ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

別府町をゆく(92) 別府町新野辺(18) 北海道へ(2)・甘いささやき

2022-12-31 09:13:49 | 加古川市歴史探訪・別府町編

    別府町をゆく(9) 別府町新野辺(1) 北海道へ(・甘いささやき

 新野辺村のS氏の知人で、その遠縁にあたる士族で加西北条町の小学校長をしていた倉賀野氏が校長引退後、神戸赤心社事務員となり、北海道の石狩への移民担当係りをしていました。

 この人に相談して救済策を講じたところ、倉賀野氏は「北海道に肥沃な開墾のしよい土地があり、一家族に町歩~10町までを貸し与えることができるので、世話をしてやろう。

 また、費用としては補助金10円を給し、農具その他の開墾に要する道具類は貸与することになっているから入居者は入る衣類だけを持って行けばよい・・・」ということで、新野辺村の北海道移住計画は動き始めました。

 計画では、明治18月から出発し、百家族の移住を実施し、新野辺村の分村をつくり、北海道から当地方に肥料を送り、こちらからは綿を送って相互交換を始めようという計画でした。

 新野辺村と赤心社は、移住許可の手続きを執るために加古郡役所(現在の寺家町にあった)へ願い出ました

 写真:加古郡役所(役所は明治12寺家町に置かれ、この建物は明治17月新築)

 

 *お知らせ*

 今年も、あまり面白くない「フェイスブック・ひろかずのブログ2」をお読みくさいましてありがとうございました。

 明日~5日(木)まで「フェイスブック・ひろかずのブログ2」はお休とします。よろしくお願いします。

 素晴らしい新年をお迎えください。

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別府町をゆく(91) 別府町新野辺(17) 北海道へ(1)・ 明治15年・猛烈な暴風雨が新野辺村を襲う

2022-12-30 08:38:52 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 *しばらく「別府町新野辺」をお休みにしていましたが、再開します。

          別府町をゆく(91) 別府町新野辺(17) 北海道へ(1)

       明治15年・猛烈な暴風雨が新野辺村を襲う

 明治15年(1882)の秋でした。

 猛烈な暴風雨が吹き荒れ、金沢新田の堤防は高潮と荒波のために全部破壊され、新田の稲作は皆無となってしまいました。

 金沢新田開発以来の大災害でした。

 その年、畑の綿は半作に、そして本田の米は3割の減収で大変な凶作となりました。

 翌年、明治16年は植え付け後、雨は少なかったのですが、全国的に作物はよく育ちましたが、新野辺村では、金沢新田の堤防の修復などに、多大の費用を要しました。

 その上に、肥料は松前の魚粕で10貫、2円50銭以上の高値であったのに、米は1石、3円50銭から4円ぐらいの安値、綿も10貫で4円内外の安値で収支があわず、農業の打撃は大変なものとなりなりました。

 この頃の新野辺村の作物の中心は綿でした。

 これに従事する商人や職人もそうとうあって、3年続きの不作は再起不能の農家は百拾戸を数え、この救済に手の施しようもなく、飢死を待つよりほかしかたない状況となりました。

 これに従事する商人や職人もそうとうあって、3年続きの不作は再起不能の農家は百数拾戸を数え、この救済に手の施しようもなく、飢死を待つよりほかしかたない状況となりました。 ちょうどその時でした。甘いささやきがありました。







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別府町をゆく(90) 写真集・別府町(39) 別府川防潮水門

2022-12-29 07:24:54 | 加古川市歴史探訪・別府町編

      別府町をゆく(90) 写真集・別府町(39) 別府川防潮水門

 『手枕』(別府小学校創立百周年記念誌)では、「別府町は、標高五㍍で、この地を流れる別府川は北在家、野口町長砂地域の多くの水路を集めて約四キロ㍍ほど南東に向かって流れ、別府と西脇の間で播磨灘に注いでいる・・・・」と別府川を紹介しています。

 現在、氾濫防止のため、別府川は加古川町大野の北で曇川と結ぶ延長工事が完成し、別府川は二倍に延長され、流れ(水量)も大きく変わりました。

        別府川防潮水門(写真)

