ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

野口町をゆく(15) 教信物語(2) 教信の死

2022-05-31 06:02:47 | 加古川市歴史探訪・野口町編

   野口町をゆく(15) 教信の死

      教信『今昔物語集』に登場

 『今昔物語(こんじゃくもがたり)は、平安時代末期に成立したと考えられている説話集です。

 その『今昔物語」に、「播磨国賀古駅(かこのうまや)の教信が往生すること」と教信の死が登場します。

 教信は、平安時代でも、広く知られ尊敬を集めたお坊さんとしています。

 それでは、『今昔物語集』に登場する教信の話をしましょう。

      教信の死(『今昔物語集』より)

 大阪の箕面市に、勝尾寺(かつおうじ)があります。

 勝尾寺のお坊さんの勝如(しょうにょ)は来る日も、くる日も一心に念仏を唱えていました。

 ある夜、誰かが訪ねて来ました。しかし、勝如は無言の行の最中でした。

 返事ができないので「ゴホン」と咳払いをしました。

 すると、訪問者は「私は、加古の野口の里の教信と申すものです。

 「私も一心に念仏を唱えてまいりましたが、今日願いのとおり、極楽浄土へお参りすることができました。

 あなた様も、来年の今月今夜(8月15日)に、お迎えがございます」そう言い終わると、訪問者の声は、スーとすっと消えたのでした。

 ビックリした勝如は、次の朝さっそく弟子の勝鑑(しょうかん)を野口の里へやりました。

 すると、庵の前に死人が横たわり、犬や鳥が争って食っているのでした。

横にいる老婆に聞くと、「この死人は、私の夫の教信で、昨夜なくなりました。遺言で、自分の遺骸を鳥獣に施しているのでございます」と答えるのでした。

 この話を聞いた勝如は、以後念仏ばかりでなく教信のように実践にも、いっそうはげむようになりました。

 そして、教信が告げた日(貞観9年8月15日)に勝如は亡くなりました。

 勝如様も教信様のもとに行かれたのだろう・・・」と人々は、囁きあったということです。

 この話は、10世紀末、慶滋保胤(よししげのやすたね)が著した『日本往生極楽記』に記された説話です。

 *写真:死後、お首だけがそのまま残ったという故事により作られた教信首像(教信寺蔵)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(14) 教信物語(1) 称名念仏の先達

2022-05-30 07:13:59 | 加古川市歴史探訪・野口町編

        野口町をゆく(14) 教信物語(1) 称名念仏の先達

 野口町の教信寺は、僧教信の説話を伝える寺院です。

 教信は、謎を秘めた不思議な僧です。

 生年は不明で、866(貞観8)年に没したとされていますが、実在を示す確かな資料はありません。

 ですが、「阿弥陀仏の名をひたすら唱え、すがると往生できる」とする、いわゆる「称名念仏」の先達(案内者)として、多くの説話にで強烈な印象を刻んでいます。

 殊に、後の親鸞・一遍などにも大きな大きな影響を与えました。

 日本の仏教史にとって欠かすことのできない存在となっています。

 その説話がつたえる教信を追ってみることにしましょう。

 *写真:桜と教信寺

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ひろかずのブログ・2」を引き続きご覧ください

2022-05-29 06:51:10 | 余話として

       「ひろかずのブログ・2」を引き続きご覧ください

 昨日、「広報かこがわ(6月号」の26面(裏面)をFBと「ひろかずのブログ・2」にUPさせていただきました。たくさんの方がアクセスをしてくださいました。ありがとうございました。

 なお、「広報かこがわ」には、QRコードがあります。QRコードからは、前号の「広報かこがわ(6月号)」の加古川人の続きです。

 おじいさん(78歳)がでかい顔をして登場していますがお許しください。

 「ひろかずのブログ・2」の読者が増えれば嬉しいのですが・・・

 

  広報かこがわ(6月号より)

     プロフィール

 郷土史家|飯沼博一さん

 加古川市出身、在住。社会科教諭として県立淡路農業高等学校(現、県立淡路高等学校)で勤務後、加古川市内の中学校で教え、平成16年(2004)に定年退職。平成18年(2006)から始めた「ひろかずのブログ」(現在は「ひろかずのブログ・2」)で、地域の歴史に関する情報を毎日発信している。著書に『A History of Kakogawa City(英語で読む加古川の歴史)』(2014年)や『加古川さんぽ 上・下』(2019年)等がある。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ひろかずのブログ・2」をご覧ください

