ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

野口町をゆく(89) 大庫源次郎物語(16) 神戸の労働争議

2022-08-31 08:38:32 | 加古川市歴史探訪・野口町編

        野口町をゆく(89) 大庫源次郎物語(16) 神戸の労働争議
 大正年、ロシア革命。ソビエト政府樹立。日本のシベリア出兵。そして翌(1918)ドイツの屈服で、世界を巻き込んだ第一次大戦は終わりました。


 大戦は、日本に未曽有の好景気をもたらしましたが、源次郎たち工員が、高賃金をもらって生活が楽になったと思ったのは、ほんの一時期だけでした。
 諸物価は急テンポで上昇しはじめ、賃金は日に日に下がる一方、労働者には深刻な問題となってきました。
 当然、源次郎が朝夕出入する近所の一膳飯屋の料金もピンとはね上がりました。
 「なんでこんなに物が高うなるんやろ・・・・」
 源次郎はマツタ製作所をやめ、神戸の川崎造船所に入りました。

     米騒動

 大正7年7月22日夜、富山県魚津町で漁民の妻たちが井戸端会議を開き、不漁のうえ、米価がこう天井知らずにあがって、もうたまらない・・・」と、苦しい生活苦の声を上げました。
 富山から始まったこの運動は、またたくまに全国に拡がり、激し増しました。米騒動のはじまりです。

 源次郎のいた神戸の米騒動も11日に狼煙(のろし)をあげました。
 12日、三菱造船所の労働者が社内で暴動を起こし、その夜一般市民を触発して数万人の群衆があふれる大騒動と広がりました。
 喚声と怒号と、真っ赤な炎が一晩中、神戸の町をぬりつぶしました。

 その夜、源次郎の若い血は騒ぎました。
 この争議は官憲の弾圧で労働者がわの敗北に終わりました。

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 野口町をゆく(88) 大庫源次郎物語(15) 大砲の弾丸づくり・・・

2022-08-30 08:43:36 | 加古川市歴史探訪・野口町編

   

     野口町をゆく(88) 大庫源次郎物語(15) 大砲の弾丸づくり・・・
 夜学をやめて、そのぶんだけ残業を続けて給金を稼ぎ、少しでも多く家へ送金することにしましたが。
 砲兵工廠に年いて、賃金がいいといわれる大阪の兵器製造会社、マツダ製作所にかわりました。
 ここはロシアの砲弾を作っている工場で、大戦も終盤にきて注文が殺到、寝る暇もないほどでした。
 そんな中でも、源次郎は、時間があれば工業講義録を読む、つつましやかな生活でした。

    鉄のことしか知らぬ

 時々、高砂へ帰りました。
 「源次郎、まあ立派になって・・」めっきり白髪のふえた母とめは、成人した彼の手をとって、涙を流しました。
 父の与茂蔵も、日焼けした顔をほころばせて、息子の帰郷を喜こびました。
 「田んぼも昔のままやなあ・・・」
 源次郎は、大阪の薄汚れた工場街の灰色の空にくらべて、故郷の澄み切った夏の青空を見上げ、播州のよさをしみじみと感じるのでした。
 「乞食しても頭になれよ」と繰り返していた父の顔にめっきりシワがふえ、何となく年寄りじみてきました。
 「源ちゃんが帰ってきたんやて・・・・」話を聞いて、幼な友だちが、次々に訪れてきました
 もうみんな徴兵検査すませた若者たちばかりで、もう嫁をとって、子供のできた連中もいます。
 彼の歓迎会と、クラスの同窓会を兼ねて、仲のよかった連中が、加古川の料理屋へ集まりました。
 仲居の三味線に合わせて、小唄の一ふしを渋いのどで聞せる、いっぱしの商人もいます。

 でも、源次郎は飲めません。歌も歌えません。

 やがて、クラス会は少し白けて、お開きになりました。

 加古川から荒井村まで、一里の道を源次郎は一人で歩いて帰りました。

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野口町をゆく(87) 大庫源次郎物語(14)  向学心に燃えて

