ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平岡町をゆく(31) 西谷

2024-07-22 06:36:44 | 加古川市の歴史・平岡町編

     平岡町をゆく探訪(31) 西谷

 西谷新村(西谷)は延宝七年(1679)、高畑村の庄屋・彦左衛門が開発して、新しくできた村です。

  

 高畑村から独立した村であることは、名前からも容易に想像できます。

 『加古郡史』に面白い話があります。

 ・・・・この地を高畑村と新在家が争ったとき、加古新村の加古才兵衛(加古新田の開拓者)が、西谷と言うからには高畑の土地に相違ない。新在家の地なら「東谷」と称したであろうと決済した・・・

 そして、西谷の八幡社(写真)は、その才兵衛が自分の村から勧請した社であるといいます。八幡社の東の溝が高畑村と西谷新村の村界です。

 この溝の部分の辺りが若干低くなっています。

 この溝は用水で、寺田用水の高畑分水が源太池に流れ込み、ここから、さらに二俣へ流れています。

 西谷新村は、昭和25年加古川市との合併に伴い「西谷」と改めました。

 *『古地名新解・加古川おもしろ誌』(石見完次著)参照

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平岡町をゆく(30) 一里塚

2024-07-21 06:08:58 | 加古川市の歴史・平岡町編

           平岡町をゆく(30) 一里塚



   門松は 冥土の旅の 一里塚

        めでたくもあり めでたくもなし

 

 これは一休さんの作だといわれています。

 もちろん、一休さんが生きた時代は(13921481)には、一里塚はつくられていません。この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。

 一里塚は慶長9年、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がっていきました。

 一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられました。兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられたといういます。

 図「元禄播磨の国絵図(部分)解読図」を見てください。

 高畑村と西谷新村との間に街道を挟んで●が二つあります。これは一里塚のあった場所をあらわしています。

 平岡(加古川市広岡町)にあった一里塚は、いつの頃まであったのか、また正確な場所は分かっていません。





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平岡町をゆく(29) 時宗のひろがり

2024-07-20 07:39:48 | 加古川市の歴史・平岡町編

   平岡町をゆく(29) 時宗のひろがり

 土山の公会堂の横の墓地の北の隅に、県指定の文化財、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。

 宝篋印塔の名前の由来は「宝篋印陀羅尼経(だらにきょう)」を唱えれば地獄にいる祖先は極楽に行き、病気・貧困の者も救われるといわれ、供養塔として墓地などに置かれました。

 土山の墓地の宝篋印塔は、加古川市内で最も古く「塔身」に、次の年代と銘が刻まれて、県指定の文化財となっている。



 (銘文)

  為二親□□   (*□□は菩提か?)

  尼□阿□□   (*尼□の□は妙か?)

