ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

今年も 「ひろかずのブログ」をお読みいただき、ありがとうございました

2023-12-28 08:48:27 | 余話として

 今年も 「ひろかずのブログ」をお読みいただき、ありがとうございました

 ずいぶん昔に買った本、『社会学(加藤秀俊著)』(中公新書)を書棚に見つけました。

 学生時代、社会学を専攻したので、懐かしさで買った本のようです。

 久しぶりで読んでみました。

 社会学は専攻したとは言うものの単位を取っただけで、特に社会学を熱心に学んだという意味ではありません。

 でも、勉強しなかった学生とはいえ著者の加藤氏の名前ぐらいは覚えています。

 加藤氏は、「社会学という学問は、極言すれば、故郷の学なのである」と書いておられます。

 私も退職後「ひろかずのブログ」で「加古川地方」の歴史を中心に歩き回っています。

 加藤氏は民俗学者の宮本氏を以下のように『社会学』で紹介しています。

     社会学は「ふるさで勉強する学問」

 ・・・・宮本常一は山口県周防大島で生まれ、育った人物である。その郷土愛はごく自然で、強烈だった。

 祖父からきいた子守歌もずっと記憶していたし、苦労しながら、はたらきつづけた父親からは農作業から漁業まで手ほどきをうけ、教えをうけたことがらもことごとく鮮明におぼえていた。

 17歳で故郷をはなれて大阪にゆき、さらに東京にでたが、この民俗学者はつつねにみずからを「離郷」した人間ではなく「出稼ぎ」にでている人間だと考えていた。

 じぶんの「居場所」は一生周防大島なのだ、といって、いくら忙しくても、かならず毎月いちどは周防大島の自宅で数日をすごし、村のしごとをしていた。

 「郷土を研究するのではなく、郷土で勉強する」ことをみずからの生き方だと信じてその生涯をすごしたのである。・・・・・(『社会学』より)

    <お礼とお詫び>

 「ひろかずのブログ」5000号を超えてしまいました。「今何号あたりを走っているのか?」わかりません。

  今年も「ひろかずのブログ」に、おつきあい下さいましてありがとうございました。

 きょうは12月8日、ご用納めの日です。このブログも人並みに来年の1月5日までお休みとします。

 2024年1月5日(金)から再開しますのでよろしくお願いします。

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東神吉町をゆく(38) 東神吉の弥生・古墳時代の遺跡(3)

2023-12-27 08:35:12 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

   東神吉町をゆく(38) 東神吉の弥生・古墳時代の遺跡

 昭和49年県の建設局より、加古川平荘ダムの工業用水を、高砂市の工業地帯へ送る送水管の埋設工事が発表されました。遺跡の可能性があり、加古川市教育委員会が調査を実施することになりました。

 場所は、神吉中学校の少し東で、加古川西岸から約1.4キロ、標高約5メートルの古代加古川西岸の自然堤防上に位置しています。

 この遺跡(砂部遺跡)は、加古川下流を代表する集落遺跡で、弥生時代前期から古墳時代までの遺構であることが明らかになりました。

        朝鮮半島の影響

  古墳時代の砂部(いさべ)遺跡は、弥生時代から古墳時代の遺構をふくんでいました。

 古墳時代の砂部遺跡からは、写真のような深鉢形の身に孔をもつ脚をつけた高杯や帽子形のつまみをもつ蓋などが出土しています。

 これらの土器は、朝鮮半島の南部の洛東江(ナクトンガン)流域から出土する土器ときわめて似ています。

 『加古のながれ』(加古川市史編さん室)から引用させていただきます。

 ・・・・これらは、須恵器(すえき)とよばれる土器で、横穴式石室と同じく朝鮮半島から伝来し、倭国でもさかんにつくられるようになったものです。

 *スエ:朝鮮語でスエは鉄を意味し、須恵器(スエキ)は鉄のような硬い焼き物という意味です。

 製作の開始期には、朝鮮の工人たちが渡来して指導にあたったと思われます。

 ただし、その系統は朝鮮西部の百済(くだら)地方であったようです。

 砂部の土器は、それらとは違い朝鮮半島南部でつくられ、製品として持ってこられたものです。

 ・・・加古川西岸地域では、このように朝鮮からの珍品が出土しています。

 これらはおそらく、朝鮮に渡った人々、それも五世紀を中心とする、倭政権の朝鮮進出に参加した人々によってもたらされたと考えられます。・・・(一分、原文をかえています)・・・これら朝鮮半島南部との関係を持つ土器の発見例はきわめて少なく、今のところ畿内地方の古墳や集落址から少数の出土があるだけです。

