ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

東神吉町をゆく(11) 蝦夷がいた(2) 佐伯氏と蝦夷

2023-11-30 08:03:11 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(11) 蝦夷がいた(2) 佐伯氏と蝦夷

 今回の「蝦夷がいた」は、ビクビクしながらの紹介です。軽く読み飛ばしていただいても結構です。升田の「佐伯寺」にこだわっています。



 東神吉町升田集落の中ほどで、集落を東西に走る古代山陽道沿いに佐伯廃寺跡があります。

 石の多宝塔(写真)が残っています。

 記録によると、佐伯寺は鎌倉時代の後期に建設されたといわれています。

 ところが、嘉吉の乱(1441)の時、寺は赤松氏に味方したため焼き討ちにあって、跡地に多宝塔だけが残ったようです。

 古代の佐伯氏の話です。

 桓武天皇の時代、佐伯氏は、蝦夷(俘囚)の管理にあたっていました。印南郡にも俘囚がいたことが確認されています。

 とするならば、佐伯寺は蝦夷の管理にあたり、この辺りを支配した古代豪族・佐伯氏のられるのかもしれません。

 『日本三代実録』の仁和三年(887)七月の条に、印南郡の人・佐伯是継が、居を山城(京都)に移したことがみえます。

 是継の一家はこの時、山城へ移住したと思えますが、一族の一部はこの地に残留したのでしょう。

 そして、彼ら子孫は升田に佐伯寺を建設したとも想像します。



 尚、佐伯寺の多宝塔ですが、石づくりの多宝塔の数は極端に少なく、信濃が10基で過半数をしめ、近江・伊賀に二基、その外には大和・和泉・備中・播磨に各一基あるのみです。

 播磨の一基とは、もちろん升田の佐伯寺跡の多宝塔のことです。

 *写真:佐伯寺跡に残る多宝塔(『加古川市史(一・七巻)』・『加古川市の文化財』参照)

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東神吉町をゆく(10) 蝦夷がいた(1)

2023-11-29 08:45:29 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

       東神吉町をゆく(10) 蝦夷がいた(1)

 少し話題を変えましょう。司馬遼太郎の小説『空海の風景』の最初の部分を読みす。

 空海の家系伝説では、空海は讃岐佐伯氏の出として語り継がれています。

 讃岐佐伯氏は、中央の軍事氏族の佐伯氏とは別系統です。

 少し説明が必要です。

 空海は、桓武天皇の時代と重なり、桓武天皇は蝦夷と戦いました。

 結果、多くの蝦夷が捕えられ、奈良に住まわされました。

 捕えられた蝦夷は、俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、容易に従いませんでした。

 そこで、国は、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波等の畿外に分散して住まわせることにしました。

そして、俘囚を管理する地方豪族に佐伯直(さえきのあたい)という姓(かばね)を与えたのです。

俘囚を管理した地方の佐伯氏は、中央の軍事氏族である佐伯氏と同盟関係を結んでその指揮を受けたと考えられます。

 話題を播磨にもどします。

『日本三代実録』(貞観八年・866)に、近江の国から太政官に「播磨国の賀古・美嚢二郡の俘囚が勝手に近江に来ている・・・」と訴えた記録があります。

 加古郡に蝦夷がおり、印南郡にも俘囚のいたことが『日本後記』にみえます。

 今回は、印南郡・加古郡に蝦夷がいたことにとどめておきます。次回に、東神吉町と蝦夷について考えてみます。

 *『加古のながれ』(加古川市史編さん室)・『空海の風景』(司馬遼太郎)参照

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東神吉町をゆく(9) 古代山陽道は升田をはしる

2023-11-28 09:26:31 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(9) 古代山陽道は升田をはしる

 『日本書紀』は、大化二年(646)正月の条の「改新の詔」に、「初めて・・・駅馬・伝馬を置く」とあります。

 新しくできた政府は、まず全国の道を整備し、各地に駅(うまや)をおきました。

 とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は最も重要な道でした。

 当時の国道1号線です。

 

