ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平岡町をゆく(10) 新井用水物語(1) 大飢饉(承応三年・1654)

2024-06-30 05:38:20 | 加古川市の歴史・平岡町編

  

   平岡町をゆく(10) 新井用水物語(1) 大飢饉(承応三年・1654)

 承応三年(1654)の旱魃は猛烈でした。

 太陽は、容赦なく大地を照りつけ、お百姓たちは、空を見上げ神に祈るほかに方法は見つかりません。

 近在の百姓は、木の実、草の根、竹の実はもちろん種籾までも食べつくし、後のことを考える気力もないほどで、餓死する者もあとを絶ちませんでした。

      「播州賀古新疎水道記」は語る

   二俣(平岡町)の円明寺に『播州賀古新疎水道記』(寛文13年・1637)の記録が残されていました。この記録は、現在播磨町の歴史資料館で保管されています。

 「水道記」の一部を、現代文で紹介します。

 「・・・阿閇荘古宮郷と23ヶ村は、代々姫路城の領地である。

 この地は海に近く川は遠く、水が乏しい。

 昔から旱魃の年には、しばしば苦しめられてきた。

 ・・・

 承応三年の夏、二ヶ月ほど雨が降らなかった。

 苗は皆枯れ、この年非常な飢饉になり、死亡する者がおびただしかった。・・・」と記録しています。

       藩:當取無(税金なし)で決済

 この年は、当然のごとく年貢が徴収できるほどの収穫はありませんでした。

 さすがに、姫路藩としても「無いものは取れなかった」とみえ、二俣の隣の一色村に次のような年貢免状(年貢の徴収状)を出しています。



 年貢免状(写真)をご覧ください。以下は、読み下し文です。

    定 午歳免相追之事   *免相(めんあい・年貢率のこと)

    一 高四八九石四斗一升七合? 當取無?

    右の通り相究むるものなり 

    承応三年午年(1654)十月八日              



 すごい文書で、「今年の年貢は不作のため先送りするのではなく“当取無”(税金無し)として決着させる」という意味です。

 よほどの飢饉であったことが分かります。



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平岡町をゆく(9) 寺田用水物語(3) 寺田用水高畑分水

2024-06-29 08:18:12 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

     平岡町をゆく(9) 寺田用水物語(3) 寺田用水高畑分水

 江戸時代の初めのころ、寺田池の水源一帯に新田が誕生し、多くの池が造られました。寺田池に十分な水が集まらなくなりました。

 そのため、新しい水源が求められたのです。それが、曇川の上流から水を引くという計画でした。

 しかし、曇川の水を寺田池まで引くとなると、途中の小高い丘(東播磨高校の東あたり)を越えなくてはなりません。

 曇川は約26㍍のところを流れています。その南にある東播磨高校のあたりは約38㍍です。

 この小高い丘を水は越えなければなりません。

 そのために、曇川の上流の比較的高いところに堰をし、東播磨高校の前あたりに深い堀(高堀)を掘りました。

 高堀の跡が残っていますので、見学ください。当時のお百姓さんの息が伝わってきそうです。

 万治元年(1656)、曇川の支流に井堰を設けて用水(寺田用水)づくりがはじまりました。

 寛文3年(1663)、水は向山(播磨町)の高台を越えました。しかし、この寺田用水が曇川から取水できる期間は、曇川郷との取り決めで、毎年5月2日~6月23日までに限られました。

 そのため、一滴の水も無駄にできません。寺田池を中心に10ヵ所のため池は連結され、水は有効に運用されました。

           寺田用水高畑分水 

 この頃、平岡(加古川市平岡町)にも寺田村・野辻村・西谷新村が誕生しました。それに伴い、以前にもまして、水が必要になり、池が新たに造られました。

 しかし、雨水に頼っているだけでは不十分なため、寺田用水の手前から高畑村への分水(用水)が計画され、寛文2年(1672)完成しました。

 分水は、平岡中学の東の上池・下池からバイパスの南の源太池(日本ハムは源太池の3分の2を埋めたてている)に流れました。

 源太池からさらに西谷の八幡神社の東横の溝を流れ、二俣の大池へ流れ込んだのです。

 大池は付近の印南台地に降った雨を集めるだけではなく、はるか曇川からの水も利用していました。

 寺田用水及び、(寺田用水)高畑分水づくりには、百姓衆の汗と苦難の物語があったはずです。

 記録が無く何も語っていません。

 現在、寺田池の水はすべて地下水にたよっています。寺田用水も役目を終えました。

 