 *写真:『加古川市史(第七巻)』より





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東神吉町をゆく(37)  東神吉弥生遺跡(2)

2023-12-26 08:48:55 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

  

  東神吉町をゆく(37)  東神吉弥生遺跡(2) 

 昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見され、昭和42年の発掘調査により、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることが確認されました、

 *場所は東神吉中学校の南のバイパスあたり

 遺跡は、標高5メートルの古代の自然堤防上に位置しています。

 砂部遺跡の近くで、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・両遺跡は、もともと一つの村であったと考えてよいであろう」と結論づけています。

 さらに、加古川市史の記述を引用します。



 ・・・・二つの遺跡を合わせたムラの範囲を正確に算出できないが、溝と付近の地形からみて、おおよそ東西300ートル、南北500メートル、広さにして1,5ヘクタールの大きさと推定される。

 遺跡のすぐ近くに広がる低地は、水田として利用されていたのであろう。

 これらをあわせると、耕地面積は少なくとも約400ヘクタールに達したと考えられる。

 *『加古川市史(第一巻)』(加古川市教育委員会)参照

 *写真:発掘中の東神吉遺跡、発掘された鍬(共に柴田圓治さん撮影)

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東神吉町をゆく(36) 神吉町に広がる弥生遺跡(1)

2023-12-25 08:46:07 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

           東神吉町をゆく(36) 神吉町に広がる弥生遺跡(1)

 加古川市東神吉町に広がる弥生遺跡をみておきましょう。

             砂部・神吉弥生遺跡

 日岡山と升田山の狭窄部から流れた川の流勢は、つねに南西方向すなわち加古川右岸(西岸)に強く、その低湿地は洪水の常習地帯でした。

 それに対し、左岸(東岸)は、つねに緩やかな水の流れで、より早い時期から陸地を形成しました。

 西岸、つまり神吉地区の低湿地の開発は、加古川左岸より遅れました。

 しかし、西岸の低湿地(神吉地区)は人が住めないということではありません。

 遅れたというものの自然堤防も大きく、ずいぶん古くから人が住んでいました。

 標高5メートル余りの微高地の、弥生遺跡である砂部(いさべ遺跡)や神吉遺跡は、そのことを証明しています。

 神吉・井ノ口・砂部に広がるの弥生遺跡についてみておきましょう。

       砂部弥生遺跡

 まず、砂部遺跡です。

 昭和49年県の建設局より、加古川平荘ダムの工業用水を、高砂市の工業地帯へ送る送水管の埋設工事が発表されました。

 遺跡の可能性があり、加古川市教育委員会が調査を実施しました。

 場所は、神吉中学校の少し東で、加古川西岸から約1,4キロ、標高約5メートルの古代加古川西岸の自然堤防上に位置しています。

 また、住居跡の周りからは、土器を焼いた穴が発見され、そこからイネやカヤが確認されました。

 砂部遺跡には幾筋もの溝が南北方向に通り、それより東は地形が一段と低くなっています。

 かつて加古川が、この辺りを流れていたと想像されます。

 *写真:砂部弥生遺跡、(『播磨の弥生土器とその周辺』・加古川総合文化センター参照

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東神吉町をゆく(35)  西井ノ口(1) 西井ノ口村誕生

2023-12-24 08:51:41 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 東神吉村天下原の金川甚左衛門をも少し紹介したいのですが、あまり勉強をしていませんので詳しく紹介できません。

 ただ、金川家は現在も天下原で続いておられるようです。お訪ねしたです。

 老齢に鞭を打って加古川地方の綿のことを調べ始めました。後日紹介できたらと思っています。金川家とおつきあいのある方はご紹介ください。お願いします。

 天下原についてはいったん終えて、西井ノ口を歩いてみます。「東神吉町・西井ノ口をゆく」の紹介です。



        東神吉町をゆく(35) 西井ノ口(1) 西井ノ口村誕生



 江戸時代の終わりから明治はじめころ、「西井ノ口村」はありませんでした。

 クイズをしておきます。

 「江戸時代、現代の西井ノ口はなんと呼ばれた村だったのでしょうか?」

 ・・・・

 答は、「井ノ口村」で「西」はついていません。

 事情は以下のようです。

       もとは「井ノ口村」

 江戸時代、現在の東神吉地区には、神吉村・天下原村(あまがはらむら)・升田村・升田新村・砂部村(いさべむら)・井ノ口村・井ノ口新村・六本松新村の八カ村がありました。

