ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

八幡町をゆく(30)  農民運動家、行政長蔵(2)

2024-06-20 05:32:44 | 加古川市八幡町をゆく

    

     八幡町をゆく(30) 農民運動家・行政長蔵(2)

「 運動を進める中で、大正二年(1913)県会議員選挙に、当時の加古郡より立候補し、最高点で当選しました。

 しかし、選挙違反があったとデッチあげられ、失脚させられてしまいました。その裏には、ある衆議院議員の指図があったとのうわさもありました。

 行政の人気は大変なものであったらしく、行政の演説のポスターが電柱に貼られると、続々と演説を聞きに行きました。

 彼は、どなるがごとく、炎のごとく演説したといいます。さあ、警官の弁士中止の声がかかるぞ・・」と、聴衆は今か、いまかとかたずをのみました。

 その時、行政は「・・政治の腐敗を追求し、農民よ、団結し立ち上がろうではないか・・」と叫ぴます。すかさず、警察の「弁士中止1」という命令です。

 しかし、行政は演説をやめません。警察は演壇から彼を引きずり降ろします。そんな時、聴衆はきまって警察官に対し、叫ぴヤジるのです。

「ああ、今日の演説会はおもしろかった」と、行政の演説を聞きに行った人も多かったようです。

こんなありさまでしたから、日常の生活にも毎日警察の監視がついていました。

田んぼで働いている時も、警察は近くの山の上からずっと監視しているのです。

 行政は昼になると「さあ、ここで飯を食うからナァ、お前そこで見ていてくれヨ・・」と言って警官をからかったりしました。

こうして行政は宗佐(そうさ)で、自らも田畑で働きながら農民運動を指導を行っていたのです。

やがて、日本は敗戦を迎えました。

 行政は、時代はよくなるに違いないと信じていました。

 波澗万丈の生涯を送った彼は、戦後まもなく突然その姿を消してしまいました。政敵に消された

 とも、いずれかの国へ密航したとも諸説はあるのですが、その真相はわかっていません。

 〈余話〉

 昨年、80歳を記念して高校の同窓会がありました。皆さんお元気でした。たまたま隣の席に「行政」名札の同級生でした。 

 学生時代、かれは優秀な生徒で話はあまりしなかったのですが、「もしや、行政長蔵さんと関係のある方ですか」と尋ねると。「長蔵のことはあまり覚えていませんが、私の祖父です」との返事でした。ビックリ!

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八幡町をゆく(29) 農民運動家、行政長蔵(1)

2024-06-19 07:12:57 | 加古川市八幡町をゆく

   八幡町をゆく(29) 農民運動家、行政長蔵(1)

 彼(行政長蔵:ゆきまさちょうぞう)は第一次世界大戦で、にわかに景気の造船関係の仕事にありつき、そして神戸で唯一の労働組合であった友愛会に参加しました。

 そして、賀川豊彦(かがわとよひこ)の指導で労働問題を熱心に学ぴ、大正10年(1921)のストライキには、最高幹部の一人として陣頭に立ちました。

 第一次世界大戦の反動としての恐慌は、労働者の大量解雇、賃金の引き下げとなって、労働者の生活を圧迫しました。

 そして、その不滴は 1921年まず大阪で爆発し、次いで神戸の川崎・三菱の三万の労働者を中心に、神戸製鋼、台湾製糖、ダンロップゴムをはじめ多くの中小工場を包み込んで、全神戸をゆるがし、戦前日本最大の45日間にわたる大争議へと広がっていきました。

 そして、7月10日、東京のメーデーでさえ2、000も集まらない当時にあって、35、000人の大デモストレーションを繰り広げました。

 結局、争議(ストライキ)は、姫路からの軍隊などの派遣により鎮圧され、そして川崎・三菱両造船所だけでも1000名の解雇者を出し、ストライキは敗北に終わりましたが、当時闘いに立ち上がりつつあった農民運動に大きな影響を与えました。

 行政長蔵は投獄を免れたものの、解雇されました。長蔵は加古川に帰るや刃物研ぎの道具を一式を買い、自転車で生活費を橡ぎながら村々を回り、農民と語りあい、社会主義思想を説いて小作人の目を開かせていきました。

 そんな行政を賀川豊彦は、日本農民組合が結成されるや、その仕事に専念させました 賀川豊彦の小説『壁の声を聞く時』の中に次のような一節があります。

 この雪野のモデルは行政長蔵です。

・・・雪野鷹蔵、彼は、菜葉服の上にぶてぶての外套を着、足にゴム靴をはき、村から村へと小作人組合の組織に歩いきました。やれ、小作料の逓減運動だと言っては引っ張り出され、組合の発会式だといっては出て行きました。