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平岡町をゆく(8) 寺田用水物語(2) 元は寛平池

2024-06-28 06:41:16 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

       平岡町をゆく(8) 寺田用水物語(2) 元は寛平池

 寺田池は平安時代(寛平年間・889893)に造られたとされています。

 そのため、当時この池は、寛平池(かんぴょういけ)と呼ばれていました。

 寺田池の周辺は、印南野台地で東が高く、西にわずかに低い地形になっています。

 寺田池の水は六分一(ろくぶいち)、守安(もりやす)、幸竹(こうたけ)辺りの、しみ出した水や、雨水を集めています。

 しかし、規模は現在の寺田池よりずいぶん小さいものだったようです。

 寺田池を水源とするこの辺りの農業は、水に恵まれず、長期にわたり生産は停滞していました。

 この状態が一変したのは、江戸時代の初期の頃です。歴史学者、大石慎三郎氏は『江戸時代』(中公新書)で次のように説明しています。

「・・・戦国初頭から四代綱吉の治世半ば頃までは、わが国の全歴史をとおしても、他の時代に類のないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代であった。

・・・戦国騒乱を生き抜いて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また、治水土木家でもあった。・・・」

         寺田池に水が集まらない

 戦国時代の土木技術が大いに進み、それが江戸時代に農業に転用され、江戸時時代のはじめは、一大土地開発の時代をむかえました。

 寺田池あたりでも開発が進み、野辻村(寛文67年)・寺田新村(明暦年間)・西谷新村(延宝7年)が新村として独立しています。

 地図の幸竹、森安、野際(いずれも稲美町)等、寺田池の水源になっている地域にも、この時代に新しく村が誕生しました。



 それらの村々は、当然水を確保するため、多くの池をつくりました。さあ、大変です!・・・・寺田池に水が集まらなくなりました。(地図中の「←」は雨水の流れる方向)

 そのため、寺田池は新しく水源を求めねばならなくなりました。そこで考えられたのが、神野小学校の南を流れる曇川の上流から水を引くという計画でした。





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平岡町をゆく(7) 寺田用水物語(1)

2024-06-27 10:32:08 | 加古川市の歴史・平岡町編

      平岡町をゆく(7) 寺田用水物語(1)

 印南野台地の歴史は、水との闘いの歴史でした。

 承応三年(1654)、この年の旱魃(かんばつ)は、猛烈なものでした。

 太陽が無常にも、ひからびた大地を照りつけました。

 秋の収穫は当然ことのように、ほとんどありません。

 餓死する者は、後をたちませんでした。

 二俣村には、この年の事情を伝える文書「播磨賀古新疎水道記」が円明寺に伝えられていました。

 この記録に関しては、後日紹介します。

 この年の旱魃は、印南野台地にある村々では同じでした。



 新在家あたりのお百姓さんに語ってもらいましょう。

 このお百姓さんの会話は、記録にもとづくものではありません。想像です。

A:庄屋  B:村役)