 まず、井ノ口村・井ノ口新村・六本松新村ですが、これら三ヵ村は合併して明治11年7月に合併して「井ノ口村」となりました。

 しかし、同郡(印南郡)の上荘の都染(つそめ)に同じ「井ノ口村」の地名があり、何かと混乱が起きています。

 明治22年4月1日、近隣の村が合併して東神吉村が誕生しました。「西井ノ口」は、明治22年10月の地名を変更し、東神吉村西井ノ口となりました。

 蛇足を紹介しておきます。もう一村、地図に「升田新村」の名が見えませんが、升田新村は東神吉村の誕生後、明治39年8月、出河原村(でがわらむら)と名を改めました。

 

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東神吉町をゆく(34) 天下原(3) 金川甚左衛門(2)

2023-12-23 10:16:47 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

               東神吉町をゆく(34) 天下原(2) 金川甚左衛門(2)

 大坂の問屋筋は、さっそく反応しました。

 姫路藩が、江戸への綿販売をきらったのでしょう。新たな借財への金利があがりました。

 ある問屋筋の道臣への言葉を、小説『姫路城・凍って寒からず』から借用します。



 『・・堂島の地神さんはでんな、堂島から目を逸らしたり、顔を背けたり、身をよじったりするお方が大嫌いでしてな。もし、金利がたこうなっておりますなら、そりゃ、堂島の地神さんのご宣託でっしゃろか・・・」



 しかし、道臣は、藩内の木綿業者に粘り強く協力を求めました。

 やがて、大坂商人に対する不満が出るようになりました。

 道臣は、ある会で『・・・ついては、率先して独力で江戸への販路を開いてこられた金川甚左衛門どのに敬意を払い、金川どのの<玉川さらし>を国産銘柄の一つにしたい・・」と提案しました。

 さらに、姫路藩に強力な追い風がふいたのです。

 十一代将軍・家斉には一妻二十妾(しょう)の間に、55人の子どもをもうけました。43人目の喜代姫が、姫路藩の忠学(ただひろ)との結婚の儀がかなったのです。

 姫路藩は、親藩となりました。

 姫路木綿を専売品として直接江戸へ卸す話は一気に進むようになりました。

 その上に、縁組が決まると幕府が命じる河川改修などの臨時出費も目立って減るようになったのです。

 天保三年(1832)、道臣は、甚左衛門に言いました。

「・・・木綿会所も協力してやってくれよ。いずれ、そなたが会所を背負ってたつようになるのだから・・・」と。

 天保六年(1835)、膨大な負債を返しきった道臣は隠居し、その後、道臣は寸翁(すんのう)の号を使うようになりました。

 *『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』(東洋経済新報社)参照

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東神吉町をゆく(33) 天下原(2) 金川甚左衛門(1)

2023-12-22 08:15:12 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

    東神吉町をゆく(33) 天下原(2) 金川甚左衛門(1)

 金川甚左衛門は、天下原村(あまがはら)の人です。

 江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。

 家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。

 この道臣の大仕事に金川甚左衛門は、大きな役割を果します。

 道臣は姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。

 当時、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。

 そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできなかったのです。

 当然、姫路木綿も大坂商人を通じ販売され、大坂商人は大きな利益を得ていました。

 江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。

 多くの地元の木綿業者、藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつも道臣の案に協力をしませんでした。と、言うよりも協力できなかったのです。

