岸)にあります。

 「竜山(たつやま)」の名前の由来となった岩です。

 お訪ねください。

 竜ヶ鼻の横に以下のような説明があるので読んでおきます。

 

    高砂市ふるさと文化財

      竜ヶ鼻

         昭和24年登録

 岩が、波の浸食によって削られ、形が竜(りゅう)の頭部に似ているため、「竜ヶ鼻(たつがはな)」と名づけられた。

 竜山(たつやま)の山名の由来となった岩である。

 明姫幹線道路建設工事のため、昭和51年に切り取られ、現在の地へ移設された。

                      (平成253月健康文化部)

 もとは、法華山谷川と中島の北側の川(洗北川)が合流する川の中で、その鼻先()を水面に出したり、隠したりしていたといいます。

 目立った、印象に残る岩だったのでしょう。

 しかし、その後河川改修で傷つき、さらに、明姫幹線の工事により、現在の場所に移され、へんてつのない岩となっています。

 でも、「竜山」は全国に知られた名前です。その呼称のもとになった岩です。
 「
ここに、こんな岩がある」と気づいてくれる人も少ないようです。寂しいね。

  *写真:竜山(たつやま)の山名の由来となった岩

 

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「石の宝殿の謎」終了 「石の宝殿界隈を歩く(2部)」を少しだけ続けます

2021-12-26 05:24:41 | 石の宝殿の謎

「石の宝殿の謎」を終了

   「石の宝殿界隈を歩く(2部)」を少しだけ続けます

 

 「石の宝殿の謎」と題して、下記のように23の話題を書いてみました。でも、ここで急停車してしまいます。

 というのは、紹介してみたい話題がなくなりました。

 そこで、次回から石の宝殿・生石神社界隈を散策し、シリーズ「石の宝殿の謎」を軟着陸させ終ることにます。もう少しだけ、お付き合いください。

 下記の1~23号までを一部としておきます。

 次号(24号)からの話題を2部とし、少し寒いですが、「石の宝殿界隈」をルンルン気分で歩くことにします。

 もう少しだけ、お付き合いください。

 

   一部の内容

 石の宝殿の謎(23) 一の華表(鳥居)

 石の宝殿の謎(22) 山形県に生石神社の分社が

 石の宝殿の謎(21) 安楽寺(大垣市) に残る生石神社の梵鐘

 石の宝殿の謎(20) 生石神社炎上

 石の宝殿の謎(19) やはり、都への邪悪なもの(疫病など)の侵入を防ぐためのモニュメントか

 石の宝殿の謎(18) 魚 橋 山 峡

 石の宝殿の謎(17) 二つの磐座(いわくら)

 石の宝殿の謎(16) 石の宝殿は流行病を防ぐモニュメント

 石の宝殿の謎(15) 東播磨はボーダー(境の地域

 石の宝殿の謎(14) 「石の宝殿」は蘇我氏が作ろうとしたのでは

 石の宝殿の謎(13) 青木説に見る「石の宝殿③」・石の宝殿は敗者のモニュメン

 石の宝殿の謎(12) 青木説にみる「石の宝殿②」・『風土記』は蘇我氏と物部氏の争いを語る

 石の宝殿の謎(11) 青木説にみる「石の宝殿①」

 石の宝殿の謎(10) 石の宝殿は、大和(奈良)までの移動が可能か?

 石の方での謎(9)  石の宝殿はゾロアスター教の拝火壇か②・日本へ入ったゾロアスター教(祆教)

 石の宝殿の謎(8)  石の宝殿はゾロアスター教の拝火壇か①

 余話として       高砂特産「竜山石」米国へ

 石の宝殿の謎(7) 竜山1号墳の被葬者は、「石の宝殿」の作製の事情を知っていた?

 石の宝殿の謎(6) 生石神社の伝承:神々のイサカイ 

 石の宝殿の謎(5) 祭神は、「大国主命と少彦名?」

 石の宝殿の謎(4) 長い空白期を持つ『風土記』

 石の宝殿の謎(3) 石の宝殿は、『風土記』編纂(700年代)のおよそ1世紀前

 石の宝殿の謎(2) 大石(石の宝殿):『播磨風土記』に登場

 石の王田の謎(1) JR宝殿駅(ほうでんえき)

  *写真:石の宝殿と生石神社(インターネットより)

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石の宝殿の謎(23) 一の華表(鳥居)

2021-12-25 07:26:26 | 石の宝殿の謎

  石の宝殿の謎(23) 