 A:わしらも五ヶ井郷(加古川町・尾上町を流れる用水の村々)のような溝(用水)ができないものかな。

 B:水を引くと言ったって、どこから引くのですか。加古川ですか・・・喜瀬川からですか・・・

 A:そうよな。加古川は少し遠いし、この土地は高すぎるし、無理だろうな。

 それに喜瀬川の水は少ないし、わし等が使うとなると黙ってはいまい。

 B:やはり無理ですか・・・

 A:曇川(くもりがわ)から水は引けないものだろうか。

 B:あの川は、だめでしょう。あの川は、雨が降ったときにだけ流れがあり、普段、    水はありませんよ。

 曇って雨のあるときだけ流れるので「曇川」って呼ばれていますよ。

 それに、低いところを流れていますから・・・

 A:印南野台地の高いところを削り、水を引く。そして、曇川の水が流れる時に、寺田()に水を取り入れ、貯めておくんです。

 寺田池に水さえあれば、日照の時でも今のような惨めな生活から抜けだせるのだが・・・



 きっと、こんな会話があったのではないでようか。

 事実は、どのような過程で曇川から寺田池までの溝(用水)つくる話は進んだのか、記録が残されていないのでわかりません。

 曇川から寺田池までの溝(寺田用水)の工事が決定され、藩に自普請(藩の工事ではなく、村々で費用をまかなう)ながらも認められました。

 やがて、寺田用水は完成しました。・・・

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平岡町をゆく(6) 印南野台地のはなし(5) (民話)印南野の野猪

2024-06-26 09:31:21 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

          平岡町をゆく(6) 印南野台地のはなし(5) (民話)印南野の野猪

 印南野は、江戸時代になり本格的に開拓がはじまりました。

 水が乏しかったため長い間、人の入植を拒んでいました。古代から印南野は街道筋の一部を除いて随分寂しいところでした。

そのため、印南野(台地)には、こんな民話が伝わっています。

   ◇(民話)印南野の野猪◇

 西の国から一人の旅人が都へ急いでいた。

 日が暮れてしまった。辺りを見渡したら、一軒の小さな、今にも壊れそうな小屋がありました。

 夜がふけたが、その夜は、なかなか寝つけませんでした。暗闇を通して遠くから念仏を唱える声が伝わって不気味に聞こえてきます。松明をかざし、葬式のようでした。

 家の前まで来るとピタリと止まり、土を掘り棺を埋めはじめたのです。

 作業は終わったようです。時間が過ぎました。

 じっと墓を見ていると、なにかが動きだしました。

 「はて?」とよく見ると、裸の人が土の中から出てきました。そしてこちらへ向かってきたのです。

 「危ない!・・」と思い、旅人は家を出て、その怪物に切りつけました。

「ギャー」

 手ごたえがありました。

 旅人はあまりの恐ろしさに、後を見ず、いちもくさんに走りました。

 人家のあるところにたどりついたころで、夜が明けました。

 この話を聞いた村人は、旅人と一緒にその場所へ引き返しました。

 そこに、大きな野猪が切り殺されていました・・・



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平岡町をゆく(5) 印南野台地のはなし(4) 文学にみる印南野

2024-06-25 09:58:46 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

     平岡町をゆく(5) 印南野台地(5) 文学にみる印南野

 私たちの生活の舞台である印南野(いなみの)はしばしば文学にも登場します。

 清少納言は『枕草子』で、印南野を嵯峨野についで二番目にあげています。

 野は、嵯峨野さらなり。

 印南野。 

 交野(かたの)。

 飛火野(とぶひの)。

 しめ野。

 春日野。

 そうけ野こそ、すずろにおかしけれ・・・・

  *すずろにおかしけれ・・・・・心ひかれて、趣がある

 清少納言が、野について述べているところで、印南野を二番目に取り上げた理由は分かりません。

 特別な個人的なつながりや思い出があったとも考えられません。

 とすれば、印南は中央(京都)でも広く知られていた地名であったようです。

 印南野がもっとも多く登場するのは、なんと言っても『万葉集』です。

(山部赤人)

 印南野の 浅茅押しなべ さねる夜の けながくしあれば 家し偲はゆ (巻六ー九四○)



 《いなみ野の短い茅(ちがや)を押しなびかせて寝る夜の日数がつもったので、家が恋しくなった》

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平岡町をゆく(4) 印南野台地のはなし(3) 平岡町は海岸段丘上の町