 しかし、道臣や(金川)甚左衛門らは、姫路木綿の江戸販売をはじめました。

 文化十一年(1814)、夏の盛りの七月、早朝の高砂港の桟橋から、「玉川さらし」が江戸へ出荷されたのです。

 姫路木綿に「玉川さらし」と名づけたのは、甚左衛門でした。

 見送るのは(家老)河合道臣、それに天下原村の甚左衛門らでした。

 寂しい出航風景でした。

 原因は、何よりも地元の実績ある木綿業者が、まったく協力しなかったからでです。

 これは寺林峻氏著・小説『姫路城・凍って寒からず』を引用しています。

 この物語は資料を基に書かれています。事実に近い筋書きになっていますので、引用させていただきました。

 *挿し絵:小説『姫路城・凍って寒からず(寺林峻)』(東洋経済新報社)、

 『姫路城・凍って寒からず(寺林峻)』は『河合道臣』(PHP文庫)と題しても出版されています。

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東神吉町をゆく(32) 天下原(1) 羽衣伝説

2023-12-21 08:21:59 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

      東神吉町をゆく(32) 天下原(1) 羽衣伝説

 ウェルネス・パーク西の道を500mほど、まっすぐに行くと毘沙門堂があります。毘沙門堂には羽衣伝説があります。

    松本清張、小説『Dの複合』で、天下原の羽衣伝説を紹介

 ここ(東神吉町)天ヶ原(あまがはら)の呼称は、ここに羽衣が舞い降りたという伝承から名づけられています。

 松本清張は、小説『Dの複合』で、少しだけ天ヶ原ついて少し書いていますので紹介しておきましょう。



 (略)・・・余裕があれば加古川まで引っ返して、羽衣の伝説地を見たいのです。「へえ、加古川にも羽衣伝説がある?」

 伊勢(『Dの複合』の主人公)はビックリした。「少し北に行ったところに、印南郡神吉村(加古川市東神吉町)というのがあって、そこに天ヶ原(天下原)という土地があり、羽衣伝説が遺っているそうです・・・・。



 清張は、もう少し天ヶ原について続けていますが省略します。

 この毘沙門堂は散歩の途中で休憩のため、しばしばよるところです。

 なんと、なんと以前、神戸新聞の明石版に、この毘沙門堂が大きく紹介されていました。「明石版」にですよ!

 東播版にもこんな楽しい挿し絵付きで加古川・高砂市・稲美・播磨町の歴史(伝承も含めて)をいっぱい紹介して欲しいですね。

 *挿し絵:羽衣伝説を伝える天下原の毘沙門さん(神戸新聞明石版より)

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東神吉町をゆく(31) 常楽寺(5) 常楽寺で神吉戦の話

2023-12-20 10:30:43 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(31) 常楽寺(5) 常楽寺で神吉戦の話

 お彼岸の中日でした。この日、太陽は真西に沈みます。

 その太陽が沈む西の先は、阿弥陀仏がお住いの浄土の東門があるといいます。

 お寺では、いろんな行事が行われます。

 2016年3月20日でした。

 東神吉町神吉の常楽寺に出かけました。

 常楽寺でも、お彼岸の行事が行われました。

 行事の後、午後2時から私の持ち時間で、『加古川お城物語り・神吉城の興亡』のテーマで檀家の方にお話をしました。

 信長軍(総大将は信長の長男・信忠)30、000の軍勢が、ここ神吉城の兵2、000を攻めにせめ、ついに城主・神吉頼定は、力尽き討ち死にし、城も炎上してしまいました。

 あつかましくも、まさにその場所にある常楽寺本堂で、神吉城の顛末をお話してきました。

 いつもの公民館でのお話とは一味違いました。少し緊張しました。

 そのため、「少しは早口だったかな」と少し反省しています。

     「女人往来図」も展示

 なお、常楽寺には鎌倉時代から南北朝時代のかけてと推定される「女人往来図」があります。

 当時、「女人は穢れており、極楽へは、なかなか往生できない」とされていました。

 そんな時代に、女人も往生できることを仏画で表現した例はほかにありません。



 常楽寺の「女人往来図」は、日本で唯一の例です。

 (注:「法然・親鸞などは、女人も救われる」と説いていました)

 ふだん公開されていない、そんな貴重な軸も展示されました。

 *写真:常楽寺本堂でのお話

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東神吉町をゆく(30) 常楽寺(4) 大庄屋・神吉家の玄関を飾った七福神

2023-12-19 10:00:47 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

      東神吉町をゆく(30) 常楽寺(4) 大庄屋・神吉家の玄関を飾った七福神

      神吉組大庄屋

 江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれました。

 大庄屋とは、それらの庄屋をまとめて支配する庄屋のことです。

 つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村程度で、それを「組」と呼んでいます。

 庄屋と違い、ふつう大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっていました。

 そして、組の名前は、大庄屋が置かれた村の名前が付けられました。

 神吉組は、万治2年(1659)からは、畑組に属していましたが、寛文年中(1661)~明治4年までは、神吉村の神吉氏が神吉組の大庄屋を勤めました。

      神吉組の村々

 神吉組には、以下の村々が含まれていました。

 神吉・宮前・宮前新・西(村)・下冨木・畑・雑郷新・志方東町・志方西町・西飯坂・西飯坂新(以上現、加古川市)、北野新・大釜・大釜新・清住新(以上現、姫路市)