2022-05-28 06:17:51 | 余話として

 

      「ひろかずのブログ・2」をご覧ください

 きょうは、「野口町をゆく」はお休みにします。

 

 皆さんのお宅に『広報かこがわ(6月号)』が届いたでしょうか。少し面はゆい記事ですが、26面(一番最後のページ)の「加古川人」に、大きく私をとりあげて下さいました。チラッとだけご覧ください。

 

  「ひろかずのブログ」が5000号を超えたので、終了宣言すると、一日に2000をこえていたアクセスが一挙に100(フェイスブックも含めて)ぐらに激減ってしまいました。

 寂しかったですね。

  そこで、現在は、「野口町をゆく」のテーマで、再度、加古川市野口町を歩いています。「この広報で読者が増えればいいのに・・・」と期待しています。

  お時間のある時に「ひろかずのブログ・2」をご覧ください。

  *写真:『広報かこがわ:6月号(26面)』

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(13) 古代山陽道(3)・駅池の堤防は古代山陽道か

2022-05-27 07:14:26 | 加古川市歴史探訪・野口町編

    野口をゆく(13) 古代山陽道(3)・駅池の堤防は古代山陽道か

 説明は『加古のながれ』(加古川市史編さん室)からの引用です。

 「古大内遺跡(賀古駅跡)」の場所を確認してください。

        古大内遺跡は、賀古駅(かこのうまや)跡

 ・・・加古川市野口町の古大内遺跡は、「賀古駅」の跡として、全国的に認められるようになりました。

 その北にある駅池の南岸から西進して、加古川平野を横切り、現在のJR宝殿駅あたりまでを直線で結ぶ道路の痕跡が見いだされました。

 これがおよそ1300年前に設けられた古代山陽道で、幅は約20メートルもあります。

 このような広幅・直線道路は全国七道にわたって敷設され、その最大の幹線道路が古代山陽道で、当時の30里、後世の5里ごとに駅家が設置されました。

 その一つが賀古駅家で、延喜式には駅馬40疋を常置したとありますから、日本一の大駅であったわけです。・・・(以上『加古のながれ』より)

        駅ヶ池の堤は古代山陽道か

 赤く塗った道が古代山陽道で、奈良時代につくられました。

 駅池も奈良時代に造られて、市内では一番古い池です。

 古代山陽道も駅池も共に奈良時代につくられました。

 このことは歴史的に証明されています。問題はここからです。

 古代山陽道と駅ヶ池の位置関係をご覧ください。

 駅池の南に沿って古代山陽道が走っています。

 これは偶然でしょうか。

 まず、古代山陽道が造られそれに伴い駅池が造られたと想像します。

 駅池がある場所は、地形は西に低く、北と東が高く、水が集まる場所にあります。

 当時の人は、ここに池を造り、水をため田畑を潤し、生活に利用することを考えたと思います。

 池をつくるための堤については、南と西に堤を防築けば池は完成します。

 問題は、南の長い堤防です。

 古代山陽道が駅池に沿っていることは、古代山陽道を駅池の南の堤防として利用したのではないかと想像するのです。

 古代山陽道は道幅20㍍前後あったといいます。また冠水しないために一段高く造られたでしょうから立派な堤防の役割を果たすことができます。

 整理します。

 駅池の北と東は土地が高く堤防の必要ありません。

 南は、古代山陽道が堤防の役割をはたした想像します。

 とするなら、駅池の堤防は西の古大内遺跡と現在の国道2号線まで、あるいは、もう少し伸びて教信寺の手前あたりまで築けば事足りたのでしよう。

 非常に合理的につくられた池と言えます。

 *図:『加古川市史(第一巻)』より

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 野口町をゆく(12)  古代山陽道(2)・賀古駅(かこのうまや):馬数はなぜ多い

2022-05-26 06:26:35 | 加古川市歴史探訪・野口町編

    野口町をゆく(12)

