ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

風塵抄(10) 北本町(4) 下村商店(アナゴ店)

2024-09-18 08:42:19 | 風塵抄・高砂

 

     風塵抄(10) 北本町、下村商店(アナゴ店)
 高砂町北本町を歩いています。
 たまらなく、いい匂いがしてきました。下村アナゴ店からの匂いです。
 下村商店の紹介が『えほん・はりま(広瀬安美著)』にありましたのでお借りします。
 (文体等を少し変えています)
    下村の焼きアナゴ
 高砂名物「下村の焼きアナゴ」は、農人町で魚屋を営んでいた下村種吉さんが、明治の終わり、焼きアナゴを専門に始めたが、なかなか売れないので、かごにアナゴをいれ、芦屋、神戸方面へ行商に回り、一くし、二くしと売って歩いたそうです。
 味のよきが次第に認められ、「高砂の焼きアナゴ」と評判になりました。
 焼きアナゴに使うアナゴは「まあなご」の、それも40グラム程度のものが最高で、生きのいい良質のアナゴを手早く処理し、焼きあげるのがコツだといいます。
 もっとも、独特のタレづくり、焼き加減などは伝統的なもので、他ではまねができないものとなっています。
 「焼きアナゴ」の簡単な見分け方は、一くし二尾ものの味が最もよく、そのままたべるのが一番おいしい。
 季節としては4月、11月が、アナゴの味のもっともよいときだといいます。
 焼きアナゴは、夏は二、三日、冬は一週間くらい保存がききます。
 高砂港の汚染がクローズアップされ、ひところの十分の一と売れ行きがガタ減りしたこともあったのですが、アナゴの品質管理に万全をつくし、騒ぎのなかでも店を閉めず、自信をもって販売しました。
 ・・・
 今夜のビールのつまみにしたいですが、年金生活者には少し贅沢ですかね・・・

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 風塵抄(9) 北本町(3)・高砂商工会議所

2024-09-17 10:12:15 | 風塵抄・高砂

           風塵抄(9) 北本町(3)・高砂商工会議所

 『近代の歴史遺産をたずねて』(神戸新聞総合出版センター)に高砂商工会議所の紹介がありますのでお借りします。

 (文体等一部変えています)

      高砂商工会議所

 昭和25年(1950)といえば、まだまだ、深刻な戦後の混乱状態が色濃く残る時代でした。

 その年に早くも町制の中では、全国で初めて高砂商工会議所を立ち上げています。

 この街に明治時代から大企業が進出、交流が深かったことと無関係ではなかったようです。

 同商議所は、同25年5月に施行された「商工会議所法」に基き、同7月の発起入会、設立総会をへて同11月25日、うぶ声をあげました。

 事務所は、当時の高砂町役場内に置かれ、2年後、町内の田町に独立事務所を設け、たびたび移転を繰り返し、現在の高砂町本町に移ってきたのは同55年の1月でした。

 建物は、元高砂銀行の店舗跡で、昭和7年(1932)に建設された鉄筋コンクリート二階建で、述べ面積1.097平方メートルです。

 同銀行と合併した当時の太陽神戸銀行が移転したのを機に譲り受け、改装して入居しました。

      県の景観形成重要建物

 高砂本町商店街通に面した洋風の建物は、正面入り口の二階に延びる大きな二本円柱、美しい窓、上部壁面の装飾が目を奪います。

 内部も一部二階まで吹き通し、二階入り口、室内の天井、壁面にも趣向を凝らした飾り模様か施され、古代ローマのロマネスク調を思わせます。

 現在も高砂ロータリークラブの例会場などに使われ、広く親しまれています。

 県の「景観形成重要建物」に指定されています。

 *『近代の歴史遺産をたずねて』(神戸新聞総合出版センター)より

 *写真:高砂商工会議所

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退職後の希望に、高齢者はユーチュバー

2024-09-16 08:31:49 | 余話として

         退職後の希望に、高齢者はユーチュバー

   今朝の神戸新聞をご覧ください。友達の三宅隆宏さんが大きく登場されています。

 頑張っておられますね。

 わたしはこの夏、病院通いがメッチャ増えました。すこし滅入っています。三宅んに元気をもらいました。(以下は神戸新聞の記事より)