      大庄屋・神吉家の玄関を飾っていた七福神

 大庄屋神吉家は、立派なつくりでした。

 が、大庄屋・神吉五郎太夫家は、明治維新以降衰え、神戸へ移られました。

 そして、神吉家の玄関は、常楽寺に移築されました。

 玄関を飾っていた屋根瓦の七福神(写真)から神吉家の豪勢さが偲ばれます。

 *写真:大庄屋・神吉五郎太夫家の玄関(一部)と七福神の瓦   

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東神吉町をゆく(29) 常楽寺(3)  西国三十三観音霊場巡り

2023-12-18 07:58:59 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

         東神吉町をゆく(29) 常楽寺(3)  郡西国三十三観音霊場巡り

 西国三十三観音霊場巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじまり、後に貴族たちがまねをするようになりました。

 人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音霊場めぐりに出かけました。

 第一番の那智山青岸渡寺(和歌山県)から最後の三十三番目の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの寺めぐりでした。

 それは、まさに苦行の旅でした。

 江戸時代になり、治安もよくなりました。

 交通機関も整備され、西国三十三観音霊場めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼も、レクレーション的な性格さえ持つようになりました。

 それでも、誰にでもできる気軽な巡礼の旅ではありません。

 庶民にとって、三十三観音霊場巡りは現在の外国旅行よりも、ずっと縁の遠いものでした。

 そこで考えられたのが播磨の国に三十三か寺の観音霊場を定め、それらの寺を巡礼すれば、同じ功徳があるとしてはじまったのが「播磨西国三十三所霊場めぐり」です。

 このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。

     郡西国三十三札所めぐり

        常楽寺は、郡(印南郡)西国十八番札所

 「播磨西国霊場めぐり」よりも簡単に、誰にでもできる巡業として、加古郡内に三十三観音めぐりの霊場が定められました。

 これが「郡西国三十三札所(「郡西国」ともいう)」です。

 この郡西国の十八番札所が、神吉村の常楽寺でした。

 *写真:常楽寺の本堂に掲げられた「郡西国第十八番札所」の御詠歌



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東神吉町をゆく(28)   真宗寺(2)  梶原十衛門(冬庵)の墓

2023-12-17 08:29:35 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

  東神吉町をゆく(28)  真宗寺(2) 梶原十衛門(冬庵)の墓 

 (神吉)頼定は、兄・信烈(のぶつよ)の臨終の時に、次の約束をしました。

 「(神吉城の)次の領主は、一端は自分が継ぐが兄の遺児・信常が成人した時には、信常を城主とする」と。

 頼定は、なやみましたが、その次代の神吉城主・信常を三木へ送りました。信常は、この時まだ13歳でした。

 この入城には、反対の者も少なくありませんでした。

 頼定は、信常の守役として12名を付けました。梶原冬庵はその一人でした。

 三木城よりわずかでしたが、神吉城への加勢がありました。

 この時、神吉城に入ったのは、梶原十右衛門冬庵ら41名の歴戦の武将でした。

     梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠る

 たぶんに伝承の域を出ませんが、梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきます。

 冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったといいます。

 冬庵の館は、加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われ、現在は権現神社となっています。『別所記』は、冬庵の勇ましい活躍のようすを詳しく記しています。

 梶原冬庵の墓(写真)が、真宗寺にあります。

 天保3年(1832)、真宗寺の境内に飲用水のために井戸を掘っていた時のことでした。

 地下3間半(約6.3メートル)の所に頭蓋骨・鎧の片袖・割竿・鉄丸等が出てきました。

 鎧の袖の銀の紋は矢羽根であったので、これは梶原冬庵の首であるとして、五輪塔をつくりました。これがいまある墓で、お骨を納めています。

 *写真:梶原冬庵の墓(真宗寺)

 

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東神吉町をゆく(27) 真宗寺(1) 神吉城跡の寺

2023-12-16 08:56:38 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

      神吉町をゆく(27) 真宗寺(1) 神吉城跡の寺

 常楽寺の西隣りに「真宗寺」があります。真宗寺も常楽寺と同じ時期に、旧神吉城跡に建立されました。訪ねましょう

       縁起にみる真宗寺

 真宗寺の縁起(伝承)では、「伝教大師が唐(申国)から帰って来られ、高砂の洪に船をつけられた時、北の方の山上に白雲がたなびいているのを見ました。

 さっそくこの山に昇られて、この場所こそ仏法を広めるのによい場所であると、高御位山南の谷合に堂を建てられ、白雲山信受院と称され、天台宗をひろめられる道場とされた」としています。

