ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく(164) 西牧・山中(22) 「皇紀二千六百年」は何を語る

2023-07-31 08:59:25 | 加古川市歴史探訪 志方町編

   

  志方町をゆく(164) 西牧・山中(22) 「皇紀二千六百年」は何を語る

 湯ノ山街道西へ歩きます。志方町から姫路方面への入口です。

 左手の山麓に「大歳神社」があます。

 そこに、「皇紀二千六百年」の碑があります。

 この碑は、他の多くの神社でもよく見かけることができます。

 若い方にとっては、「何が2600かな?」と、意味もよく分からない方も多いと思いますので、ここでおせっかいですが、この碑を取り上げておきます。

      2月11日は、「建国記念の日」

 伝承では、この日、初代の天皇・神武天皇は奈良の橿原で天皇になる儀式をしたといいます。

 昭和15年(1940)の2月111日は、その式典から数えて2600年目(皇紀2600年)にあたるというのです。

 昭和15年は、日独伊三国同盟・大政翼賛会の結成等、日本は着実に戦争準備を整えていました。

 「皇紀2600年」を祝う式典も戦争に備えて、国民の意識を高め、団結を強める意味がありました。

 そして、昭和16年12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、無謀な戦争へ突入しました。

 以下は少し蛇足です。

 皇紀2600年の式典のあった、昭和15年(1940)をさかのぼること2600年前は、縄文時代であり、「天皇」はもちろんまだ存在していません。

 あくまでも神武天皇は、神話(伝説)上の人物で、実在した天皇ではありません。

 *写真:大歳神社の「皇紀二千六百年」の碑

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志方町をゆく(163) 西牧・山中(21) 原の大池

2023-07-30 10:44:28 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(163) 西牧・山中(21) 原の大池

 原の大池は、横大路、原、成井、永室、西牧の集落にとって、まさに命の水甕です。

 これらの集落は、農業に十分な水を供給する川がありません。

 それに、急峻な山からの水は、そのままでは平野部へ流れ、法華谷川に流れ込んでしまいます。

 そのため、山に降った水を、いったん溜めておく池がどうしても必要になります。

 各集落でも小さな池を持っていますが、それだけでは不十分です。

 まさに、原の大池の水は百姓にとって宝物でした。

 それでも、しばしば旱魃に襲われています。

          樋抜きの儀

 梅雨入りとともに田植えシーズン前に、加古川市志方町原の大池で、農業用水を利用する5集落に分水する神事「樋抜きの儀」が行われます。

 大池は面積9ヘクタール、総貯水量246500立方メートルで、志方町最大級のため池です。

 池を管理する横大路、原 、成井、永室、西牧の各集落に注ぎ、約水田など110ヘクタールを潤します。

 神事は、池の水を使う前に行う伝統行事です。

 志方八幡宮の宮司の祝詞の後、一同で拝礼。

 そして、大池のバルブを開けると、集落に配水する円筒形の施設「分水工」から水がごう音を立てて流れ出ます。

 各地区の配水量や管理にかかる経費の負担は、昔ながらの「石高」で表した比率により、定められています。

 *写真:分水工

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志方町をゆく(162) 西牧・山中(20) 原の大池の水利権

2023-07-29 09:20:27 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    志方町をゆく(162) 西牧・山中(20) 大池の水利権

