ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

今朝の公園の藤棚と空

2022-01-31 10:52:00 | 風景

      今朝の公園の藤棚と空

 3時ごろに目が覚めて、そのあと寝れないことが増えてきました。

 今朝は、それから夜明けまで、寝ることができました。

 朝、日光がいっぱいでした。

 おまけに風もありません。

 いつもなら昼から出かける散歩ですが、朝食の後、公園まで散歩したんです。

 コンクリートのベンチに寝そべって空をながめていました。

 いつもならあまり気に留めない藤棚と空が抽象画のように見えるのです。

 おまけに、雲はゆっくり東の方に流れています。

 こんな日は、良いことがおこりそうです。

 何かありましたら、報告します。

 *写真:藤棚と空(町内の朝の公園にて)

 

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小さなチューリップの芽が出ました

2022-01-30 11:15:05 | 風景

 

          小さなチューリップの芽が出ました

 去年の春、庭に小ぶりのチューリップがいっぱい咲きました。

 まさに、赤・白・黄色でした。

 そのチューリップが咲き切った後、耕したら小さな球根が出てきました。

 それを、また「来年咲くかもしれない」ととっておいたのです。

 ストッカーにいれていたらカラカラでした。

 「もう球根は死んだ・・・」と諦めていました。

 でも、ひょっとして生きているかもしれないと11月に植えていました。

 今朝気が付いたのですが、そのうち数本の芽がでているのです。

 続いて、新しい芽が続きそうです。

 春には店で販売していないような、小さなチューリップが咲きそうです。

 春の楽しみが増えました。

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上村池遺跡(うえむらいけいせき)説明会

2022-01-29 17:47:45 | 歴史・文学

      

   上村池遺跡(うえむらいけいせき)説明会 

 きょう(29日・土)の午後、八幡町中西条の「上村池遺跡」の説明会に出かけました。

 

 125日の神戸新聞の朝刊に上村池遺跡(八幡町中西条)の「奈良期の大型建物跡発掘」の記事の最初の部分を読んでみます。

 

 ・・・市文化財調査研究センターによると弥生時代から平安時代にかけての遺構、遺物が確認されている複合遺跡。

 1016年度には同市八幡町上西条の1500平方メートルを発掘調査し、飛鳥時代から平安、鎌倉時代にかけての集落跡を発見した。

 今回は、ほ場整備事業に伴う発掘調査で、面積は約600平方メートル。

 16年の調査場所の西側に位置し、昨年11月から調べていた。

 地面に掘った穴に柱を立てる「掘建柱建物」の跡とみられる柱穴は、複数棟分を発見。倉庫跡とみられる物もあったという。

 柱や溝等の穴は、180ヵ所以上あり須恵器等の土器片も出土している・・・・ 

 

 なお、調査員さんの説明では、「この辺は、まだ全体の調査が行われておらず、全体の調査が進めば奈良時代の大きな集落跡が出現し、ここは望理里(まがりのさと)の中心地であり、建物跡から判断して「望理の里」の役所の所在地かもしれません」とのことでした。

 

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「神野の歴史(仮称)」は、2月中旬からスタート

2022-01-28 09:26:52 | 余話として

 

   「神野の歴史(仮称)」は、2月中旬からスタート

 昨日、神野小学校へ調査(調査としておきます)に出かけました、たくさんの古い写真を拝見しました。

 さっそく、その一部を紹介したくなり、1872年(明治5)10月1日 、神野村の常光寺でスタートした「天徳学校」(スケッチ下)のスケッチをFBで以前に書いた文章で紹介しました。

 急いではだめですね。一番大切なことが抜けています。

 お寺の配置はいまとほとんど変わっていません。

 山門を抜けると鐘楼があります。その鐘楼の先に「禅堂」が描かれています。その禅堂こそが小学校として使用された建物です。

 現在、その禅堂はありません。

 そして、明治33年11月25日、神野小学校の新校舎(スケッチ上)が落成しました。村のうれしい一大出来事でした。

 *写真:神野小学校新校舎のスケッチ(大正元年正月)

 

 〈お知らせ〉慌てての編集は、間違いや大切なことをいっぱい抜かしてしまいます。「神野の歴史(仮称)」は、2月中旬までゆっくり検討します。

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ちいさな春

2022-01-26 08:18:26 | 風景

          ちいさな春

 先日、Kさんが、FBに曽根神社の紅梅について書いておられました。

 「もうそんな季節か・・・」と昨日の午前中に、曽根神社に出かけたんです。

 でも、ほとんどの紅梅は、堅い蕾のまま。

 Kさんが撮られた紅梅の一角だけで咲いています。

 ちいさな、小さな春の誕生です。

 曽根神社の「梅まつり」は3月5日(土)・6日(日)。

 春は、やはり3月からですね。

 冬はもう、一か月の足踏みです。しばらくの辛抱しましょう。

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池田の観音寺の山門に山岡鉄舟書の扁額が

2022-01-25 08:02:51 | 風景

   昨日(25)の神戸新聞の夕刊に「街を巡れば名筆がわんさ」と題して近代著名人の直筆が刻まれている街の石碑や銘板を紹介しています。

 「加古川市ではどうかな?」と、浮かんだのは尾上町池田の観音寺の山門の山岡鉄舟の扁額です。紹介しておきましょう。

      山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)

