ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

『升田山を歩く』ができました

2020-05-14 05:27:16 | 升田山を歩く

    『升田山を歩く』ができました

 加古川市観光協会が升田山のハイキングコースを完成させました。

 これに勝手に協賛して、フェイスブックとブログで連載した「升田山を歩く」(29ページ)を暇に任せて、冊子にまとめてみました。

 ご希望の方にお分けします。もちろん、無料です。

 良い配布方法が見つかりません。ご提案ください。

 (内容)  

    はじめに

  1 升田山ハイキングコース完成

  2 素晴らしい景色

  3 升田山『播磨風土記』に登場(1)

  4 升田山『播磨風土記』に登場(2)・八十の岩橋

  5 八十橋の伝承と『風土記』

  6 3つの古墳群

  7 古墳説明板(柱)の修理を!

  8 平荘湖古墳群

  9 升田山15号墳

 10 こけ地蔵

 11 稚児窟古墳(池尻16号墳)の石棺の蓋

 12 (民話)又平新田村の弁天さん

 13 金のイヤリング(カンス塚古墳出土)

 14 慰霊碑

 15 「加古の入江」:古代升田山からの風景

 16 砂部弥生遺跡と東神吉弥生遺跡

 17 含芸里(かむきの里)

 18 古代山陽道は升田をはしる

 19 蝦夷がいた

 20 佐伯寺、西念寺そして妙願寺へ

 21 慈眼寺(三木市)の鐘・元は佐伯寺の鐘

 22 升田堤

 23 上部用水(うえべようすい)

 24 益気神社での一件

 25 平荘湖

 26 平荘湖は、池それとも湖?

   おわりに 

 *写真:加古川市観光協会会長の大庫さん

 

 

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升田山を歩く(27) 「升田山を歩く」終了

2020-05-06 07:44:26 | 升田山を歩く

    「升田山を歩く」終了

  写真は、先日登った升田山山頂(105メートル)から神戸製鋼の方向を眺めた風景です。

 水管橋が見えます。そして、加古川・土手・加古川の街並は、きれいだな・・・と思います。

 でも、目が風景に慣れてくると、感想はそれだけで終わってしまいそうです。

 そうさせないために「コロナが終わりましたら」ぜひ升田山に登ってください。こんどは、体(しんどさ)が風景を覚えてくれます。

 

 また、視点を変えて、時間の壁(歴史)を通して見ると、いろいろな風景が違って見えてきます。

 「升田山を歩く」では少しだけ、時間の向こうの風景を探してみました。

でも、シリーズをこのまま続くと、少々くどくなり、いやになります。

 この辺で、「升田山を歩く」を一度お休みとします。

 お読みいただきありがとうございました。

    お願い

 次は、あなたのお宅の周辺を一緒に歩いて頂けませんでしょうか。そして、時間の向こうの景色を再現しましょう。ご連絡ください。

 歴史のないところなんてありません。特に、加古川市は、歴史の缶詰のようなところですから。

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升田山を歩く(26) 平荘湖は、池それとも湖?

2020-05-05 09:50:40 | 升田山を歩く

     平荘湖は、池それとも湖?

 散歩の途中で「平荘湖」の第3堰堤で、必ず休憩します。

 そこは、涼しい風の通り道です。気持ちの良い休憩場所です。

 「第三堰堤」の西の端の柱に、平荘湖ではなく「平荘貯水池」(写真)と刻まれているのを見つけました。

 「ここは池か?」と、とんでもないものを見つけた気持ちになりました。

 どうでもいいことですが、「池なのだろうか、それとも湖なのだろうか」と、気になります。

  インターネットで調べてみました。

  〈池・沼・湖いついて〉(インターネットより)