 志方町には130あまりの池があります。

 それぞれ歴史的な背景は異なりますが、多くの池は旱魃や洪水時に、なんらかの争いを経験しています。

 原村の大池の水争いをみておきます。

      大池の水争い・山中新村敗訴

 明治10年11月、「大池」の水をめぐって、大池から水を得ている成井村・西牧村・横大路村・原村・永室村が、山中新村を姫路支庁管内飾磨裁判所に訴えました。

 大池の水は、少し上流中山の小さな焼山池(胴切れ地蔵の近くにあるの池)に流れ込み、そこから大池に流れ込みます。

 天明三年(1783)には、双方が証文を取り交わし和解していました。

 弘化年間(184448)に、改めて証文を取り交わしています。

 その中に「大池が満水の上は、焼山池へ水譲りもうすべし・・・」という文言があり、これをめぐって争い裁判に持ち込まれたのです。

 結果は「山中(新村)の焼山池は、下流の大池が満水でない時は、水を取り入れることはできない」という江戸時代の慣行どおりに決着しました。

 以上のように、明治時代農業用水は、江戸時代から続く水利慣行(水利権)が守られていました。

  *写真:原の大池の風景  

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志方町をゆく(161) 西牧・山中(19) 大干ばつ

2023-07-28 10:53:55 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

 『(西牧組)大庄屋日記』を、紹介していますが、少し退屈になっています。後日続けたいと思いますが、ここらでいったん、少し話題変えましょう。

 時代は一挙に現代に移ります。

      志方町をゆく(161) 西牧・山中(19) 大干ばつ

 大正13年、西日本は大干ばつとなりました。当然、西牧村も例外ではありません。

 こんな時は神様に「雨を降らせて下さい」と、お願いする以外にありませんでした。

      菅原道真は農業(水)の神

 西牧の大歳神社を訪ねました。

 そこで、1枚の大正13年の大干ばつを描いた雨乞いの絵馬(写真)を見つけました。

 絵馬の主人公菅原の道真について少し説明しておきます。

 農業にとって、池・水・雨はまさに神様でした。

 菅原道真についての詳細な物語は、ここでは省きますが、道真は藤原氏の讒訴(ざんそ)にあい、突如大宰府に流されました。

 道真は、延喜3年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなります。59才の人生でした。

 道真の死後、京都では天変地異がしきりに起きました。

 旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、動揺ははなはだしいものがありました。

 道真の怒りが雷神として現れたと信じた藤原貴族たちには恐怖でしたが、道真は農民にとって雷は雨と水をもたらし、稲の実りをもたらす神として全国にひろがりました。

       西牧大歳神社の絵馬

 大正13年は6月末より溜池用水は干上がりました。

 村民は稲の稔の無くなることを嘆き、大歳神で雨乞いをしました。

 満願の日、8月22日に大雨が降り農民一同よみがえり、西牧の人は歓喜に堪えず、神前にこの絵馬をかけ、神様の力と恵みを後年に伝えます。

 *写真:雨乞い祈願の絵馬

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志方町をゆく(160) 西牧・山中(18) 『大庄屋日記』より(8) オロシャ来る

2023-07-27 09:31:03 | 加古川市歴史探訪 志方町編

         志方町をゆく(160)  西牧・山中(18)

                 『大庄屋日記』より(8) オロシャ来る



 文化4年(1807)は江戸時代の終わりの頃とはいえ、鎖国の時代です。

 一般の人々は、他の国や他藩の情報は完全に閉ざされていました。

 でも、大庄屋たちは少し違って、大庄屋は、藩の支配者とこれらの情報を共有していたようです。

 どの程度の情報を持っていたかを「大庄屋日記」からみることにしましょう。

       オロシア来る

 文化三年(1806)九月ごろよりオロシア人が西カラフトに出没するおうになりました。

 彼らは長々滞在して、四月ごろ(1807)乱暴し、四人を生け捕り、番屋を焼き払いました。

 これによって、松前藩の者が5000人ばかり出兵しましたが、今年の四月中旬ごろ、また、ヲロシア人の渡来がありました。

 五千石積みの船二艘と小船三、四十艘で、人数は二艘に四百人ずつ乗り、手には剣あるいは鉄砲を持ち上陸し、アイヌ人やその外の番人を生け捕りにしました。

        高田屋嘉兵衛も登場

 この時、高田屋(嘉兵衛)がオロシアに出会って、追いかけましたが、オロシア船から鉄砲などを撃ってきました。

 高田屋は無難にクナシリ島へ渡り、後に函館の奉行所へ報告をしました。

 幕府はエトロフへ兵を送りました。

 この時、堀田摂津守様・御目付遠山金四郎様・同村山大学様・御使番小菅伊右衛門様・御徒士目付六人・御小人目付十二人がエトロフへ行かれ、その外の数藩からも援助がありました。

 また、御勤番・江戸御番人様はエトロフ島へ渡り、厳重な防備をしました。

 その後は、しばらく静かになりました。・・・



 大庄屋は鎖国時代とは言え、当時の外国の情勢も得ていたようです。

 *地図:オロシャの出没した海辺(クナシリ・エトロフ島あたり)