   ◇退職後の希望に、高齢者2人はユーチュバー◇

 加古川市の三宅隆宏さん(80)が運営するのは「TRYタカヒロ目指せ100歳健康寿命」チャンネル。4年間、毎日投稿を続けている。

 66歳で退職し「これからは遊んで暮らせる」と想像していたが、実際はやることがなかった。ただただ時間をつぶすだけの日々。

 後ろめたさから自己啓発の教室に通い、毎日の習慣を見直した。「日記をつける」「スイミングに通う」「月2回の墓参り」「高御位山に登山」「毎日動画をアップする」…。

 独学で撮影や編集を学びすぐにチャンネルを開設。朝は2、3時間かかる編集のため、午前4時台に起床する習慣も身についた。

 動画のネタは尽きない。レガッタ大会に挑戦、母校の校長にインタビュー、おもしろい友達の紹介、ボランティアや講演会に参加した感想と、活動的な毎日を切り取る。

 「好奇心はあった方だけど、ユーチューバーを名乗ってますます活発になった」

 インタビューで、これまで知り得なかった人と話して話題を深掘りし、新しい発見と出合えるのが楽しい。同年代からの「動画を見て元気をもらえた」は何よりの励みになっている。





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風塵抄(8) 北本町(2)・旧高砂市役所

2024-09-15 09:46:28 | 風塵抄・高砂

             風塵抄(8) 北本町(2)・旧高砂市役所

 伊保村と荒井村の間に喧嘩島という島がありました。

 洗川の河口近くに小さな砂州が生れ、それは、やがて小さな島となりました。

 江戸時代、砂州であるこの島をめぐって荒井村・伊保崎村と今市村の人々は、自分たちの土地であると主張し争いになり、その名が生まれました。・・・

   昭和29年(1954)7月、町村合併で高砂市が誕生。

 年後、洗川廃川敷の埋立てで荒井と地続きになったこの島に、新市庁舎が完成しました。

 洗川を境に加古郡と印南郡がながらく分れていた関係もあり、地理的にも中央部にあたることもあって、この地に決めたといいます。

    もと、高砂市役所は北本町あった

 挿絵をご覧ください。

 現在の高砂市役所が完成するまで、高砂市役所は北本町にあり、現在そこは高砂地区コミニティーセンターとなっています。

 なお、申義堂は十輪寺の前に移築されていますが、現役の頃(江戸時代)、申義堂はこの場所にありました。

  *挿絵:旧高砂市役所

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風塵抄(7) 高砂町の町並み(昭和初期)

2024-09-14 09:09:27 | 風塵抄・高砂

 

   風塵抄(7) 北本町の町並み(昭和初期)

 『目で見る、加古川・高砂の100年』(郷土出版社)に、一枚の写真の写真があります。
 この写真の説明に「高砂の町並み(高砂市昭和初期」、当時北本町通り周辺の屋並みがよく分かる。瓦屋根の並び、通りも狭かった」とあります。

      高砂町の町並み(昭和初期)

 写真の上に山がみえるので南から北の方向を撮影した写真です。
 右の煙突のあたりは三菱製紙の会社です。
  手前の狭い通りは北本町の商店街で、その商店街は南の南本町商店街に続いています。
 高砂は工場の好景気に寄より、商店街は賑わっているようです。
 その時代の高砂町のようすを『高砂市史(第三巻)』から拾ってみます。