2024-06-24 09:47:43 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

           平岡町をゆく(4) 印南野台地のはなし(3) 平岡町は海岸段丘上の町

  別府町のイトーヨーカドーの西の道を北にサイクリングしてみましょう。

  平岡町の東加古川郵便局横の三ツ池あたりから坂になっています。しばらく行くと新在家あたりでまた一段あがります。

  この台地は山陽本線を越えたあたりで、いったん下がり、いなみの学園、農業高校付近まで上あがり続け、寺田池の北方でさらにあがります。

 何段かの東西に続く坂があり、坂の上に段丘があることがよく分かります。

 野口・平岡・播磨町の地域は、大きく3つの段丘からなっています。

 この段丘は、気候変動によるものです。

 およそ24万年前、地球が暖かくなり、海が大きく陸地に押し寄せる大海進がありました。

 やがて氷期になり、海は大きく後退(海退)します。

 その後も地球は、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返しました。

 やがて氷河期が終わり、温暖な時期になると、海進があり海岸線で侵食作用が始まり、海蝕崖をつくります。

 海面は平らなため、平岡町辺りでは東西に続く侵蝕崖ができました。

 寒冷期になります。海は再び遠くへ遠ざかります。この間、印南野台地は、少し隆起しています。

 ですから、次の温暖な時期にはより南の海岸で新しく海蝕崖を作ります。

 このように、印南野台地の周辺部では数個の段丘面が形成されました。

 海蝕崖のあたりは、長い歴史の中で緩やかな坂になって残っています。 

 12,3万年頃にも大きな海進ありました。新井用水あたりは海底となり、土砂が堆積しました。

 再び、氷期に入り、海底は陸地になりました。時期は約6・7万年前から1万年前の時期です。

 この間に、三ツ池辺りからの一段高い段丘面が形成されました。

 新井用水より北の土地は、この時形成された段丘面です。

 そして、新井用水辺りは海蝕崖、つまり海岸でした。

 *図は『加古川市史(第四巻)』より(部分)

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平岡町をゆく(3) 印南野台地のはなし(2) 平岡町は海の底

2024-06-23 09:59:34 | 加古川市の歴史・平岡町編

        平岡町をゆく(3) 印南野台地のはなし(2) 平岡町は海の底

 「印南野台地は、かつて海の底であった」と言われて、信じることができますか。

 海の海の底だったのです。

 それでは、印南野台地は、どのように形成されたのでしょうか。

 図を見てください。この図は24・5万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。(図は『加古川市史(第一巻)』より)

 現在の印南野台地は海の底です。

 この海に川を中心として周辺から土砂が流れ込みました。

 土砂は、海底では比較的平に堆積します。

 今度は、印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまりました。

 そして、比較的平らな海底であった海底が徐々に地上に姿を現しました。これが印南野台地です。

 印南の台地の隆起のようすは一様ではではなく、東の隆起が大きく西の平岡・野口辺りでは規模の小さな隆起でした。

 現在でも印南野台地の隆起は続いています。

 隆起の速度は、二俣辺りでは年間0.125mmで、東の明石市魚住町辺りでは0.35mmとなっています。

 印南野台地の誕生には、隆起作用の外に気候変動という、もう一つの要素が加わり特徴ある台地を作りあげています。

 気候変動と印南野台地については、次回のブログで調べることにしましょう。

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平岡町をゆく(2) 印南野台地のはなし(1)

2024-06-22 06:11:34 | 加古川市の歴史・平岡町編

     平岡町をゆく(2) 印南野台地のはなし(1)

 印南野台地(いなみのだいち)の話を野口からはじめます。

 加古川の中心街を抜け、国道二号線を少し東へ行くと野口の手前で、ゆるやかな上り坂になっています。

 その辺りから東へ明石川辺りまでは、東に高い地形になっていますが、ほぼ平坦な台地が続きます。

 この広大な台地は、印南野(いなみの)と呼ばれてきました。

 「平岡町」の名称は、平らな岡の上に発達した地域の意味から名づけられたのでしょう。

 また、印南野の沖あいの海は、印南野の海と呼ばれ、陸・海ともに交通の要所でした。

 そのためか、印南野(台地)については、『万葉集』にも多く詠まれ、『枕草子』にも登場します。

 しかし、水の少なかった印南野台地の本格的な開拓が進むのは、江戸時代以降で、古代においての印南野は荒涼とした土地でした。



 『播磨灘物語(司馬遼太郎)』の、次の文章を紹介しておきましょう。



 野口は印南野の西の端にあって、多少の丘陵が起伏し、西からくる旅人にとっていかにも野の入り口といった地形をなすために、そういう地名が出来たのであろう。・・・

 「野口」の地名のおこりは、印南「野」の入り「口」と説明しています。

 播磨町の「野添」は、印南「野」に「添」った集落と言う意味です。

  