2022-08-29 08:22:38 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

      野口町をゆく(87) 大庫源次郎物語(14) 向学心に燃えて

 旋盤を動かす程度の知識では、ドイツ・クルップ社やイギリス・シーメンス社製の高級な工作機械を操作することはできません
 経験と勘だけで覚えた技術は、役立たちません。源次郎は、機械のことを一から勉強する必要があると痛感しました。
 「何か機械のことを勉強したいんやけど、働きながら行ける学校はないやろか」と、ある日、同僚に聞いてみました。
 「あほくさ。職人が何でいまさら学校に行かなならんのや。わいらは、腕一本で月、何10円も稼ぐんやで。学校へ行く暇があったら、工場で儲けな損や」
 でも、側にいた年長の職工は、「こないな戦争景気も、そう長くはないわい学校で基礎からしっかり勉強して腕のええ職工にならんと、もうす首切りの時代がきて、皆おしまいやで・・・」
 源次郎は、この言葉を聞いて決心しました。
   ◇手放さぬ講義録
 こうして当時、福島にあった関西商工学校に入学した源次郎は、歯を食いしばって勉強しました。
 学校と薄暗い電灯の下、機械や製図を、年下の少年たちといっしょに学びました。
 夜学から帰ると、下宿の三畳間のフトンにもぐり込んで、夜中の時、時まで勉強です。
 長い丁稚奉公に慣れてきた源次郎にとって、英語や化学方程式、物理用語の並んでいる分厚い工業講義録は、難解でした。
 工業講義録の表紙が、ボロボロになってきたころ、源次郎は同じ福島にある関西英学校に興味を覚えました。
 この英語を教える夜学にも入学しました。
 工廠の機械にも全部横文字の説明書がついているし、機械専門書にも、英語が出てきます。
 やがて、英学校での英語の勉強は、挫折する時がきました。
 長兄が兵隊に取られ、働き手を失った播州の家は、彼の送金が必要になってきたのです。

 英語の夜学はやめ、残業して給金を稼ぐことにしました。
 

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野口町をゆく(86) 大庫源次郎物語(13) 好景気

2022-08-28 07:25:03 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

    野口町をゆく(86) 大庫源次郎物語(13) 好景気

 大正源次郎は19のときでした。転職をし、大阪砲兵工廠へ旋盤工りました。
 大正(1914)、日本は第一次世界大戦に突入しました。
 翌年末ごろ輸出の急増で好況に転じてきました。
 というのは、ロシアやイギリスから軍需品の注文が殺到し、大戦景気のアメリカへは、生糸輸出が増大しさらに、大戦でストップしたヨーロッパ商品にかわり、日本商品が、中国や東南アジア、アフリカ諸国へどんどん輸出されるようになりました。
 大戦景気で砲兵工廠も残業、夜業で活気に満ちあふれるようになりました。
 源次郎は、兵器をつくるこの大工場機械の豊富なのにおどろきました。
 とにかく、ここでは見るもの、触れるもの、すべてが新鮮であり驚異でした。
 時期は、働けば働くほど金の入る職人の時代となりました。
 大戦の軍需ブームを背景に、源次郎は眠い眼をこすりながら砲弾仕上げに明け暮れる毎日でした。
 丁稚奉公で月、20銭の給金に大喜びしていた彼も、ついに残業手当をふくめ、月30円の給料を取るようになりました。
 源次郎は同僚たちから食事・遊びに誘われても、笑って断り、下宿~工場と往復するだけの毎日をすごしたのでした。

 播州の家には幼い弟妹や、貧しい父母がいます。
 徹夜で稼いだ夜勤料は、そつくり家へ送金しました。



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野口町をゆく(85) 大庫源次郎物語(12) 鮮血にまみれた試練

2022-08-27 07:46:05 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口町をゆく(85) 大庫源次郎物語(12) 鮮血にまみれた試練