  元亨三年

   九月十八日



 そして、この178センチの宝篋印塔の塔身の部分の正面には阿弥陀如来、右側には観音菩薩そして、左には勢至菩薩が彫られ、阿弥陀三尊です。

 尼妙、阿□□はどんな女性か分かりません。しかし、銘が「二親菩提」であるから、亡くなった彼女の両親を弔うために建立したのでしょう。

 銘の「尼□阿□□」の「阿」に注目してください。阿の次の字は「弥」の文字が入ると考えられる。

  阿弥(あみ)は念仏宗(時宗)の出家に多い名前です。この人はおそらく念仏宗の尼さんでしょう。土山近辺の念仏宗の広がりが想像されます。

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平岡町をゆく(28) 新在家の五輪塔

2024-07-19 08:39:32 | 加古川市の歴史・平岡町編

     平岡町をゆく(28) 新在家の五輪塔

 教信寺(加古川市野口町)から西国街道(旧山陽道)に沿って東に行くとサティーに突き当たり、道はいったん消えます。

 そして、道は再び東に続きます。

 その道が始まるところ(サティーの東)の北側の地蔵堂に大型の五輪塔(写真)があります。

 西国街道(旧山陽道)は、サティーが出来る前に「日本製麻工場」がここに進出したが、この時に分断されました。

 この五輪塔は、古くからよく知られていたようで、江戸時代の観光書『播州名所巡覧図絵』にも紹介されています。

 境内整備のため数メートル東に移動された。その際、向も変えらました。

 銘はないのですが、岩本恒美氏(故人)は『加古川市の文化財』で「火輪が横に対して高いから室町時代中期をくだらない頃の作であろう」と指摘されています。

 サティーに立ち寄った時に、少し足を伸ばして見学ください。

 なお、江戸時代、この五輪塔の前の西国街道(旧山陽道)は、西は長崎に通じ、東は神戸の元町センター街から大丸のある交差点に出て、さらに京都(東寺)・江戸に通じた大動脈であった。

 多くの大名行列もこの道を利用しています。伊能忠敬もシーボルトも通った道です。





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平岡町をゆく(27) 加古川地方の綿作

2024-07-18 10:26:34 | 加古川市の歴史・平岡町編

     平岡町をゆく(27) 加古川地方の綿作

 (平岡町)二俣には古文書等の史料がほとんど残されていません。

 そのため、むかしの二俣の姿を再現することは困難な作業です。

 でも、二俣村の人々も周囲の集落とお互いの関係なかで生活していました。

 とすると、二俣の周辺の集落のようすからあるていど推測が可能です。

        加古川地方の綿作

 次の話題に入る前に、加古川地方の綿作のようすをみておきましょう。

 江戸時代も終わりの頃、特に文化文政期(1800年代のはじめ)、加古川地方の綿作は、ずいぶん盛んでした。

なかでも海岸部の尾上地区は、その中心でした。

 尾上の池田・養田(ようた)にその例を見ると、安政4年(1857)池田村では畑作の中で、綿作の占める割合は86%、(養田73%)を占めており、全田畑では池田66.8%(養田66%)と、ずいぶん綿作がさかんでした。

 江戸時代の後期から明治時代の初期の二俣村でも、尾上地区ほどではないのですが、秋には、真っ白な綿花のある風景が広がっていたことでしょう。

 ちなみに、明治15年当時の二俣村の田畑のようすを『播磨国地種便覧』 にみておきます。

   <二俣村の田畑・明治15年>

   田 39町2反5歩

   畑 16町2反1畝27歩

 この数字は、江戸時代の後期もほとんど同じであったと想像されます。

*挿絵:「播州辺にて綿をつくる図」(「綿圃要務」より)

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平岡町をゆく(26) 長束木綿問屋・坂田藤蔵家

2024-07-17 08:31:32 | 加古川市の歴史・平岡町編

     平岡町をゆく(26) 長束木綿問屋・坂田藤蔵家

 長束木綿(ながそくもめん)問屋の集荷の反数をみてみましょう。

 『加古川市史(第二巻)』は、天保11(1840)~弘化3(1846)の間の木綿問屋名と取引反数をまとめています。

     坂田藤蔵家・姫路藩最大の長束木綿問屋

 木綿問屋のうち坂田蔵家の6年間の取引反数は649、039反であり、二位以下を大きく引き離しています。

 *詳細についてはは『加古川市史(第二巻)』(p590)をご覧ください。

 坂田藤蔵家の取引量は、なんと全体の15.50%を占めていました。

 まさに、坂田藤蔵家は、姫路藩の木綿の専売制度をささえた木綿問屋の大黒柱でした。

 また、『加古川市史(第二巻)』は、二俣の木綿問屋、坂田藤蔵・坂田最一兵衛を紹介しているので、抜粋させていただきます。(一部文章を変えています)



 「・・・最大の木綿()取扱量をみせる坂田藤蔵は、加古郡二俣村の有力問屋で、本家の最一兵衛家はここではわずか6、720反の取扱量にとどまっているが、分家である藤蔵のほうは長束問屋全体の15%以上の木綿を取り扱う最大の長束問屋に成長している。

 坂田家は、長束仕法(販売の取り決め)の成立後、本家・分家ともに長束取締に就任しており、特に藤蔵家のほうは、大坂に出店を有し、幕末の文久三年(1863)には大坂積代銀の為替取扱方を藩から命じられている・・」



