ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(51) 高 橋

2022-03-31 08:05:36 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(51)  高 橋

 稲根神社の近くの曇川です。曇川(くもりがわ)は加古川につきあたります。

 加古川の水門の少し手前に橋(現在名:高橋)があり、この高橋の北詰に、写真のような祠と灯籠と石柱があります。

 この石柱に常光寺(神野小学校のすぐ北)の巌洞が筆をとった銘文が残っています。

 建碑されたのは、文化5年(1808)ということでありますが、石橋が造られたのもこの年であるようです。

 橋の建設により隣の西之山村へは、ずいぶん便利になりました。

 故、永江幾次郎氏は『考史遊記』で、この碑文で次のように訳されています。

 ・・・・川に橋ができた。たくさんな人が往来することであろう。

 橋はありふれたこの産地の白石や青石で造った。

 何の立派な橋を望もうか。夏の雨も、うれうることはない。

 冬の風雪も恐れることはなくなった。

 衣をまくり上げて渉(わた)らずにすむのは何とうれしいことか。全く立派に出来たものだ・・・

 当時の村人の気持ちが伝わってきそうである。

 この石橋は、現在立派なコンクリートの橋に変わっています。

 *写真:曇り川に架かる高橋(神野町二塚)

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神野町をゆく(50) 幻の釣橋駅

2022-03-30 09:42:06 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(50) 幻の釣橋駅 

 播州鉄道(現:JR加古川線)は、大正2年に加古川~西脇間で開業し、その後、経営不振に陥り、大正12年「播丹鉄道」に引き継ぎました。

 かつて、この鉄道に釣橋駅(つりはしえき)がありました。

 曇川の河口部(★印)のすぐ北で、地図で赤く塗った所が、鈎橋駅のあった場所です。

            釣橋駅について(ウィキペディアより)

  大正 5年10月21日   釣橋駅開業

     10年5月 9日   釣橋駅の旅客営業廃止

  昭和  6年 2月 9日  (貨)釣橋駅を停留場に格下げ

     12年3月24日 (貨)釣橋停留場を駅に格上げ

     18年 6月 1日 (貨)釣橋駅廃止  

 釣橋駅について、『加古のながれ』は、次のように説明しています。

 ・・・播州鉄道の線路保守に、加古川河川敷の砂利は欠かせないものであったらしく、神野村役場文書にもその採取認可記録や現場見取り図などが残っている。・・・

 釣橋駅は、消えた神野町にあった、現:JRの加古川線の幻の駅名です。

 *『加古の流れ』「図」共に(加古川市史編さん室)参照

 

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神野町をゆく(49) 神野小学校写真集(16) 鼓笛隊刑務所の運動会に参加

2022-03-29 10:39:11 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(49) 神野小学校写真集(16) 鼓笛隊刑務所の運動会に参加

  (『神野小学校創立120周年記念誌』より)

 神野小学校鼓笛バンドの刑務所運動会への出演は、鼓笛バンドが結成された昭和37年頃より行われ、その後毎年の学校行事となっていった。

 受刑者にとって、「おさない子どもたちの演奏しながらパレードする姿を見ることは、何ものにもかえがたい更生への励ましとなった」といわれ、運動会終了後には、受刑者から、心のこもった手紙が届けられた。

 北野泰成校長が在職当時、ある受刑者が刑期を終えて出所した後、ぜひ神野小学校の鼓笛パレードを、もう一度この目で見て故郷に帰りたいといって、本校を訪ね、陰からそっと運動会を見て帰られた帰られたというエピソードが伝えられている。

 このように神野小学校の鼓笛隊の演奏は受刑者に大きな感動を与えたことがわかる。

*写真:加古川刑務所運動会への参加(昭和479月)

*神野小学校写真集は終了しますが、神野小学校のなつかしい写真をお持ちの方はご連連絡くださいださい。

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神野町をゆく(48) 神野小学校写真集(15) 鼓笛隊、加古川の町を演奏行進      