 写真の水門ですが、別府町は低い平地に位置しているために播磨灘の影響を受けてました。

 特に台風の時などは、海水が高潮となって別府川をさかのぼり、しばしば付近の両岸の人家に侵入し、水田に塩害をあたえました。

 現在は、別府川の両岸も高く築かれ「別府川防潮水門」は昭和44年に造られました。

 地元の人は「わくのくち水門」といって大切にしています。

 

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別府町をゆく(89) 写真集・別府町(38) イトーヨーカ堂ができました

2022-12-28 08:05:06 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

 別府町をゆく(89) 写真集・別府町(38)

        イトーヨーカ堂ができました

 写真は、昭和63年のイトーヨーカ堂の建設中のものです。

 ですから、別府駅界隈の風景が激変したのは、昭和63年頃のようです。

 神戸製鋼ができ、関連企業が増え、人口が増え、そしてイトーヨーカ堂ができ駅舎が完成しています。

 昭和42年に浜が消えてから50年以上の年月が経ちました。別府は、全く違う街に大変身しました。

 *蛇足です。

 イトーヨーカ堂のある場所は、もと多木製肥所があった場所です。

 写真:建設中のイトーヨーカ堂(呉田利明氏提供)



◇お願い◇

 いま、別府町を散策しています。もう少し別府町を歩いて、来年1月の中頃から「(シリーズ・「志町町(志方町・東志方町・西志方町)」の散策「志方町をゆく」を計画しています。

 が、写真があまり入手できていません。どんな写真でも結構ですのでご紹介ください。よろしくお願いします)

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 別府町をゆく(88) 写真集・別府町(37) 別府町大改造

2022-12-27 07:35:13 | 加古川市歴史探訪・別府町編

   

       別府町をゆく(88) 写真集・別府町(37) 別府町大改造

 加古川市南部地区の区画整理は37年度から4か年、総工費7億5千万円で急ピッチで進められました。

 神戸製鋼所の進出が予想される別府、尾上両町を中心に臨海部を今のうちに計画開発するという大都市改造計画した。

 北側は、山陽電鉄路線沿いに600㍍、南側は西へ別府港から約1キロに囲まれた、総面積は96万平方キロメートルの広大な改造計画です。

 計画では同地区の西部を住宅地区、中心部を商業地区、南部を工場地帯に、それぞれ大別されました。

 工場進出に伴う道路網は、「東西に池田~別府港線(幅20㍍)を新設、浜国道を幅6.5メートルから10メートルに広げ、南北には新しい幅16メートルを新設し、現神野別府港線を幅6メートルから16メートルに拡張、以上の幹線を軸に幅8メートルから4メートルの街路50余本を走らせる」という、まさに大改造計画でした。

 工事は、37年度はじまりました。別府町は大きくその姿を変えたのです。

 *写真:別府町改造中の写真(昭和)40年ころ撮影)

 

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別府町をゆく(87) 写真集・別府町(36) 多木道

2022-12-26 07:19:08 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

      別府町をゆく(87) 写真集・別府町(36) 多木道

 別府中学校の近くの南を別府町から鶴林寺に真っ直ぐな道が走っています。

 地元では、この道を「多木道」と呼んでいます。

 写真は、戦後すぐの「多木道」です。

 別府町を探訪するとき、幾度となく多木久米次郎が登場します。

 明治時代、別府町には鉄道がありません。久米次郎は、そのため鉄道と別府を結ぶ道の重要性を強調しました。

 明治44年(1911)、別府村~北在家間の道路(多木道)新設もその一つです。9887円65銭が計上されました。

 議論を呼びましたが、明治44年2月、久米次郎は3500円を寄付し、別府村から加古川町に通じる道路建設を完成させました。

 「多木道」は、別府村と山陽鉄道を結ぶ重要な道路としてつくられたが、久米次郎にとってはそれ以上に製肥所と山陽鉄道とを結ぶ連絡道でした。

 *写真:戦後すぐのころの多木道





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別府町をゆく(86) 別府町・写真集(35) 別府村事件

