ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平荘町・上荘町をゆく(20) 国包(7) 上荘小学校校・国包分教場

2024-04-05 08:03:20 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

        平荘町・上荘町をゆく(20) 国包(7) 上荘小学校校・国包分教場

   明治22年4月1日の町村合併でも、国包地区は印南郡上荘村のままで残り、今日まで川東ですが上荘地区国包として継続しました。
 八幡村と加古川市との合併が持ち上がりました。しかし、八幡村が加古川市と合併するとなると国包は川東と川西の上荘村とに分かれる分村問題に発展しかねません。
 昭和30年1月25日に、加古川市の議長・合併委員長・助役が山手三ヶ村(上荘村・平荘村・八幡村)を訪問し、正式に合併を申し入れました。
 いろいろと課題はありましたが、その後、合併の話はトントン拍子に進み、3月12日に加古川市と山手三ヵ村との合併を決議しました。
 昭和30年4月1日、加古川市上荘町、平荘町、八幡町は加古川市として新しいスタートをきったのです。

     二年生までは国包の分教場で

 ここで問題が残りました。国包地区の通学の問題です。
  国包地区の児童は、近くに八幡小学校があるのに川を渡って、二キロメートルの道を歩いて上荘小学校へ通うことになりました。
  二年生までは国包に分教場があり、三年生から本校へかようことになりました。
  昭和30年4月、山手三ヵ村(上荘村・平荘村・八幡村)が加古川市に合併したため、小学生の通学区の問題が話し合われ、町内会長らの粘り強い交渉が実を結び、昭和37年(1962)4月の新一年生から国包地区の児童は八幡小学校へ通学できるようになりました。
 この分教場は、いま国包公会堂となっています。
 分教場には大きな欅の樹(写真)がありました。
 中学校は、戦後六・三制の実施に伴い、昭和23年に上荘中学・平荘中学が合併して組合立両荘中学校が設立されましたが、国包地区の中学生は、八幡・神野・加古三ヵ村の組合立山手中学校へ通学するようになりました。
 大英断でした。  

  *写真:分教場にあった欅と現在の公会堂

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