     企業の景気に左右される商店街

 1930年(昭和5年)4月4日づけの『神戸又新日報』は、鐘紡の賃金引下げにより、「高砂町商家は間接に相当の打撃をうけ、従って収益税に関係をきたし、町当局へも幾分の打撃を与えはすまいかとみられている」と報じた。
 また、「・・・1935年(昭和10)12月20日づけでは、「誓文払大売出」が始まった17日、三菱製紙は「タンマリと賞与を支給したため、三菱景気にうるおい、各商店は景気よく、相当な人出をつづけている。
 鐘紡工場は20日ごろ賞与が支給されるため、同町の誓文払は上々の成績をみるであろう」と報じています。
 労働者の得る賃金・賞与の多寡が、商店の売上に直結していたのです。

 高砂の商店街は近在の買い物客が集まるのではなく、商圏はせまく地元の人の購買で成り立っていた商店街でした。
 そのため、高砂商店の浮沈は工場の景気に左右されました。
 現在は、その上に大型販店の進出により本町商店街の賑わいは消えました。
 *写真:昭和初期の高砂町の街並み
  『目で見る、加古川・高砂の100年』(郷土出版社』)より

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風塵抄(6) 北本町(1) 大年寄・岸本家

2024-09-13 10:15:52 | 風塵抄・高砂

        風塵抄(6) 北本町(1) 大年寄・岸本家

 高砂町の中央を南北に貫通する幹線遭路沿いの町並です。

 御用達大年寄(ごようたしおおとしより)・岸本吉兵衛がいました。

 岸本家は、代々木綿業を営む豪商で、姫路藩の木綿専売制に深く関与し、国産方(こくさんがた)賃付相談役に任命されていました。

 文化年間(180418)、姫路藩家老・河合寸翁(かわいすんおう)の建議で郷学(ごうがく)・ 申義堂(しんぎどう)が建てられましたが、土地・建物は岸本家が提供しました。

 天保10年(1839)の家数82戸・人数358人

      大年寄・岸本家

 町角の北本町の説明板は、岸本家の説明になっています。岸本家は、印南郡大国村(現:加古川市西神吉町大国)から、享保年間(171635)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。

 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。

 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 岸本家は、三代で、その基礎が確立され、その資産は、持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。

 そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。

 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 姫路藩には多額の収入が入るようになり、藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。

 この時、岸本家は、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たし、姫路藩の財政にも深く関っていくことになります。

 それに対し、姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。

 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。

 *挿絵:岸本家三代(岸本博嵩)

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頑張らなくっちゃ

2024-09-11 12:20:09 | 余話として

 

   (余話として) 頑張らなくっちゃ

 昨日、私のブログ(ひろかずのブログ)にしては多くの方のアクセスありました。

 きょうの「風塵抄」では特別な話題を用意していないため「余話として・頑張らなくっちゃ」を掲載しします。



 今年は、タイガースの試合だけでなく、メジャーの試合もよく見ます。

 もちろん大谷さんの活躍のせいです。

 是非、50-50の大記録を達成してください。最近は少し調子が落ちているよう。大心配。加古川の片田舎からおうえんします

 アマゾンで購入した大谷さんのTシャツを着ておうえんをしますよ。



 81歳のお爺さんです。横から見たら滑稽に見えるでしょうね。さすがにこのシャツを着て街を歩く勇気はありません。

 ガンセンターの検査をうけました。元気を出さなくちゃ。



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風塵抄(5) 高砂町今津(2) きえる倉庫群

2024-09-10 09:07:26 | 風塵抄・高砂

   

     風塵抄(5) 高砂町今津(2) きえる倉庫群


  今津町は、南堀川沿いの町並 町名の由来は元和(げんな)年間(161524)姫路藩主・本多忠政(ほんだただまさ)が加藤隼人(かとうはやと)らに命じて町づくりを行った際、加古川対岸の今津町から移住した者がおおかったことによります。