 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を紹介しておきます。

 鉄舟は幕末・明治前期の剣客、政治家それに書道家です。

 千葉周作に剣を学び、自らも門弟を教えました。

 慶応4年18683月、戊辰戦争の際、勝海舟の使者として駿府に行き、西郷隆盛と会見して、江戸開城について勝・西郷会談の道を開いています。

 明治5年(1872)、明治天皇の侍従に就任しました。明治21年(188853歳で亡くなりました

    池田の観音寺の山門に山岡鉄舟書の扁額が

 観音寺の山門に生竹山(しょうちくさん)の書が掛けられています。この山号の書は、山岡鉄舟の筆(写真)によるものです。

 観音寺と鉄舟の関係は、はっきりしません。

 

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今朝のアシタバ

2022-01-24 10:52:40 | 風景

    今朝のアシタバ

 写真は、アシタバです。

 もう3年ほど前になります。八丈島から送られてきました。

 八丈島というと、南の暖かい島というイメージがあり、「どうせ冬は越せない植物」と思い込んでいました。が、何とその年の厳しい冬を乗り越えたんです。

 きょねんの夏の終わりに、とつじょ、でっかいアゲハチョウの幼虫が現れました。

 少しグロテスクですが、かわいいのでそのままにしておきました。23日見ない間に母完全に食べられていました。

 幼虫は鳥に食べられたのでしょう。姿を消しました。

 その後、葉はみごとに再生しました。

 写真は、今朝のアシタバです。

 少し元気がありませんが、今年も越冬してくれそうです。

 

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お願い 神野町を探訪したいです

2022-01-23 11:44:57 | 余話として

     お願い 神野町を探訪したいです

 

  「石の宝殿の謎」で、私の知る知識をみんな吐き出しました。少し頭 に隙間ができました。次に2月の中頃から「神野町(加古川市)を取り上げよう」と考えています。

 神野町は、私にとって市内で一番霞の中にある地域です。ですから、少し調べながら書いてみようと思います。知らないことがわかると面白いです。

 とは言うものの、何か「とっかかり」が欲しいです。

 思い出の写真等をお持ちでしたら、下記のメールへご一報ください。

 まだタイトルは考えていませんが、「写真で見る神野町」とでもつけたいですね。

 よろしくお願いします。

   *メール 7z6tn9@gmail.com  

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スイセン

2022-01-22 08:46:14 | 風景

 

    ス イ セ ン

 何を狙ったのか分からない写真です。

 私の机上のスイセンを撮ったつもりです。

 スイセンは、きれいですが少し寂しいです。近くの人形を集めて撮りました。

 でも、FBではお届けできないものがあります。

 香りです。いいですよ。

 冬ばっかりの季節はないんです。

 春まではもう少し・・・・

 もうすこし、それまで辛抱をしますか。 

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甘い香り、ただいまロウバイは五分咲きです

2022-01-21 07:47:17 | 風景

   

  甘い香り、ただいまロウバイは五分咲きです

 兵庫県加古川市志方町広尾の円照寺旧境内で、ロウバイが咲きはじめました。

 ろう細工のようにつややかな花が日だまりの一画を染めています。2月上旬ごろまで楽しめます。

 中国原産の落葉低木。厳寒期の参拝客に和んでもらおうと、上月義宗住職が植えた樹齢約30年の本が毎年、花を咲かせます。

 今年は、寒さのせいか少し遅れているようです。

 それでも、丸みを帯びた黄色いつぼみと花が、甘い香りを放ちながら青空に映えています。

 現在は、五分咲きですが、1月の終わりには満開になりますよ。

 その時は、円照寺をお訪ねる下さい。

 *写真:円照寺のロウバイ(昨日撮影)

 

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「石の宝殿の謎」終了

2022-01-20 07:51:02 | 石の宝殿の謎

      「石の宝殿の謎」終了

 石の宝殿研究会のフェイスブックを乗っ取ったようで申し訳ございませんでした。

 少し飽きて来られたでしょう

 この辺りで「シリーズ・石の宝殿の謎」を終了させます。

 最後に少しだけ蛇足です。 

   ① 『石の宝殿』は、動かせない。

 石の宝殿は、何となく「石棺ではないか」と想像されています。でも、こんなでかい石棺を地方の豪族は作るはずがありません。

 となれば、当然「都(明日香)」まで運ぶことになります。建設当時は、物部・蘇我氏の時代です。彼ら以外の権力者がつくったとは考えられません。

 でも、常識論者の私は「物部であれ、蘇我であれこんなバカでかい代物がはたして都まで運ぶことができると考えただろうか」と考えてしまいます。そして「いや絶対にだめだ・・・」という声がどこからともなく聞こえてきます。皆さんはどうですか。

 そして、「石の宝殿」は、岩盤からはがそうとして形跡はないようです。

 ということは「別の目的で作ろうとした」と想像した方がよさそうです。

   ② 高御位山~魚橋山峡~宝殿山はボーダー(防御)の地か? 