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志方町をゆく(159) 西牧・山中(17) 『大庄屋日記』より(7) 村の事件簿(6) 庄助の殺人事件

2023-07-26 10:00:01 | 加古川市歴史探訪 志方町編

    志方町をゆく(159) 西牧・山中(17) 

   『大庄屋日記』より(7)より 村の事件簿(6)・庄助の殺人事件

 江戸時代の村でも様々な事件が起きていますが、殺人事件は特別でした。

 それに、この殺人事件の一件は、「撲り、睾丸をたたきつぶす」というスキャンダラスな事件であったため、当時としても大きな波紋を引き起こしたと思われます。

   

         庄助の殺人事件

 文化七年(1810)8月10日の事でした。

 庄助は、長尾新村(現:高砂市、長尾村は西牧組の集落でした)で、北宿村(現:高砂市)の十三郎と言い合いになり、十三郎を撲り殺してしまいました。

 長尾新村と北宿村から共に役所へ届け出がありました。

 お役人が検視にきました。

 北宿村の者は三寸縄で庄助をくくり、昨日姫路のお役所へ引き渡しました。

 庄助は、十三郎をひどい目にあわせていました。

 睾丸をたたき、押しつぶしたとのことです。むごい仕打ちでした。

 死骸は、お役所から北山村が引き取り仮に埋めるように仰せつけられました。

 ・・・・

 「大庄屋日記」には、この事件について喧嘩の原因、事件の結末の詳細の記述はありません。

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志方町をゆく(158) 西牧・山中(16) 『大庄屋日記』より(6) 村の事件簿(5) 「すて」の家出

2023-07-25 10:17:40 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(158) 西牧・山中(16) 『大庄屋日記』より(6)  

          村の事件簿(5) 「すて」の家出

 大庄屋・内海太左衛門は、原村の吉左衛門の嫁が無届で大坂へ家出した件について、役所へ届けた「差上申御届之事」を日記に書き写し、記録に残しています。

 内容はつぎのようです。

   <差上申御届之事>より

 文化4年(1807)11月8日、原村の半四郎より倅・吉右衛門の女房の件について届け出がありました。

 吉右衛門の嫁・すて(19)は、去る6月に無届で家出をして、この度帰ってきました。

 「すて」は、大坂天王寺堀越町林兵衛という者のところで無届で奉公しておりましたところ、今月1日につかまり召し取りになりました。

 詳しいことを尋ねましたが、詳細については今のところ分かりません。

 元来、家出の時に、私どものところへ一向に届けがなく、これらの事実を無届のままにしておりました。

 まことに、申し訳ありません。

 が、この度は申し出がありました。

 誠に恐れ多いことですがお届け申し上げます。

 西牧組原村組頭   小兵衛

                       庄 屋   吉左衛門

                       大庄屋   内海太左衛門

       小幡五郎衛門様

          御 役 所

 ・・・・

 この事件も、家出の原因・その後の結果等の記録はありません

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志方町をゆく(157) 西牧・山中(15)  『大庄屋日記』より(5) 村の事件簿 太兵衛、強盗をはたらく 

2023-07-24 08:52:04 | 加古川市歴史探訪 志方町編

      志方町をゆく(157) 西牧・山中(15)