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平岡町をゆく(1) 平岡村誕生

2024-06-21 09:50:52 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

    平岡町をゆく(1) 平岡村誕生

  平岡町の歴史探索に出かけましょう。今日はその第1、「平岡村誕生」です。



 江戸時代、平岡の地には、西谷新村・野辻(のうつじ)新村・寺田新村・新在家村・高畑村・土山村・一色(いっしき)村・二俣村・中野村・山之上村・八反田村の11ケか村がありました。

 それらの村々は、明治22年4月1日、新しい村制により合併し、「平岡村」(地図参照)が誕生しました。

 この合併に先立ち、明治初年に野辻新村・寺田新村・新在家村がひとつになり、新在家村となっています。

 西谷新村は、明治22年の合併の時、名称を西谷村に変えました。

  * 野辻新村・寺田新村については後日紹介の予定です。

 なお、昭和25年6月15日、平岡村・加古川町・神野村・野口村・尾上村が合併し、加古川市が誕生しました。

*地図は、『兵庫県市町村合併史・上(昭和37)』より

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八幡町をゆく(30)  農民運動家、行政長蔵(2)

2024-06-20 05:32:44 | 加古川市八幡町をゆく

    

     八幡町をゆく(30) 農民運動家・行政長蔵(2)

「 運動を進める中で、大正二年(1913)県会議員選挙に、当時の加古郡より立候補し、最高点で当選しました。

 しかし、選挙違反があったとデッチあげられ、失脚させられてしまいました。その裏には、ある衆議院議員の指図があったとのうわさもありました。

 行政の人気は大変なものであったらしく、行政の演説のポスターが電柱に貼られると、続々と演説を聞きに行きました。

 彼は、どなるがごとく、炎のごとく演説したといいます。さあ、警官の弁士中止の声がかかるぞ・・」と、聴衆は今か、いまかとかたずをのみました。

 その時、行政は「・・政治の腐敗を追求し、農民よ、団結し立ち上がろうではないか・・」と叫ぴます。すかさず、警察の「弁士中止1」という命令です。

 しかし、行政は演説をやめません。警察は演壇から彼を引きずり降ろします。そんな時、聴衆はきまって警察官に対し、叫ぴヤジるのです。

「ああ、今日の演説会はおもしろかった」と、行政の演説を聞きに行った人も多かったようです。

こんなありさまでしたから、日常の生活にも毎日警察の監視がついていました。

田んぼで働いている時も、警察は近くの山の上からずっと監視しているのです。

 行政は昼になると「さあ、ここで飯を食うからナァ、お前そこで見ていてくれヨ・・」と言って警官をからかったりしました。

こうして行政は宗佐(そうさ)で、自らも田畑で働きながら農民運動を指導を行っていたのです。

やがて、日本は敗戦を迎えました。

 行政は、時代はよくなるに違いないと信じていました。

 波澗万丈の生涯を送った彼は、戦後まもなく突然その姿を消してしまいました。政敵に消された

 とも、いずれかの国へ密航したとも諸説はあるのですが、その真相はわかっていません。

 〈余話〉

 昨年、80歳を記念して高校の同窓会がありました。皆さんお元気でした。たまたま隣の席に「行政」名札の同級生でした。 

 学生時代、かれは優秀な生徒で話はあまりしなかったのですが、「もしや、行政長蔵さんと関係のある方ですか」と尋ねると。「長蔵のことはあまり覚えていませんが、私の祖父です」との返事でした。ビックリ!