 南堀川に面した船着き場で問屋の蔵が立ち並びにぎわった町でした。

 木下屋利兵衛ほか三人の大蔵元(おおくらもと)がいました。

 儒学者で申義堂や姫路藩校の教授であった菅野白華(すがのはっか)親子は当町の出身です。

 天保十二年(1841)の家数13戸・人数46人でした。

        堀川の舟溜り

 港町として栄えた高砂。

 慶長5年(1600)姫路落主となった池田輝政が港整備を行っ以来、明治中頃まで、物資の集積地として、また舟の寄港地として賑わいを見せていました。

 加古川舟運が栄えた当時は、堀川周辺に多くの荷上げ倉庫が立ち並び、舟がぎっしりとつながれていました。

 本瓦葺き屋根の蔵が延々と続いていた。

 (以下略)

 少し付け加えておきます。

 南堀川界隈は、姫路藩の飾磨と並び姫路藩の重要な経済の中心でした。

 最近まで倉庫群は残っていたのですが、駐車場になったり、壊されてその姿が急に失われています。少しさびしいですね。

 *写真:南堀川と対岸(今津町の風景)

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風塵抄(4) 高砂町今津(1) 現、加古川市尾上町今津から移住

2024-09-09 08:07:13 | 風塵抄・加印

   

        風塵抄(4) 高砂町今津は、現加古川市尾上町今津から移住

 高砂の今津町(赤く彩色した地域)の話です。

 中世のころ加古川河口左岸に「今津村」がありました。

 中世の頃、今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていました。

 その今津村に慶長6年(1601)、藩主(池田輝政)から通達がありました。

 内容は、「高砂へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものでした。

 中世に栄えたか今津村(現:加古川市尾上町)も、この頃になると、かこがわの運ぶと砂の堆積により、その港としての機能を失ないつつあったのです。予想を超える砂の堆積でした。

 そのため、姫路藩主は、新たに今津の人を右岸の高砂に移動させ、新しい城下町づくりをしました。

 その後、一国一城制により、高砂城は廃され、本多忠政の時に、大きく変わり町場となりました。

 結果、今津村は慶長・元和の頃に消滅しましたが、代わって、高砂の町に「(経済都市)今津町」が誕生しました。

 *図:江戸時代中ごろの今津町周辺の地図。

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風塵抄(3) (高砂町編)高砂町を歩く(1)

2024-09-08 09:48:14 | 風塵抄・高砂

         

      風塵抄(3) (高砂町編)高砂町を歩く(1)

 高砂町を歩きましょう。

 他の地域より楽しい散歩です。

 高砂町は、狭い地域に歴史がコンパクトにいっぱい詰まっています。

 歴史を缶詰にしたような町です。

 それに何より、町角に江戸時代の高砂町の各町(まち)の説明板があります。

 これから秋の良い季節になります。

 これらの説明板を読みながら歩いてみませんか。楽しくなること請け合いです。

       町名の説明の看板のある場所

 町看板のある場所は次のようです。

 農人町、東農人町、北本町、藍屋町、東浜町、高瀬町、次郎助町、鍵町、横町、鍛冶屋町、北渡海町、清水町、船頭町、細工町、大工町、魚町、南渡海町、材木町、今津町、南本町、釣船町、宮前町、狩網町、猟師町、田町、戎町、西宮町、東宮町、南浜町(HPより)

 *地図:各説明板のある場所(HPより)

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  風塵抄(2) 加印地方(加古郡と印南郡)

2024-09-07 08:24:42 | 風塵抄・高砂

 

         風塵抄(2) 加印地方(加古郡と印南郡)

 

