ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

尾上町をゆく(13) 今福(2) 『歴史探訪・今福』

2023-09-30 06:36:16 | 加古川市尾上町探訪

 

       尾上町をゆく(13) 今福(2) 『歴史探訪・今福』

 199810月に町内会から、簡単な『歴史探訪・今福』を出版しました。

 原稿は、なつかしくなったワープロのフロッピーに残していましたが、役に立たなくなっていました。

 そのため、新しく原稿を書くつもりで新版『歴史探訪・今福』を書いてみました。

 今回はの『今福(2)』はその「はじめに」からの引用です。 

 1996年、今福出身の俳人・永田耕衣(ながたこうい・写真)氏は96歳で大往生をとげられました。彼は少年時代をすごした明治の終わりのころの今福を、次のように書いていおられる。



 ・・・・(今福は)ただ、ダダっぴろい田圃と畦道が遊び場であった。

 わずか残る荷車が通ることができる程度の農道が幹線道路で、その他は各農家所有の田を、お互いに区切った畦ばかり。

 その畦に、春はレンゲを茂らせていた。

 まったくの「春の野」と言える豪華な夢の世界であった。

 村童たちも夢のように、村をはなれて、ソコらじゅうを自由に駆け廻った。

 そうした「野遊び」に「孤独」感はなかった。

 両親をも忘却して天人さながら舞い遊んだ。遊び暮らした。

 一切の「世苦」などは身に覚えぬ別天地であった。

  ・・・・(『火の記憶』1998)より



 こんな今福の風景はどこかへ行ってしまったのでしょう。

 愚痴を言っても始まりません。

 すばらしい新しい今福も生まれています。

 *永田耕衣については、後に詳細を紹介します。

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10月2日から始まる朝ドラ「ブギウギ」が楽しみです  ナレーターは、加古川東高校出身の高瀬耕造さん

2023-09-29 06:04:27 | 余話として

    10月2日から始まる朝ドラ「ブギウギ」が楽しみです

       ナレーターは、加古川東高校の出身の高瀬耕造さん

 今まで、NHKの朝ドラはほとんど見たことがありません。勤めていた時は、その時間帯は通勤中でした。退職後も特に理由もないのですが、見ていません。

 でも、先週あたりから今年の後半の朝ドラ「ブギウギ」の紹介が増えています。

 紹介されている主人公が踊っている写真の場所(写真)は、なんと私の以前に住んでいた近所のニッケの社宅です。

 この社宅には友達がたくさんいました。27日も同窓会で元社宅に住んでおられたSさんにお会いしました。

 こんな地元が紹介されるドラマなら見ないないわけにはいきません。

 それに、ドラマのナレーターが加古川東高校出身のNHKのアナウンサー高瀬耕造さん。

 楽しみで~す。

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尾上町をゆく(12) 今福(1) 好字「今福」

2023-09-28 08:10:03 | 加古川市尾上町探訪

        尾上町をゆく(12) 今福(1) 好字「今福」

 最初にお詫びです。というのは、「尾上町今福」は私の自宅のある地区です。

 そのため、若干、多めの紹介になります。贔屓ですね。ご了解ください。

        好字「今福」

『続日本記』(しょくにほんき)に、和銅6年(713)、「郡・郷名には好字を用いなさい・・・」という命令が出されたことが記されています。

 また、延喜式にもよく似た命令「凡そ(およそ)、諸国郡内部・里等の名、ならびに二字を用い必ず嘉名をとれ・・・」とありあます。

「縁起のよい二文字で地名・郡名を記せ・・・」という命令なのです。

「好字を持つ土地は栄える」と信じられたようです。

 これは遣唐使などにより、中国から持ち込まれたハイカラな新知識が採用されたためでしょう。

 やがて、この習慣は一般化し定着します。

「今福」は、平安時代の末期、建久元年(1190)の、石清水八幡宮の文書の中に「播磨の国今福」として登場します。ですから、それ以前にも集落があったようです。

 石清水八幡宮と今福の関係は、後に見ることにします。

       い ま

 今福の「いま」は「新しい」と言う意味で、今福は「新しく誕生した福(幸運)に恵まれた集落」と言う意味でしょう。

 今福という好字を持つ地名は全国にたくさんあります。

 兵庫県では尼崎市の今福がよく知られていますが、尼崎市の「今福」は、尾上の今福より新しく中世になり見られる地名です。









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尾上町をゆく(11) 白旗観音寺(7) 観音寺の石幢(せきとう)