 奈良から加古川の野口まで伸びた古代山陽道は、しばしば、加古川の流れに行く手を妨げられました。

 古代山陽道は、今の国道二号線に沿ってつくられたが、そこは加古川の氾濫原でした。

 そのため、確実に物を運ぶため、古代山陽道は、野口から日岡山へ、そこから升田へ渡り、升田・大国・岸・魚橋というバイパスが多く使用されたようです。

 つまり、升田の集落は古代山陽道のバイパスが通った集落でした。

 つまり、奈良時代、日本最大の道が升田山の麓に沿ってはしっていたのです。平安時代も状況に、大きく変化はなかったようです。

 *図:古代山陽道のバイパス(図の点線)、宝殿から南東延びるのが古代山陽道(神戸新聞より)



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東神吉町をゆく(8) 益気里(やけのさと)・里含芸里(かむきのさと)

2023-11-27 06:40:34 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

   

   東神吉町をゆく(8) 益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)

 升田山を横断して麓(升田)に降りてきました(地図の赤い線)。平地部を歩いてみましょう。

 「神吉(かんき)」について考えてみます。

 『播磨国風土記』の印南郡に、「含芸の里(かむきのさと)の伝承があります。

 伝承は「・・・仁徳天皇の時代、他田熊千(おさだのくまち)という人が酒を甕に入れて馬の尻にくくりつけ、家をつくる土地を求めて旅をしていましたが、この村で甕を落としました。

 そのために、この村を甕落(かめおち)といい、この甕落(かめおち)が訛ってカムキになり、カンキになった」としています。

 どうもあやしい話です・・・

 神吉(かんき)の地名のおこりは、結論を先にいうと「はっきりとわからない」というのが真相のようです。

         益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)

 『風土記』は、奈良時代、国ごとの産物・伝説・土地の質などをまとめた地理・歴史書です。

 奈良時代、地図にあるように、印南郡には益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)・大国の里・六継里(むつぎのさと)等が見えます。

 もっとも、古代の里は、必ずしもはっきりとした境界で分けられた地域ではありません。

 升田山付近の里は、益気里と含芸里で、東神吉町から平荘町にかけての加古川右岸(西岸)と推測されます。

 

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東神吉町をゆく(7) 升田山を歩く(6) こけ地蔵

2023-11-26 07:12:44 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

   

       東神吉町をゆく(7) 升田山を歩く(6) こけ地蔵

 ウェルネスホールへの坂の登り途中で、道を右(東)に少し入ると「こけ地蔵」があります。

 すぐ南の道を5分ほど歩くと升田山15墳です。たぶん、この「こけ地蔵」は、この古墳の石棺の蓋に刻まれた仏様でしょう。

 平安時代は、「鬼」や「もののけ」が信じられ、呪詛(じゅそ)が広く行われていました。その役割を担ったのが陰陽師(おんみょうじ)でした。

 良く知られている陰陽師は、安倍晴明(あべのせいめい)であり、それに対抗した陰陽師は、西神吉町岸に生まれたという蘆屋道満(あしやどうまん)でした。

 道長との対抗に敗れた道満は播磨へ流罪となり、一説では晩年は西神吉町岸の近くで余生を過ごし、亡くなったといいます。

 ある夜、式神は天下原(あまがはら)の空を横切り、むかし修業をした古墳に近づきました。

 *式神(しきしん・しきがみ):陰陽師の命令に従って、呪詛・妖術などをおこなう鬼神

 式神は、そこに懐かしい石棺の蓋があるのに気がつきました。

 石棺の蓋には、地蔵の姿がありました。

 式神と地蔵は、「お前は石棺だ・・・」、「俺様は、地蔵だ・・・」とお互いに言い争いました。

 式神は、地蔵に体当たりしました。。地蔵は、前に傾きました。

 村人は「お気のどくに・・・」と立て直すが、朝になるとまた地蔵は倒されているのです。

 こんなことが繰り返され、この地蔵は「こけ地蔵」と呼ばれるようになったといわれています。

 *写真:コケ地蔵

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東神吉町をゆく(6) 升田山を歩く(5) 升田山15号墳