 いくら刑事を尾行させても、いくら讐察署長を以て農民をおどかしても、あまり効果がなく、 組合員は毎日増えていきました。

*写真:川崎・三菱の労働争議(1921年)



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八幡町をゆく(28) 望理の里(2) 上村村池遺跡は、望里の里の役所あとか

2024-06-18 09:33:57 | 加古川市八幡町をゆく

         八幡町をゆく(28) 望理の里(2) 上村村池遺跡は、望里の里の役所あとか

 

 2017年3月上村池遺跡の説会に出かけました。上村遺跡の場所は、地図で確認ください。

 以下の文章は、3月1日の神戸新聞の記事からお借りしています。(一部省略)

     8世紀の建物遺跡など確認 加古川・上村池遺跡

 ・・・加古川市教育委員会は、兵庫県加古川市八幡町上西条の上村池遺跡を発掘調査し、奈良時代後期(8世紀)の掘立柱建物跡や竪穴建物跡、平安時代後期(12世紀)の溝状遺構を確認した。

 上村池遺跡は、弥生時代から平安時代にかけての遺構・遺物が確認される複合遺跡で、本格的な発掘調査は初めて。

 見つかった掘立柱建物跡の中には、通常の集落では見られない大型の建物跡も含まれている。

 奈良時代の瓦が出土する場所もあり、瓦ぶきの建物が付近に立っていた可能性も考えられるという。



 市教委は「遺構の状況を実際に見られるのは発掘現場が唯一の機会なので、多くの皆さんに見学してほしい」としています。(以上神戸新聞より)

 調査員さんの説明では、上村池遺跡(うえむらいけいせき)は、奈良時代の望理里(まがりのさと)があった場所ではないかとも想像しておられましした。

 私も長い間「望理里はどこかな」と思っていたのすが。一挙に解決ような気分でした。

なりました。

 八幡地区の平地部は水害の多い地域です。景色の良い村(里)であったとしても政治の中心地(役場がなどが置かれた場所)生活の場所には不向きな場所ではなかったのではなか」と想像していました。

 でも、上村遺跡の調査員の方がつぶやかれた「上村池遺跡は丘の上で、望里の役所の置かれた場所ではないか・・・」と考えています。

 *写真:上村池遺跡(奈良時代後期・8世紀)の場所

 

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八幡町をゆく(27) 望理里(まがりのさと)(1)

2024-06-17 06:41:18 | 加古川市八幡町をゆく

  

    八幡町をゆく(27) 望理里(まがりのさと)(1)

   『播磨風土記』が作られた奈良時代、八幡地方は、望理里(まがりのさと)と呼ばれました。

 風土記の一部を読んでおきます。



 ・・・景行天皇(けいこうてんのう)が巡幸の時、この村の川の流れが曲がっているのを見て「この川の曲がり具合は、はなはだ美しい」と仰せられました。

それで、この地を「望理里」という・・・



 加古川は、美嚢川(みのがわ)と加古川が合流点あたりから、流れは西に弧を描きながら流れています。

  『播磨風土記』が書かれた奈良時代、この辺りのかこがわ流れは現在の流れと大きく異なり、加古川は、宗佐(そうさ)の辺りから、国包(くにかね)の東を流れ、船町・下村のあたりから流路を変え、中西条の西に流れていたと考えられていたようです。

 八幡地区は、加古川が大きく曲がった東岸の地域に広がっていました。まさに「曲がりの里」でした。

 山頂から眺めた望理里は、まさに絶景であったことでしょう。

 「しかし」とその後を続けなければなりません。

  古代より加古川は、暴れ川でした。

  台風、それに長雨の時など、加古川は気決まったおうに洪水を引きおこしましたた。

 水は、まっすぐに流れようとします。

  望理里は、まさに洪水の直撃をくらう地域でした。

  そんな証拠が地形に残されています。

*『加古川の流れ(建設省近畿地方建設局・姫路工事事務所)』(1975)参照

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八幡町をゆく(26) 清麻呂と猪(八幡神社の伝承)

2024-06-16 06:01:03 | 加古川市八幡町をゆく

       八幡町をゆく(26) 清麻呂と猪(八幡神社の伝承)