 旋盤の上に鮮血がパッと散りました。
 主人をはじめ同僚が、ハンマーや鉄棒を投げ出し飛んできました。
 源次郎の左手は旋盤の匁に喰い込んで、血がほとばしっています。
 機械から引き抜いたその左手は、手首から甲にかけ、ぱつくりとザクロのように赤い傷口を見せ、白い骨が露出しています。
 みんなに抱きかかえられ、手ぬぐいでしっかり押えた源次郎の顔は蒼白になりました。
 励ます主人に、歯をくいしばりながら源次郎はいうのでした。
 「痛いことおへん。それより、わしの左手はもうあかんやろか。もう使えんやろか・・・」
 近所の外科医へようやく着きました。
 幾針も縫い上げられる左手の痛い感覚はそれほどなかったのですが、夢がようやくスタートしかけた時に、何といっても悔しい怪我でした。

 「こんな大けがをして、もうやって行けないのではないか」と口惜し涙がこぼれるのでした。
 「この傷じゃ、入院せんと無理だがなあ」と医者が主人にいっています。
 手術は、どうやらすみました。入院すれば付添いがいります。
 この京都に身寄りのない源次郎です。鉄工所も人手不足で、そんな余裕はありません。
 源次郎から事情を聞くと、医者はしぶしぶ通院を認めてくれました。
 東山に上った秋の月は、彼の顔色のように青白く、冷ややかに光り輝いています。
 全治するまで二ヵ月かかりました。
 源次郎は「モータ―の響きと旋盤のうなり声、ハンマーのカン高い音、油の匂い」それら中にいなければどうも落ち着きません。
 仕事が出来ません。その間、使える右手で、ここにある機械の構造をノートに書き写しました。
 図を引いていると、自分がしゃにむに覚えてきた仕事はすべて勘だけのもので、正確な操作の技術がもっと必要だと思えてくるのでした。

 

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野口町をゆく(84) 大庫源次郎物語(11) 活動写真と金平糖

2022-08-26 08:00:12 | 加古川市歴史探訪・野口町編

   

   野口町をゆく(84) 大庫源次郎物語(11) 活動写真と金平糖
 そのころ鉄工所の休みは、1日と15日の月2でした。
 源次郎は、休みの日には主人から20銭の給料(というより小遣い)をもらいました。
 朝から晩まで働いて20銭とは、いくら物価の安い当時とはいえ安すぎるようですが、それでも源次郎はうれしくてたまりません。
 昼食後、小遣いをもらい、鳥打帽のヒサシに手をかけ、勇んで外出しました。
 行先は、京都一の繁華街である京極へ行って、活動写真(いまの映画)を見ることでした。
 京極は、源次郎と同じような丁稚どんや、友禅工、西陣の女工たちが、はしゃぎながら雑踏の中を楽しげに歩いています。
 苦しい労働からやっと開放された一日です。故郷を離れて働く少年少女たちの瞳が、この日だけは生き生きと輝いていました。
 通りの中ほどにある八千代座で当時のピカ一の大スター「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の活動写真を見ました。
 五銭でした。堪能して小屋を出ると、赤い前垂れ姿のかわいい娘が給仕してくれる小さな飲食店で、ぜんざいを一杯ゆつくり食べました。
 これが一銭五厘。小豆がたっぷり入って、舌にじんと響くような甘さでした。
 店を出ると、少年たちが金平糖を露地裏の屋台のじいさんから一合一銭で買います。いつもこの屋台で買うので、じいさんも顔なじみでした。
 「おまけやで、ボン」一声かけて、ひとつまみ余分に入れてくれます。
 そのじいさんの手の深いしわ、ふと故郷の父を思い出いだすのでした。
  *挿絵:新京極の雑踏風景

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野口町をゆく(83) 大庫源次郎物語(10) 日本一の鍛冶屋になったる

2022-08-25 06:10:49 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口町をゆく(83) 大庫源次郎物語(10) 日本一の鍛冶屋になったる