       天台宗から浄土真宗の寺へ

 天正年間(15731591)に、この寺は焼失してしまいました。

 時の住職・宗海法師が本尊を守り、魚橋村(現:高砂市阿弥陀町)隠れ住んだといいます。

 その後、本顧寺第12世・教如上人が播磨の国を巡教され、教えを伝えられました。

 その時に、住職は真宗(浄土真宗)に帰依され、魚橋村に正蓮寺(しょうれんじ)の末寺・真宗寺と改められました。

 天和年間(16151623)に、神吉城の西の丸跡に現在の寺を建立され、以後明治4年本願寺の末寺となりました。

 *写真:改築なった真宗寺

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東神吉町をゆく(26) 神吉城炎上(7) 神吉城主:頼定の妻は黒田官兵衛の娘

2023-12-15 09:50:37 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

      東神吉町をゆく(26) 神吉城炎上(7) 神吉城主:頼定の妻は黒田官兵衛の娘

 神吉城は、落城。城主・神吉頼定は戦死しました。29才でした。

 前回の復習です。

 前回紹介した墓碑の横に、神吉一族の頼定の従弟・上野次郎定行(46)、定行の長男・藤左衛門頼之(25)、定行の次男・與四郎定久(20)の墓碑があります。

 その横にひときは立派な城主・頼定の墓所(写真)があります。

 しかし、敗戦の後に来る、むごたらしい極刑の話はありません。

 神吉城の多くの兵士は、逃亡しました。その後、後ほとんどが農民となっています。

 これは、東播磨で志方・三木でさらに続きます。「織田方から、投降すれば極刑はない・・・」とのメッセージであったのかもしれません。

 それに、何よりも頼定の奥方は、秀吉の参謀である黒田官兵衛での娘です。

 そのため、戦中は神吉城への働きかけがあったであろうし、戦後は何がしかの配慮があったのではないかとも想像されます。

 頼定の奥方は、神吉城を切りぬけ魚橋(高砂市阿弥陀町魚橋)へ落ちのび、身を隠したと言います。

 甥の信常も家来の助けを得て、高御位(たかみくら)に落ちのび、さらに魚橋に身を隠したとも言われています。

 まもなく、信常は、奈幸子村(なこうしむら)へ帰り、村の名前も「神吉村」としました。

 このあたりの歴史については異説もあり、さらに確かめる必要がありそうです。

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東神吉町をゆく(25) 神吉城炎上(6)  頼定と共に戦死した一族

2023-12-14 10:00:08 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

      東神吉町をゆく(25) 神吉城炎上(6)  頼定と共に戦死した一族

 *今回の話題は順序を間違いました。小説ですが「東神吉町をゆく・神吉城炎上(5)「落城」の続きとしてお読みください。



 常楽寺の墓地には頼定と共に戦死した一族の名前のを記した碑があります。



 求生院観空還性居士 

    *神吉頼定の従弟   上野次郎定行  46歳    

 願往院印空達性居士

    *定行の長男     藤左衛頼之   25歳

 浄住院達空通性居士

    *定行の二男     与四郎定久   20歳



 (天正6)7月15日、神吉城の戦いは最後の時を迎えていました。

 上野次郎(定行)の最後を、小説ですが、『信長の蛩(あしおと):神吉修身著』から引用します。

 (なお、神吉修身氏は城主一族の後裔)

 ・・・

 城主・頼定が目にしたのは視界一面に広がる松明の灯であった。

 火の帯は、何重にもなって「二の丸」を囲み、漁火のように揺らめいていた。

 その松明の動きで、敵(織田軍)は「二の丸」へ集中攻撃を加えていることが分かる。

 ものすごい声が天守へ立ちのぼった。この時、すでに「中の丸」と「ニの丸」は、今や橋桁一本で結ばれている状況にあった。

 「二の丸」の守将定行は「二の丸」が焼け落ちる前、引き橋を渡り生き残った将士とともに「中の丸」に引き上げた。

 定行は、血と泥にまみれた乱髪を細かに震わせ、「・・・無念で、こざる・・・」

ただ一言発した。荒い息づかいの定行(上野次郎)は、必死に悔しさを押さえてはいるが、その両肩が激しく上下していた。

 頼定は、叔父の手を取り、ねぎらいの言葉をかけた。・・・・

 神吉勢は、開戦当時の十分の一と激減していた。

 (次の日、716)頼定は、自刃した。

 *写真:頼定と共に戦死した一族の碑

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