2023-09-27 07:52:46 | 加古川市尾上町探訪

            尾上町をゆく(11) 白旗観音寺(7) 観音寺の石幢(せきとう)

 仏様で、もっとも親しみを感じるのは地蔵菩薩ですね。

 この仏は、大地の恵を表しています。

 世の中が乱れはじめた末法(まっぽう)の時代に入ったとされた平安時代の末頃から広く庶民の間に広がりました。

 また、墓地で六体の地蔵をよく見かけます。六地蔵です。

 仏教では、人間は死後「生前のおこない」により、六つの世界に生まれかわるとされています。

 その六つの世界とは、地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人間・天上であるといいます。

 どの世界に生まれ変わっても心配は不要です。

 死後、「地蔵菩薩がそれぞれの世界に現れ、悔い改めた人には救いの手を差し伸べてくださる」というのです。

この六地蔵の考えは、鎌倉時代から広がりました。



 写真のように六角形の石柱の、それぞれの面に刻まれた六地蔵が、池田の観音寺の境内にあります。

 六地蔵が彫られた六角の石柱は、石幢(せきとう)と呼ばれ、珍しいものです。

 観音寺の石幢は、花崗岩製で製作年を示す銘文はないのですが、室町時代の初期のものといわれています。

* 写真:池田(加古川市尾上町池田)観音寺の境内にある石幢

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尾上町をゆく(10) 白旗観音寺(6) 綿里小学校

2023-09-26 07:16:32 | 加古川市尾上町探訪

 

          尾上町をゆく(10) 白旗観音寺(6) 綿里小学校

 江戸時代、大坂や江戸の巨大都市が生まれました。また、交通も発達し商品流通は盛んになりました。

 江戸時代の後半、綿花は商品として大規模に栽培されるようになりました。

 特に姫路藩は、財政改善の切り札として綿作を藩の専売として奨励しました。

 姫路木綿は品質がよく、江戸で大好評を得、この姫路木綿の原料の綿の多くは、加古川地方で栽培されました。

 中でも、尾上では綿作が盛んで、池田村(加古川市尾上町)と養田村(ようたむら)にその状況をみると、安政4年(1857)池田村では、畑作の中で綿作の占める割合が86%で、養田では73%にも及びました。

 全田畑では池田村は66.8%、養田村は63.8%とずいぶん綿作が盛んでした。

 秋には、真っ白い綿花の風景が一面に広がっていたことでしょう。

             綿里小学校

 明治9年、尾上に3小学校(後に統合して尾上小学校になる)が設置されたまし。

 そのうちの一つは、池田の白旗観音寺に置かれ、学校の名前を「綿里小学校」としました。

 校名は、綿作が盛んであったことを語っています。

*挿絵:綿の花

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尾上町をゆく(9) 白旗観音寺(5) 絵馬と魚藍観音

2023-09-25 06:36:02 | 加古川市尾上町探訪

 

   尾上町をゆく(9) 白旗観音寺(5) 絵馬と魚藍観音

     絵 馬

 「幾千代かけて植えにし池田山 たもとにかかる笹の露」のご詠歌でも知られている白旗観音寺には多くの信者が絶えません。

 姫路、岡山、小豆島等の船乗りの信者も特に多いそうです。

 山門を抜けると観音堂に向かって左側に、絵馬(写真)を奉納した建物があります。

 寺院に絵馬はめずらしい。海につながる絵馬が多数奉納されています。

      魚藍観音

 山門をくぐるとすぐ左に、新しい観音様であるが魚藍観音です。

 S家が祖先の供養のために奉納したとあります。

 それにしても、あまり聞きなれない観音様です。

 HPに、魚藍観音の説明があったので掲載しておきます。

 ・・・・

 我々は、日々の食膳に魚介類をいただいています。

 間接的に我々は殺生をしていることです。

 昔から魚は食われて成仏すると申しますが、これは人間が勝手につけた理屈です。

 そこで、魚介類の霊を慰めるため、また、供養のためにの観音様が魚藍観音です。

 魚藍(ぎょらん)は、魚を入れるかご(ビク)のことです。

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くたびれた勇姿

2023-09-24 08:46:18 | 余話として

   