 池、沼、湖の違いは、人工かどうかと、深さにあります。
 池と沼、湖の違いは、人工かどうかです。

 池は人工なのに対し、沼、湖は自然にできたものです。
 沼と湖の違いは、深さにあります。

 沼は一番深いところでも5m以下で、湖は一番深いところが5m以上あります。

 インターネットでは「池は人工なのに対し、沼、湖は自然にできたものです」とあります。

 「平荘湖」は人工物です。ということは、池なんですね。

 関係機関に問い合わせればすぐにわかると思いますが、私は「湖」の方が好きなんです。そっとしておきます。

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升田山を歩く(25) 平荘湖

2020-05-04 07:52:48 | 升田山を歩く

     平 荘 湖            

 加古川市は、工業誘致に積極的に取り組み、工業都市としての発展をめざしました。

 工業用水の確保は急を要しました。

  そのため、 昭和32年11月、市会においても工業用水ダムの必要性が認識され、同年10月、議員総会で「加古川上流に一ヵ所代表的なダムを建設する」案が提出されました。

 ダム建設に向けて具体的に動き出したのは、国庫補助が確定し、昭和35年1月に入ってからでした。

 昭和35年9月には神戸製鋼所誘致が本決まりとなりました。

 「平荘町又平新田の升田山など4つの山を土手で環状につなぎ、水面積1.3平方キロメートルのダムで、総工費31億5000万円、貯水量88万トン、加古川よりポンプアップする」という計画でした。

     難航した保障交渉

 ダム建設によって100万平方メートルが水没し、また、又平新田にある市立養老院と約30戸が水没します。

 地元民は、将来に対す生活に対する不安はぬぐえず、県の対応を求めました。

  交渉は難航しました。市会ダム対策特別委員会は補償交渉の解決に向けて両者の斡旋に乗り出しました。

 37年12月、難産の末、県と地元との最終合意がまとまり、昭和38年に入り、本格着工となりました。

 41年4月、待望の貯水がはじまり、7月1日ダムは完成しました。

 *写真:升田山山頂から見た平荘湖の風景

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升田山を歩く(24) 益気神社での一件

2020-05-03 09:04:57 | 升田山を歩く

     益気神社での一件

 升田に益気神社(ますきじんじゃ)があります。

 神社の入り口にその由緒を刻んだ石碑があります。

 その石碑に「・・・・文禄三年(西暦1594)九月二十一日、秋季例祭の故ありて(平ノ荘神社)から分離すに至り・・・」あります。

 その「故」の理由を記していません。「故」とは次のようでした。

 ・・・・事件は、文禄3年(1594)、平ノ荘神社16ヵ村の代表者の参詣の時におきました。*(16ヵ村:益気郷3ヵ村、平ノ荘13ヵ村)

 益気・・・平の面々、益気の中にも御歴々(おれきれき)がいるのだが、毎年益田の者は下座に座っている。座を改めて我々を上座にすればどうか。

 平ノ荘・・・御歴々であることは承知しているが、益気の人の中には、殺生を仕事とする者がいる。・・・穢しい。(益田の者に川漁の権利が認められていることを指す=秀吉の免状)

 売り言葉に買い言葉、日ごろの不満が燃え上がりました。その勢いは、すさまじいものでした。

 この時、近郷からこの喧嘩を見ようと数万の人が押しかけたと言います。

 この事件のあと、慶長四年(1599)益気郷は益田山(加古川市東神吉町)に益気神社(ますきじんじゃ)を創建しました。

 その後、池尻村も平ノ荘の氏子から抜け、池尻村・益田新村(出河原村)も益気神社が創建され、3つの益気神社が誕生しました。

 益気神社という名称から、奈良時代の創建を想像してしまいますが、慶長四年に、平ノ荘神社から分かれた比較的新しい神社です。

 *写真:升田益気神社

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升田山を歩く(23) 上部用水(うえべようすい)

2020-05-02 08:05:31 | 升田山を歩く

             上部用水(うえべようすい)

 図をご覧ください。加古川右岸(西側)の平野部の主な灌漑用水は、加古川から取水する土部井用水(うえべようすい)です。

 400年以前に造られた水路で、現在もバリバリの現役です。

 この上部井用水は、加古川の本流右岸(西側)の升田から西端は天川左岸までの間の東神吉町・西神吉町・高砂市一帯の農家約1400戸の水田・約600ヘクタール(昭和60年・1985)を潤す全長 13kmの広大な灌漑用水であり、取水口からの高低差は5mです。