 奈良時代、大仏開眼を頂点に、天平の繁栄は終わりを告げようとしていました。

 聖武天皇、光明皇后はあついで亡くなりました。

 後を継いだのは、光明皇后の生んだ、ただひとりの娘の女帝・孝謙天皇(こうけんてんのう)でした。

 孝謙天皇は、信頼していた藤原仲麻呂(恵美押勝)にも裏切られ、悶々とした気持にでした。

 そんな時です。女帝(44才)の前に、英才の僧・道教が現れたのです。

 独身の女帝にとって道教は、初めての恋人であったとも言われています。

 彼は、呪術をもって女帝の病気を治してから、その寵愛を一心に受け、天皇の地位にも並ぶほどの「法王」の地位を授けられました。

 この時、朝廷を揺るがす大事件がおきました。

 「道教を天皇の位につかせたならば、天下は太平になるであろう」という、宇佐八幡宮(大分県)のお告げが朝廷にもたらされたのです。

 ことの真実を確かめるべく、和気清麻呂が宇佐へ使わされることになりました。

 (挿絵は道教と和気清麻呂・戦前の教科書より)

 ここで、八幡神社(加古川市八幡町)の伝承が登場します。

 清麻呂は、都をたって播磨の国・望理里宗佐(まがりのさとそうさ)までやってきました。

 道教の差し向けた刺客たちが清麻呂を囲みました。・・・その時、空がにわかに曇り、山から大きな猪が現れ、道教の放った刺客に襲いかかり、次々とけちらしたのです。

 そして、清麻呂は無事宇佐に着き、宇佐の神のお告を確かめました。

 その内容は「わが国は、開闢(かいびゃく)以来、君臣が定まっている。道教のような皇族にあらざる人を皇位につけてはならない」というものでした。

*『日本史探訪・4』(角川文庫)参照

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八幡町をゆく(25)   宗佐(八幡)の厄神さん

2024-06-15 05:28:08 | 加古川市八幡町をゆく

 

    

   八幡町をゆく(25) 宗佐(八幡)の厄神さん

 「宗佐の八幡神社」です。 一般には八幡神社と呼ばれています。

 八幡神社について、『ふるさと・やはた』(昭和59)で、本岡豊二さんは、次のような手記を寄せておられます。

 一部、転載させていただきます。

 ・・・古くは旧暦の1月18・19が大祭日でしたが、大正時代「いつまでも旧暦では」と現代のその日にもっとも近い頃の2月18・19日に定められました。

 ・・・自転車が普及した戦後は当青年団は、自転車の預かり料が年間の大きな収入源になったそうです。

 「厄神駅」からは、増発便で着いた参詣客が、後からあとからならんで、お宮まで約1.5キロの列が続きました。

 最高潮時には、石段から拝殿付近は人が溢れかえって歩けませんでした。

  サーカスのジンタが耳に響いて、雰囲気をいっそう盛り上げ、数百を数える露天商人の大半は「いわこし」(粟おこし)売りの店で、植木屋さんもたくさんありました。

  八幡の厄神さんは、現在でも人出は多いが、昔を知るお年寄は「ずいぶん静かになった」と語っておられます。

 *『ふるさと・やはた(加古川農業改良普及所)』(昭和59)参照

 *写真:「八幡神社」

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八幡町をゆく(24) 小さな地蔵さん

2024-06-14 07:09:58 | 加古川市八幡町をゆく

       八幡町をゆく(24) 小さな地蔵さん

 下村(加古川市八幡町)の中ほどに、地蔵堂があります。

 その前の道に沿って、西へ50メートルばかり行くと、溝は北へ折れて流れえいます。

 こに30センチほどの小さなお地蔵さん(写真)があります。

 このお地蔵さんについて、本岡豊二さんは『ふるさと・やはた』に、次のような文を寄せておられます。

 ・・・そこは(お地蔵さんがある場所)4~5メートルの落差があって、小さな滝になっていました。

 60年ほど前(この原稿は、昭和59年に書かれています)水流も豊富で、水車で米つきをする水車小屋がありました。

 ・・・大雨の時など、竹のスを張って「川がに」等をとっていた人々の姿が懐かしい。

 その滝付近の護岸工事の際、石垣の下から小さなお地蔵さんがみつかりました。・・・赤子を抱いているようにも見え、お乳を飲ませているようにも見えます。

 子供のころ、祖母からトンドの捨て子という昔話を時々聞かされました。

 (トンド・ドンドは、流れの急な場所で、水が音を立てて流れている場所を指しています。トンドは水の流れの音でしょう)