       賀古駅(かこのうまや):馬数はなぜ多い

 駅制の発足当時から、二百何十年かのちの延喜式に出てくるまでに、馬数には何回かの増減があったらしいのですが、なぜ賀古の駅が日本最大の規模になったのでしょう。

 京都府教委の高橋美久二技師は、かつて明石~賀古間に一駅、賀古-草上間に一駅が置かれていた時代があったと思われることから、この二駅が廃される時、各20頭ずつの馬を二分して、両隣へ10頭ずつ分けたため、賀古は両側から10頭ずつもらって、既存の馬と合わせて40頭になり、明石と草上は片隣から十頭もらって各30頭になったという仮説を立てておられます。

        野口は交通の要所 

 神戸女学院大教授・地理学専攻の渡辺久雄氏は、その40頭の必然性を次のように推理しておられます。

 「駅のあった場所は、昔の加古川べり。加古川は古代、ヒノカワと呼ばれ、川上にヒカミ(氷上)の名があるように、丹波への連絡路であり、さらに進めば、但馬や丹後へもつながります。

 加古川は、播磨の河川の中でも最大のヒンターランド(後背地)を持っているわけで、川べりの駅はたいへん交通量が多かったと思われます」と。 ・・・・

 私も、渡辺説に支持をしたい。

 というのは、渡辺先生が指摘さているように加古川(ヒノカワ)の役割とともに、加古川の河口の港の役割も無視できません。

 野口(賀古駅)は、人や物が大いに動いた交通の要所に位置していためなのでしょう。

 *写真:賀古の駅のあった場所(オークラ輸送機株式会社)にある説明板

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(11) 古代山陽道(1)

2022-05-25 08:22:42 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口町をゆく(1) 古代山陽道(1)

 7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強め、その勢力を、さらに拡大するために道を整備しました。

 とりわけ、奈良と九州の大宰府(だざいふ)を結ぶ山陽道は重要な道でした。

 街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたりました。

 野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれました。

 山陽道最大ということは、日本で最大の駅(うまや)が野口にあったということです。

 ふつう駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたのですが、賀古の駅は、40頭を数えていました。

 賀古の駅のあった場所は、古大内(ふろうち・野口町)に「駅が池(うまやがいけ)」があり、賀古駅のあったといわれている大歳神社あたりの調査が行われ駅跡であることが確かめられました。

 (蛇足)・・・駅に「馬へん」が使われているのは、駅はもともと電車ではなく馬がその役割をはたしていたためです。

 「賀古の駅」については後にさらに紹介することにします。

 奈良から野口まできた山陽道は、加古川の流れにゆく手を妨げられ、多くの場合、野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・魚橋というコースをとっています。

 古大内(ふろうち)は、「古大路(ふるおおじ)」が訛ったものではないかとも想像されています。

 *地図:「兵庫探検(歴史風土編)」(神戸新聞)より

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(10) 野口廃寺(白鳳時代)・日岡豪族は、どこに消えた

2022-05-24 10:01:56 | 加古川市歴史探訪・野口町編

       

 野口町をゆく(10) 野口廃寺(白鳳時代)・日岡豪族は、どこに消えた

 仏教が日本へ伝えられて比較的はやい白鳳時代(645710)に、加古川地方に仏教が伝えられています。

 野口町に、この時代の寺院跡があります。野口廃寺跡です。

 野口廃寺について『加古川市史(第一巻)』の説明の一部を読んでみます。

 (文章を若干変えています)

 ・・・古大内遺跡から駅ケ池をこえて北東500メートルに野口神社があり、その境内地をほぼ寺域として野口廃寺が想定されています。

 野口廃寺のあった位置は、明石・賀古の両郡一帯にわたる印南野台地の西端部にあたっており、しかもすぐ南方を古代山陽道が走っていて、まさに「野口」という名にふさわしい土地でした。

 いまだ本格的な発掘調査が行われていないため、遺跡・遺構の内容についてはよくわかっていません。

 ただ偶発的に掘り返された遺物や表面観察などの観察により、神社本殿裏からおおよそ90×60センチメートルの凝灰岩質の礎石を検出しているし、境内の数ヵ所において土壇様の隆起が認められ、その付近に古瓦類の散乱が多いところから、薬師寺式あるいは法隆寺式の伽藍配畳を想定する説が出されています。

     日岡豪族は野口へ?