 このブログを風塵抄・加印の歴史としてはじめました。少し説明が必要です。

 (高砂市・稲美町・中学生が使っている社会科(歴史)の教科書の一部を読んでみます。

 ・・・・(奈良時代)地方は国・郡などにわけられれ、国には都の貴族を国司として派遣し、郡には地方の豪族を郡司に任じて、人々を治めさせました。・・・

 加古川・高砂地方は、国とは「播磨の国」であり、郡は加古郡と印南郡(いんなみぐん)です。

 この時、郡の境は、加古川の流れを基準とされ、つまり、加古川の東側を加古郡、西側を印南郡としました。

 私たちの地方は、川を挟んで、加古郡と印南郡とからなっており、「加印地方」と呼ばれ、一つの文化的、経済的地域を形成してきました。

 しかし、加古川は天下の暴れ川でした。洪水は、幾度となく川の流れをかえ、郡境と加古川の流れが、その都度一致しなくなりました。



 川東の印南郡野一部は加古川村・木村村・友沢村・稲屋村は印南郡に属していました。なにかと不都合が生じました。

 明治22年2月22日、印南郡に属していた加古川町、西河原村、友沢村、稲屋村、木村の一町四村が、地理的な関係から加古郡に編入ました。

 その印南郡も昭和52年、印南郡に最後まで残っていた志方町が、加古川市と合併し、奈良時代に誕生したその郡名も消滅し、現在にいたっています。

 

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風塵抄・加印の歴史(1)

2024-09-06 08:32:03 | 風塵抄・加印
 

      風塵抄・加印(高砂市・稲美町・播磨町)歴史編

 「ひろかずのブログかこがわをゆく(加古川市の歴史編)」もフェイスブックで5000号を大きくこえ先日終了させました。

 だらだらと、面白くない内容を押しつけ申し訳ありませんでした。

 でも、終えてみると少し寂しいです。

 そこで、加古川市の歴史の続きとして「高砂市・稲美町・播磨町の歴史」を以前に書いた文章に若干修正し、続けることにしました。

 題もかっこよく「風塵抄・加印」としました。お時間のある時にでも、お読みいただければ幸いです。

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播磨の地震(5) 草谷断層

2024-09-05 07:12:29 | 余話として

        播磨の地震(5) 草谷断層

 地図をご覧ください。

 草谷断層は、山崎断層が三木市の方へ走り、そこから南へ向きを変えて伸びる山崎断層の一部であるといわれています。

 草谷断層は、三木市から稲美町を貫き、加古川市へ分布する断層で、東北東-西南西方向に延びており、右横ずれの断層です。

 少し詳細に言うと、この断層は稲美町内では野寺辺りから入ヶ池(にゅうがいけ)にかけて割れ、千波池(国岡)の南の岸から南西へ、そして加古川市平岡町へ伸びる断層です。

 草谷断層は、今後30年以内に動く確率は0%といわれており、当面は地震の心配の少ない断層です。

 でも、最近は想定外の事例が多すぎます。



 ☆あるHPに稲美町の池と草谷断層についての最悪のシナリオがありました。

 無断でお借りします。

 (文末を「です・ます調」に変えています)

      最悪のシナリオ 草谷断層動く!

 田植えを控えた五月中旬でした。

 稲美町の約九十のため池は、どこも満々と水をたたえています。

 普段は水利組合や自治会が適度な水位に管理しているが、はや梅雨本番を思わせる長雨が、一週間近くも続いていました。

 昼前、Hさん(41)は自分の田へと水を引く池で洪水吐(こうずいばけ)のようすを見ている時でした。

 大地がごう音とともに揺れ、たまらず倒れ込んだHさんが顔を上げると、約二百メートル先の高地の池の堤が引き裂さかれ、濁流が一気に迫ってきたのです。

 必死で電柱に登りました。

 足下を通過した濁流は勢いを増して約三キロ下流まで進み、集落を水びたしにしました。

 二時間後、町災害対策本部に入った情報では、町を貫く草谷断層が動いたとのことでした。

 「危険度0%」。住民の誰もが、断層についてそう思いこんでいました。

 だが、断層に近接したため池はほとんどが決壊し、国岡、森安など高台の地区を除き町の大部分が浸水したのです。

 町はまるで、大きな水たまりのようになってしまいました。

 〈追記〉

  稲美町は町面積の一割以上を占めるため池の危険度を示す地図を作って全戸配布ています。全国初の試みです。

  地図の作成に携わった明石工業高等専門学校の神田佳一教授は、「考えられる最も危険な状況から作ったが、想定外の地震や降雨もおこり得ます。ため池が決壊するかもしれない、という日常からの意識こそがその時に役立つ」と言われています。