  「・・昔、子捨て場であったそうな・・」という言い伝えを知る人も多い・・そんな昔話もあるいは本当でないかと想像されます。

 *『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照

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八幡町をゆく(23) 鬼子母神(下村の伝承)

2024-06-13 07:53:04 | 加古川市八幡町をゆく

   

      八幡町をゆく(23) 鬼子母神(下村の伝承)

 子どもが消えたのは、五人目でした。

 村人は、「きっと鬼だ。神出鬼没の鬼が子どもをさらったに違いない」とささやきあいました。

 北風の吹く夜、村はずれの水車小屋の近くに美しい女がさびしげに立っていました。

 若者は、その女の後をついていきました。立派な家に着き、風呂にも入れてもらって、気持ちがよくなり眠りこんでしまいました。

 寒気を感じて目を覚ますと、山の中の肥の中にいたんです。こんなことが幾度か続きました。

 子どもは、依然として帰ってきません。

 「これは、あの鬼の仕業に違いない」と村の修験者が、夜、鬼を待ちました。鬼は出てきません。

 ただ、美しい女が現れたのです。「鬼が女に化けているに違いない」と女の後をつけました。

 女は、上西条、中西条の村を越え、城山(じょやま)に消えました。

 修験者は、城山にひそんでいました。

 夜半、女の足音と子どものすすり泣きが聞こえてきました。飛び出したですが、誰の姿もありません。

 「鬼子母神(きしぼじん)が子どもを食うという話を聞いたことがあります。

 鬼子母神がこの山に住んでいるのではないか」と修験者は考えました。

 修験者は、村の衆と相談して村の寺(萬福寺)の一角に鬼子母神を祀る祠を造りました。

 その後、子どもたちはさらわれなくなったと言います。

  *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照



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八幡町をゆく(22) 下村困窮す(冨塚久衛門の墓碑)

2024-06-12 05:44:28 | 加古川市八幡町をゆく

 

     八幡町をゆく(22) 下村困窮す(冨塚久衛門の墓碑) 

 八幡町下村に熊尾山萬福寺という曹洞宗のお寺があり、墓地に、ある人物の功績をたたえた碑があります。

 下村の、本岡豊二さんは、『ふるさと・やはた』で、その墓碑を記録されています。

 史料としてここに転載させていただきたい。

     「一山突句居士」の碑

 内容は、「延宝年間(167381)当地方は、凶作で大飢饉に困窮した。

 年貢米はおろか、生活にも事欠いた農民の困窮を知った城の郡担当役人の冨塚久衛門は、城主に上奏し、二年間の年貢米取立ての中止の措置をとりました。

 庄屋以下農民は、こぞってその慈悲に感謝ました。

 その後、延宝九年冨塚久衛門は逝去したが、住民一同は感謝を表すために元禄十六年八月に、この碑を建て供養した」というものです。

 延宝年間、ある記録によれば、当地方は、「延宝2年、70年来の大洪水、同4年、大洪水、それに旱魃に苦しむ・・」とあります。

 当時の苦しい農民の生活のようすが浮かびます。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照。

 写真:冨塚久衛門の墓碑

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八幡町をゆく(21) 寛延一揆・沼田平九郎(2)

2024-06-11 08:28:27 | 加古川市八幡町をゆく

      八幡町をゆく(21) 寛延一揆・沼田平九郎(2)

 二年(1749)、西条組大庄屋・沼田平九郎宅(現:加古川市八幡町中西条)は、一揆衆に打ち壊されました。

 当時の藩内び状況を見ておきます。

 1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まりました。

 藩内の商人は、借金の返済を求めましたが、借金を踏み倒しての姫路入りとなりました。

 姫路への引越し費用を江戸の商人からの借金でまかなったのです。

 この時、商人と「借は姫路で支払う・・」という約束でした。

 姫路に入るや、年貢の引き上げなど」、増収となりました。

 その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため。延享五年(1748)、477名が来朝し、途中一行は、室津(龍野市)に立ち寄ることになりました。

 幕府は、この接待のための費用(二万両)を姫路藩に命じました。

 借金まみれの姫路藩に商人は協力出来ません。

 さらに:に、悪いことがかさなりました。

 明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に四度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いたのです。