2022-03-28 07:50:29 | 加古川市歴史探訪・神野町編

       神野町をゆく(48) 神野小学校写真集(15) 鼓笛隊、加古川の町を演奏行進    

 神野小学校の鼓笛隊は昭和38年、加古川刑務所の運動会、明石の鼓笛まつりに出演し、また、川祭りに神野小学校鼓笛バンドとして56年生が市中行進(写真)をしました。

 加古川小学校から西へ歩き、国道の地下(昔のニッケとニッケ住宅を結んだ地下道。現在も現役です)を横切り、いよいよ寺家町商店街での演奏行進となりました。

 通行中の人、商店街の人、それぞれから暖かい声援をおくられ加古川駅前に到着。

 子どもたちは汗びっしょりで、つかれていたようです。

 しかし、顔は晴れやかでした。

 *写真:駅前通りを行進する神野小学校の鼓笛隊

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神野町をゆく(47) 神野小学校写真集(14) 新校舎竣工

2022-03-27 07:59:26 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

   神野町をゆく(47) 神野小学校写真集(14):新校舎竣工

 「神野町をゆく(22)」で、しばらく停車していた神野小学校の写真集をつづけます。

 

 新校舎の建設が決まりました。昭和29年3月起工式が行われ、7月写真のようなすばらしい校舎が予定より40日も早く竣工しました。

 当時の中島校長先生は『神野小学校120周年記念誌』に次のように書いておられます。一部だけでが紹介します。

 

 ・・・・予定より40日も早く木の香も高く匂う堂々たる教育の殿堂が築きあげられました。

 待望久しかっただけに、地元民ならびに600有余の児童の歓喜も、また、ひとしおで、ここに哀心より深く感謝する次第であります。・・・

 *写真:完成した校舎(昭和297月)

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神野町をゆく(46) 余話:内水氾濫(曇川からの氾濫)

2022-03-26 08:17:59 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(46) 余話:内水氾濫(曇川からの氾濫)

 聞きなれない用語を使います。内水氾濫・外水氾濫という用語です。

 〇内水氾濫・・・・豪雨時、川の水位が高くなり、排水ができなくなりおこる水害

 〇外水氾濫・・・・河川の水位が上昇し、堤防こえたり、破壊して起こる水害

 洪水の時、本流(加古川)の支流の水位は高くなります。当然、支流(曇川)から本流へは流れ込みにくくなり合流付近では氾濫がおきます。これが内水氾濫です。

 そんな時、曇川の場合、一部はポンプで強制的に排水をしていまが、それでも排水はおいつかない時があります。

     加古川駅前の水害(曇川によるの内水氾濫)

 加古川市広報(15号・昭和27年7月発行)は、加古川市内の水害を大きく取りあげています。

  写真は、昭和36年の加古川駅前通りの水害のようすです。(文字等一部変えています)

  ・・・(昭和27年)6月末から降り続いた雨は、7月に入り熱帯性低気圧の影響を受けて、さらに、ものすごい豪雨となったため各河川は刻々と増水しはじめ、2日夜8時頃には徐々に低地から浸水し始め・・・・、3日、ついに水は市街地へ浸水し、家屋への浸水.田畑の流失埋没等の被害がありました。

 毎年、雨季に発生するこうした水害の原因は、加古郡天満村に源を発する「曇川(くもりがわ)」の最下流が、市内の灌漑用水を運ぶ五ヶ井水路に直結しているため、豪雨等によって増水し、曇川樋門を通じて加古川本流への放出が困難となった場合、この水が市内の水路で通水しきれなくなり、こうした浸水を引おこします。

 この被害根絶の対策としては、曇川樋門の増設と、別府川に通ずる水路全体の改修工事の実施の外はなく、別府川へ放流する工事が完成しました。

 今後、この内水氾濫は少なるでしょう。

 *写真:加古川駅前の曇川による内水氾濫

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神野町をゆく(45) 余話・新井用水(2) 新井用水と新井郷の池

2022-03-25 10:32:55 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(45) 新井用水(2) 新井用水と新井郷の池

 前回に続き、野口・平岡・播磨町に足をのばします

 黒く塗りつぶした池(新井五の池)に注目して下さい。これらの池は、新井用水から取水している池です。

 新井用水は、明暦二年(1656)に完成しました。それにともない、「新井用水に沿った池は不要になった」かというと、そうではありません。

 新井郷は、もともと水の得にくい土地柄でした。そのため、これらの池の水を確保するため「新井用水」がつくられました。

 用水が完成した後も十分な水はありませんでした。

 新井用水は、現在の五ヶ井用水と異なり、勾配がほとんどありません。

 そのため、新井用水を満水にして水位をあげなければ、十分に流れてくれません。

 それに、「新井用水」は「五ヶ井用水」の取入口が同じで、旱魃のときは「五ヶ井用水を優先させ、新用水の分水口をせき止める」という条件までありました。

 池をつぶして、新田をつくるという余裕はなかったのです。

 新井用水と池が共に稼動して、はじめて新井郷の水は辛うじて確保されたのです。

 新井用水の北側の池(黒く塗りつぶしていない池)は、新井用水より土地が高いため、新井用水から取水することができません。これらの池は、雨水や他の用水が水源になっていました。