        くたびれた勇姿

 今年のプロ野球は面白かったですね。

 タイガースの優勝、うれしかった。 

 今年は、タイガースの試合だけでなく、メジャーの試合もよく見ました。

 もちろん大谷さんの活躍のせいです。

 そこで、アマゾンで歳甲斐もなく大谷さんのTシャツを買ってしまいました。

 80歳のお爺さんです。さすがにこのシャツを着て街を歩く勇気はありません。

 でも、元気が出そうですから、このシャツを着て、残りのタイガースの試合を応援します。

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彼岸花が咲いています

2023-09-23 11:17:12 | 風景

        彼岸花が咲いています

 お彼岸の頃に彼岸花が咲く。

 不思議なことではありませんが、なぜか落ち着きます。

 まだ気温が高いですが、気持ちの良い本当の秋がそこまで来ているんですね。

 写真は、お隣の空き地に咲いた彼岸花です。

 (きょう、23日 10:30ごろの撮影)

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 尾上町をゆく(8) 白旗観音寺(4) 中濱要太郎の墓碑

2023-09-23 09:04:22 | 加古川市尾上町探訪

           尾上町をゆく(8) 白旗観音寺(4) 中濱要太郎の墓碑

 池田村、口里村は観音寺の檀家であるが、観音寺の境内には数基の墓があるのみです。中濱要太郎の墓碑(写真)は、観音寺の境内にひときわ目立つ墓碑です。

       ある想像

 前号の紹介した観音寺の山門の山号の山岡鉄舟の書が気になっています。

 勝手な想像を書いてみます。

 中濱家は、江戸時代池田村の庄屋でした。中濱家にも山岡鉄舟の書があるということですが、私はまだ、拝見していません。これは何を物語るのでしょうか。

 鉄舟の年譜は、次のようです。

 

 ・天保七年(1863) 江戸本所御蔵奉行小野朝衛門の四男として生まれる。

 ・安政二年(1855) 千葉周作について剣を学び、山岡静山に槍述を学んだ。静山急死のあと、望まれて山岡家の養子となり静山の妹と結婚。

 ・文久三年(1863) 浪士隊(新撰組の前身)の取締役となり、将軍家茂に頼まれ京都へ行く。

 ・明治元年(1868) 鉄舟は慶喜(徳川15代将軍)の命を受け、静岡の駿府に行き、西郷隆盛と会見。徳川家の安泰を約束し、勝海舟と西郷隆盛との無血開城の露払いをした。



 この経歴からもわかるように、鉄舟は幕府側の人物です。

 後に、鉄舟は明治政府の要人として活躍します。

 鉄舟は、時代の正確な情報を収集していたのでしょう。それも、自らの足と目で確かめていたようです。播磨へも肢を運びます。

 播磨は、畿内と西国の接点で、多くの情報の集まる場所です。

 高砂(港)には特に多くの情報が集まりました。

 池田(尾上町)は高砂港に近い場所です。情報収集のためでしょう。鉄舟は池田の中濱家にしばしば逗留したようです。

 そのお礼に、鉄舟は、中濱家に書を残したと想像します。

 中濱家は、池田観音寺の有力な檀家です。訪れた鉄舟に寺は書を求めたのかもしれません。

 鉄舟は、明治天皇の教育係を勤めました。

 鉄舟は、明治21年に胃癌でなくなります。53歳でした。

 中濱要太郎が亡くなるのは、明治27年です。中濱家は鉄舟につなが何らかの縁があったのでは?

 中濱要太郎が、近衛兵に選ばれたのもその延長のように思えるのです。

 以上の想像は、山岡鉄舟の研究に基づいたものではありません。さらに調べてみたいです。

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尾上町をゆく(7) 白旗観音寺(3) 山岡鉄舟と山号(生竹山)の書

2023-09-22 02:15:58 | 加古川市尾上町探訪

      尾上町をゆく(7) 白旗観音寺(3) 山岡鉄舟と山号(生竹山)の書

        山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)