 「こんなことばかりしとって、職人になれるんやろか」
 ある日、旋盤を扱っている兄弟子に聞いてみました。
 「あんた、いまみたいに上手に機械を使う職人にどないしてなったんや・・・
 「どないしてなったてか、お前みたいに修業してなったんや」兄弟子はニヤリと笑うのでした。
 「こんなふいご吹きと、使い走りばかりしとってなれるんか?
 「なれる。おれも見習中は、お前みたいなことを思とった」
 兄弟子の言葉で、彼の心に一つの大きな目標ができました。
      技術は盗むもんや
 三年目を迎えるころには、ぼつぼつ難しい仕事もさせてもらえるようになりました。
 当時の職人は仕事を教えてくれませんでした。
 「そいじゃ、帰らせてもらいまっせ・・・」旋盤の職人が仕事を終えて帰って行きます。
 この鉄工所にたった一台しかない旋盤は、宝物のように大事にしていました。
 源次郎は、彼の帰るのを待ちました。
 旋盤の扱い方は、毎日後ろからのぞいて見て、おぼろげながらわかっています。
 職人が、七時に帰ったあと、彼はあたりに気兼ねしながら、そっと旋盤のスイッチを入れ、夜更けまで練習しました。
 昼は職人の手付きをじっと観察し、夜は自分で動かしてみる。
 手先の器用な彼だから数カ月後には、職人に劣らぬほどの腕前になっていました。
 「どうも近ごろ、機械の調子がおかしい。源次郎、お前触ったんと違うか・・・
 でも、旋盤の魅力に取りつかれてしまった源次郎は、きつくいわれたのにかかわらず、職人の帰ったあと、触らずにはおれませんでした。
 旋盤を動かしていると、削ったボルトの破片が飛んで、旋盤にちょっとカスリ傷をつけてしまいました。
 このくらいならわからないと思っていたら、翌朝出勤してきた職人は源次郎をどなりつけました。
 「おい源次郎、あれだけいうとったのに、触って傷をつけたろうが。どする気や」平手打ちを頬に続けざまパンパンと食らいました。
 この様子を、じっと見ていた主人の中川がなだめて、源次郎にいいいました。
 「機械は、職人の生命や。そりゃ傷つけたお前が悪い。よう謝とき」
 そんな時、他の職人が辞めたので、まだ十代の若い源次郎を、中州鉄工所としては前例のない職人として昇格させ、機械がつかえるようになりました。

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野口町をゆく(82) 大庫源次郎物語(9) ふいご吹きと使い走り

2022-08-24 07:26:31 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

  

野口町をゆく(82) 大庫源次郎物語(9) ふいご吹きと使い走り

 源次郎は、頬を風船玉のようにふくらませ、顔をまっかにしながら、毎日フウフウふいごを吹きました。

  見習修業は、厳しいものでした。鉄工所へ入ったというのに、仕事らしい仕事は、何もさせてもらえません。

  朝、暗いうちに起きると、まず工場内の掃除。油でよごれ、鉄片の散った工場の掃除は難しいものでした。
 それがすむと、ふいご吹き。
 上手に火を起さないと兄弟子たちから、いやというほど怒鳴られました。当時の職人修業は、一人前になるのに十年と言われていました。
 一年余りは、ふいご吹きと使い走りだけで過ぎてしまいました。
 丁稚(でっち)車と呼ばれる荷車を曳いて、遠い所まで得意先をたずねたが、見当らないこともしばしばでした。
 思案に暮れて帰ってくると「もう一ペん行って捜してこい」と怒鳴られるのでした。
 「おかぁん」と呼んで大声で泣いてしまいたいこともしばしばでした。
 この年(明治45年)の727日、京の町はむし暑い夏でした。
 明冶天皇御不例の発表が宮内省から行われ、30日崩御。明治は終わりました。
 そして、913日、大葬の夜、乃木将軍夫妻が壮烈な殉死をとげました。

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野口町をゆく(81) 大庫源次郎物語(8) 京都へ(2)

2022-08-23 08:57:57 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

       野口町をゆく(81) 大庫源次郎物語(8) 京都へ(2)
 明冶452月。別れの朝がきました。源次郎は大きな鳥打帽をかぶり、母が縫い上げた着物三枚と手ぬぐい、下着などわずかの品を入れた柳行李を持ち、京都まで父の知人と馬車ででかけました。
 とめ(母)は、目に涙をいっぱいためて、くどくどと源次郎に語りかけるのでした。
 源次郎は、見知らぬ都会で見習奉公する不安に身震いをおぼえました。
 「行ってくるで、おとう、おかぁん。みんな達者でなあ・・