     一の華表(鳥居)  *華表:神社の鳥居のこと

 

 宝殿駅の前の道(旧西国街道)を西へ1キロほど歩きます。

 神爪(かづめ・高砂市米田町)集落の端に社殿もない大きな鳥居と灯籠を見つけます。

 何かいわれのある鳥居のようです。

 ・・・・

 延宝年間(167381)、この地の庄屋・神吉久太夫が姫路の殿様のいかりにふれ一家断絶になろうとしていた時でした。

 生石神社に祈願して、その難を逃れたといわれています。

 この鳥居は、そのお礼に奉建されたものです。

 毎日ここから久太夫だけでなく、たくさんの人が生石神社を拝んだのでしょうね。

 知らない人が見れば、神社の跡地に残る鳥居としか思えません。

 最近、付近は、猛烈な宅地化が進みました。

 鳥居の彼方に石の宝殿がのぞまれるはずなのですが、先日ここへ出かけました。今は鳥居の前に家が建設され、生石神社は全く見えません。

 この鳥居は、生石神社から遠く離れてはいるものの生石神社の「一の鳥居」といわれ、石の宝殿の「一の華表」とも呼ばれています。

    神爪(かづめ)は、山片蟠桃のふるさと

 鳥居の横に江戸時代が生んだ大学者・山片蟠桃(やまがたばんとう)が寄贈した灯籠があります。

 山片蟠桃は、神爪に生まれています。

 最近は、山片蟠桃も生石神社とともにあまり広く知られていないようです。

 山片蟠桃は、高校の日本史の教科書には必ず登場する江戸時代の日本を代表する人物です。

 蟠桃は、石の宝殿を石棺としています。

 *写真:2016年に撮影した「一の華表(鳥居)」

 

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石の宝殿の謎(22) 山形県に生石神社の分社が

2021-12-24 08:44:09 | 石の宝殿の謎

      石の宝殿の謎(22)

         山形県に生石神社の分社が

 『印南郡史』に「秋田県なる生石は、成務天皇の十一年(141)、当社より分霊を勧請せしものなり」と分社の存在が書かれています。  

 『印南郡誌』この記述は、氏子の間では知られていましたが、「はたして、秋田県酒田市に生石神社が実在するか、否か?」については、そのままになっていました。

 昭和55年、氏子の中で捜してみようという声がおこりました。

 ためしに『印南郡誌』に記載されている宛名へ手紙を出すことになりました。

 11月中旬に返事がきました。

 差出人は、「山形県酒田市生石字十二の木176、生石神社宮司、生石正喜」でした

 さっそく、氏子19人が酒田市に出かけました。

       石の宝殿より神霊を勧請 なぜ?

 なんと、「酒田生石神社」の祭神は高砂の生石神社と同じで、神社には、石宝殿より神霊を勧請し、成務天皇の時代に、生石村を開いたという伝えが残され、「生石の神」という呼び名もあり、石の宝殿を本社とする分社であることが確かめられのです。

 何とも不思議な話です。

 今のところ、どういうルートで酒田市に石の宝殿の分社があるのか分かりません。

 高砂・酒田と来れば、つぎに江戸時代の「北前船」が頭に浮かびます。

 このあたりと結びつくのではないかと思えるですが、詳しいことは分かりません。

 ロマンのある話です。かくれた歴史がありそうです。・・・

 理由をご存知の方は一報ください。

 このニュースは、昭和5615日の神戸新聞に大きく取り上げられ話題を呼びました。

(注) 成務天皇(せいむてんのう)

 成務天皇は、景行天皇の第四子であり、日本武尊(やまとたけるのみこと)の異母弟で、在位60年で、107歳で没したとされています。が、実在の信憑性が薄い天皇です。

 *写真:山形県にあ生石神社の分社(インターネットより)



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石の宝殿の謎(21) 安楽寺(大垣市)に残る生石神社の梵鐘

2021-12-23 08:47:22 | 石の宝殿の謎

 

  石の宝殿の謎(21) 

            安楽寺(大垣市)に残る生石神社の梵鐘

 前号で、戦国時代、生石神社は秀吉軍の攻撃に会い焼失したことを紹介しました。

さっそく、石の宝殿研究会の千田草介から「そのとき秀吉に接収された梵鐘が、関ヶ原の戦いで大谷刑部吉継が使用し、家康が入手して、現在、大垣市にあります」というコメントと梵鐘の写真を送ってくださいました。ありがとうございました。