2023-11-25 09:26:50 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

    東神吉町をゆく(6) 升田山を歩く(5) 升田山15号墳  

 『加古川市史(第1巻)』に、次のような記述があります。

 ・・・日岡山古墳群の現存する5基の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けている。前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではないが、前方部を平野側に向けている場合が多い。

 それはまた、被葬者が支配した土地としてよさそうである。したがって、日岡山古墳群の方向と平野部の遺跡との関係は大変興味深い・・・



 つまり、溝口遺跡・美乃利遺跡は、日岡豪族が生前に生活していた集落であったと指摘しています。

 以下は、『加古川市史』の日岡山豪族の説をお借りし、平荘湖第3堰堤東詰近くにある比較的大きな古墳(升田山15号墳)に当てはめてみます。

 前方後円墳ではないのですが、羨道(墳墓の入り口)は南側(平野部)を向いています。

 15号墳の被葬者は、現在の東神吉の支配者の一人であったのでしょう。

 生前、集落を守ってたのでしょうね。

「ワシ(私)の支配した集落を末長く守っているゾ・・・勝手に入ってくるな・・・」と、言っているのかもしれません。



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東神吉町をゆく(5) 升田山を歩く(4) 3つの古墳群

2023-11-24 08:47:46 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

      東神吉町をゆく(5) 升田山を歩く(4)  3つの古墳群

  加古川市内には、地図のように3つ大きな古墳群があります。

 日岡山古墳群(4世紀古墳)・西条古墳群(5・6世紀)・平荘古墳群(6・7世紀)です。升田山古墳群は、平荘古墳群に属します。

 市内には、もちろん、この他にも多くの古墳があります。

 日岡山古墳は、これらの古墳の中でも最も古く、4世紀にさかのぼることができます。

 西条古墳群(5・6世紀)で、平荘湖古墳群(6・7世紀)と続きます。

  *地図:加古川市地域の3つの古墳群

      古墳説明板(柱)の修理を! 

 山頂からの風景は最高です。

 加古川市近郊だけでなく、上島・家嶋・小豆島そして、明石大橋・淡路島も眺めることができます。

 帰りは、ふつうは山頂から平荘湖の第3堰堤までのコースを歩きます。

 一つだけ「恨み節」があります。升田山ハイキングコースの整備はこれで終わりではないでしょうが、気になります。

 升田山には途中に古墳がたくさんあります。一部は新しい説明柱(板)に変えられていますが、ほとんどの古墳は説明板は傷みがひどくボロボロです。

 新しいのと取り換えてほしいですね。



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東神吉町をゆく(4) 升田山を歩く(3) 八十橋の伝承と『風土記』

2023-11-23 09:48:28 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

                 東神吉町をゆく(4) 升田山を歩く(3) 八十橋の伝承と『風土記』

 『風土記』の話です。

 『風土記』(奈良時代の地理書)は、編集されて後、まもなく姿を消します。

 何らかの事情で、厳重に保管されていたものの、その存在が全く分からなくなっていました。

 そんな状況が、一変しました。

 江戸時代、何百年もの空白の期間を経て『風土記』がみつかったのです。

 『播磨国風土記』は、平安時代の中期以降に書写されたものが、江戸時代の終わりころ、寛政八年(1796)と嘉永五年(1852)再び写され、世に登場しました。

 『播磨風土記』は、まったく世に知られない空白の期間が数百年も続きました。

 ですから、「八十の石橋」に書かれた話は、誰にも知られていなかったはずです。

 「八十の岩橋」は、江戸時代の『播磨名所巡覧図絵』でも紹介されています。

 

 『風土記』の編纂された奈良時代に「八十橋」の話は、すでに何のためにつくられたのか、わからなくなっていたようです。

 でも、よく似た「八十橋」の伝承は、その空白期にも語られていたといいます。

 *写真:『播磨風土記』の一部

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東神吉町をゆく(3) 升田山を歩く(2) 八十の岩橋(やそのいわはし)

2023-11-22 06:32:13 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

    東神吉町をゆく(3) 升田山を歩く(2) 八十の岩橋(やそのいわはし)