2022-12-25 07:51:59 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

    別府町をゆく(86) 別府町・写真集(35) 別府村事件

 大正11年、「人の世に熱あれ、人間に光あれ・・」と高らかに宣言が掲げ、全国水平社は結成されました。

 差別反対運動の取り組みは高まりました。翌年の大正12年5月、加古郡・北別府支部も結成されました。

 さっそく、この年の8月に差別事件がおきました。

 青年に対する差別の憤りが村民あげての闘いになりました。

 この抗議行動は、「別府村事件」と呼ばれています。

 教照寺を本部として「・・・・謝罪状を手に入れるまで、生きて帰ろうとは思わない・・」と決意をかためました。

 この抗議行動で、村内男子は出動した警察隊と衝突し、ほとんどの青年が検挙されました。

 そして、12名が有罪の判決を受けました。

 謝罪を再三にわたり要求したが、全て拒否されたのです。

 このまま泣き寝入りしては「子孫末代まで、頭が上がらない。身を犠牲にしても目的を達成しなければ・・・」と考えた末の行動でした。

 抗議行動は「相手が手を出さぬうちは手をだすな・・」など統制のある行動でしたが、犯罪者として扱われたのです。

 偏見を改めようとするの人々にとって、やむにやまれぬ行動であったのですが、当時の警察権力により弾圧されました。

 今年は別府村事件から100周年です。「別府村事件」は、その後あまり語り伝えられなかったためか忘れ去られようとしています。

 別府町の歴史を一歩前進させた事件でした。

 *『手枕』(別府小学校創立百周年記念誌)参照

  写真:「別府村事件」の顕彰碑

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別府町をゆく(85) 写真集・別府町(34) 加古川市との合併(4) 加古川市との合併が急展開で決まる

2022-12-24 07:54:36 | 加古川市歴史探訪・別府町編

     別府町をゆく(85) 写真集・別府町(4)

      加古川市との合併(4) 加古川市との合併が急展開で決まる

 高砂町との合併は、高砂町を中心にしたものであり、はじめから別府町としては気乗りがありませんでした。

 二見町は、袂をわかって明石市へ去りました。

 そして、阿閇村(現:播磨町)は孤立路線を選択しました。

 別府町としては、孤立路線をとるか、加古川市との合併話を進めるかの選択肢が残されるだけとなったのです。

 こうした中で、突然の転機が訪れました。

 別府町は、かねてから国や県に別府港の改修を陳情していました。それが認められることになりました。

 しかし総工費は三億円と見積もられ地元負担は二割五分でした。

 別府町の負担は、7500万円となります。別府町単独では至難の事業でした。

 この時、加古川市長から別府町に「・・・合併を考慮にいれずとも、地方発展のため相互援助を期し、税外収入の道を計り、極力協力したい・・・」との申し出がありました。

 この「別府港改修問題」をきっかけに、加古川市との合併問題は急展開することになります。

 なお、両市町村は、阿閇村に対しても合併の話しかけを行いましたが、阿閇村は加古川市との合併を選びませんでした。

 かくて、別府町は、加古郡の他の町村に遅れること1年余、昭和26年(1951)10月1日加古川市と合併しました。

* 写真:合併調印式

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別府町をゆく(84) 別府町(34) 加古川市との合併(3) 阿閇村(現:播磨町)は反対

2022-12-23 10:21:12 | 加古川市歴史探訪・別府町編

    別府町をゆく(84) 別府町(34)

     加古川市との合併(3)・阿閇村(現:播磨町)は反対

住民投票」(拘束力を持たない)の結果は、別府町と加古川町の合併は反対となりました。

 結果、今度は阿閇村(現:播磨町)との合併が現実的な協議にはいりました。

 事態は、加古川市制実施予定の昭和25年6月1日に向けてますますの緊迫してきました。

 町長・町議会とも最終的な態度を決めなければななりません。

 そのため、今度は拘束力のある「決戦投票」の結果にゆだねることを決めました。

 投票は、昭和25年5月6日に実施され、結果は次のようになった。

    加古川町との合併賛成     1250 票

       〃    合併反対     1164 票 

 *この投票には、「外国人(在日朝鮮人を指す)は投票せしめない」との注意書きがありました。

 結果は、加古川町との合併が賛成が反対を上回ったのですが、その差はわずかに86票でした。

 一部の議員からは「町長リコール」・「分村してでも・・・」という言葉まで飛び出しました。

     土山駅前問題(写真は駅南のJR土山ですが、別府町と合併問題になったのは主に土山駅北地区)