 少しだけ説明を付け加えます。

 前号の続きとしてお読み下さい。



 ・・・生石神社の焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いに西軍・石田三成の方の大谷吉継軍の陣鐘として使用されました。

 その後、徳川家康は、その梵鐘を戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進しています。

 鐘の表面には、応永26年乙亥(1419)「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれています。

 この生石神社の梵鐘について、上月昭信氏は『東播磨(地域史論集・第22号)』で詳しく紹介しておられます。その一部をお借りします。

 「・・・鐘楼は(安楽寺の)本堂に向かって左側にあり、大きくて立派な梵鐘がつりさげられており、・・・平成25年に鋳造されたものである。

生石神社の旧梵鐘は、数奇な運命をたどり、大垣市赤坂の安楽寺に運ばれ、昭和42年に大垣市の重要文化財となり、平成25年まで鐘楼に懸けられていたが、新梵鐘完成後は、客間入口玄関の土間に大切に保管されている。・・・」

 詳しくは、上月(こうづき)氏の論文をお読みください。

 *写真:写真は、2005年ごろ千田さんが撮影された生石神社の(旧)梵鐘(現:岐阜県大垣市安楽寺)

 

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石の宝殿の謎(20) 生石神社炎上

2021-12-22 07:53:24 | 石の宝殿の謎

           石の宝殿の謎(20)

     生石神社炎上

 一挙に時代は飛びます。戦国時代です。三木別所軍は秀吉軍と戦いで籠城戦を強いられました。

 この三木の籠城戦は、1年10ヵ月も続きました。

 三木城へのほとんどの食糧補給のルートが止まってしまいました。

 秀吉は、三木城に降伏をせまりました。

 三木城から返事が来ました。

 「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹を切る相定め訖(おわんぬ)」という文面でした。

 天正年(1580)年月17日、別所氏一族が自害し、三木合戦は終わりました。

   生石神社の宮司は、神吉頼定の弟

         秀吉に反抗し、生石神社焼失

 この戦いで、三木城に味方した近隣の多くの城(構居)・寺院は、ほとんど焼かれました。

 生石神社もその一つです。

 当時、生石神社の宮司は、神吉城主・神吉頼定の弟でした。

 三木城を包囲し、神吉城を攻めたのは、信長の長男・信忠です。

 生石神社は、秀吉・信長軍に対して非協力的な態度を取っていました。

 神吉城攻撃の時、秀吉は、使者を送り生石神社の南の地を借りたいと申し出ましたが、宮司は当然のごとく断ります。

 秀吉は、激怒し弟の秀長を大将として2000の兵で生石神社を攻めたてました。

 神社の四方から火をかけました。

 おりからの強風に神社はたちまちのうちに灰と化し、領地も取り上げられました。

 生石神社は、その後、氏子たちにより神社は再建されましたが、昔の威容は失われました。

 *写真:現在の生石神社(インターネットより)

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石の宝殿の謎(19) やはり、都への邪悪なもの(疫病など)の侵入を防ぐためのモニュメントか

2021-12-21 07:10:59 | 石の宝殿の謎

   石の宝殿の謎(19)

    やはり、都への邪悪なもの(疫病など)の侵入を防ぐためのモニュメントか

 

 石の宝殿委の謎(11)を復習します。

 「石の宝殿は、移動させるにはデカすぎる!」と書きました。

 ・・・・石の宝殿(大石)は、「高さ5.7㍍、幅6.5メール、奥行きは屋根形の突起をいれて7㍍、重さが500トン」ととてつもない大きな石造物です。

 巨石という以外に表現がありません。

 この大石を完成後他の場所に移動するという考えは無理があるようです。ましてや、山の中腹につくられています。

 ど素人ですが、「歴史学者の真壁氏ご夫妻の考えの完成後大和に移動予定であった」とする説に同意できかねるのです。

 

 今まで何度「石の宝殿」を訪ねたことでしょうか。分かりません。その度に、石の宝殿の移動説を考えてしまいます。移動説は、私にとっての最大の謎です。当時の技術力では不可能ですね。

 とすると、他の理由を考えねばなりません。

 やはり、この石の霊力で都(奈良)への邪悪なものの侵入を防ぐためにここにデンと設置したものと考えに落ち着きます。

 とすると、「ここに置かれて動かさないことこそが重要」になってきます。 

 石の宝殿は、当時の社会情勢から判断して、石の宝殿(磐座)に秘められた霊力により、都への疫病を防ぐためのモニュメントだったのは・・・

 