      『大庄屋日記』より・村の事件簿(4):太兵衛、強盗をはたらく

 文化六年(1809)の出来事です。

 横大路村(現志方町西志方)にリスケのせがれで、現在田兵衛というものが今氏た。

 太兵衛は22年以前に、比室村の新右衛門の養子になっていました。

 このたび、詳しい事情を尋ねますとだんだん本当の事がわかってきました。



 太兵衛は、各所で盗賊をしていました。

 そして、この度とらわれ、6月に氷室村新右衛門も召しられ、氷室村庄屋が両名を連れてお役所へまかり出ました。

 ・・・・

 『大庄屋日記』には、盗賊行為の取り調べ内容や、太兵衛・新右衛門に対するお咎めの内容の記載はありません。

 余り波風のたたないのが江戸時代の農村のですが生活ですが、ときどきこのような事件がきています。

 引き続き『大庄屋日記』から「村の事件簿」として村での出来事を紹介しますが、『大庄屋日記』には、事件の事実だけを書いていて、詳細や意見はほとんど書かれていません。



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暑すぎます

2023-07-23 10:30:46 | 余話として

      暑すぎます

 10時を少し過ぎました。

 もう太陽が、憎らし気に暑い熱をおくりこんでいます。

 春に植えた「皇帝ダリア」が抵抗をしているようですが、さすがに暑そう。

 セミも鳴いています。水をかけてやりました。鳴きやみました。

 私もこの暑さにすっかり、まいっています。

 書斎に簡易ベッドを運び込みました。

 寝転びながら本でも読むことにします。でも、すぐに寝てしましそうです。

 夕方(7時ごろ)、散歩に出かけます。

 これが普段の私(年寄り)の一日のスケジュールです。

 *お知らせ

 明日から「志方町をゆく、西牧・山中編」を再開します。

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ほんとかな・・・

2023-07-22 11:06:03 | 余話として

             ほんとかな・・・

 散歩中に「ビッグモーター加古川店」を見つけました。自宅の近くです。

 インターネットでは、次のようなサービスの宣伝文があります。

         ほんとかな・・・

 加古川店は、整備工場を併設した販売、買取店です。国道250号明姫幹線沿い、加古川中学校南交差点近くの「BIG」の大きな看板が目印です。中古車買取台数6年連続日本一のビッグモーターだからこその 豊富な品揃えをお試しください! 店頭在庫、全国の5万台の自社在庫と、 価格帯・車種ともに幅広いラインナップでお待ちしております。

 また、整備工場を併設し車検や整備にも対応いたします。(一部略)

 お急ぎの方には最短45分の「ダッシュ車検」や「1日車検」をご用意しております。

 さらに、最高クオリティの「車検点検数153項目、国家資格整備士の立合い」でお客様に安心の車検をお届けします!

* 写真:BIGモーター加古川支店(22日朝撮影)