 『日本大百科全書(小学館)』から、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の紹介です。

 鉄舟は幕末・明治前期の剣客、政治家それに書道家です。

 彼は、天保7年(1836)、旗本小野朝右衛門の長男としてうまれ、安政2年(1855)槍の師である山岡家を継ぎ、また、千葉周作に剣を学び自らも門弟を教えました。

 文久2年(18683月、戊辰戦争の際、勝海舟の使者として駿府に行き、西郷隆盛と会見して、江戸開城について勝・西郷会談の道を開きました。

 明治5年(1872)、明治天皇の侍従に就任し、明治21年(1888)7月21日没。53才の若さでした。

      山岡鉄舟の書の額

 観音寺の山門に生竹山(しょうちくさん)の書(写真)が掛けられています。

 この山号の書は、山岡鉄舟の筆によるものです。

 郷土史家の木戸正氏は、『ふるさとの文化遺産(第3巻)』に「・・・“剣禅一如”の哲人といわれ、当代随一の剣聖たる山岡鉄舟が観音寺の山号を書かれた謂れは禅を通じてか・・・」とだけ書かれています。

 観音寺と鉄舟の関係は、はっきりしません。

 白旗観音寺と鉄舟の関係を知りたいですね。

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尾上町をゆく(6) 白旗観音寺(2) 播磨西国二十八番・郡西国一番札所

2023-09-21 06:25:47 | 加古川市尾上町探訪

     尾上町をゆく(6) 白旗観音(2) 播磨西国二十八番・郡西国一番札所

 西国三十三観音めぐりは、平安時代中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。

 人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音の巡礼にでかけました。

 第一番の札所の那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。

 江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三か所めぐりも比較的やりやすくなりました。

    ◇播磨西国二十八番札所・生竹山白幡観音寺

 しかし、誰でも気軽に巡礼の旅に出ることはできません。

 生活の苦しい庶民にとっては、現在の外国旅行よりもずっと縁の遠いものでした。

 そこで考えられたのが播磨の国の中に、三十三か寺を定めて、それらの寺を巡礼すれば「西国三十三所めぐり」と同じ功徳があるとする「播磨西国三十三所めぐり」です。

 このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。

    ◇郡西国一番札所

 さらに、巡礼しやすいものとして、加古郡内に三十三か寺の巡礼のための寺が決められました。

 これが「郡西国三十三札所(郡西国とも言う)」です。

 郡西国の一番札所は、池田の白幡観音寺です。

 * 写真は、白旗観音寺の三十三体の観音像。

 観音堂の本尊は聖観音(秘仏)で、写真の観音像は観音堂の内陣の向かって左に祀られています。 

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尾上町をゆく(5) 白旗観音寺(1) 白旗観音寺の伝承

2023-09-20 07:09:12 | 加古川市尾上町探訪

        尾上町をゆく(5) 白旗観音寺(1) 白旗観音寺の伝承

 池田(尾上町)の白旗観音寺(生竹山観音寺)に伝わる伝説です。 



  ・・・むかし、阿蘇の宮の神主、友成が京へのぼっていました。

 途中、賑わいのある池田の浜に船を止めて、尾上の鐘・尾上の松などを見学し終え、船に乗り再び京へ出発しようとした時のことでした。

 友成が港につきたてた竹が、みるみる間に根を張り、抜けなくなったのです。しかたなく、そこで一泊しました。

 その夜のことです。

 夢に友成の持仏の観音様が現れ「このあたりの浜は波風が荒く、往来の船は難渋している。私は、ここに鎮座して諸人の願いを叶えん・・・」と告げたのです。

 友成は、地元の信心深い藤内に観音様をたくし京へたちました。船は飛ぶように進んみました。藤内は、ここに堂を建て、観音様をおまつりしました。以後、この池田の浜は穏やかになりました。

 また、藤内の夢に観音様があらわれ、「白き布を与える。これを船印にせよ・・」と告げたのでした。

 船にこの白い布をつけたところ、船は荒海といえど遭難することはなく、近在の信仰を集めました。

 そのため池田の観音様は、白旗観音(しらはたかんのん)と呼ばれるようになったといいます。

 生竹山観音寺(しょうちくさん・かんのんじ)は元、イケタケサン観音寺と呼ばれ、「池田」は、このイケタケが訛ったものということです。

 *写真は、池田(加古川市尾上町池田)の白旗観音寺(生竹山観音寺

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尾上町をゆく(4) 玖須比(くすひ)の伝承

2023-09-19 08:38:58 | 加古川市尾上町探訪

 