 48年も、大干ばつと台風で「大凶作」となりました。

 藩は、「農具を売ってでも年貢を納めよ」という強攻策にでました。

 沼田平九郎は藩に迎合したのです。

 年貢の減免を願い出た百姓は達は投獄されてしまいました。

 百姓たちの不満が爆発しました。

 滑(なめら・夢前町)でも、甚兵衛が中心となり大庄屋宅を打ち壊した。野谷新村と夢前(飾西郡)で燃え上がった一揆は、図のように瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがりました。

 藩から足軽部隊が出動した。亀山・船場(姫路市)本徳寺も百姓を説得しました。

やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われ、寛延三年(1750)九月判決が言い渡されました。

  野谷新村  伊左衛門  磔刑

  滑村    甚兵衛   磔刑     *その他、獄門三名

 伊左衛門は六月、大坂の牢で亡くなり、死体は塩漬けにされました。

 藩は、塩漬けの伊左衛門を市川河原に引き出し磔にしました。





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八幡町をゆく(20) 寛延一揆・沼田平九郎(1)

2024-06-10 06:16:05 | 加古川市八幡町をゆく

   八幡町をゆく(20) 寛延一揆・沼田平九郎(1)

 寛延一揆は、寛延二年(1749)正月から二月にかけて荒れ狂いました。

 この一揆は、その規模の大きさ、後世への影響から見て、姫路藩政史上最大の農民闘争でした。

 火の手は、野谷新村(現:加古郡稲美町)からはじまりました。

 野谷新村の伊左衛門(いざえもん)は、五人組の組頭を勤めており、彼は、日ごろから豊かでない村への御用金や年貢の増加に反発していました。

 野谷新村は、西条組大庄屋・沼田平九郎(現:加古川市八幡町中西条)の支配下の集落でした。

 平九郎は、かねてから、あまりにも藩に追従しているという風聞があり、平九郎に対する不満が、「平九郎宅を打ち壊せ・・」という機運へと高まっていたのです。

 このような平九郎に対する不満は、西条組だけでなく、他の組の村々からも非難されており、よほど目立った存在であったようです。

 寛延二年の正月・10日頃から「西条組大庄屋を討ち潰すべし・・」という張り紙があちこちで張り出されました。

 正月16日七ッ時(午後4時ごろ)村々で早鐘がならされ、大勢の人々が鳶口や熊手を持って押し寄せました。

 まもなく、平九郎宅は散々にうちつぶされました。

 この打ち壊し計画の中心は伊左衛門でした。

 姫路全般一揆は、平九郎宅打ちこわしという一件から姫路藩を揺るがす全藩一揆へと広がりました。

 一揆の後には、厳しい取調べがまっていました。

  *『加古川市史(第二巻)』、『加古の流れ』(加古川市史編さん室)参照

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八幡町をゆく(19) 加古新村(現:稲美町)の誕生

2024-06-09 08:19:33 | 加古川市八幡町をゆく

    八幡町をゆく(19) 加古新村(現:稲美町)の誕生◇

 江戸時代のはじめ、印南野台地には、広大な原野が残っていました。

 この原野の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記しています。



 中西条村(加古川市八幡町中西条)の才兵衛は26才の時から、庄屋を勤めていました。

 村の東の広大な原野の開拓を考え、3年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結んだのです。

 さらに3年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめました。

 才兵衛は、上西条の喜平次に台地の開拓を説きました。

 喜平次も賛同しましたが、開拓のための資金が足りあせん。

 才兵衛は下村の治兵衛(下村の本岡家の四代目の当主)に相談しました。

 彼も同意し、三人は印南野台地の開拓を固く誓い合ったのでした。

 姫路藩に開拓の願いを大庄屋を通じ出したのです許可でませんでした。再度願い出しました。

 ついに、許可になり、さらに姫路藩からの援助も得ることができました。

 藩から、新しい村の名前を問われました。

 才兵衛は、「加古の二字は、才兵衛の祖先よりの苗字のため“加古新村”と名づけたい」と答えたところ、「苗字を村名にすることはできない」と認められません。

 そこで、才兵衛は、加古新村では「沢」の名前に改めると述べ、村名を「加古新村」と名づけ許されました。

 入村する者には、藩から材木・竹木・米の支給もありました。

 才兵衛・治兵衛・喜平次は、「頭百姓(とうびゃくしょう)」として村に居住しました。

開発がはじまって6~7年のうちに家数163軒、人口800人あまりの村となり、

 延宝八年(1680)、上西条の氏神・八幡宮を加古新村に勧請しました。

 加古大池の側の神社(写真)がそれです。

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八幡町をゆく(18) 虫送り

2024-06-08 06:34:49 | 加古川市八幡町をゆく

 