 無責任な推理です。

 日岡山には多くの古墳があります。古墳時代、溝口(加古川市加古川町)に大きな古代の村があり、支配者は日岡山に古墳を築いたと考えられています。

 ここでは、彼らを「日岡豪族」と呼んでおきます。そして、「日岡豪族」は大和の政権とも同盟を結んでいたことがわかっています。

 日本の歴史は大きく転回しました。大陸から仏教が伝わり、比較的早い時期に加古川の地に仏教が伝えられたのです。

 この地方の豪族は大和にならって仏教を取り入れ、多くの寺院をつくりました。

 時代は、古墳文化から仏教文化へ代わりました。 

 白鳳時代(645710)の寺院跡が野口の外に西条・石守(ともに神野町)・中西(西神吉町)・山角(平庄町)等に残っています。

 無責任な推理は、ここからです。

 日岡山豪族は、どこに消えたか記録がありません。「日岡山豪族」が、敗れ去るほどの事件があれば、文字のない時代とはいえ、伝説など何らかの形で現在にメッセージを残こしていてもよさそうです。

 「日岡豪族」は、水害の影響もない、そして交通の要所である野口で寺院をつくったのではないでしょうか。野口廃寺が、彼らの日岡豪族の氏寺跡であると想像したいのですが、いかがでしょうか・・・

 *挿し絵:日岡豪族たち

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(9) 円長寺の盛衰

2022-05-23 08:29:53 | 加古川市歴史探訪・野口町編

          野口町をゆく(9) 円長寺の盛衰

 円長寺の境内に畳ほどの石板が3枚積まれています。

 円長寺の北側の小山は、4世紀後半の古墳です。

 もとは前方後円墳だったのですが、今から400年ほど前に、その前方部は削られ平にして円長寺が建て替えられています。ですから、現在の古墳は円墳のようです。

 この古墳に関して詳しいことはわかりませんが、「・・・この古墳に金のくつわがあるから円長寺が困ったらそれを掘り出せ・・・」という伝承がありました。

 明治6年、村の人はこの古墳を掘りました。当時、円長寺には住職はおらず荒れ放題でした。

 この時、おそらく多くの出土品があったようです。

 鉄のボロボロになった刀などが出土したそうですが捨ててしまったといわれています。

 ただ、この寺には銅鏃(どうぞく・矢じり)が残っています。

 この銅鏃は、朝鮮半島から伝わったもののようで、歴史的に貴重な古墳です。

 寺の境内にある天井石(写真)は、その時に掘り出されたものです。

 また、寺にあった古い書類は、邪魔になるといって三日間かかって全部焼いたとも言われています。

 この古墳の受難はさらに続きました。

 円長寺付近は砂地のため家を作る時に壁土などがあまりなく、そのため古墳の土を持ち帰ったと言われています。

 また、この寺の南にも小さな古墳があったようです。

 近くに聖徳太子と関係のある鶴林寺があり、さらに斑鳩・天王寺という地名が残っており、また別府鉄道をつくる時に多くの寺瓦が出土したという記録があり、近くに何ヶ寺の寺があったと想像されます。

 かつて、円長寺は大きな寺であったらしいのですが、今から600年ほど前(室町時代)に兵火に焼かれその勇姿はなくなりました。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(8) 長砂の弥生住居遺跡

2022-05-22 05:17:59 | 加古川市歴史探訪・野口町編

       野口町をゆく(8) 長砂の弥生住居遺跡

 昭和25年5月のころでした。Sさんが畑を耕していました。黒い土が落ち込み、他のところと色が違っている部分があることに気に気がつきました。

 地元の高校生が調べたところ、どうも大昔の住居跡のように思われました。

 彼らは『郷土研究部報』に、次のように掲載しました。

 

 ・・・地表から40センチぐらい低くなり、4メートル位の方形の住居跡と思われるものが4つあった。

 中央には直径15センチぐらいの穴があり、これに柱を建てたものと思われる。

 一番南の穴からは、土器が出土した。

 これを専門家に見てもらうと、弥生時代後期(2・3世紀ぐらい)のものということがわかった・・・

 

