ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(19) 神野小学校(11)・小学校の写真集(8) 奉安殿の設置(昭和8年)

2022-02-28 08:15:41 | 加古川市歴史探訪・神野町編

  神野町をゆく(19) 神野小学校(10)・小学校の写真集(8)

   奉安殿の設置(昭和8年)

 

 見にくくて申し訳ありません。

 写真の右端に神野小学校の奉安殿見つけてください。

 奉安殿は、学校に配布された「御真影(ごしんえい)」(天皇や皇后の写真)や教育勅語などを安置する建物です。

 御真影や教育勅語は、1890年(明治23)に始まりますが、その後しだいに増加するとともに、その管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるになりました。

 学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まりました。

 神野小学校の場合、昭和8年2月11日に小学校の奉安殿の建設のための地鎮祭をしています。

 211日は、「紀元節」(現在の「建国記念の日」)でした。

        子どもたちは元気でした

 もう一枚は、関連奉安殿と関連のない写真ですが、昭和10年ごろの写真です。水やり当番でしょうか。子供たちは、いつも元気で明かるいですね。

 時代の重苦しさは感じられません。

 

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神野町をゆく(18) 神野小学校(10)・小学校写真集(7) 少なかった女子の高等科進学

2022-02-27 09:05:59 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

 

 神野町をゆく(18) 神野小学校(9)・小学校写真集(7)

    少なかった女子の高等科進学

 

 明治40年、以下のように新しい小学校令が出されました。

   一、尋常小学校(尋常科)の年限を6か年。

   一、高等小学校の修行年限を2か年、3か年に延長することもできる。

というものでした。

 つまり、尋常科6年は義務教育で、その上の、高等科は義務教育ではありません。

 下の生徒数は大正15年(1916)、神野小学校の在籍数です。

 〈尋常科〉

  男 227名  女子 253名   計480名

 〈高等科〉

  男 68名  女 26名       計94

 高等科への進学は、義務教育でなかったため、ずっと少なくなりました。

 特に、女子の場合、高等科への進学は、男の64名に対し26名の進学とさらに少なくなっています。

 写真は、昭和5年ごろの女子(尋常科)の家庭科の授業風景です。

 何を勉強していたのでしょうね。

 

    ◇稲こきの風景(昭和3年)

 もう一枚は、学校での収穫(稲こき)の写真(昭和3年頃の撮影)です。

 学校から脱穀機のワ~ン、ワ~ンという脱穀機のが聞こえてきそうです。 

 これら収穫のコメは学校の費用(運営費)に使われたのでしょうね。

 時には、現代の給食のように、みんなで食べたようです。

 自分たちで作った農作物の味は格別だったでしょうね。

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神野町をゆく(17) 神野小学校(9)・小学校写真集(6) 農業実習(2)

2022-02-26 09:29:58 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

      神野町をゆく(17) 神野小学校(8)・小学校写真集(6) 農業実習(2)

 

 昭和の初め、神野小学校で校長先生をされたT先生は、『神野小学校120周念記念雑誌』に次のような文を寄稿されています。

 昭和初めのころは、「忠君」「忠義」「修身」という言葉が、特におしえられ、神野小学校においても、当時の大玄関の運動場に面した左右に二宮尊徳、楠木正成銅像が建っていました。

 ・・・

 また神野小学校は農園が多くあったので、その管理が大変でした。

 子どもたちにはクラスごとに野菜や果物を作らせました。

 そして、家畜を飼育し羊、豚、ウサギ、鶏、小鳥などの世話をさせ将来の生活実習の場にしていました。

 ・・・

 当時は麦、米だけの世話だけではなかったのですね。

 みんな元気そうです。

 *写真。麦づくりと苗づくり(もとに、昭和3年頃の撮影)

 

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神野町をゆく(16) 神野小学校(8)・小学校写真集(5) 農業実習

2022-02-25 08:41:58 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

  神野町をゆく(16) 神野小学校(8) 農業実習

 昭和36月、郡内各小学校の農業科担任の教員も相互に視察をし、農業実習田の「田植え祭り」も実施されました。

 この写真は、そのための苗床づくりと苗床の写真でしょう。

 神野小学校は、水田でのコメづくりだけでなく、夏野菜や秋野菜などの栽培にも熱心に取り組み、成果あげ、県の視察の度に賞賛をえました。

 

