野口町をゆく(89) 大庫源次郎物語(16) 神戸の労働争議
大正6年、ロシア革命。ソビエト政府樹立。日本のシベリア出兵。そして翌7年(1918)ドイツの屈服で、世界を巻き込んだ第一次大戦は終わりました。
大戦は、日本に未曽有の好景気をもたらしましたが、源次郎たち工員が、高賃金をもらって生活が楽になったと思ったのは、ほんの一時期だけでした。
諸物価は急テンポで上昇しはじめ、賃金は日に日に下がる一方、労働者には深刻な問題となってきました。
当然、源次郎が朝夕出入する近所の一膳飯屋の料金もピンとはね上がりました。
「なんで、こんなに物が高うなるんやろ・・・・」
源次郎は、マツタ製作所をやめ、神戸の川崎造船所に入りました。
米騒動
大正7年7月22日夜、富山県の魚津町で漁民の妻たちが井戸端会議を開き、「不漁のうえ、米価がこう天井知らずにあがって、もうたまらない・・・」と、苦しい生活苦の声を上げました。
富山から始まったこの運動は、またたくまに全国に拡がり、激しさ増しました。米騒動のはじまりです。
源次郎のいた神戸の米騒動も11日に狼煙(のろし)をあげました。
12日、三菱造船所の労働者が社内で暴動を起こし、その夜一般市民を触発して数万人の群衆があふれる大騒動と広がりました。
喚声と怒号と、真っ赤な炎が一晩中、神戸の町をぬりつぶしました。
その夜、源次郎の若い血は騒ぎました。
この争議は、官憲の弾圧で労働者がわの敗北に終わりました。