 新井用水から水を得ている黒く塗りつぶした多くの池は、記録にはないのですが、古い時代につくられたようです。

 これに比べ、五ヶ井郷には池がありません。五ヶ井郷は、水を一時的にためておく必要のないほど水に恵まれていた地域でした。

 *図:新井郷の池

 

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神野町をゆく(44) 余話・新井用水(1) 伝兵衛の願い

2022-03-24 06:47:42 | 加古川市歴史探訪・神野町編

  神野町をゆく(43) 余話・新井用水(1) 伝兵衛の願い

  ここで、神野町地域を少し離れますが、余話として、神野町から播磨町への田畑を潤した新井戸用水と五ヶ井用水の話をしておきましょう。



 承応三年(1654)の旱魃はひどいものでした。

 太陽が、大地を容赦なく照りつけ、大旱魃となりました。

 溜池にたよる現在の平岡・野口町、そして播磨町24ヶ村の百姓たちは、木の実・草の根、竹の実を、そして種籾までも食べつくし、餓死する者も少なくありませんでした。

 それに比べ、加古川の水を利用している五ヶ井郷(現在の加古川町・尾上町)の村々は、ほとんど被害もなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受けむしろよく実っていていました。

 野口・平岡・播磨の村々の百姓たちは、食べるものがなくなりました。五ヶ井郷から食料と種籾を分けて、何とか生活をおくっていました。

 古宮村(こみやむら・播磨町)の大庄屋・今里伝兵衛(いまざとでんべい)は、枯れることのない加古川から何とか水をひきたいと考えました。

 しかし、水は川より高い土地には流れてくれません。そのため、「上流の城山(じょやま・神野町西条)のすぐ北の五ヶ井用水の取り入れ口から水を分けてもらえないか」と考えたのです。

 水は百姓の命であり、五ヶ井郷の了解が得られるとは思えません。

 伝兵衛らは、姫路藩主に熱心に嘆願しました。

 ついに、藩主・榊原忠次の許しを得ることができました。難問は、いっきに解決しました。

 新井用水の工事は、明暦元年(1665)正月に始まりました。

 新井用水の起工式に伝兵衛は白装束で臨んだといいます。翌年3月に完成しました。

 新井用水は、五ヶ井用水に対して新しい用水という意味です。

*挿し絵:五ヵ井郷(五ヶ井用水から水を得ている村々)の豊かな稔具合を見ている伝兵衛と村人

 

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神野町をゆく(43) 五ヶ井用水 用水は、城山辺りの加古川から

2022-03-23 10:41:10 | 加古川市歴史探訪・神野町編

          神野町をゆく(43) 五ヶ井用水 用水は、城山辺りの加古川から

 承応3年(1654)の旱魃はひどいものでした。

 そのため、古宮(こみや:播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛(いまざとでんべえ)は、上流の城山(じょやま・神野町西条)のところから、現在の播磨町までの用水を計画しました。

 工事は、明暦元年(1665)正月に始まり、翌年3月に完成させました。

 これが、新井用水です。

*新井用水については「新井用水・2(次号)」の後、余話として挿入します。

 図は、旧二塚村(現在の神野町の西部)の絵図(寛延三年・1750)の解読図(部分)に彩色をしました。

 城山のちかくで堰をつくり、そこから流れ下った新井用水(赤色)は、やがて旧二塚村の東を流れ、曇川に突き当たります。(★印のヶ所)

 現在、新井用水はここから曇川(青色)の下をサイフォンでくぐり、曇川に沿って西ノ山の山麓を流れています。

 絵図には、曇川に沿った新井用水は描かれていません。

 絵図では、新井用水は★印のところで、いったん曇川に流れ込み、下流部の五カ井用水(緑色)の手前で曇川と別れ、ほぼ現在の流路をながれています。

 流路は、少しややこしいです。春の一日、散歩を楽しみながら流路辺りを散策ください。

  

 