 時代は、第1次世界大戦の特需も終わり、「昭和大恐慌」を直前の経済不況と戦争のきな臭い時代が近づいていました。

 食糧確保の求められた時代でした。

 *写真:苗床づくりと苗づくり(神野小学校生の農業実習)

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神野町をゆく(15) 小林政太郎(2) 『神野雑報』

2022-02-24 10:15:20 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

    神野町をゆく(15) 小林政太郎(2)『神野雑報』

 県道八幡・別府線で北へ向かうと曇川に架かる橋の手前のこんもりした石守集落の公園に石碑があります。

 前号で紹介した小林政太郎の頌徳碑です。

 もとこの碑の台座の上には、政太郎の銅像がありましたが、先の大戦で供出されました。

 小林政太郎については、前号のFBを覧ください。

 彼は村長として神野村の経営にかかわる一方、神野村の広報誌『神野雑報』(写真)を1923年から1945年まで、一時の休刊はありましたが、毎月一回発行を続けました。

 このような例は、他にあまり例が見られません。

 神野町を知る貴重な歴史史料となっています。

 『神野雑報』は新聞ではなく、主観ができるだけ抑えられ、教育・勧業・兵事・衛生・税務・庶務の項目ごとの広報の色彩が強い記事で書かれています。

 そのため若干、無味乾燥の点は否めません。

 しかし、この『神野雑報』は、政太郎ひとりが担当しており、この点から言えば政太郎の思想史ともいえる広報です。

 加古川市は、この『神野雑報』を『加古川市史史料1・神野雑報』(写真)としてまとめ発刊しています。

 『神野町をゆく」では、この『神野雑報』から多くを引用します。



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神野町をゆく(14) 小林政太郎(1) 神野町の基礎をきずく

2022-02-23 08:33:14 | 加古川市歴史探訪・神野町編

  いま、神野小学校を紹介していますが、少し退屈になってきたでしょう。

 ここで少し話題をかえます。神野町の基礎を築いた小林政太郎での紹介です。

 「神野小学校」の続きは、そのあとで続けます。

 

   神野町をゆく(14) 小林政太郎(1) 神野町の基礎をきずく

 小林政太郎(写真)は、近代日本を体現した指導者のひとりです。

 勿論、現代の神野町の基礎を作りげた人物です。

 政太郎は、明治10年、神野村石守村に生まれ、明治31年(1898)神野村の吏員となりました。

 明治20年代は、この地方の唯一の副業であった綿花栽培がほろび、村は荒廃の極にたっしていました。

 石守では、120余町歩の田畑のうち80町歩は他町村民の所有に帰したといわれています。

 政太郎は、この状況の中で、荒廃した村の建て直しに尽力しました。

 まず、明治36年(1903)年、彼はの人々を説得して石守信用組合を設立しました。

 その結果、明治36年には9円2銭だった石守の貯金残高は、大正12年(1923)年には80776円あまりにたっしました。

 その間、大正7年(1918)政太郎は、神野村の助役になり、同14年村長に就任します。

 『神野村の今昔』は、明治19年(1886)と昭和2年(1927)とを比較して、人口は1.33倍に、米の収穫は1.8倍、綿花に代わる叺(かます)等の副業は、ゼロから5万円ちかくになり、村の財産は350倍になったと伝えています。

 それに政太郎は、助役在任中から神野村の広報誌・『神野雑報』(原則月一回)を19325月から19455月までひとりで発行しつづけました。

 現在これは、近代日本の農村の歴史を知る貴重な史料となっています。次号で『神野雑報』を紹介します。

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神野町をゆく(13) 神野小学校(7)・小学校の写真集(4) 大正8年度卒業生

2022-02-22 09:13:27 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 神野町をゆく(13) 神野小学校(7) 

           卒業記念写真:大正8年度卒業生(4)

 