 では「別の目的」となると、たちまち思考停止になります。

 あえて考えました。石の宝殿は、石の魔力で西国の敵から都を守るために作ったと考えますが、次のような目的もあったのではないでしょうか。

 いま、地球はグローバルの時代です。中国発のコロナは、瞬く間に世界を席巻してしまいました。物部・蘇我の時代も「大陸から仏教をとり入れるか否か」の問題が巻き起こりました。『日本書紀』にも伝染病広がりを記しています。

 「目に見えない病魔の都への侵入を防ぐために、畿外と畿内のボーダーになるこの地にデンと設置したのではないか」と考えました。

 「はじめから移動を考えたのではなかったのではないか」と考えました。いかがでしょうか。 

   ③ NHKの大河ドラマに松右衛門と高田屋嘉兵衛を!

 時代は飛びます。江戸時代の終わりのころです。工楽松右衛門は竜山石を使って、箱館港を建設しました。

 高田屋嘉兵衛と松右衛門のみごとなコンビでした。このふたりは、箱館港だけではありません。外にも、日本史を動かすようなビックリするようなたくさんの仕事をしています。

 高田屋嘉兵衛は淡路出身の方です。そして地元では、「大河ドラマに高田屋嘉兵衛を」の運動をされています。

 高砂市も、高田屋嘉兵衛・工楽松右衛門をNHKに売り込んでいただけないでしょうか。大河ドラマ「高田屋嘉兵衛と工楽松右衛門(仮称)」で取りあげてもらいたいですね。

 〈お詫び〉

 このシリーズを随分、かってな考えで書いています。多くの方から、お叱りを声が聞こえてきそうです。そのお叱りや感想をお聞かせいただければ嬉しいです。よろしくお願いします。

 *写真:石の宝殿(石の宝殿研究会提供)

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(19)・工楽松右衛門(3) 松右衛門、竜山石で箱館港をつくる

2022-01-19 10:26:24 | 石の宝殿の謎

 

      石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(19)

        松右衛門、竜山石で箱館港をつくる

 (高田屋)嘉兵衛は、小船でも渡れるエトロフ航路を開くが、これを契機として幕府は蝦夷地(北海道)経営に深くかかわっていきます。

 蝦夷地経営の拠点としての箱館の港が重要になて、松右衛門は、嘉兵衛からの要請もあり、箱館の港づくりに応じました。

 

 ・・・享和三年(1803)、箱館は、松右衛門の設計によって、地蔵町(函館山の麓)の浜に築港し、文化元年(1804)に巨大な船作業場(をつくりました。

 その作業場は、「船たで場」といい、木製の船底に付着している虫や貝をいぶして駆除し、同時に損傷しているカ所を補修するところで、現在のドックにあたります。

 ドックの建設には比較的軟らかな石畳が必要です。

 松右衛門は、耐火力もある竜山石(たつやまいし)を、大量に箱館に運び、「船たで場」をつくりました。

 現在の函館の町づくりのはじまりは嘉兵衛が、そして、港をづくりは松右衛門が最初に手がけました。

 船食い虫については『菜の花の沖』で、司馬遼太郎は次のように説明しています。

 ・・・「舟の敵は船食い虫という白い紐状の虫である。(中略)管から海水を飲んだり吐いたりして、酸素を摂取しながら、船底の木を食べ続ける。ともかく、すべて退治するしかない」と・・・

 

 その後松右衛門は、エトロフ開発や蝦夷地交易に使ったこの箱館の地所を高田屋嘉兵衛に譲っています。

 *挿し絵:箱館真景図絵(文久2年・1862函館中央図書館蔵(挿し絵の上部の山は函館山)

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(18) ・工楽松右衛門(2) 松右衛門は港づくりの名人

2022-01-18 08:10:57 | 石の宝殿の謎

       石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(18)

     工楽松右衛門(2)・松右衛門は港づくりの名人

 高田屋嘉兵衛は、エトロフを探検した後、箱館へ帰ってきました。

 幕府の役人・三橋藤右衛門と箱館の港の件に及びました。一挙に具体的な話になります。・・・・・

 藤右衛門は「嘉兵衛、箱館に築港はできるか」と、たずねたのです。

 「箱館の浦を、いまのままにしておけない。箱館がいかに良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない・・」と。