 同じ内容を繰り返しになっています。老人の頑なさです。次回から話題を少し変えてみます。

*写真:石の宝殿(インターネットより)

 

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石の宝殿の謎(18) 魚 橋 山 狭

2021-12-20 09:09:56 | 石の宝殿の謎

   石の宝殿の謎(18)  

          余話として「魚 橋 山 狭」

 今日の話題は、さすがに少し勇み足かなと考えながら書いています。

 古代の人は都(奈良)へ上る時、また都から九州・四国へ海路で旅する時必ず明石海峡(明石大門・あかしのおおと)を通過します。

 陸を行く時は、ほとんどの人は旧山陽道(江戸時代の西国街道)を通ります。

 魚橋(高砂市阿弥陀町)の地形を考えています。

 魚橋地蔵山(写真の西に関西金属熱錬工業所の西にある山)は、南へ低い山並みが続いて海岸に至っています。

 この山塊は地蔵山の北でいったん切れ、約200メートルのほどの低地があり、再び魚橋集落にそって北の石の屏風のような魚橋山(関西金属熱錬工業所の北の山)が立ちはだかります。

 この、200メートルほどの狭くなった場所は「山狭」です。自然の東西の出入口の地形をつくっています。「魚橋山狭」と名付けておきます。

 この「魚橋山峡」の名前が歴史用語に認められると嬉しいです。

 大和(奈良)と九州の太宰府をつなぐ山陽道がここを走りました。

 魚橋山峡は、陸の大門(おおと)です。

 「山陽道」は、江戸時代に脇街道(西国街道)となりましたが、日本の大切な道としての役割は、その後も続きました。

 この魚橋山峡を抑えることは、敵(西国の豪族)から都を守ることであり、悪霊(特に疫病)をここで押し止める役割を果たした(果たそうとした)と考えたのでしょう。

 魚橋山峡は、石の宝殿と高御位山の中間に位置しています。

 今まで、魚橋山峡にあまり注意しなかったのですが、古代の人々は、都を守る大切な出入口であると考えたと思います。

      ◇勇み足ですかね?◇

 魚橋山峡には西国街道(旧山陽道)があるだけだけではなく、江戸時代、食糧増産のために、加古川から阿弥陀村へ大切な用水(上部用水・うえべようすい)が引かれました。

 明治時代に至り、JRが建設されました。

 新しく国道二号線も建設されました。

 さらに現在は、姫路バイパスがはしり、高砂西ランプが設けられています。

 魚橋山峡は、古代だけでなく現代に至るまで重要な位置にありました。

 魚橋山峡は、石の宝殿・高御座山と共にもう一度、その歴史を見直す必要があると思うのですが・・・

 *写真:魚橋山峡付近の地図(グーグルマップより)

 

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石の宝殿の謎(17) 二つの磐座(いわくら)

2021-12-19 07:30:44 | 石の宝殿の謎

 

      石の宝殿の謎(17) 

        二つの磐座(いわくら)

 気になっていることがあります。高御位山(たかみくら)のことです。

 「高御位山(たかみくら)」について、想像を交えて、すこし紹介しておきます。

 古代、東播磨で最も早く神いる場所としてお祀りをした場所は、高御位山であろうと想像されます。

 古代の日本の神々は、最初から神社に祭られていたのではありません。

 神霊は、大岩や大きな樹木に宿るものと信じていました。

 神霊が樹木に宿った場所をまつるという形式は、現在「ひもろぎ」であり、岩石にとどまるとして祭ったのが、磐座(いわくら)です。

 高御位山の山頂は、どこからでも拝める磐座(神)が望めます。

 古代の人々は、朝に夕に、高御位山を神として感謝して拝んだことでしょう。

     高御位神社と生石神社(おおしこじんじゃ)

 平安時代に書かれた『播磨国神名帳』に高御位山を見ておきましょう。

 そこには、播磨の国には大社が24社あり、そのうち印南郡には2社の大社が記載されています。

 その2社は、高御位大神と生石大神です。

 くりかえします。古代の近在の人々は二つの神の宿る磐座を持っていました。

 一つは、自然の磐を拝む高御山の磐座であり、もう一つは、人工の磐座「石の宝殿」でした。

 やがて、神社という建造物が作られ磐座信仰は、さらにキラキラと広がったようです。

 地図を見ています。

 石の宝殿から高御位山までは、海に向かって、まるで敵を防ぐ要塞のように山塊が続いています。

 ここから都(奈良)へ「邪悪なもの入れないぞ・・・」と言わんばかりです。

 その邪悪な最大なものは、形のない不気味な侵入者(疫病)だったと想像します。

 石の宝殿は、当時の社会情勢から判断して、磐座に秘められた霊力により、都から疫病を防ぐためのモニュメントだったと考えてしまいます。
*写真:高御座神社と磐座(ユーチューブより)