この写真は大正8年(19193月の撮影です。

尋常科の卒業時の写真でしょう。

みんな正装です。

とっておきの服装です。

男子の写真は、『神野小学校創立120周年記念誌』に紹介されています。

みんな緊張した面持ちでの撮影です。

履物はふだんは、藁草履か下駄でしたが、儀式のときは袴をはいて登校しました。

(高等科の生徒は、いつも袴をはいての登校)

 

言葉づかいも「君」は、絶対につかわず「〇〇ちゃん」や「〇〇さん」と呼びあっていました。

*写真:大正8年度の卒業時の写真(大正83月撮影)

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神野町をゆく(12) 神野小学校(6)・小学校の写真集(3)  りっぱな講堂が落成しました

2022-02-21 08:28:47 | 加古川市歴史探訪・神野町編

神野町をゆく(12) 神野小学校(6)・小学校の写真集(3)

   りっぱな講堂が落成しました

 大正8211日、新しく立派な講堂が落成しました。

 午前11時から式典があり、午後1時より凱旋軍人の祝賀式および宴会がおこなわれ、2時より浪花節など余興が盛大に行われました。

村民を挙げての慶事であったようです。 

また、下の写真は昭和3年に改築された小学校の玄関です。

 共にりっぱなつくりであり、地域の誇りであったようです。

  *写真上:新築なった講堂(大正8年)

   同 下:改築された小学校の玄関(昭和3年)

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神野町をゆく(11) 神野小学校(5)・小学校の写真集(2)  明治33年、新校舎落成

2022-02-20 09:57:17 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 神野町をゆく(11) 神野小学校(5) 小学校の写真集(2)

     ◇明治33年、新校舎落成◇

 神野小学校の校舎の話です。

 明治時代の終わりの頃でした。

 古い藁ぶきの校舎が西南の方へ傾きはじめ、応急修理をしました。

 そして、新校舎の話が持ち上がり、明治33年(190046日、今の場所に新校舎の建設が始まりました。

 校舎の建設中、大風により校舎の一部が倒壊することがありましたが、11月に新校舎は立派に落成しました。

 明治331125日の落成開校式は、全村挙げての盛大な行事でした。

 その後、生徒増もあり、大正11年(1922)新校舎の増設され学校規模は、だんだん大きくなりました。

 *写真:大正81911)年当時の神野小学校

 *『神野小学校創立120周年記念誌』参照

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神野町をゆく(10) 福留・日岡神社(1) ・ もうひとつの日岡神社 

2022-02-19 07:43:08 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 いま、神野小学校の記事を取り上げていますが、昨日(18日)、Hさんと地元のの案内で、福留(神野町)の「日岡神社」へ出かけました。

 急きょ、「福留日岡神社」を挿入させていただきます。

 たくさんの史料がありそうです。後日「福留日岡神社(2)」として、後日紹介することにします。

    神野町をゆく(10) 福留・日岡神社(1)

         もうひとつの日岡神社  

 

 福留の集落を流れる曇川に架かる福留橋のすぐ北に、なんと日岡神社があります。

 「日岡神社」というと、すぐ日岡山(大野)にある日岡神社が思い浮かびます。

 日岡神社の支社かと想像してみるが、今のところ関係は、はっきりしません。

 大野の日岡神社が祀る神社でもありません。

 祭神は、大野の日岡神社の祭神とおなじです。

 福留の日岡神社の堀の水は、底は若狭からきていて北条まで続いていると伝えています。奈良のお水取りの話が混入しているようです。

 ここに言う北条(郷)とは、今の地名で言えば大野・中津・溝口・河原・平野・寺家町・篠原を含む地域で、福留は含まれていません。

 北条に通じているという言い伝えは、「北条郷の大野の日岡神社」へもお供えする習わしが、この地にあった」と考えるのが自然です。

 地元では、「大野の日岡神社より古い神社である」と言う人もおられるようですが、古さにおいては大野の「式内社・日岡神社」に軍杯があがりそうです。

 また、郷土史家の石見完次(故人)さんは、ある長老の話を採集されておられます。

 「・・・昔、この川から御幣が流れてきてこの地に留まったので、この地に社を建て祀った・・・」と。

 この地の人々は曇川と生活を共にしてきました。曇川の流れは、まさに恵の川でした。でも、時には洪水を引き起こす怖れの川です。

 福留の日岡神社は、おそらく水神を祀るお宮だったのでしょう。

   *『古地名新解-加古川おもしろ誌』(石見完次著)参照。

 