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黄色ばっかりのオシロイバナ

2023-07-21 07:30:13 | 余話として

       黄色ばっかりのオシロイバナ

 雑草のように、自宅の前にいっぱいオシロイバナが咲いています。

 水をやったり、肥料をやっていません。でも、毎年見事な花をつけます。

 昨日、散歩の途中(新幹線の高架下)で、黄色ばっかりのオシロイバナの群生をみつけました。

 それにしても、黄色だけのオシロイバナの風景はめっずらしいのでパチリ。

       英語ではFour o'clock

 ずいぶん以前です。高校時代の同窓生(女性)のブログを読んでいました。彼女は、自宅で英語を教えておられるようです。

 オシロイバナの英語名について投稿されていました。

 オシロイバナは「Four o’clockといい、夕方から花が開く・・・」と。

 以来、この花を見るとFour o’clockの単語が浮かびます。

 *写真:新幹線の高架下の黄色ばっかりのオシロイバナ

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蓮の咲くお寺・称徳寺

2023-07-20 08:57:56 | 余話として

           蓮の咲くお寺・称徳寺

 いま、志方町西牧を歩いていますが、先日、西牧の公会堂に車を止めて西牧のお寺、称徳寺まで歩きました。

 時間は午後の3時ごろで、まさに殺人的な暑さでした。

 でも、お寺についたときは「ホッ」としました。

 山門の前に小さな池があり、蓮の花がわずかに風に揺れていたんです。

 まさに、夏の天国の景色です。

 *それにしても、蓮池のあるお寺は少ないですね。

 仏教では、よく蓮の花が出てきます。阿弥陀経に極楽には蓮の花が咲いており、生きているときに正しい信心を得た人は、極楽の蓮の台に忽然と生まれると説かれています。

 少しだけ暑さを忘れました。

 称徳寺・大庄屋内海家については、後に説明しましょう。今日は余話「蓮の花」だけにしておきます。

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 ムクゲの花が咲いています

2023-07-19 07:21:07 | 余話として

            ムクゲの花が咲いています

いま、志方町の西牧を歩いています。

暑いです。とろけてしまいそうです。

それに、そろそろ話しが退屈になってきたようです。

話題を少しの変え変えます。

「西牧のはなし」は、来週の月曜から再開します。

ご了解ください。

      ムクゲが咲いています

 庭のムクゲの花が今満開です。

 この花が咲くと「むくげの季節」だと思うんです。

 というのは、私のある学校での専攻は意外だと思われると思いますが、「朝鮮現代」なんです。

 それも、昭和10年代の韓国と日本の関係でした。

 なんともやりきれない気持ちになる日本と朝鮮の関係史です。

 ・・・・

 槿(ムクゲ)は、夏から秋にかけて毎朝咲きかわり、咲き続けます。

 朝鮮では槿を「無窮花(ムグンファ)」“かぎりなく咲き続ける花”ともいい、主権を奪われた朝鮮民族の歴史を表しており、ムグンファを慰めとしました。

 奪ったのは日本です。

 ムクゲは韓国の国花です。

 *写真:今朝(19日)の庭のムクゲ

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志方町をゆく(156) 西牧・山中(14) 『大庄屋日記』より(4) 村の事件簿(3)・上納米に水を含ませる

2023-07-18 08:43:42 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    志方町をゆく(155) 西牧・山中(14)

  『大庄屋日記』より(4)、村の事件簿(3)・上納米に水を含ませる

 喜八郎もきっと正々堂々と年貢を納めたかったのでしょうが、きっとよい米もなくそして、量もたりなかったのでしょう。

悪いとしりつつも、罪をしでかしてっしまったのかもしれません。

      上納米に水を含ませる

 文化4年(1807)11月19日、比室村(ひむろむら)の喜兵衛にお役所へ出頭するようにとの命令がありました。

 年貢米上納の検査の時でした。

 理由はともかく喜八郎は、こともあろうに米俵を重くするため水を含ませたのです。

 そして、米も良質のものではなく悪い米を納めようとしました。

 勿論、こんなことをして検査は通るはずがありません。

 当然ばれてしまいました。

 そして、喜八郎は手鎖(てぐさり・手錠の刑)となりました。

 喜八郎の手鎖は、12月4日お許しとなりましたので、お役所へお詫びを申しに出かけました。

 <注>

 文中で氷室村・助永村が登場しますが、現在の西志方には存在しません。

 明治9年(1876)、助永村と永室村は合併し、お互いの一字をとって永室を新しい村名としました。

  *写真:年貢米

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志方町をゆく(155) 西牧・山中(13) 『大庄屋日記』より(3) 村の事件簿(1)、センの指が飛ぶ

2023-07-17 10:44:44 | 加古川市歴史探訪 志方町編

           志方町をゆく(155) 西牧・山中(13)

   『大庄屋日記』より(3)    村の事件簿(1)、センの指が飛ぶ



 江戸時代農村は、大きな変化もない毎日が過ぎていくように思われますが、ときどき教科書・歴史書では紹介されない事件も発生しています。

 ここでは、そんな村の事件を「村の事件簿」として紹介しましょう。

 今回は、その(1)、「センの一件」です。

       指が飛ぶ

 文化六年(1809)3月19日のことでした。

 成井村(なるい村・西志方)の喜兵衛にはセンという娘がいました。

 同村の秀八は、センを撲りつけました。

 申し出があり、さっそく検分に出かけたところ、こともあろうにセンの左の手の指三本が剃刀で切られ、飛ばされていました。

 さっそく比室(ひむろ)・原村の庄屋へとりまとめを申しつけました。

       秀八・嘉一郎は謹慎

 4月4日、この件に関して代官様からお呼び出しがあり、秀八とこの事件にかかわり合いのある同村の嘉一郎が庄屋・組頭に連れられて代官所へ出頭しました。

 「なにとぞ、私どものとり纏め(まとめ)のようにさせてください」と申し上げました。

 代官は、氷室と原村の庄屋が解決をしましたので、そのようにさせてくださりました。

 6月2日に秀八と利右衛門の弟・嘉一郎両人を押込(謹慎)としました。

 ・・・・

 この事件については、秀八がなぜセンを撲りつけたのか、そして指を飛ばしたのかの原因はわかりません。

 そして、氷室・原の庄屋は、この一件をどのように決着させたのかも、はっきりしません。

 このような事件は、大庄屋・庄屋村を中心に、村方での解決が基本であったようです。

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