   この用水は、もともと慶長年間(1596-1614)から上荘町井ノロ村にあった水路から神吉庄への用水でした。

 元禄年間に下流の流の平荘町里村字上部(池尻橋のすぐ上流部・河口より9.6km)に変更しました。

 ここから16ヵ村(現:加古川市の神占・米田・砂部・島・西井ノロ・平津・大国・岸・塩市・中西、そして現高砂市の神瓜・北池・南池・中筋・伊保崎・曽根)に水が引かれ、上部用水と名づけられました。

 現在は、加古川大堰から升田に送られ、図のような地域を灌漑しています。

 *図:上部用水の幹線水路

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升田山を歩く(22) 升 田 堤

2020-05-01 11:21:08 | 升田山を歩く

    升 田 堤

 写真は、升田山の山頂からの南の平野部の写真です。

 升田から船頭(せんどう・ふなもと)までの加古川の西堤をご覧ください。

 升田堤です。

 

  図は、「正保播磨国絵図(解読図)」です。

 池尻から下流に二つの大きな流れがあります。

 二筋の加古川は、二ヶ所の渡船が必要でした。

 それに、升田堤の西部の地域の人々は、東岸の地域より洪水に苦しみました。

 姫路藩は、ここを美田に変え藩の収入をはかることを計画したのです。

 藩主・榊原忠次は、升田で西加古川をせき止め、船頭(せんどう・ふなもと)までの堤の強化を命じました。この工事に動員された役夫は、60万ともいわれています。*今の加古川の本流は「東加古川」の流れです。

 万治二年(1659)八月、難工事がほぼ完成した時でした。猛烈な暴風雨が襲いました。

 一夜のうちに堤は壊れ、元の河原にもどってしまったのです。

 藩から、「この工事は重要である。人足が不足なら15~60才までの者をすべて動員せよ。異議を唱える者は追放せよ・・・」と、厳しい命令が出ました。

 その後、さすがの堤も短期間で完成させました。

 この時の記録が、妙願寺に残されています。

 *写真:升田山山頂から加古川市西部・加古川の風景

 *図:「正保播磨国絵図(解読図・部分)」

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升田山を歩く(21) 慈眼寺の鐘(三木市)・元は佐伯寺の鐘

2020-04-30 06:51:03 | 升田山を歩く

   慈眼寺の鐘(三木市)

       元は佐伯寺の鐘

 今日の話題は、加古川市から離れ、三木市久留美(くるみ)の慈眼寺の鐘の話です。 

 慈眼寺(じげんじ)には、秋の紅葉の時期によく出かけます。

 道路からあまり離れていないのに、山寺の雰囲気いっぱいの曹洞宗の寺です。

 秋には紅葉で埋まる寺として、近在に知られています。

 山門を入ると左手に鐘楼(写真)があります。

 この梵鐘には、「延慶(えんぎょう)二年(1309)、播州印南郡益田村佐伯寺鐘」の銘があります。

 三木市で最も古い梵鐘で、県文化財です。

 この梵鐘は、もと加古川市東神吉町升田にあったが、言い伝えによると、1578年、秀吉による「神吉城」攻撃の際この鐘を奪い、三木城攻撃の折、慈眼寺山門の木にかけ、合図用として用いられたといいます。

 そして、合戦後に慈眼寺に寄付されたと言うのですが、定かな証拠はありません。

 この鐘は数奇な運命をたどっているようです。

 佐伯寺は、嘉吉の乱(1441)で赤松氏に味方したため焼き討ちにあい焼失しました。その後の鐘の運命は、はっきりしません。

 ともかく、もと佐伯寺にあった梵鐘は、現在慈眼寺にあります。

 

 