 「のう、源次郎よ。病気だけはするなよのう」
 母の声は涙にとぎれ、手をふる弟妹の姿も、土煙の道の彼方へ消えきました。
 加古川駅から、はじめて汽車の旅でした。
 故郷に別れを告げた寂しさより、源次郎は汽車に興味を持ちました。
 窓の外の田や畑、海浜・・・あっという間に通り過ぎます。源次郎は汽車のスピードに、ただただ驚きました。
 京都まで四時間。早い冬の空は、たそがせまっていました。
 「京都、京都オー」
 源次郎は、まず人の多いのに驚きました。
 ほんまに、こんな町で暮して行けるんやろうかだんだん心細くなってきました。
 三条大橋を渡った人力車は、狭い道を曲って、中川鉄工所と看板の上がった薄暗い板塀の前で止まりました。


      鉄工所で見習奉公

鉄工所の主人は、目付きは鋭いが、なかなかの人情家のようです。

当時の京都での機械類のお得意先は、何といっても日本一の高級織物メーカーである西陣でした。
 友禅染めの染色機械や、織機の部品注文や修理がほとんどの仕事で、京都には機械を修理、製造する「仕上げ屋」が多くありました。

*挿絵:京都駅
 





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野口町をゆく(80) 大庫源次郎物語(7) 京都へ・・・

2022-08-22 07:31:56 | 加古川市歴史探訪・野口町編

   

   野口町をゆく(80) 大庫源次郎物語(7) 京都へ・・・

 源次郎は、生まれつき器用な子でした。
 貧乏な百姓の二男坊がに、おもちゃなんて買ってもらえません。
 木でも石でもいい、何か持っているうちに、遊ぶものを作っているという子でした。
 「源ちゃんは、大工になったらええんや」友達は口々にいうのでした。
 源次郎も「そうやな、大工もええなあ。それとも左官かなあ」と思ってみました。
  父の知り合いに相談しました
 「これから職人になるのやったら西洋鍛冶屋になったらええ・・・」「西洋鍛冶屋」は、聞きなれない言葉でした。
 源次郎の探究欲がむらむらと湧いてきて、その名のハイカラな響きも気に入りました。
 「おっちゃん、西洋鍛冶屋ってどんな仕事やねん」
 「はあて、わしにもくわしいことは、ようわからんけど、うちの嫁はんの弟が京都で機械の仕上げ屋をやっとる。西洋鍛冶屋いうたら機械を作ったり、修理したりするんや・・・」
 近ごろこの播州平野の海岸よりに、あちこち工場ができて、大きな煙突が人の目を驚かせていました。その中にあるまだ見たこともない機械を作るというのでした
 「おとう。わしゃ西洋鍛冶屋になる。やらしてくれや」

 源次郎は立ち上がって、大きな声で父に向って叫ぶのでした。
 「そやけど、そんな仕事は高砂にも、加古川にもありゃせんが。そんなら京都か大阪へ行かなならんが・・・」
 母・とめはこの話を聞いて頭から反対した。
 「源次郎を京へやるちゅうのは、とんでもないことや。そんな遠い所へ行ってしまったら、もう会えんやないか」
 源次郎には、母の心配も通用しません。母を説き伏せて京都へ行くことに決めてしまいました。
 「源次郎や、京は底冷えするちゅから、身体だけは気をつけや」と、とめは、出発の日が迫ると毎日のように繰り返すのでした。



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野口町をゆく(79) 大庫源次郎物語(6) 手製の教科書

2022-08-21 08:37:38 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

    野口町をゆく(79) 大庫源次郎物語(6) 手製の教科書

 源次郎は、百姓仕事に追われ、出席も危なくなりました。
 それに、予習復習の時間充分できません。ですが、通知簿には甲がずらりと並びました。
 高砂の町から通学する子たちは、親から教科書はもちろん、参考書も買ってもらい、風呂敷に包んで登校するのが普通でしたが、源次郎は、教科書も買えません。
 父と約束して進学した以上、40銭の月謝も肥え汲みや近所の子守り、野良仕事などのアルバイトで稼ぎました。
 そして、教科書は、全部写すことにしました。