 また、二俣町内会のHPに、次のような説明があります。一部をお借りします。

 ・・・・(坂田家は)戦前までは一般に「木綿屋さん」と呼ばれていた。

 ・・・また、坂田家は戦前までは二俣の大地主であったが、戦後GHQの農地改革で、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡されています。



 そして、(藤蔵の)住居は二俣町内会が購入し、現在「二俣公会堂」(写真)として利用している。

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平岡町をゆく(25) 木綿問屋

2024-07-16 08:18:10 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

          平岡町をゆく(25) 木綿問屋

 長束木綿(ながそくもめん)の話からはじめます。長束木綿とは、加古川地方(加古郡・印南郡)で生産される綿のことです。

 文政年間から姫路藩は、木綿の専売制度では藩の特産物として重要な位置を占めていました。木綿の生産の中心地は加古川地域でした。

          木綿問屋、坂田藤蔵・坂田最一兵衛

 図は天保7年(1836)、姫路藩の大阪や江戸積問屋へ売り渡す長束木綿の生産地問屋の所在を表しています。

 当然の事ながら木綿問屋は加古郡・印南郡内に位置しています。

 中でもその大半が、現在の加古川市域に含まれています。

 木綿を生産した農民は糸にし、また反物に織りあげました。

 木綿商人がそれを買い集め、生産地問屋から、姫路城下の江戸積問屋や大坂積問屋(一部、大坂積も認められていた)へ売り渡されました。

 図の木綿問屋に注目してください。

 10の木綿問屋は二俣の坂田最一兵衛で、11は二俣の坂田藤蔵です。

現代の平岡町で、木綿問屋と認可されていたのはこの二名だけです。

(図はクリックして拡大してご覧ください)

 鑑札をもって商売することは、競争相手が少なく安定した経営ができました。

 これら木綿問屋の内でも、二俣の藤蔵はどの木綿商よりもとびぬけて多くの木綿を扱う大商人でした。

 坂田藤蔵・坂田最一兵衛活躍を活躍をさら続けます。

 *図は「加古川市史(第二巻)」より

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平岡町をゆく(24) 加古川地方の綿作

2024-07-15 10:18:58 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

      平岡町をゆく(24) 加古川地方の綿作

 文化5年(1803)姫路藩は、73万両というとんでもない負債を抱えていました。

 これは、米に換算すると62万石にもなります。姫路城下の収穫高のうち5割が税金として、年貢米は7万石となります。

 そっくり負債にあてても7年を要します。

 小手先を弄するぐらいではどうにもならない数字です。

 しかし、藩は綿布の専売制度でこれを完済しました。全国的にも珍しい例でした。

 この大事業に、平岡町二俣の坂田藤蔵が大きな役割を果すことになります。

 坂田藤蔵・綿布専売制度については、後にも述べます。

 そのまえに、加古川地方の綿作について、少し述べておきましょう。


       加古川地方の綿作

 綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河に伝えられたのが最初であるといわれていますが、栽培技術が伴わずその時は絶滅しました。

 その後、綿作は、文禄の頃(159296)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地となりました。

 木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立ちました。

 江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿は商品作物として栽培されるようになります。

 姫路木綿は、品質がよく、加古川や市川(姫路)の水質が木綿を晒すには適していました。

 姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評でした。

この姫路木綿の原料は、加古川地方が主な産地であったことは案外知られていません。

 二俣の近辺の田畑でも、江戸時代の終わりの頃、秋には真っ白な綿のある風景が一面にひろがっていました。

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平岡町をゆく(23) 二俣村の商人たち

2024-07-14 08:57:04 | 加古川市の歴史・平岡町編

      平岡町をゆく(23) 二俣村の商人たち

二俣の職業調べは「加古郡西谷新村外八ヵ村戸長役場」と印刷された用紙を使っており、西谷新村外八ヵ村それぞれの住人の商業、工業など課税等級を書き上げた書類です。

「○○村外何ヵ村役場」という言い方は、明治22年3月まで続いているので、この書類も、おそらく明治20年前後のものと思われます。

別の史料では、明治15年、二俣村には64軒ありました。

兼業農家も多かったと思われますが64軒中35軒が農業以外の何らかの仕事を持っていたという数字は驚きです。

二俣村は、商業が随分とさかんな集落でした。

これらの職業調べから明治20年前後の二俣村の風景を想像してください。

(明治2241日までは二俣村、以後は平岡村二俣)