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神野町をゆく(9) 神野小学校(4)・小学校の写真集より(1)

2022-02-18 08:25:21 | 加古川市歴史探訪・神野町編

         神野町をゆく(9) 神野小学校(4) 小学校の写真集より(1)

 写真は、神野小学校創立120周年記念の写真です。

 今年は、それから30年が過ぎました。ということは、今年神野小学校は創立150年を迎えます。

 きっと、150年前というと子どもにとって大昔でしょうね。

 

 孫が保育園の頃のことを思い出しました。

 ある日、孫は言いました。「おじいちゃんの子どもの時、怪獣はおったん・・・」

 大笑いしましたが、子ども(孫)にとって150年は、それほど古い時代なんでしょうね。

 でも、おじいさん・おばあさんにとっては、ちがいます。

 個人のことで申し訳ないんですが、私は78歳です。150年はそんな古い気がしません。

 78年を2倍にすると150年を超えてしまいます。

 そう思うと150年は、すごく身近な歴史です。

 明治から現在までの中間点に第2次世界大戦がありました。

 多くの人にとって前半は、戦争と生活苦の時代でした。後半は平和ですが、格差の拡がった時代となりました。

 学校は、施設も教育内評もすっかり変わりました。

 先日、神野小学校の古い写真を拝見させていただきました。

 地域の人・卒業生にとってはメッチャ懐かしい写真だと想像します。

 でも、たくさんの写真が残っているとはいえ明治時代の写真はほとんどありません。

 写真は高価で、貴重な時代であったので仕方がありません。

 保存されていた写真を紹介しましょう。

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春待つ水面は、黄金色(加古川)

2022-02-17 18:17:58 | 風景

            春待つ水面は、黄金色(加古川)

 今日(17日)の夕刊(神戸新聞)に、昨日登った正法寺山の夕日の風景のことが出ていました。

 妻に話すと「天気が下り坂になるので、あす見に行こう」ということになりました。

 おじいさんとおばあさんが、「よっこらショ」と登ぼります。

 きれいですよ。登りませんか。山頂で5時ごろ、お会いしましょう。

 天気が悪く、夕日が見えそうでなかったら中止します。

 

 以下の記事(一部)と写真は神戸新聞からの引用です。

 

 三木市別所町正法寺山から加古川を望むと、川面全体が夕日を浴びて黄金色と朱色に染まる。

 この時期と秋にしか見られないドラマチックな自然美だ。・・・20日ごろまで見られそう。

 

 *車で山頂まで登れますが、途中ですれ違いができません。そのため車は山の中腹の駐車場に止めるのがよさそうです。

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神野町をゆく(8) 神野小学校(3)・小学校と「くすの木」 

2022-02-17 07:49:08 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

  神野町をゆく(8) 神野小学校(3)・小学校と「くすの木 

 神野小学校の校門のところに、写真のような見事な「くすの木」があります。

 歴史の古い小学校には、よく「くすの木」をみます。

 小学校とクスノキについて、少し書いおきましょう。

 戦前の教育は、天皇中心の教育でした。

 楠木正成は、天皇の忠実な家来として、歴史上の人物としてだけではなく、精神教育の面で大きな役割をはたしました。

 小学校では、後醍醐天皇の忠臣・楠木正成の精神をあらわす樹木としてクスノキが植樹されました。

 それも、複数のクスノキが植樹されました。

 播磨小学校(播磨町)では、もとは校庭にク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲと8本のクスノキが植えられていました。