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升田山を歩く(20) 佐伯寺、西念寺そして妙願寺へ

2020-04-29 06:45:06 | 升田山を歩く

        佐伯寺、西念寺そして妙願寺へ

 升田にある妙願寺に関する話題を2題続けます。そのため、先に妙願寺を紹介しておきます。 

 升田村に関係した人物に、赤松の家臣に佐伯公行という人がいました。姫路の書写山で僧になり、名を善西といいました。

 善西は、永正十三年(1516)、升田に天台宗の佐伯寺を建てました。

 九代目の実如の時、天台宗から浄土真宗に改宗し、その後、佐伯寺は焼失し、西念寺として再興されました。

 正徳3年(1713)十四代・寂如上人の時、寺号を現在の妙願寺と改めました。

 また、『印南郡誌』は、「・・・升田村佐伯寺の本尊は、佐伯寺の本尊である・・・」と、『播磨鑑』の記述を引用しています。

 これらの伝承を語るように、現在の妙願寺の隅には、手洗鉢や古代の石造遺品があります。これらは、もとの佐伯寺から運び込まれたものだろうと思われます。

 

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升田山を歩く(19) 蝦夷がいた

2020-04-28 11:11:24 | 升田山を歩く

    蝦夷がいた

 今回の「蝦夷がいた」は、ビクビクしながらの紹介です。軽く読み飛ばしていただいても結構です。升田の「佐伯氏」にこだわっています。

 

 東神吉町升田集落の中ほどで、集落を東西に走る古代山陽道沿いに佐伯廃寺跡があります。

 石の多宝塔(写真)が残っています。

 記録によると、佐伯寺は鎌倉時代の後期に建設されたといわれています。

 ところが、嘉吉の乱(1441)の時、寺は赤松氏に味方したため焼き討ちにあって、跡地に多宝塔だけが残ったらしいいのです。

 古代の佐伯氏の話です。

 桓武天皇の時代、佐伯氏は、蝦夷(俘囚)の管理にあたっていました。印南郡にも俘囚がいたことが確認されています。

 とするならば、佐伯寺は蝦夷の管理にあたり、この辺りを支配した古代豪族・佐伯氏の菩提寺と考えるのかもしれません。

 『日本三代実録』の仁和三年(887)七月の条に、印南郡のひと佐伯是継が、居を山城(京都)に移したことがみえます。

 是継の一家はこの時、山城へ移住したと思えますが、一族の一部はこの地に残留したのでしょう。

 そして、彼ら子孫は升田に佐伯寺を建設したとも想像します。

 尚、佐伯寺の多宝塔ですが、石づくりの多宝塔の数は極端に少なく、信濃が10基で過半数をしめ、近江・伊賀に二基、その外には大和・和泉・備中・播磨に各一基あるのみです。

 播磨の一基とは、もちろん升田の佐伯寺跡の多宝塔のことです。

 *『加古川市史(一・七巻)』・『加古川市の文化財』参照

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升田山を歩く(18) 古代山陽道は升田をはしる

2020-04-27 07:22:13 | 升田山を歩く

       古代山陽道は升田をはしる

 『日本書紀』は、大化二年(646)正月の条の「改新の詔」に、「初めて・・・駅馬・伝馬を置く」とあります。

 新しくできた政府は、まず全国の道を整備し、各地に駅(うまや)をおきました。

 とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は最も重要な道でした。

 兵庫県下におかれた駅は、図のようでした。

 奈良から加古川の野口まで伸びた古代山陽道は、加古川の流れに行く手を妨げられました。

 古代山陽道は、今の国道二号線に沿ってつくられたが、そこは加古川の氾濫原でした。

 そのため、確実に物を運ぶため、点線の図のように古代山陽道は、野口から日岡山へ、そこから升田へ渡り、升田・大国・岸・魚橋というバイパスが多く使用されたようです。

 つまり、升田の集落は古代山陽道のバイパスが通ったのです。

 つまり、奈良時代、日本最大の道が升田山の麓に沿ってはしっていたのです。平安時代も状況に、大きく変化はなかったようです。

 *『兵庫探検(歴史風土編)』(神戸新聞社)、『加古川市史(第一巻)』参照

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升田山を歩く(17) 含芸里(かむきのさと)