 肥料小売  坂田好三郎   篠巻製造  森田伊三郎

 穀物仲買  森田伊三郎   篠巻製造  高橋文次郎

 質屋商   坂田 嘉平   素麺製造  大西杉次郎

 木綿仲買  坂田勝三郎   穀物仲買  山口時三郎

 肥料小売  坂田 栄次   諸品小売  中谷林太郎

 油小売   大西 休蔵   木綿仲買  坂田安太郎

 小間物小売 大西儀太郎   豆腐小売  田中久太郎

 菓物小売  小西 友七   穀物仲買  小西 友七

 米小売   田中 茂吉   穀物仲買  田中 茂吉

 小間物小売 坂田宇一郎   酒類小売  坂田最市平

 米小売   中嶋市太郎   小間物小売 大西 卯吉

 筆墨小売  稲田 為吉   芋小売   馬場平三郎

 小切小売  二川次三郎   毛織仲買  坂田粂次郎

 干魚小売  南澤 休次   油小売   南澤 岸松

 豆腐小売  石本 寅蔵   菓物小売  東谷 かつ

 小切小売  金古源之吉   塩物小売  岸田相太郎

 生魚小売  岸田相太郎   酒類小売  小林 権吉

 紺屋職   坂田栄太郎   畳職    東谷 友吉

 綿打職   南澤 石松   綿打職   馬場松次郎

 理髪    田中 ヒサ

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平岡町をゆく(22) 鴨波里(あわわのさと)

2024-07-13 10:22:17 | 加古川市の歴史・平岡町編

     

            平岡町をゆく(22) 鴨波里(あわわのさと)

 『風土記』は奈良時代、元明天皇の命令により、国ごとに産物・伝説などをまとめた当時の地理・歴史書です。

 現在、完全な形で残っている風土記は、『出雲風土記(いずもふどき)』だけで、そのでほか常陸(ひたち)・豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)・播磨(はりま)の風土記が残っているだけです。

 『播磨風土記』の「鴨波里」の部分を現代訳で読んでみましょう。



   ◇鴨波里(あわわのさと)◇



・・・鴨波(あわわの)の名のいわれは、昔、大部造(おおとものみやつこ)たちの始祖、古理売(こりめ)が、この野を耕して、粟を多くまきました。故に(ゆえに)粟々の里(あわわのさと)といいます。・・・



 真偽はおいておくとして、鴨波里がどこであったかについては、その存在も含めて、さまざまな議論があります。

 ところが、平城宮から、「禾々里(あわわのさと)」と書かれた木簡が出てきて、存在が確かめられました。

 それでは、次は「アワワの里はどこか」と言うことですが、加古川市粟津であるとする説、内陸部の加古郡稲美町とする説、木簡にある「蛸」から加古郡播磨町付近から北の地であるとする説などがあります。