       尾上町をゆく(4) 玖須比(くすひ)の伝承

 加古川市尾上町養田の大歳神社の伝承です。

 中世の今津は、「今津千軒」と呼ばれ、たいそう賑わっていました。いつの頃から、今津へ二匹の大蛇が出没し、人を食べるようになりました。

 長田の長(おさ)、玖須比(くすひ)は、大蛇退治に出かけました。ある日、子どもをつれて海辺に出ました。

 急に空が曇り、大蛇があらわれ一気に幼児を飲み込んでしまったのです。

 怒った玖須比の放った第二の矢が、大蛇の喉に命中しました。さすがの大蛇も地響きをたてて息絶えたました。

 帰途、気がつくと物凄い形相で雌の大蛇が追いかけてきました。玖須比は振り返り、切りつけました。

 傷ついた大蛇は「今津が元のようになったら、また人を食べに帰ってくる」と言い残して海に去っていきました。

 二匹の大蛇が通った跡は、メス溝・オス溝と呼ばれ戦前、尾上に飛行場が作られるまでは残っていたといいます。

 今津は、加古川の河口にあり、加古川の堆積作用により港としての機能を失い、幾度となく洪水に見舞われた土地柄でした。

 そんな歴史が尾上(養田)に、「大蛇と玖須比」の伝承を残したのでしょう。

*写真:大歳神社の祭神・玖須比を説明する説明板



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尾上町をゆく(3) 崎の宮神社と高砂神社

2023-09-18 06:48:18 | 加古川市尾上町探訪

       尾上町をゆく(3) 崎の宮神社と高砂神社

 加古川河口左岸(東岸)に、崎の宮神社(加古川市尾上町養田)があります。

 この神社はスサノオノミコト・クシナダヒメ・そしてオオナムチノミコトを祭神としており、祭神は、右岸の高砂神社と全く同じです。

 もともと、加古川河口に位置した二つの神社は、洪水から地域を守るこlとが期待された神社であったのでしょう。

 江戸時代の歴史書「播磨鑑(はりまかがみ)」の一部を読んでみます。(読みやすいように改めています)



 「・・・崎の宮神社は、高砂の祭神と同じである。9月11日の宵宮に、高砂より神輿をねりに来る。それを迎えて、川船で11日の未明まで神事をしていた。しかし、近頃(江戸時代初期)、事情があってこの神事は行われなくなった・・・」

 

 「近頃、事情があって、この神事が行われなくなった」と云う箇所が少々気になります。

 中世の加古川左岸の今津(尾上)は「今津千軒」をバックに、たいそう賑わっていたことは先に述べました。しかし、江戸時代、高砂は姫路藩最大の経済都市として大いに栄え、その地位は完全に逆転しました。

 高砂衆に支えられた高砂神社も大いに賑わったのです。

 そのため、わざわざ崎の宮神社に出かけ、崎の宮神社を本宮のごとく神事を行うことは、高砂衆のプライドが許さなかったのでしょう。

 播磨鑑の筆者も、かつての尾上の賑わいの跡を語っているようです。

 *写真:崎の宮神社(加古川市尾上町養田)

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尾上町をゆく(2) 「今津村」高砂に移住

2023-09-17 10:22:07 | 加古川市尾上町探訪

 

     尾上町をゆく(2) 「今津村」高砂に移住

 中世の頃、今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていました。

 その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝政)から通達がありました。

 内容は、「高砂村へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものでした。

 なお、この通達文(池田輝政定)は、『高砂市史(第五巻・資料編(近世)』p154に解読文があります。詳しくは、それをご覧ください。

 前号で述べたように中世に栄えた今津村(現:加古川市尾上町)も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失ない、それも、予想を超える砂の堆積でした。

 藩主・池田輝政は、新たに右岸の高砂に城を築き、町場をつくることにしました。

 結果、加古川東岸の今津村は慶長・元和の頃に消滅しました。

 高砂に「今津町」ができたのです。

 「今津町」は、対岸の今津から村を挙げて移住した者をはじめ、養田・池田・長田・安田等近在の農民があいついで移住し、つくられた町です。

 *高砂町の地図で「今津町」を確認ください。



 現在でも、加古川市尾上町に「今津」が通称名として残っていますが、尾上の「今津」は400年も昔に、消えた地名です。

 

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