 升田山に石の橋(石段)があります。

 『風土記』は、「・・・昔、この橋のところで、八十人衆(やそもろびと)が天と地上の間を上り下りした。そのため、八十橋(やそはし)といった・・・]と記しています。

 「八十」は、もちろん「多い」と言う意味で、『風土記』の時代は、もっとはっきり段階状の階段であったのでしょう。

 八十橋は、升田山の東端が加古川に落ち込むところです。

 『風土記』にいう斗(ます)とオケは、ともに石棺の部分を指しています。

 石棺の製造というと竜山(高砂市)と結びつけて考えますが、この辺りも竜山と同じ凝灰岩です。

 そして、この地は石棺の運搬には絶好の位置です。すぐそばを加古川が流れています。

 八十橋の付近は、石棺または古墳の石材を作った工事場跡であり、石棺を運び出す絶好の場所であったと想像されます。



 ・・・ウンコラショ どっこいしょ・・・お爺さん、登りましたよ。

 登り口は、車では見逃してしまいそうな第2堰堤(弁天神社)への入口近くです。

 *写真:八十の岩橋の一部



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東神吉町をゆく(2) 升田山を歩く(1) 升田山ハイキングコース

2023-11-21 08:26:58 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

         東神吉町をゆく(2) 升田山を歩く(1) 升田山ハイキングコース

 加古川市東神吉町の升田山に登山道(ピクニック道)が完成し、登りやすくなっています。

 登山口は、4か所ありますが、平荘湖の周回コースの第2堰堤と第3堰堤の中間辺りからのコースが一番簡単です。

 私(80才)のようなお爺さんでも十分登れるコースですから、秋の一日、ぜひチャレンジしてください。山頂までゆっくり登って30分もかかりません。

 山頂からの風景は絶品です。感動されますよ。

      升田山『播磨国風土記』に登場(1)

 『風土記』は、日本で最も古い書物の一つです。

 今から1300年ほど前の713年に大和朝廷から各国の①郡や里の名のいわれ、②産物、③地力、④山や川の地名、⑤伝承を書いて報告するように、と命令が出ました。

 その報告書が『風土記』です。

 その『風土記』ですが、現在残っているものは『常陸国風土記』『播磨国風土記』『出雲国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』だけです。

 そのうちでも、『播磨国風土記』は、早い時期に提出されたと考えられています。

 *写真:升田山山頂から東神吉町(川の西部)を望む

 