ともかく、播磨町から平岡町にかけての地域が「鴨波里」であったことは確かなようです。



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平岡町をゆく(21) ゴンベハン(2) 拝領の門

2024-07-12 08:08:52 | 加古川市の歴史・平岡町編

     平岡町をゆく(21) ゴンベハン(2) 拝領の門

 高畑(加古川市平岡町高畑)の大西医院の玄関の横の道を北へ数歩いったところに立派な門があります。

 普通、農村にある門ではなありません。地元では、この門を「拝領の門」と呼んでいました。



 「ゴンベハンの物語」として読んでください。

 ・・・・時は、江戸時代です。暑い日でした。

 遅い時間に姫路をたった殿様の行列は、加古川に着きました。

 「殿様は家来の者に心配をかけては・・・」と、辛抱をしていました。、でも、行列が野口村を過ぎ、高畑村にさしかかった頃でした。腹痛は普段とは違っていました。

 供の者は、ただオロオロするばかり。通りがかった者にたずねました。

 「医者なら、ゴンベハンがおられます」と百姓は答えました。

 さっそく、ゴンベハンは薬を調合して殿様にさし上げました。しばらく、涼しいところで休んでいると、先ほどの腹痛がうそのように治ったでした。

 行列は、昼を過ぎて、何もなかったかのように進んでいきました。

 そんなことがあって、数日たったある日のことでした。

 殿様の使いが「先日はお世話になった。お礼に望むものはないか・・」と殿様の言葉を伝えるための訪問がありました。

 この時、ゴンベハンは、門の建設を願いました。これが「拝領の門」です。

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平岡町をゆく(20) 名医・ゴンベハン

2024-07-11 08:30:54 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

       平岡町をゆく(20) 名医・ゴンベハン



 『播州名所巡覧図絵』(文化四・1807)に高畑村を次のように説明しています。

 

 高畑村・・・土山村の西なり。当村に名医あり、病者諸国より集まる。



 高畑村に、名医がおり、遠くから多くの人々が治療のため、高畑村の医者のもとに集まったといういます。

 当時の観光案内書にも紹介されるほどであるので、近在によほどの知られた名医であったのでしょう。

 この名前は、権兵衛(ごんべえ)でした。

 権兵衛の名前は現在でも伝えられており、平岡小学校百年史『景範(けいはん)』は、次のように記しています。

 「・・・村明細帳によれば、寛延三年(1750)には権兵衛という医者がおり、近隣ではゴンベハン(大西医院三代目か四代目の方と思われる)と呼ばれ・・・」

 ゴンベハンを高畑(加古川市平岡町高畑)の明細帳にも登場します。



 一 医者  壱人  権兵衛

   家内 七人  是ハ所出生之者に而 御座候



 ゴンベエハンのご子孫は、現在でも高畑で医者を開業しておられます。高畑の国道2号線沿いの大西医院です。



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平岡町をゆく(19) 二俣円明寺(2) 権兵衛と結界石

2024-07-10 09:36:14 | 加古川市の歴史・平岡町編

       平岡町をゆく(19) 二俣円明寺(2) 権兵衛と結界石

「不許葷酒入山門」と刻んだこの石塔は、円明寺の「結界石」です。

「クンシュ、サンモンニ、イルヲ、ユルサズ」と読みます。

葷酒は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気がある食物や、カラシ・トウガラシなどの刺激性のあるもの、精力の出ると言われている食物、それに肉などを指しています。

これらは、寺での行の妨げになるので、それらを食べて寺に入ってはいけない。

また、持ち込んではいけない、と言う意味です。

禅宗寺院の山門によくみられます。

           権兵衛は誰?

円明寺の山門前にある結界石の裏面に、「施主 高畑村 権兵衛」と銘があります。

権兵衛は、立派な結界石を円明寺に寄贈するほどですから裕福な人物と思われます。

さいわい、『播州名所巡覧絵図』に高畑村の説明があり、権兵衛が登場しています。



 高畑村・・・土山村の西なり。当村に名医あり、疾病を療す。

 嗅薬を用ゆ、病者諸国より集まる。

 

高畑村に、名医がおり、遠くから多くの人々が治療のため、高畑村の医者のもとに集まったと言います。

権兵衛は当時の観光案内書『播磨名所巡覧絵図』で紹介されるほどでした。よほどの名医だったようです。

権兵衛(ごんべえ)の名は、「高畑の明細帳(寛延三年・1750)」にも記録されています。

近隣の人は、親しみをこめてゴンベハンと呼んでいました。

ゴンベハンのご子孫は、現在でも高畑で医者を開業しておられます。

高畑の国道2号線沿いの大西医院です。



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平岡町をゆく(18) 二俣円明寺(1) 層塔は知っている。米騒動のことを!

2024-07-09 09:57:51 | 加古川市の歴史・平岡町編

 平岡町をゆく(18) 二俣円明寺(1) 層塔は知っている。米騒動のことを!