     八幡町をゆく(18) 虫送り

 今は消えてしまいましたが、かつて農村で行われた大切な行事がありました。

 「虫送り」です。

 蝗(いなご)などが大量に発生した年は、たちまち生活は破壊されてしまいました。

 中西条(加古川市八幡町)の山本定次さんは、『ふるさと・やはた』に「除虫祭(虫送りまつり)」ついて寄稿されています。

 ・・・・この祭りは、氏神八幡神社で毎年七月の土用三郎(土用に入ってから三日目)の日、稲の害虫駆除を主として、一般農作物の害虫を除き豊作を祈念するお祭です。

 ・・・夕方から、各農家より麦わらの束を持ち寄って神社にあつまり、神主さんより種火をいただき、各自持っている藁束に火を点じ、その火が消えないように振り回し、「・・・虫送りせんかいなあ、さねもりさんのお供せい・・」と言いながら、一列縦隊の行列をつくり、夕闇の細いあぜ道を通って、加古川の太子岩の左岸まで送って行きました。

 最後は、河川敷に掘った穴に、その火を投げ込むのですが、その道中の有様はまことに壮観でした。

 後日、「八幡神社御祈祷御守護」と書かれ、その右に小さく「五穀豊穣」、左に「家内安全」と書いて印を捺したお守札の配布を受け、それを各田の水口にさしました。・・

 こんな虫送りの行事も、農薬の普及した現在姿を消してしました。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照

 挿絵は、淡路市北淡町野島の「虫送り」、『暮らしの歳時記』(のじぎく文庫)より

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八幡町をゆく(17) 大家・本岡家

2024-06-07 07:56:40 | 加古川市八幡町をゆく

 

      八幡町をゆく(17) 大家・本岡家

 八幡町下村に大家(おおや)という、近在に知られた旧家がありました。

 一目で分かる杉の生垣のある大きな家でした。

 大家は、元禄7年(1694)に建てられたもので、江戸時代前期の住宅構造を知る上で貴重な建築で、「県指定文化財」に指定されています。

 八代当主の本岡嘉平治の時、大工船町八左衛門が建てた、と棟札に記されています。

 大家(本岡家)には、当時の農家にしてはめずらしい平書院、長押などが配置されており、 土間は、竹の簀子(すのこ)天井で豪快な梁が縦横にとおり、上が「つし」です。。

 (つし・・農家で天井や屋根の下につくった物置部屋)

 本岡家は、「元、越中・越前に所領を持った武士でしたが、同地方に猛威をふるった一揆の鎮圧に失敗し、帰農を決意し、姻戚の野村城主(八幡城野村)をたよって、わずかな郎党とともに、この地に落ちのびた」と伝えられています。

 四代当主、本岡治兵衛は、万治元年(1658)上西条・喜平次、中西条・才兵衛とともに、印南野(加古新田)の開発に当たりました。

 寛文元年(1661)、藩の許可を受け、近郷の住民を指導し、ついに百十一町歩あまりを開拓しました。

 現在、大家(本岡家)は、加古川少年自然の家のキャンプ場の奥に移築・保存されています。

 *写真:現在、加古川少年自然の家のキャンプ場の奥に移築・保存されている本岡家。

 *『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照

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八幡町をゆく(16) 法華塔(下村)

2024-06-06 07:45:46 | 加古川市八幡町をゆく

  

      八幡町をゆく(15) 法華塔(下村)

  1830年、時代は文政から天保へと変わりました。

 天災が続くので、縁起をかついでのことだったのですが、皮肉なことに天保年間(183043)は、天候不順・凶作と飢饉の時期となってしまいました。

 とくに、天保四年(1833)以来ひどい気候不順・凶作・米価暴騰、ひいては飢饉がつづき、天保七・八年は頂点を迎えました。

 京都や大坂でさえ、多数の餓死者がでました。

 下村(加古川市八幡町)でも、事情は同じで、さらに悪いことにハヤリ病が流行したのです。

 村人は困り果て、この「法華塔」(ほっけとう)を建て祈祷をしました。

 不思議なことに、それ以来しばらく悪疫はやんだといいます。

 明治30年(1897)、再びこの地に悪疫が発生しました。

 村人は、天保のころの出来事を覚えていました。法華塔を清掃し、祈祷をしました。

  

 なお、法華塔が建てられたのは天保九年(1838)八月のことでした。

 *『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所

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