 友達に頼んで新しい教科書が出ると借り暗いランプの下で、毎夜遅くまで、毛筆で半紙に写し取りました。
 写す間に教科書の内容もわかりました。手製の教科書が一冊でき上がると、級友より完全に一歩先にマスターすることができていました。
 「源やんの教科書」は、もう学校で誰も知らぬ者がいないほど有名になっていました。



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野口町をゆく(78) 大庫源次郎物語(5)  乞食しても頭(かしら)になれ

2022-08-20 09:26:28 | 加古川市歴史探訪・野口町編

  

    野口町をゆく(78) 大庫源次郎物語(5) 

           乞食しても頭(かしら)になれ

 「乞食してもええが、頭(かしら)になれよ。頭に・・・」
 夜、疲れ切って、せんべいぶとんに横になった源次郎に父は、よくこういいました。
 貧しい百姓として一生歩んできた父は、せめてわが子には人さまの上に立つ人間になってほしかったのです
 当時の高等小学校では難解な漢文の時間がありました。
 ある時、目玉のこわい教師が「鶏頭となるも牛後となる勿れ」と黒板に大書して、「のう、こらい。こりゃあ古いことわざや。大きな組織の下っ端で、ぶらぶら働いているよりも、どんなに小そうてもええ、独立独歩、一人でやって、その頭(かしら)になれちゅうことじゃ。わかったか・・・」
 源次郎はこれを聞いて、身震いをしました。
 「そうじゃ。先生のいう通りじゃ。おとうは、常々このことをいうとったんや。乞食しても頭になれちゅうことは、鶏頭となれと言うことじゃ
 おとうはやっぱりええことをいうとったんやなあ・・・」源次郎は、目を輝かせて黒板の字を見つめました。
 「ようし、わしゃあどんなことがあっても人を使ってみせたる。どんなに辛いことがあってもやったる」

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野口町をゆく(77) 大庫源次郎物語(4) 汲み取りのバイト

2022-08-19 12:45:59 | 加古川市歴史探訪・野口町編

         

  野口町をゆく(77) 大庫源次郎物語(4) 汲み取りバイト
 高砂高等小学校の月謝40銭はこたえました。
 そのころ、高砂の町の下肥えの汲み取りは荒井村の農家が請合っていました。
 ある時、都合が悪くて汲み取りに行けなくなり町の人たちは困り切っていました。
 高砂町は、古くから播磨の良港で裕福な町です。
 そのため、隣接の荒井村を小馬鹿にして在の者と呼び、低く見ていました。
 だが都合の悪いときは仕方がありません。農繁期の村は猫の手も借りたい時に、高砂まで汲み取りに行く者はいません。
 その話を聞いて、源次郎は、「よっしゃ。わしにまかさんかい」と胸を叩いて、この仕事を引き受けたのです。
 翌日から源次郎の活躍が始まりました。学校へ行く日には朝夕二往復だけでしたが、日曜日は忙しくなりました。
 大八車を借りてきて、実家から持ち出してきた肥え桶を積んで、高砂、荒井の間を行ったり、来たり、暗くなるまで汗水流して車をひきました。
 田んぼ道では、ふところから手製教科書を出して読みながらの往復です。

(手製の教科書については後に説明をしましょう)
 おかげで、月謝にお釣りがくるほど心付けをもらいました。
 「人のいやがる仕事でも、やってみりゃ、やれんこともないがな」と痛む腰をさすりながら笑うのでした。
 こんな源次郎を、高砂の町中から通学する同級生の中には「源次郎の奴は汚い肥え汲みまでして月謝を稼ぎよる。ああまでして学校へ行かんでもええやろうに・・・・」と冷たい目を向ける連中もいうのでした。



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野口町をゆく(76) 大庫源次郎物語(3) 学校へ行かしたる

2022-08-18 07:50:16 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口町をゆく(76)大庫源次郎物語( 学校へ行かしたる