 このようなもたつきの中、二見町(加古郡)は明石市との合併を決めました。

 そして、阿閇村では「土山駅前問題」が発生しました。

 土山駅前は加古川町・阿閇村・魚住村・二見村が入り組んでいます。

 その内、阿閇村に属している土山駅前商店街が、加古川町への合併を強力に推し進めようとしました。

 阿閇村はさまざまな思惑と利害が対立し、村内がまとまらなくなりました。

 そのため、別府町との合併の是非を問う住民投票を実施しました。

 その結果は次のようで、はっきりと合併を拒否しました。

      現状維持  2548 票

     合併賛成  1502 票

 阿閇村は明確に合併を拒否しました。

 別府村は、投票の結果、加古川町との合併となりましたが、なにせ小差のため別府町は、最終判断を迫られました。



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別府町をゆく(83) 写真集・別府町(33) 加古川市との合併(2)  町長・木下収

2022-12-22 07:56:52 | 加古川市歴史探訪・別府町編

   別府町をゆく(83) 写真集・別府町(33

      加古川との合併(2)  町長・木下収

  三つの合併構想により別府町内の意見は分裂しました。

 そんな中にあって、町長・木下収は終始加古川市との合併を積極的に呼びかけ、町内の意見のとりまとめを図りました。

 彼の意見は『加古川市誌(第二巻)』に詳しく述べられているので参照ください。

 町内の合意形成を目指した木下町長でしたがまとまらず、昭和25年(1950年)日、町議会が開催され「(加古川市との合併に対する)住民投票」を行うことが決定しました。

 昭和25日、投票は実施され、結果は次のようになりました。(投票率 87.11%)

    投票総数 2745票 (他に外国人 80票)

    有効投票 2723票 (他に外国人 71票)

     賛成  1165票

      反対  1558票 

 結果は、加古川市との合併反対が賛成を393票も上回るというショッキングな結果でした。

 木下町長は、即日辞職願を提出しました。町議会で彼の辞職願は留意され撤回されましたが、ここに加古川市との合併は一頓挫してしまいました。

 写真別府町役場。別府町役場は、大正14年、多木久米次郎が新築し、町に寄付されました。

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別府町をゆく(82) 写真集・別府町(32) 加古川市との合併(1)

2022-12-21 10:19:27 | 加古川市歴史探訪・別府町編

      別府町をゆく(82) 写真集・別府町(32)

        加古川市との合併(1)

 別府町は、昭和26年(1951101日、難産の末、結果的には加古川市と合併した。

 そのようすを『加古川市史(第三巻)』でみましょう。

 別府町は海運船舶業がさかんで、別府町との合併は「臨海工業都市への発展」を秘めた極め て魅力的な青写真でした。そのため、別府町への合併の誘いは、加古川市だけではなかった。

      三つの合併構想

 加古川市から別府町へ合併の申し入れは、昭和24(1949でした。

 当時、加古川市との合併以外に、別府町には二つの選択肢がありました。

 一つは、加古郡別府町、阿閇村(現:播磨町)・二見町(現:明石市)が合併する東播臨海都市建設構想です。

 神戸新聞は「・・・・(阿閇村・二見町との合併は)あらゆる面で共通した条件を持つものの団結で、将来の発展を期したいという提案があり、全員が大体賛成の意向を示したのでちかく関係町村によって正式の合併相談が行われる模様である・・・」(昭和241117日)と報じました。

 今にも、別府と阿閇・二見との合併が実現しそうな雰囲気でした。

 もう一つは、加古郡別府町、高砂市、尾上村、荒井村、印南郡伊保村との合併構想です。

 高砂・尾上・荒井・伊保、そして別府を加えて一海岸都市を構想です。

 高砂市長のこの構想は、高砂・伊保を中心とする構想であり、別府町にとっては少し面白くない構想でした

 ともかく、合併の利害が対立し、別府町内は分裂状態となりました。

*『加古川市史(第三巻)』参照・写真は、別府町・加古川町の合併式

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別府町をゆく(81) 写真集・別府町(31) 小学校とクスノキ