 *写真:草谷断層

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播磨の地震(4) 米田大地震(応永19年・1412)

2024-09-04 07:55:27 | 余話として

 

     播磨の地震(4) 米田大地震(応永19年・1412

 中世の 加古川地域を記録した鎮増の書いた『鎮増私聞書』に応永19年(14121114日の早朝・米田に大地震があったことを記録しています。

 地震の記事は、次のようです。

 ・・・某年(応永19年)十一月十四日暁、大地震あり、他国は、去程はなしと云伝、播磨にては米田東西十里計、神舎・仏寺・人屋(人家)はくつ(崩)れ、人の打殺さるゝこと多かりけり・・・

 播磨以外では、さほどのことはなかったようです。

 播磨では、米田を中心として周辺10里ほどの神社・仏閣等が殆ど倒壊したことを記録しています。

 この時の米田の地震は、震源地が浅く、今で言う直下型の地震であったようです。

加古川下流の沖積平野は、加古川の流れが運んだ土砂が表面を厚く覆い、地震を引き起こす地下の断層が分からなくなっています。

 南海地震・山崎断層にともなう地震にはもちろん注意が必要でしょうが、加古川にはあんがい私たちの知らない断層があり、それが動いて大きな被害を引き起こすかもしれません。

 593年前に米田を中心にしておきた米田大地震は、そのことを私たちに教えてくれているのでしょう。

 歴史か教訓を学んでおく必要がありそうです。



 米田大地震については『室町お坊さん物語(田中貴子著』(写真)をお読みください。

 なお、『鎮僧私聞書』は、応永32年(1525)の加古川大洪水についても記録しています。

  *『室町お坊さん物語(田中貴子著』(講談社現代新書)参照

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播磨の地震(3) 南海地震(昭和21年12月21日)

2024-09-03 08:12:33 | 余話として

      播磨の地震(3) 南海地震(昭和211221日)

 地震研究者の意見では、次回の南海地震は、まもなく発生すると予想しています。

 前回の南海地震は、昭和21年12月21日の早朝に発生しました。

 死者は、1300人をこえました。

 潮岬の沖合を震源とするマグニチュード8.2の巨大地震です。

 この時期、日本は敗戦のため占領されており、マスコミの自由な報道は禁止されていました。

 そのため、地震の被害・規模が大きかったにもかかわらず詳しく報道されていません。

 ある新聞は、加古川地方における南海地震を次のように伝えています。



 「・・・21日早暁、突如、加印(かいん)地方(旧:加古郡・印南郡を含む地方)を襲った強震は空前のもので、何れも戸外に飛び出し、酷しい寒気と異常な恐怖に震えつつ夜の明けるのを路上に待ったが、調査の進むにつれ損害は意外に大きく、加古川町では居屋河原町(いやがわらちょう)の洗濯業・入江源栄さん(40)、寺家町一丁目小間物商・三木さんの隣家の白木栄太郎さんが見るも無残。

このため逃げ遅れた入江さんらは家屋の下敷きになって重傷。

・・・加古川旧本町の商店街は・・・損害を蒙らないところは皆無の状態であり、湯屋数軒の煙突は途中から損傷、旧日本毛織工場の大煙突は亀裂を生じ、レンガ塀の一部が損傷した・・・」



 専門家の意見では、この時の南海地震のエネルギィーは、すべて放出されていないとのことです。

 最近、「さらに大きな次の南海地震が近い」と予想されています。

 南海地震・東南海地震・東海地震が同時に発生したらどうなるのでしょうか。

「想定外」の地震・津波が恐ろしいです。いま何をしておくべきなんでしょう?

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