2020-04-26 07:33:01 | 升田山を歩く

     地名・カンキについて

 「神吉(かんき)」について考えてみます。

 『播磨国風土記』の印南郡に、「含芸の里(かむきのさと)の伝承があります。
 伝承は「・・・仁徳天皇の時代、他田熊千(おさだのくまち)という人が酒を甕に入れて馬の尻にくくりつけ、家をつくる土地を求めて旅をしていたが、この村で甕を落とした。
 そのために、この村を甕落(かめおち)といった。
 この甕落(かめおち)が訛ってカムキになり、カンキになった」としています。
 どうもあやしい。神吉(かんき)の地名のおこりは、結論を先にいうと「はっきりとわからない」というのが真相のようです。

     益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)

 『風土記』は、奈良時代、国ごとの産物・伝説・土地の質などをまとめた地理・歴史書です。
 奈良時代、地図にあるように、印南郡には益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)・大国の里・六継里(むつぎのさと)等が見えます。
 もっとも、古代の里は、必ずしもはっきりとした境界で分けられた地域ではありません。
 升田山付近の里は、益気里と含芸里で、東神吉町から平荘町にかけての加古川右岸(西岸)と推測されます。

 *『加古川市史(第一巻)』参照

 

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升田山を歩く(16) 砂部弥生遺跡と東神吉弥生遺跡  

2020-04-25 07:46:12 | 升田山を歩く

    砂部弥生遺跡と東神吉弥生遺跡

 砂部遺跡(いさべいせき)は、神吉中学校の少し東で、古代加古川西岸の自然堤防上に位置しています。

 そして、東神吉弥生遺跡は、昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見され、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることが確認されました。

 東神吉遺跡も標高5メートルの古代の自然堤防上に位置しています。

 砂部遺跡の近くで、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・両遺跡は、もともと一つの村であったと考えてよいであろう」と結論づけています。

共に大きな弥生遺跡です。

     升田山古墳の住人か

 升田山古墳群は、当然ですが住居跡ではありません。墓地です。

 被葬者は、生前、升田山古墳の南の平野部で生活をしていた住人、すなわち、砂部・東神吉(集落)の支配者と考えるのが自然と考えるのですが。いかがでしょうか。

 *写真:発掘中の東神吉弥生遺跡(柴田圓治さん撮影)

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升田山を歩く(15) 「加古の入江」:古代、升田山の南の風景

2020-04-24 09:08:24 | 升田山を歩く

  「加古の入江」 古代、升田山の南の風景

 升田山の頂上へ上り南の景色をご覧ください。広い平野が広がっています。

 この平野部の古代の風景を想像しましょう。

 今から一万年程前に最後の氷河期は終わり、現在のような暖かな気候になりました。

 それに伴い、加古川の水量は増え、大量の土砂を下流に運びました。

 その土砂は、河口にたまり三角州をつくり、やがて三角州は大きくなり、平野をつくったのです。

 かつて、海抜10メートルより低い平野部(太線の南)は、「加古の入江」と呼ばれた海の底でした。2~3000年以前より、土砂の堆積により陸化が始まりました。

 弥生時代、10mの等高線より南は、まだ三角州と海がまじりあった土地で人が住みはじめました。地図の黒い点は、弥生遺跡(集落跡)です。

 河口部分(加古の入江)で、弥生遺跡より以前の縄文時代の遺跡は見つかっていません。

 このことは、このあたりに人が住み始めたのは弥生時代以後であることを表しています。

 *図:●は、弥生時代の住居跡

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升田山を歩く(14)  慰 霊 碑

2020-04-23 07:41:21 | 升田山を歩く

           慰 霊 碑

 弁天社のすぐ横に慰霊碑があります。

 昭和41年5月4日早朝、湖底のカンス塚古墳の最終調査に向かう途中に湖上で水難にあい、20歳の若さで短い人生を終わらせしまった加藤進一郎さんの慰霊碑です。

 加藤さんは、昭和39年には京都の龍谷大学史学科へ進み、考古学を専攻しました。
 春休みを利用して数名の友人と共に湖面の南側に位置するカンス塚古墳の最終調査へ向かう途中に悲劇が起こりました。

 10数mの湖底へ沈んでしまったのです。

 地元の消防団や住民、警察などが捜索しました。翌日の日没ごろになって遺体が引き揚げられました。

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