 「おおい。旅順が陥落したぞ・・・」雪の深い明冶38年の元旦でした。
 大国ロシアとアジアの一小国との戦争は他人事ではありません。

 旅順要塞は堅固だった。来る日も来る日も、日本軍全滅の暗いニュースばかりでした。
 そこへこの快報でした。「おとう 旅順の話聞かしてや・・・
 源次郎は、父にせがみましたが、父は苦笑するかりで教えてくれません。

当時の百姓に多かったように源次郎の両親も字を知らなかったのです。
 新聞を読むことができませんでした。その年の27日、日本海海戦。郷平八郎ひきいる連合艦隊はハルチック艦隊を撃滅させました。
 父は、手紙も読めませんでした。「勉強さえやっとったらのう。わしもいつまでも水呑み百牲やっとらんけどなあ」父は、くやしく思うのでした。
 「どもたちには、勉強をちゃんとさせておなあかん・・・、これからの世の中を渡るのに一生苦労するだろう」と思うのでした。
 苦しくても子供には学校教育を受けさせようと決心ました。
 ある日、仕事も終わり、夕食が始まる前、父は源次郎を呼びました。

こんど高砂の町に高等小学校(高砂高等小学校)ができるちゅうが、お前行かしたる・・・どんなことしても行かしたる。その代り、お前も辛いやろが、月謝ぐらい自分で稼いで、よう勉強せなあかん・・・」と。



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野口町をゆく(75) 大庫源次郎物語(2) 働けど、働けど

2022-08-17 06:28:18 | 加古川市歴史探訪・野口町編

      野口町をゆく(75)大庫源次郎物語(2) 働けど、働けど

 播州平野はまだ眠っていました
 午前時。冬の明け方は、厳しい冷え込みでした。
 薄暗いたんぼの畔道を一人の少年(源次郎)が足早やに歩いてきます。
 カスリの着物に素足の草履ばきです。
 しだいに、東の空が赤味を増して朝がはじめました。
 高砂の町までは2キロ。ほんのひと握りほどの大根や白菜を町のに届けて、五銭ほどの金を貰わなければ、源次郎の日課は、はじまりませんでした。

小西源次郎(のちに養子縁組、大庫と改姓)は、明治36(1897)1216日、父・与茂蔵、母・とめの二男として出生しました。
 加古郡荒井村小松原462番地(現在の高砂市)が出生地です。
 源次郎の生まれた年は、日本は明治2728年の日清戦争も勝利に終わり、欧米列国の注目を集め始めました。
 官営八幡製鉄所が設立され、ましたが、いっぽう、会社倒産が続出した暗い年でした。
 小西家は、代々の小作農家で、収穫の七割余も年貢に持っていかれました。
 女、子供もまじえて朝早くから夜暗くなるまで総出で働きました。
 幼い源次郎には夏の草取りが一番辛い仕事でした。
 田んぼの端から雑草を刈りはじめて、汗水流して草取りして夕方帰ってみると、先の所にはもううっすらと憎い雑草が生えているのです。
 一反当たり二石五斗から二石八斗の米がとれましたが、そのうち地主に一石八斗は持って行かれ、残りで肥料を買ったら、ほとんど残りません。
 どんなに苦しくても、肥料を買って次の年の米を作らねば生活できません。

現金ないから、肥料は、から借用証と引き換えに買いました。毎月30銭の利子を払わねばなりません。
 支払日は、30銭がないため母・とめは、一日中家の内外を隠れまわったり、雨戸を閉めて子供たちと息をひそめて借金取りが帰るのを待ったこともしばしばでした。
 小西家には、源次郎のほかに五人の子があり「貧乏人の子沢山」といわれるように親子八人が食べて行くには並大低のことではありません。
 朝は、三時か四時に起きて野良仕事に出かけあい間には、畠を耕やして野葉をつくりました。
 兄・熊太郎、姉・せんは、父といっしょに野良へ出ました。ゆき、幸次の幼い弟妹たちも近所の子守りをしたり、牛を加古川の河原に連れだし、草を刈って干草作りをしました。
 夜は、身体の節々が痛くなるほど疲れている父と母は、まだ眠れません。
 父は、ワラをなって草履や縄つくり、とめは六人の子のつくろい物に針を動かしました。

*写真:*写真:大庫源次郎の生家







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