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神野町をゆく(42) 稲根神社(4) 稲根神社と鳥居

2022-03-22 10:53:21 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

   神野町をゆく(42) 稲根神社(3) 稲根神社と鳥居

 稲根神社に、こんな話が伝えられています。

 昔、太ノ家は、代々稲根神社の御魂(みたま)を大切にお守りをしていました。

 江戸時代のことです。太ノ庄左衛門の時でした。

 庄左衛門の娘は、それはそれは美しい人で、この噂が姫路の殿様に伝わり、殿様から「是非、殿様のお側で仕えるように・・・」と再々、使者が使わされてきました。

 しかし、娘は「太ノ家を継ぐ者であるし、お宮番を大切にしたいと・・・」と殿様からの申しいれを断り続けました。

 お咎めがあるかもしれないので、神主に相談しました。

 しばらく身を隠すことにし、「娘は所在知れず」ということにしたのです。

 娘は、草谷(稲美町)のある神社に身を隠しました。

 草谷の神主は、身の危険を感じながら、娘を隠し続けました。

 稲根神社は、このことに感謝して、「造りかけの鳥居を草谷の神社に贈り、後の世まで恩義を忘れないために、鳥居を建てないことにした」ということです。

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照、挿絵も同書より

 

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神野町をゆく(41) 稲根神社(3) 経塚

2022-03-21 06:44:06 | 加古川市歴史探訪・神野町編

       神野町をゆく(41) 稲根神社(3) 経塚

 経塚(きょうづか)の話です。

 経塚とは、平安時代の後期の末法思想の広がりを背景に、仏教のおとろえを恐れた貴族や僧侶が、法華経(ほけきょう)などの巻物を経筒(写真)に入れ、地中に埋めものです。

 *写真は『信仰の美術』(加古川総合文化センター)より

 その目的は、極楽往生、子孫繁栄や時代が下ると死者の冥福を祈ることを目的としたものが多くなります。

 普通、埋葬された場所は、寺院や神社の境内ですが、墓地の一角の場合もありました。

 稲根神社の裏の二塚古墳の墳丘部から安政年間(185460)に、写真の経筒が出土しています。

 暴風雨で倒れた松の根本から発見されたと伝えられています。

 昭和37年の調査までは、別の銅製の経筒と「源能定」銘の小銅版があったらしいのです。現在は残っていません。

 源能定は、後醍醐天皇の忠臣でした。この経塚は、鎌倉時代の終わりの頃のものと推定されます。

 それにしても、彼の銘のある経塚をがどうして、この地にあったのでしょうか。

 謎が残ります。

  *『信仰の美術(東播磨の聖たち)』(加古川総合文化センター)、『東播磨の民族(石見完次)』(神戸新聞出版センター)参照

 

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神野町をゆく(40) 稲根神社(2) 二塚古墳

2022-03-20 07:13:22 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

 

  神野町をゆく(40) 稲根神社(2) 二塚古墳

 稲根神社の小さな丘の後ろに、二つの円墳(はっきりしない)があります。

 二基の古墳が近接しているところから考えると夫婦塚とも考えられます。

 2号墳(写真上)は、1号墳(写真下)よりやや高いところにあり、石造りも若干丁寧に造られています。

 そして、2号墳の方が1号墳よりも少し早く造られているようです。

 2号墳の築造時期は、石室の形態や見つかった須恵器などから6世紀後半の古墳と思われますが、1号墳もあまり時期は違わないと考えられます。

 稲根神社のあるこの集落は、江戸時代、この二つの古墳にちなみ二塚村と呼ばれていました。

 明治9年に加古郡手末村と合併して神野村となりました。

 しかし、二塚村は「元禄郷帳」に「古ハ手末村」と記しているところから判断すると元は一村であったようです。

 *『加古川市史(第四巻)』参照

 

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神野町をゆく(39) 稲根神社(いなねじんじゃ・1)

2022-03-19 08:39:46 | 加古川市歴史探訪・神野町編

   神野町をゆく(39) 稲根神社(いなねじんじゃ・1)

 明治9年に、加古郡手末村と二塚村が合併して神野村となりました。

 その旧二塚村に稲根神社(写真)があります。曇川の河口にある集落です。

 稲根神社は、古代にさかのぼる神社のようです。

 神社の裏に、二つの後期古墳があります。旧二塚村もこの古墳から名づけられています。

 郷土史家の石見完次氏は『東播磨の民俗』で、稲根神社について、次のように語っておられます。

 「・・・二塚古墳に葬られていた豪族が、水と平地を求めて神野の里にやって来て、最初にこの地に稲を作った部族の長であると考えられ、そしてその有難い稲の御魂を祭ったのが稲根神社であると考えられる・・・」と。