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八幡町をゆく(29) 農民運動家、行政長蔵(1)

2024-06-19 07:12:57 | 加古川市八幡町をゆく

   八幡町をゆく(29) 農民運動家、行政長蔵(1)

 彼(行政長蔵:ゆきまさちょうぞう)は第一次世界大戦で、にわかに景気の造船関係の仕事にありつき、そして神戸で唯一の労働組合であった友愛会に参加しました。

 そして、賀川豊彦(かがわとよひこ)の指導で労働問題を熱心に学ぴ、大正10年(1921)のストライキには、最高幹部の一人として陣頭に立ちました。

 第一次世界大戦の反動としての恐慌は、労働者の大量解雇、賃金の引き下げとなって、労働者の生活を圧迫しました。

 そして、その不滴は 1921年まず大阪で爆発し、次いで神戸の川崎・三菱の三万の労働者を中心に、神戸製鋼、台湾製糖、ダンロップゴムをはじめ多くの中小工場を包み込んで、全神戸をゆるがし、戦前日本最大の45日間にわたる大争議へと広がっていきました。

 そして、7月10日、東京のメーデーでさえ2、000も集まらない当時にあって、35、000人の大デモストレーションを繰り広げました。

 結局、争議(ストライキ)は、姫路からの軍隊などの派遣により鎮圧され、そして川崎・三菱両造船所だけでも1000名の解雇者を出し、ストライキは敗北に終わりましたが、当時闘いに立ち上がりつつあった農民運動に大きな影響を与えました。

 行政長蔵は投獄を免れたものの、解雇されました。長蔵は加古川に帰るや刃物研ぎの道具を一式を買い、自転車で生活費を橡ぎながら村々を回り、農民と語りあい、社会主義思想を説いて小作人の目を開かせていきました。

 そんな行政を賀川豊彦は、日本農民組合が結成されるや、その仕事に専念させました 賀川豊彦の小説『壁の声を聞く時』の中に次のような一節があります。

 この雪野のモデルは行政長蔵です。

・・・雪野鷹蔵、彼は、菜葉服の上にぶてぶての外套を着、足にゴム靴をはき、村から村へと小作人組合の組織に歩いきました。やれ、小作料の逓減運動だと言っては引っ張り出され、組合の発会式だといっては出て行きました。

 いくら刑事を尾行させても、いくら讐察署長を以て農民をおどかしても、あまり効果がなく、 組合員は毎日増えていきました。

*写真:川崎・三菱の労働争議(1921年)



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八幡町をゆく(28) 望理の里(2) 上村村池遺跡は、望里の里の役所あとか

2024-06-18 09:33:57 | 加古川市八幡町をゆく

         八幡町をゆく(28) 望理の里(2) 上村村池遺跡は、望里の里の役所あとか

 

 2017年3月上村池遺跡の説会に出かけました。上村遺跡の場所は、地図で確認ください。

 以下の文章は、3月1日の神戸新聞の記事からお借りしています。(一部省略)

     8世紀の建物遺跡など確認 加古川・上村池遺跡

 ・・・加古川市教育委員会は、兵庫県加古川市八幡町上西条の上村池遺跡を発掘調査し、奈良時代後期(8世紀)の掘立柱建物跡や竪穴建物跡、平安時代後期(12世紀)の溝状遺構を確認した。

 上村池遺跡は、弥生時代から平安時代にかけての遺構・遺物が確認される複合遺跡で、本格的な発掘調査は初めて。

 見つかった掘立柱建物跡の中には、通常の集落では見られない大型の建物跡も含まれている。

 奈良時代の瓦が出土する場所もあり、瓦ぶきの建物が付近に立っていた可能性も考えられるという。



 市教委は「遺構の状況を実際に見られるのは発掘現場が唯一の機会なので、多くの皆さんに見学してほしい」としています。(以上神戸新聞より)

 調査員さんの説明では、上村池遺跡(うえむらいけいせき)は、奈良時代の望理里(まがりのさと)があった場所ではないかとも想像しておられましした。

 私も長い間「望理里はどこかな」と思っていたのすが。一挙に解決ような気分でした。

なりました。

 八幡地区の平地部は水害の多い地域です。景色の良い村(里)であったとしても政治の中心地(役場がなどが置かれた場所)生活の場所には不向きな場所ではなかったのではなか」と想像していました。