2022-12-20 09:57:12 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

 

   別府町をゆく(81) 写真集・別府町(31) 小学校とクスノキ

  写真は別府小学校クスノキです。歴史の古い小学校には、よくクスノキがあります。

 今日は、小学校とクスノキについての紹介です。

 戦前の教育は、天皇中心の教育でした。

 楠木正成は、天皇の忠実な家来として、歴史上の人物としてだけではなく、精神教育で大きな役割をはたしました。

 小学校では、楠木正成の精神をあらわす樹木としてクスノキが植樹されました。

 それも、複数のクスノキが植樹されました。

 播磨小学校(播磨町)では、もとは校庭にク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲと8本のクスノキが植えられていました。

 「忠臣楠木正成」を表すために6本を植えたり、「楠木正成」と4本を植えられた例もありました。

 そのクスノキも戦後、児童数の増加やスポーツ熱のさかんになるにつれ、歴史の証として一本を残してほとんどが伐採されました。

 別府小学校もそんな例の一つと思われます。

 大正十四年卒業のTさんは「校庭には三本ならんで楠木の大木が大きく四方に枝を張って、・・・」と、『別府小学校創立百年誌』に投稿されています。

 旧校舎時代の校庭には、写真下のように確かに3本の楠木があります。

 元から3本で、「大楠公」をあらわしたのかもしれません。

 現在の校門のところの楠木の巨木は、かって運動場にあった楠木の一本です

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別府町をゆく(80) 写真集・別府町(30) 山電別府駅舎改築

2022-12-19 08:59:40 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

    別府町をゆく(80) 写真集・山陽電車別府駅(30) 駅舎改築 

 前号の「別府町をゆく(79)」をもう一度ご覧ください。

 写真は、昭和63年当時の別府駅です。

 その下の写真の前(南)は畑です。

 「この駅はどこでしょうか」とクイズになりそうです。

 子どもたちにとっては、とっても想像できないでしょうね。

 風景は、激変しました。

 畑は、商店にかわり、その南の道を隔て「イトーヨーカ堂」につらなっています。

 神戸製鋼所が別府に進出し、イトウヨーカ堂ができ、人口は急増しました。

 別府駅は、改築されました。

 *写真:改築中の山陽電車別府駅(昭和63年撮影)呉田利明氏提供

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別府町をゆく(79) 写真集・別府町(29) 山陽電車旧別府駅舎

2022-12-18 07:56:45 | 加古川市歴史探訪・別府町編

        別府町をゆく(79) 写真集・別府町(29) 山陽電車旧別府駅舎

 写真昭和34年に撮られた懐かしい山陽電車の別府駅舎です。

 年配の方にとっては、たまらなく懐かしい写真だと思います。

 私も地元の者ではないのですが、なぜかこの駅舎は印象に残っています。何回もブログ等で紹介させていただきました。

 昭和34年当時、神戸製鋼所はありません。

 乗り降りの客も、少なかったのでしょうね。

 その後まもなくして、神戸製鋼所ができ、イトーヨーカ堂もできました。

 山陽電車・別府駅の利用者が増え、手狭になり、別府駅は改築されました。

 次回は、別府駅改築の写真の紹介です。

 *写真:旧山陽電車、昭和34年撮影(呉田利明氏提)

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別府町をゆく(78) 写真集・別府町(28) 台風23号の高潮被害(2) 

2022-12-17 07:25:29 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

  別府町をゆく(78) 写真集・別府町(28) 台風23号の高潮被害(2) 

 台風23号(昭和40年)から続いた高潮・豪雨は東北播各地に悲惨な爪跡を残しました。

 別府町の高潮に見舞われた海岸線のゼロメートル地帯の被害は、ひどい状態でした。

 その後、護岸工事が行われ、現在まで、以後被害は経験していません。

 でも、災害で一番恐ろしいのは「経験の風化」です。自然災害は、しばしば忘れた頃におきています。

 今、注意をしておかねばならないのは「南海地震」の津波でしょうね。

 ハザードマップを確かめておきましょう。     

 *写真:呉田利明氏提供



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