      米 騒 動

1918年(大正7)の神戸市内の米の値段(一升)を見てみましょう。

 7月    2日    34銭5厘

       6日    36銭8厘

    24日    37銭9厘

 8月    1日   40銭7

       4日    43銭5厘

     7日    55銭3厘

     8日    60銭8厘

 米価は、まさに「うなぎのぼり」というありさまでした。

 これは、都市の労働人口が増えたこと、大戦(第一次世界大戦)で食料難のヨーロッパへ米を輸出したこと、シベリア出兵に供えて米価の高騰を見こした地主の米の買占め、加えて地主の政党といわれた政友会が、地主を守るために外米の輸入関税を撤廃しなかったこと、などが影響しての米価は急騰でした。

      鈴木商店襲われる

 またたくまに、米の安売りを求める運動が全国に広がりました。これが米騒動です。  

 米騒動は、京都・大阪・神戸へと波及しました。

 神戸では、8月18日、千余人の群集が米屋を襲って米騒動の口火が切られました。

 市内の川崎町一丁目には、米を買い占めているとウワサされた鈴木商店がありました。

 鈴木商店と言うと、名前から「たかだか大きな店屋かな」と思ってしまいますが、当時三井・三菱と肩を並べた政商でした。

 神戸製鋼所も鈴木商店の一部門でした。

 鈴木商店本店の四階建ての建物は12日夕方から一団が店内に突入し、火をつけました。

 民衆は駆けつけた消防隊のホースを片っぱしから切断し、ポンプをひっくりかえしたため、さしもの鈴木商店の建物も午後11時に焼け落ちてしまいました。

       層塔・円明寺へ

前おきが長くなりましたが、以下『JA加古川南ふれあい情報誌(2005・3)』の記事をお借りします。



・・・現在円明寺には十三重の多層塔(写真)があります。

その多層塔は、神戸の鈴木商店に建立されていたもので、大正末期の米騒動で鈴木商店が焼き討ちに遭った後、持ち出されドイツ人のヘルム氏が所有していた「スタンダード」と呼ばれる農園に建てられていました。

その後、農園が楠ヶ丘という住宅地に改造された際、円明寺が譲り受け、現在の場所に移されました。

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平岡町をゆく(17) 何があった?(元禄15~天保5年)

2024-07-08 08:15:38 | 加古川市の歴史・平岡町編

   

    平岡町をゆく(17) 何があった?(元禄15~天保5年)

 近世は、石高(こくだか)の時代です。

 田はもとより畑、屋敷も全て米の生産量に換算されました。

 そして、この村高に対して年貢がかけられ、それが藩・幕府の財政の基礎になりました。

 ですから、村高に関しては特に厳密でした。

 『加古川市史(第五巻)』に、『正保郷帳』・『元禄郷帳』・『天保郷帳』が紹介されています。

 それに『旧高旧領取調帳』の資料を加え、江戸時代の二俣村の村高について、みていきましょう。

     二俣村の村高

 正保郷帳・正保三年(1646)より   二股村 旱損所

  村高  432.226石(内、田382.7/畑49.526)   

 元禄郷帳・元禄一五年(1702)より

  村高  432.232石

 天保郷帳・天保五年(1834)より

  村高  551.022石

 旧高旧領取調帳(播磨国-明治2年・1868)より

  村高  551.022石

 江戸時代も、最初の頃は戦国時代に発達した技術が農業開発に転用され一大開発時代でした。

 明治時代までの村の原風景は、この時代につくられました。

 二俣の村高を見てみましょう。

 正保郷帳と元禄郷帳、つまり江戸時代初期から元禄時代までは、二俣村の村高約432石で、ほとんど変わっていません。

 江戸時代の終わりから明治が始まった明治2年の二俣村の石高は、551石となっています。

 元禄15年(1702)と天保5年(1834)の134年間に、生産は約119石の増加がありました。

 この原因は、時代から見て、新田の開発とは考えられません。

 品種の改良、肥料の改良、栽培方法の改善などが考えられるのですが、それにしては増加幅が大きすぎます。

 資料が無いためはっきりしません。

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