 その時、嘉兵衛は、(工楽)松右衛門が港づくりの名人であることを、名前を出して言うのでした。

 ・・・・

 ところで、「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」と、藤右衛門はき尋ねました。

 嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、およびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えました。

 嘉兵衛は、(工楽)松右衛門の説得のため、兵庫の港に帰りました。

        嘉兵衛、松右衛門を説得

 さっそく、嘉兵衛は、松右衛門の店に寄ります。

 嘉兵衛は、松右衛門に箱館港建設について、について話しました。

 「なんじゃ、公儀御用かい」

 松右衛門旦那は、いやな顔で反問しました。が、最後に「わかった」と、返事をし、箱館港づくりに応じました。

 この時、松右衛門は61才でした。(次回へ続く)

 *写真:工松右衛門(高砂神社境内)

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(17)・松前藩・松前藩は悪の組織・「場 所」

2022-01-17 08:58:35 | 石の宝殿の謎

 

 

 

 今日の噺は、「石の宝殿も高砂」も登場しません。次回の話題の都合上、江戸時代も終わりのころの蝦夷地(北海道)を取り上げます。ご辛抱ください。

      石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(17)・松前藩 

     松前藩は悪の組織・「場 所」

 「場所」というのは、そこで漁業や商業を営んでよいという藩の縄張のこことです。

 松前藩は、蝦夷を八十余か所の「場所」に切り割って、これを藩士にあたえました。

 「松前」という藩は、広大な採集の宝庫の一角を占め、その「場所」で働くアイヌに苛烈な支配を実施しました。多くのアイヌが命を失いました。松前藩は、まさに悪組織という外ではありませんでした。

 松前藩は、みずからの藩や藩人個々の利益になること以外に、どういう思想ももって

いなかったのです。

         松 前 藩

 松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の松の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれでした。

 すでに、(高田屋)嘉兵衛は、「箱()館」という土地があることをきいていました。

 道南のほぼ中央に位置し、大湾にかこまれ、港としてもわるくない土地のことです。

 それに、箱館の背後には亀田平野という広大な平野があり、もしそこで城下町を営めば野菜の供給にも事欠きません。

          松前藩は、アイヌからの襲撃をおそれていた

 しかし、松前藩はアイヌに対して苛烈な支配をしていました。

 野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかろうという規準になると、まったく問題がべつになります。

 松前の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全です。

 かなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに、もっとも便利な土地でした。

 松前は、山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野があるだけだけの土地でした。

 当然「反抗があるかもしれない」と考えました。守備は十分ではありません。

 そのため、松前藩は守りやすいという一点だけで、この松前を城下にしていたのです。

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(16)・魚橋古窯跡

2022-01-16 09:18:54 | 石の宝殿の謎

 前号の「家紋石」を見学した帰りに、ボランティア方が作られたのでしょう。石の宝殿界隈の説明板を見つけました。

     石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(16)

         魚橋古窯跡

 高砂市阿弥陀町魚橋の地蔵山の東斜面に続く台地から、すさまじいまでの量の古瓦の破片が出土しました。地元の人は、ここを「カワラッシャ」と呼んでいました。

 ・・・・  

 これらの古瓦の研究から意外な歴史が浮かび上がってきました。

 瓦の様式からみて、ここで瓦が生産されたのは12世紀の初頭から13世紀のはじめにかけての、ほぼ100年間です。

 つまり、古代から中世へと社会が大きく変動した100年間に限って盛んに瓦を生産したしたことは、何を物語っているのでしょう。

       六勝寺

 京都・六勝寺(ろくしょうじ・りくしょうじ)は、京都東山の岡崎周辺に建てられた寺で、古代末期、時の専制者(天皇・上皇)の造寺等が思いのままであった時代の建造物です。

 六勝寺の研究は、昭和30年代に入って急速に進み、意外な事実が明らかとなりました。

 六勝寺の瓦には、魚橋窯跡から出土する瓦と全く模様の瓦が多数含まれていたのです。

 古瓦の研究者、魚橋窯で焼かれた瓦が六勝寺に供給されたのではないかと推測されました。

 魚橋瓦は、六勝寺だけではなく、さらに広く京都の大寺、宮殿に送られたようです。

 六勝寺自体が、古代末期の院政の象徴とも考えられる存在で、魚橋窯からこの地域は院政とよほど深く関係していたんですね。

 () 六勝寺:院政期、天皇や中宮の発願で鴨川東岸の白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院。いずれも「勝」の字がつくので六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)と総称されました。

 *写真:石の宝殿周辺の観光ガイド(説明板の一部)、現在、古窯跡に「東洋金属熱錬工業所」が建設され、古窯跡の面影は偲ぶことはできません。

 

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