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東神吉町をゆく(1) 東神吉村誕生

2023-11-20 06:38:28 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

             東神吉町をゆく(1) 東神吉村誕生

 「東神吉町をゆく」をはじめます。

 きょうはその第1回、東神吉町誕生です。

 明治22年4月1日、全国的な市町村の再編が実施されました。

 それにともない、地図の六ヵ村が合併して「東神吉村」が誕生しました。

 少し、経過を付け加えておきます。

 江戸時代、ここには、神吉村・天下原村(あまがはらむら)・升田村・升田新村・砂部村(いさべむら)・井ノ口村・井ノ口新村・六本松新村の八カ村がありました。

 まず井ノ口村・井ノ口新村・六本松新村ですが、これら三ヵ村は明治11年7月に合併して「井ノ口村」となりました。

 しかし、井ノ口村は同郡(印南郡)の上荘の都染(つそめ)に同じ地名があるため、明治22年10月「西井ノ口村」と改称しています。

 もう一村、地図に「升田新村」の名が見えませんが、升田新村は東神吉村の誕生後、明治39年8月、出河原村(でがわらむら)と名を改めました。

 そして、東神吉村は昭和31年9月30日、加古川市と合併して加古川市東神吉町となって今日に至っています。



 さっそく、これらの村を訪ねたいのですが、その前に升田山を歩きましょう。秋の升田山からの東神吉町を眺めてみましょう。



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東神吉町の写真を撮りに出かけましたが・・・ 

2023-11-19 08:32:02 | 余話として

         東神吉町の写真を撮りに出かけましたが・・・ 

 きのうは大腸がんの検査もすみ、ホット一息をついた1日のでした。

 昼から散髪に出かけ、そのあと、東神吉町を散歩することにしました。

 「東神吉町のどこを歩こうかなと」と考ながらのドライブになりました。

 山のてっぺんから東神吉町を見ることにしました。

 神吉山・升田山は何回も登ったことがありますが、ウェルネスホールの北の「黒岩山」には登ったことがありません。なんとなく黒岩山へ上ることにしました。

 登山口は、ウェルネスの入口のすぐ隣です。関電の鉄塔があり、まず、そこを目指しました。その先はブッシュで早々に道を間違えたようです。

 15分ほど歩いただけです。心臓がバクバク。そこで、東神吉町の写真を撮りましたが、東神吉町全体の写真になっていません。

 頂上には、まだ20分ほどかかりそうです。登るのをやめました。時々、日岡山でも山歩きの訓練をすべきですね。体力を知るバロメーターになりますから。

 きのうは80歳の私の体力のなさをつくずく知ることになりました。

 明日から「東神吉町をゆく」はじめます。期待をせずにお読みください。

 *写真:東神吉町の一部(川向こうは加古川町)



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ホットコーヒーの季節になりました

2023-11-18 10:50:58 | 余話として

      ホットコーヒーの季節になりました

 朝起きると、ポットのスイッチを入れて湯を沸かします。

 湯の沸くあいだに洗顔と歯を磨き、それからインスタントコーヒーを飲みながら新聞を読みます。

(夏はアイスコーヒーにします)

 それが終わると、ブログを投稿します。

 いずれにせよ、(インスタント)コーヒから私の一日が始まります。

 ずいぶん前です。ある公民館へ出かけました。

 ちょうど、趣味の会の作品展の日でした。たくさんの作品が出品され一部は販売もされていました。

 少し底が安定しないカップですが、最近はその眠っていたカップを愛用しています。

 月曜日から、このカップでモーニングコーヒーを飲みながら「東神吉町をゆく」を書いてみます。



 昨日、明石のガンセンターで無事に大腸検査が終わりました。

 結果は後日になりすが、大丈夫でしょう。

 新しく取り残しのポリープが見みつかり、切除してくださいました。

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ガン(癌)のこと

2023-11-17 07:54:53 | 余話として

     ガン(癌)のこと

 美味しいものは、なんと言ってもカニですね。

 種類によっては裁くことが少しむずかしいのですが、生き物を食物としていただ時は食べつくすことが礼儀ですね。

 綺麗に食べつくすと、カニは無事天に昇り、夜空のお星さん「カニ座」になるそうです。

 このカニ座のことを英語でキャンサー(Cancer)というんですね。

     「ガン」のこと

 英語の「ガン」の語源は、カニです。

 乳がんが広がっていくさまが、まるでカニが脚を伸ばしているように見えたことから医学の父・ヒポクラテスが、(がんのことを)カニ(キャンサー)と名付けたそうです。

      きょう、大腸の内視鏡検査

 きょう昼から明石のガンセンターに出かけ、大腸の内視鏡検査をうけます。

 きのうの昼から絶食です。

 今朝は、下剤をたくさん飲みました。

 結果は、たぶん良好でしょう。元気に行ってきま~す・・・

 *神戸新聞参照





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皇帝ダリアが咲きました

2023-11-16 07:44:11 | 余話として

     皇帝ダリアが咲きました

 この時期、ご近所で見事な皇帝ダリアが咲きます。

 なぜか「皇帝ダリア」を見ていると元気がでます。

 自宅でも育ててみたいと思って苗を探がしたのですが、見当た有ません。

 でも、思いは通じるものですね。

 散歩途中で、別のある農家の方と話していると「来年皇帝ダリアの苗を育ててあげます」というご返事をただき、春に2鉢の苗をいただきました。

 一本は育ちがよくなく1メートルぐらいにしかなりません。花を咲かせていません。もう一本は、2メートルほどになり、先週から花をつけ始めました。

 青空を背景に凛と咲くこの花を見ると「がんばろう」という気持ちになります。

 <お知らせ> 

 「ブログ・尾上町をゆく」は、少し休みます。

 20日(月)から「東神吉町をゆく」を始めます。よろしくお願いします。

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