 しかし、残念なことにさらに詳しい調査が行われないままに終わってしまいました。

 この長砂(円長寺)の住居跡のそばに前号で紹介した円長寺聖陵山古墳があります。

 この盛り土の中に古墳時代より古い時代の弥生時代の土器片が多数含まれています。

 ということは、この聖陵山古墳を造る時に、この付近にあった住居を壊し古墳を造る時の盛り土にしたものと思われます。

 

 地図野標高5メートル以下の長砂(円長寺遺跡)が今日の歴史舞台です。稲作は5メートル付近で行っており、7.5メートル付近では畑作をしていたのでしょう。

 なお、標高10メートルより北は森林だったのでしょう。弥生・古墳時代の長砂辺りの風景を想像してみましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(7) 聖陵山古墳

2022-05-21 07:16:39 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

    野口町をゆく(7) 聖陵山古墳

写真は、野口町長砂の円長寺(昭和40年代の撮影か)です。

この写真の右隅に少し高まった丘が半分写っていますが、これが聖陵山古墳(せいりょうざんこふん)です。

もともと、前方後円墳であったのですが、明治7年に前方部を平らにし、寺をここに移したため、現在の墳丘は円墳のようにみえます。

また、寺伝は、天文 年(1544)に、この古墳から鏃(やじり)12本が出土した(今は7本が残っている)ことを伝えています。

この鏃などから判断して、この古墳は4世紀後半の古墳と考えられています。

また地形から、海とのかかわりを持つ豪族の墓でしょう。

ともかく、考古学では注目されている古墳です。

この古墳は、少なくとも2回の破壊を経験していますが、受難はさらにつづきました。

第二次世界大戦の末期、この古墳に横穴が掘られました。

そこで、加古川飛行場の通信部隊が通信業務をおこなっていたといいます。

なお、「加古川飛行場の飛行機が、この壕にかくされていた」という説があるのですが、これは間違いです。

いくらなんでも、この古墳の内部に飛行機は入りません。

*写真:昭和40年当時の円長寺(現在のお寺でありません)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(6) 印南の台地の降水量

2022-05-20 09:14:25 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

    野口町をゆく(6) 印南の台地の降水量

 印南野台地は水を貯めにくいジャリまじりの土からできています。

 それに、水を集める範囲が狭いのです。

 その上に、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、三重苦を背負ったような地域です。

 そのため、印南野台地の開発は、ずいぶん遅れました。

 少し横道にそれますが、印南野台地に降る雨についてみておきます。

     印南野台地の降水量

 図で、兵庫県の年間降水量を確かめてください。

 平均降水量は、日本海側で多く20002250mmで、印南野台地付近は1250mm前後で、1000mmの開きがあります。

 印南野は、きわめて雨の少ない地域となっています。

 一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の量しかありません。

 兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。

 積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります。

 この地下水が、灌漑用水として稲を育ててきました。

 雪が、交通の妨げになり邪魔者扱いされるようになったのは最近のことです。

 夏の降水量は、北部も瀬戸内地方もあまり大きな差はありません。

     苦難に立ち向かった人々

 印南野台地には多くの多く溜池がありますが、水利権のために、水源からの水は、農閑期にしか溜池に引き、貯めることができませんでした。

 雨が少ないことは、台地の農業にとって決定的な条件でした。

 つまり、印南野台地は、地質的な、地形的な、そして少ない降水量と言う不利な条件の中で農業をいとまなければならなかったのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(5) 海岸段丘は太古の海岸