 でも、上村遺跡の調査員の方がつぶやかれた「上村池遺跡は丘の上で、望里の役所の置かれた場所ではないか・・・」と考えています。

 *写真:上村池遺跡(奈良時代後期・8世紀)の場所

 

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八幡町をゆく(27) 望理里(まがりのさと)(1)

2024-06-17 06:41:18 | 加古川市八幡町をゆく

  

    八幡町をゆく(27) 望理里(まがりのさと)(1)

   『播磨風土記』が作られた奈良時代、八幡地方は、望理里(まがりのさと)と呼ばれました。

 風土記の一部を読んでおきます。



 ・・・景行天皇(けいこうてんのう)が巡幸の時、この村の川の流れが曲がっているのを見て「この川の曲がり具合は、はなはだ美しい」と仰せられました。

それで、この地を「望理里」という・・・



 加古川は、美嚢川(みのがわ)と加古川が合流点あたりから、流れは西に弧を描きながら流れています。

  『播磨風土記』が書かれた奈良時代、この辺りのかこがわ流れは現在の流れと大きく異なり、加古川は、宗佐(そうさ)の辺りから、国包(くにかね)の東を流れ、船町・下村のあたりから流路を変え、中西条の西に流れていたと考えられていたようです。

 八幡地区は、加古川が大きく曲がった東岸の地域に広がっていました。まさに「曲がりの里」でした。

 山頂から眺めた望理里は、まさに絶景であったことでしょう。

 「しかし」とその後を続けなければなりません。

  古代より加古川は、暴れ川でした。

  台風、それに長雨の時など、加古川は気決まったおうに洪水を引きおこしましたた。

 水は、まっすぐに流れようとします。

  望理里は、まさに洪水の直撃をくらう地域でした。

  そんな証拠が地形に残されています。

*『加古川の流れ(建設省近畿地方建設局・姫路工事事務所)』(1975)参照

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八幡町をゆく(26) 清麻呂と猪(八幡神社の伝承)

2024-06-16 06:01:03 | 加古川市八幡町をゆく

       八幡町をゆく(26) 清麻呂と猪(八幡神社の伝承)

 奈良時代、大仏開眼を頂点に、天平の繁栄は終わりを告げようとしていました。

 聖武天皇、光明皇后はあついで亡くなりました。

 後を継いだのは、光明皇后の生んだ、ただひとりの娘の女帝・孝謙天皇(こうけんてんのう)でした。

 孝謙天皇は、信頼していた藤原仲麻呂(恵美押勝)にも裏切られ、悶々とした気持にでした。

 そんな時です。女帝(44才)の前に、英才の僧・道教が現れたのです。

 独身の女帝にとって道教は、初めての恋人であったとも言われています。

 彼は、呪術をもって女帝の病気を治してから、その寵愛を一心に受け、天皇の地位にも並ぶほどの「法王」の地位を授けられました。

 この時、朝廷を揺るがす大事件がおきました。

 「道教を天皇の位につかせたならば、天下は太平になるであろう」という、宇佐八幡宮(大分県)のお告げが朝廷にもたらされたのです。

 ことの真実を確かめるべく、和気清麻呂が宇佐へ使わされることになりました。

 (挿絵は道教と和気清麻呂・戦前の教科書より)

 ここで、八幡神社(加古川市八幡町)の伝承が登場します。

 清麻呂は、都をたって播磨の国・望理里宗佐(まがりのさとそうさ)までやってきました。

 道教の差し向けた刺客たちが清麻呂を囲みました。・・・その時、空がにわかに曇り、山から大きな猪が現れ、道教の放った刺客に襲いかかり、次々とけちらしたのです。

 そして、清麻呂は無事宇佐に着き、宇佐の神のお告を確かめました。

 その内容は「わが国は、開闢(かいびゃく)以来、君臣が定まっている。道教のような皇族にあらざる人を皇位につけてはならない」というものでした。

*『日本史探訪・4』(角川文庫)参照

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