 また、稲根神社の由来は次のようです。

 ・・・太古、人々が食べ物を失ったとき、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)がこれを憐れみ、高天原から稲穂を降らせた。そのとき、この地に三粒が落下して、これが実って世の中に米が満つようになった・・・

 本来、神社の由来と言うものは、怪しげなものが多く検証が必要です。

 しかし、稲根神社の由来は、二塚古墳・曇川・稲作、そしてなによりも神社の名前(稲根)をつなげてみると、納得してしまいます。

 私たちの地方では神野の地で最初に稲作が始まり、やがて播磨の地に広まったことを語っているのかもしれません。

 ともかく、神野の地(賀意理多の谷:かおりだのたに)は、稲作が早くからはじまった土地のようです。

 *『東播磨の民族(石見完次)』(神戸新聞出版センター)参照

 

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神野町をゆく(38) 舟引原(ふなひきはら)

2022-03-18 10:54:15 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

    神野町をゆく(38) 舟引原(ふなひきはら)

  地図は、石見完次氏が、加古川史会の「会報(第36号)」に発表された論文「播磨風土記研究・舟引原はあった」を参考にしています。

 『播磨風土記』に次のような記述があります。

 ・・・この里に舟引原(ふなひきはら)がある。昔、神前村に荒ぶる神がいて、つねに行く人の舟を妨害して通さなかった。

 ここを往来する舟は、すべて印南(加古川)の大津江に留まり上流へと上り、賀意理多の谷(かおりだのたに)から舟を引き出し、赤石(明石)郡の潮(みなと)まで通行させた。故に、舟引原という・・・

 上記の神前村は古宮辺りの浜で、大津江は現在の加古川町稲屋辺りだとされています。

 しかし、『風土記』にある賀意理多の谷・舟引原については、従来学会でも不詳とされていました。

 加古川史学会の石見完次氏は、加古郡稲美町六分一(ろくぶいち)の古い字限図に「舟引」を見つけられ、舟引原の場所を確定されました。

 舟引原の位置から、「賀意理多の谷(かおりだのたに)」は曇川が流れる地域を指すことは容易に推測されます。

 古代においては、地図の赤い線にそって舟を魚住の泊(名寸隅・なきすみ)へと運んだようです。

 それにしても、荒ぶる神の正体は何でしょうか。多くの書物は「海賊説」をとっています。

 *「会報36号」(加古川史学会)参照

 

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神野町をゆく(37) 夕立の夢(福沢の伝承)

2022-03-17 07:27:35 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 福沢(神野町石守)は、曇川が低いところを、わずかに流れるだけの村でした。

 しばしば、旱魃で苦しみました。福沢にこん伝承があります。

   神野町をゆく(37) 夕立の夢(福沢の伝承)

 むかし、日照続きで稲はやけてしまうし困ってしまいました。

 何ちゅうても雨が降らんとしようがない。いっぺん五郎吉さん(雷)に頼んで大きな夕立をふらしてもらわんな・・・と考え、毎日、五郎吉さんが来んかと、遠くの山を眺めておりました。

 ある日でした。山の向こうで「ゴロゴロ」と鳴っておるのが聞こえてきました。

 目の前でピカッと光りました。

 「五郎吉さんが来よった」と心を躍かせながら手招きをした。

 五郎吉さんが、「何か用かい」と尋ので「実は、頼みがあるんや。お前の友達の雨が欲しいやが、降らしてくれんか・・・」と五郎吉さんに言うと「易いこっちゃ」というのでした。

 ・・・(そして)五郎吉さん(雷)のようけおる広峰・書写の上空に連れて行ってくれたました。

 ・・・五郎吉さんの親方が雨の降らせる呪文を唱えました。そしたら、西の方から「ゴロゴロ」と鳴り出し雨もだんだん大降りになってきました。

 「この辺はどこや」と言うので「市川と言うところや、もっと東」と言うと(福沢の上で)法外な雨を降らしてくれました。

 安心して雲の上から降りたら、田も畑もようけの水やった。これで米もようけとれるし、ひと安心。

 そんな所へ坊さんが来て、「あんたが、五郎吉さんへに頼んでくれたおかげで助かったと(村人は)言うてるで・・・」

 ・・・・その時、目が覚めました。「なんや夢かいな・・・・」

*紙面の都合で一部を省略しました。

 

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