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石の宝殿の謎(16) 石の宝殿は流行病を防ぐモニュメント

2021-12-18 08:41:06 | 石の宝殿の謎

 

   石の宝殿の謎(16) 

     石の宝殿は流行病を防ぐモニュメント

 「石の宝殿の謎」を、長々と15回も続けました。

 それは今回の「石の宝殿は流行病を防ぐモニュメント」と、次回の私の「石の宝殿説」を云いたかったかったためです。

 「ど素人の説」ですから、あまりムキにならず、チラッと眺めていただくだけで結構です。

    『日本書紀』は、疫病の流行を伝える

 大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対(排仏)派の物部尾輿(おこし)と、導入(崇仏)派の蘇我氏の宗教論のようですが、実際は仏教とは無関係の政争だったのかもしれません。

 『日本書紀』によれば、552年(あるいは538年)、百済の使者から仏教の説明を受けた欽明天皇は「これほど素晴らしい教えを聞いたことはない」と喜び、家来に「礼拝すべきか」と問うたところ、蘇我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神のたたりを招くと反発した」また、「天皇が稲目に仏像を預けて礼拝させたところ、疫病が流行したため、尾輿は、仏教を受け入れたせいだと主張し、寺を燃やし、仏像を難波の掘に捨ててしまいました」と書いています。

 『日本書紀』は、奈良時代にできた天皇側にたった歴史書ですから、少し疑って読む必要があります。

 ですが、「疫病の流行」は事実であったようです。

 聖徳太子の父:用明天皇も流行病(天然痘)で亡くなっています。

 私たちは、ヨーロッパにおけるペストの流行について、知識としては知っていました。でも、歴史を動かした決定的な要因とは考えませんでした。

 コロナのパンデミックで疫病がいかに社会(世界)を激変させるかを知るようになり歴史を違った目で再認識しています。

 医学が発達していない律令時代時代では、「流行病」は、神・仏にすがるしか無かった古代人の必死な姿を想像します。

 そこで、考えました。「石の宝殿は蘇我氏が必死の思いで作ろうとしたのは、流行病を防ぐためのモニュメントだった」、と言うのが飯沼説です。

 でも何故、「石の宝殿」をこの地に作ろうとしたのでしょう。

 次回に考えます。

 *写真:石の宝殿(高砂市立図書館映像ゼミ製作)

 

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石の宝殿の謎(15) 東播磨はボーダー(境界)の地域

2021-12-17 08:47:57 | 石の宝殿の謎

      石の宝殿の謎(1

     東播磨はボーダー(境界)の地域

 今回の話題は、話題が少し横道にそれますが、後の「石の宝殿の謎」の話のつごうで「石の宝殿の謎」の続きとしてお読みください。

 加古川・高砂・稲美町・播磨町の位置を考えています。

 律令制度下で、直接に都の勢力が及ぶ範囲を畿内といいました。

 大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津が機内です。

 播磨は摂津に接していますが、畿内ではありません。東播磨は、畿内との接点の位置にありました。

 この時代、東播磨は畿内の勢力下にあったのですが、都からは周辺部でした。

 この位置にある地域は、常に緊張した政治的状況にさらされていました。

 自らを維持する(守る)ためには、湧き上がるエネルギーを必要としました。

 東播磨は、古代より都の勢力と結びつきの強め、一方吉備(岡山)・出雲の勢力と対峙する場所にありました。

 これは古代のことだけではありません。

 戦国時代は、毛利(西軍)と信長(東軍)の国盗りの戦場となりました。

 中央の豪族としても、辺境部を守り、攻撃する最前線の位置にあり、東播磨との結びつきを強めました。

 東播磨は、いつも、そんな役割を演じてきました。

 そして、そこには東西を分けるの加古川の流れがあります。

 このことを頭の片隅に置いて、この後の「石の宝殿の謎」をお読みください。

  *写真:古代日本を東西に分けた加古川

 

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