 忠臣楠木正成を表すために6本を植えたり、楠木正成と4本を植えられた例もありました。

 そのクスノキも戦後、児童数の増加やスポーツ熱のさかんになるにつれ、また高所の建て替えにより、歴史の証として一本を残してほとんどが伐採されました。

 神野小学校は「くすの木」の移植などに、なくなることが少なく、たくさんの「くすの木」がクスノキが残されています。

 クスノキの歴史はともかく、『神野小学校創立120周年記念誌』に、もとPTA会長のI氏は「校庭に残るクスノキは、120年の昔から、みんな(なつかしい思い出)知っているに違いない」と書いておられます。

 懐かしい思い出をぎゅっと詰め込んだ神野小学校は、今年創立150周年を迎えました。

 *写真:神野小学校の「くすの木」

 

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神野町をゆく(7) 常光寺(3)・赤松義村の五輪塔

2022-02-16 09:00:55 | 加古川市歴史探訪・神野町編

   神野町をゆく(7) 常光寺(3)・赤松義村の五輪塔

        赤松一族の衰亡 

 嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)は自害しました。この歴史は、学校でも教科書で学習します。

 赤松一族の断絶でした。この時、赤松が再び復活するとは、誰も考えたものはいなかったと想像されます。その顛末は、省かせていただきます。

        赤松氏復活

 赤松政則の時です。長享年二年(1488)、なんとか山名勢を追い出すことに成功します。

 政則は、赤松家の勢力を保つために細川家に近づきました。

 そして、政則の娘の松に養子・義村を迎え赤松家を託しました。

 ところが、事態は暗転します。

 明応六年(1497)四月二十五日でした。

 政則は鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で心臓発作のため、あえなく亡くなってしまいます。政則は42才でした。

 政則の政治力があってこその赤松一族の結束でした。

 赤松家が盤石なものとなっていない段階での無念の他界でした。

 お決まりの一族内での下剋上が始まりました。

 紙面の関係上、年表を追うことにします。

    〈赤松家、没落の年譜〉 

 ・明応 八年(1499)  赤松一族のナンバー2であった浦上則村が赤松家の乗っ取りをはかる。

 ・永正 四年(1507)  義村と洞松院(政則の妻)の対立が深まる。

 ・永正十五年(1518)  義村は浦上追討の兵をあげる。

 ・大永 二年(1522)  義村は、室津の寺に幽閉され殺害される。

 赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきました。

 政則を継いだ義村は、室津の寺に幽閉され殺害されてしました。

 常光寺の五輪塔は、義村の五輪塔(墓)だと伝えられていますが、歴史学者は形式から判断して南北朝時代の五輪塔としています。

 赤松義村の時代より少しい古い時代の五輪塔です。

 でも、このような義村の伝承は、きっとこの地方の赤松氏を慕う庶民の気持の表れだったのでしょう。

 *写真:赤松義村の墓と伝える五輪塔(歴史学的は南北朝時代の五輪塔)

 

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神野町をゆく(6) 常光寺(2)・南北朝正閏論

2022-02-15 08:51:34 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

     神野町をゆく(6) 常光寺(2)・南北朝正閏論

 「南北朝正閏論(なんぼくせいじゅんろん)」は、あまり聞かれなくなった言葉です。後醍醐天皇の南朝が正当であるとする論です。

 「南北朝正閏論」の発端は、明治44115日の「読売新聞」の社説でした。

 ここでは、水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。

 第二次桂内閣の時でした。 

 野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。

 この時、桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められました。

 以来、足利尊氏は南朝に敵対した「逆賊」とされました。

 昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は辞職に追い込まれるという事件もおきました。

 戦前、足利尊氏は完全に「逆賊」とされてしまいました。

      足利・赤松一族の研究は戦後

 ことは足利一族だけにとどまりません。私たちの地域・播磨地域を支配したのは赤松一族で、播磨地域は足利の有力な家来として活躍した武将です。

 となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。

 東播磨地域は、赤松の勢力下にありました。つまり、北朝方でした。

 そのため、戦前赤松一族の公平な研究はなされませんでした。

 明治以降、赤松の研究は不当にゆがめられました。

 史実(歴史)としての赤松氏の研究は戦後になってからの事です。

 赤松氏の研究は、史料が失われたり、伝承が語られることも少なくなり赤松氏の実像が伝えられていません。
 *現在の天皇家は、北朝系統です。

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