2022-05-19 09:54:09 | 加古川市歴史探訪・野口町編

        野口町をゆく(5) 海岸段丘は太古の海岸

 野口を南から北へ歩くことにします。

 野口を流れる新井用水あたりの土地は急に高くなり、その後国道2号線あたりから更に高くなっています。

 この高くなった台地は、山陽本線を越えたあたりで、いったん下がり、また更に高い台地となっています。

 何段かの東西に続く坂があります。これらの坂は海岸段丘です。

 野口・平岡・播磨町の地域は、大きく3つの段丘からなっています。

 この段丘は、気候変動によるものです。

 およそ24万年前、地球が暖かくなり、海が大きく陸地に押し寄せる大海進がありました。

 やがて氷期になり、海は大きく後退(海退)しました。

 その後も地球は、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返しました。

 やがて氷河期が終わり、温暖な時期になると、海進があり海岸線で侵食作用が始まり、海蝕崖をつくります。

 海面は平らなため、野口から平岡町辺りでは東西に続く侵蝕崖ができました。

 次の寒冷期になります。海は再び遠くへ遠ざかります。

 次の温暖な時期には南の海岸で新しく海蝕崖を作ります。

 このようにして、印南野台地の周辺部では数個の段丘面が形成されました。

 海蝕崖のあたりは、長い歴史の中で緩やかな坂になって残っています。 

 12,3万年頃にも大きな海進ありました。新井用水あたりは海底となり、土砂が堆積しました。

 その後、またまた氷期に入り、海底は陸地になりました。時期は約6・7万年前から1万年前の時期です。

 この間に、峠池辺りに東西の一段高い段丘面が形成されました。

 新井用水より北の土地は、この時形成された段丘面です。

 古代において海蝕崖は、海岸だったのです。

 *図は『加古川市史(第四巻)』より(部分)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(4) 野口台地は海の底

2022-05-18 12:38:05 | 加古川市歴史探訪・野口町編

       

    野口町をゆく(4)  野口台地は海の底

 「野口」は、平野部と台地部で成り立っていますが、その台地部(印南野)を歩くことにしましょう。

 「この印南野台地は、かつて海の底であった」と言われて、信じることができますか。

 確かに海の底でした。

 それでは、印南野台地は、どのように形成されたのでしょう。

 図を見てください。この図は123万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。

 現在の印南野台地は海の底です。もちろん、新井用水から現在の海岸線までは当然海の底になります。

 この海に川を中心として周辺から土砂が流れ込みました。

 土砂は、海底では比較的平に堆積します。

 今度は、印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまりました。

 そして、比較的平らな海底であった海底が徐々に地上に姿を現しました。

 これが印南野台地です。

 印南の台地の隆起のようすは一様ではではなく、東の隆起が徐々に大きく、西の平岡・野口辺りでは小さな隆起でした。

 現在でも印南野台地の隆起は続いています。

 隆起の速度は、野口辺りでは年間0.125mmで、東の明石市魚住町辺りでは0.35mmとなっています。

印南野台地の誕生には、隆起作用の外に気候変動という、もう一つの要素が加わり特徴ある台地を作りあげています。

 気候変動と印南野台地については、次号「野口町を行く(4)」で調べることにしましょう。 

 *図:200万年前ころの海岸線(推定)(『加古川市史(第一巻)』より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口町をゆく(3)  加古川町の寺家町(村)は、野口村の人の開拓か

2022-05-17 06:25:40 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 前号の「野口町をゆく(2)・野口町誕生」で、教信寺の住職から「(野口の)寺家村が加古川町に移住した経緯が楽しみです」というコメントをいただきました。

 加古川町の集落が寺家町と呼ばれるようになった理由は、はっきりわかりません。いろいろな説があります。

   野口町をゆく(3)

    加古川町の寺家町(村)は、野口村の人の開拓

 昔から加古川町の寺家町は商業・経済の中心地でした。

 「なぜ、この地が寺家町と呼ばれたか」その訳を考えてみましょう。

 その一は、鶴林寺は大きな寺で、鶴林寺の小門がこのたりにもあり、寺家町の小門口(こもぐち)は、鶴林寺の小門のあったところで、このように鶴林寺との関係から寺家町となったとする説です。



 その二は、もと野口に寺家村がありました。

 この「寺家村」の寺は、教信寺でしょうね。

 野口の寺家村の人が加古川の開拓にあたり、その地を寺家村としたとする説です。

 加古郡に二つの寺家村があったので、人々の間で混乱もあったようです。明治初年に野口の寺家村は「大辻村」と名前を変えました。



 その三は、応仁の乱のころ、大きな寺であった常住寺や龍泉寺は荒れはて、人々は、小門(口)辺りに集落をつくり、住み着いたといいます。そのため、この集落を寺家村と呼んだというのです。

 はっきりとはしません。

 どの説がほんとうなでしょうね。

*写真:寺家町商店街の入り口あたり

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする