ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

東神吉町をゆく(69) 砂部 日本毛織(ニッケ)印南工場(2):トロッコ橋

2024-02-06 07:58:24 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(69) 砂部 日本毛織(ニッケ)印南工場(2):トロッコ橋

  大正9年7月には加古川工場と印南工場をつないで専用の軽便鉄道加古川鉄橋が架設され、無人トロッコによる両工場間の輸送が始まりました。主なトロッコの荷物は、加古川工場で引き込み線から積み換えられた燃料用石炭でした。

 このトロッコはワイヤーにより牽引されるケープル式で、電気を動力として昭和30年頃まで使用されていました。

 私(喜多正人氏)の子供の頃は無人のトロッコに飛び乗って遊んで叱られたこともあります。

 この専用橋を私たちはトロッコ橋と呼んでいました。その後、トロッコによる両工場間の資材輸送は行われなくなり、トロッコ橋だけが残っていました。

 昭和34年(1959)国道2号線加古川大橋の拡幅工事が行われた時には、人と自転車専用の板張りのう回路がこの橋を利用して作られました。

 その後も利用されずに残っていた橋は、昭和41年に洪水防止のため撤去され橋脚の基礎部分だけ残っていましたが、平成13年のJR新橋梁工事の際これも撤去されました。

  大正11年には国鉄線路北側の船頭・出河原地区の用地に寄宿舎・社宅が建てられました。

 敷地の一部に大きなグラウンドが作られ、年に一度はなやかに職場の大運動会が開催さ れ 、周辺の村からも大勢の人が見物に来ました。その後、繊維製品の国際競争力低下に伴い、工場の生産規模は徐々に縮小され、従業員数も激減して、社宅入居者はいなくなり、社宅等の跡地は現在ショッピングモール・イオンタウンやナフコ、マックスバリューとそ の他の店舗、乗馬クラブ・テニス練習場・ゴルフ練習場等スポーツ施設用地、加古川市の夜間救急センター、歯科保健センターとなっています。

  *文:『砂部あれこれ』(喜多正人著)より

  *写真:トロッコ橋 (対岸の工場は印南工場)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(68) 砂部 日本毛織(ニッケ)印南工場(1)

2024-02-05 09:57:01 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

      東神吉町をゆく(68) 砂部 日本毛織(ニッケ)印南工場(1)

 砂部村の一部分を敷地にした大規模な工場が20世紀の初めに完成しました。

 明治29年(1896)創業の日本毛織株式会社(ニッケ)は、翌30年に加古川の水量が豊富なこと、水質が軟水で鉄分が少ないこと、鉄道輸送の便が良いという立地条件に最適の加古郡加古川町に、同社最初の工場である加古川工場を建設して同32年に操業を始めました。当時加古川工場には3,800人余の従業員がいたそうです。

 その後同社は主に軍需品の生産を行っていた加古川工場の生産能力が限界に近くなり、一般市場向け製品を大量に生産する工場が新たに必要となりました。

 大正7年(1918)になってから、加古川工場と川をはさんで対岸の米田村船頭、平津、東神吉村砂部、同西井ノロにまたがる土地に、同社としては二番目の印南工場建設を始めました。

 必要に応じて順次設備を拡張していった加古川工場に比べて、同工場では各作業場の規格を統一し、生産工程順に整然と配列された設備を最初から配置した近代的なものでした。

 翌年6月に竣工した工場は、レンガ造りの建物が作られ、敷地面積は当初10、7460坪、最終的には11,67200坪の広大なものでした。

このとき、国鉄山陽本線より南側の砂部地区の約1,50001坪が工場用地に提供されました。

 ほとんど農家だった砂部に変化が現れたのはこの頃で、日本毛織の従業員として採用される人や、工場で働くために移住してくる人も増えてきました。

日本毛織は、当時この地域では多木製肥所(多木化学)と並ぶ二大有力企業のひとっで、大正14年11月の大阪朝日新聞の記事によると、大正12年の印南郡内の工業生産額は年間1,760万円で、その内日本毛織が4,261万円を占めていました。

 また、当時印南工場には従業員が3000人もいて、男女比率は6:4で、女工の1日平均賃金は1円だったそうです。

 *文:『砂部あれこれ」より

 *写真:日本毛織印南工場(昭和45年撮影・加古川市提供)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(67) 砂部 喜多願庵

2024-02-04 09:38:04 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

      東神吉町をゆく(67) 砂部 喜多願庵

 喜多順庵は『砂部あれこれ』の著者、喜多正人氏のご祖先です。

 同家では過去に三代にわたって医師順庵の同じ名前が継がれたことがあり、古い順に、元祖と記録されている初代順庵(松隠・起生)(17641839)、二代順庵(松頼のちに松隠・公綺)(1789-1855)、三代順庵(哲堂・信締)(1850-1927)となっています。

 このうち初代順庵は京都や長崎で医術の修行をして、姫路・明石両藩主、亀山本徳寺門主を診察した名医で、その子二代順庵と共に姫路藩から苗字帯刀を許され、4人扶持(年間7.2石、1,080kg)の待遇を受けていました。初代順庵は正がいた俳人でもあり、「日本外史」を著わした頼山陽とも親交があったそうです。

 二代順庵には小野藩主一柳家の侍医大島元道を始めとして多くの医師の親族がいました。

 また、現在米田橋の近くに移設されている上の写真「観月碑と「腰掛石」(加古川市史第2541ページ)をつくった人物です。

 この句碑は、二代順庵が文化年間(1804-1817)に松岡青青蘿(せいら)の弟子で米田村神宮寺住職の栗本玉屑(くりのもとぎょくせつ)、等と相談して、加古川(旧西加古川下流部の洗北川)右岸の米田堤の川面に月が映える景勝地に、俳講仲間の集いや往来の人たちの休憩所として「観月亭」を建てました。のちに現在の米田交番近くの場所に移転されました。

      喜多公綺

 三代順庵は、18歳から大阪で3年間内科と外科の西洋医学を勉強したのち砂部村で開業し、また茶道や華道に秀でており村人たちが教えを受けました。

 明治6年から学校の教師になり、印南郡医師会の会長に就いています。

また、明治の初め頃に砂部村で私塾(寺子屋)を開き、10人に読書、習字、算術を教えています。

 その住居は砂部村の北端にあり、昭和の初め頃まで自宅で診療を行なっていました。  大正8年生まれの私(喜多正人氏)の母は、小さい頃そこで診察を受けた記憶があるとのことでした。

 その後同所は弾丸列車(のちに加古川バイパス)の用地となったため、同家は昭和20年頃現在の場所に移住しました。

 薬師堂境内には傾いて今にも倒れそうな大きな石碑があります。石の表面は風化が進み文字はほとんど判読不可能ですが、喜多家に原文が残っており、三代順庵が還暦を迎えた祝いに、その業績を称えた門人たちにより明治43年4月に建てられた顕彰碑と判明しました。

 *写真:観月碑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(65)  砂部 加古川の渡し

2024-02-02 10:16:03 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

        東神吉町をゆく(65)  砂部 加古川の渡し

 防衛戦略もあり、明治7年までは川幅の広い加古川下流部には橋がかかっていませんでした。

 西国街道の加古川村(現在の本町)に宿場ができて栄えたのも、加古川を渡るのに一且、川を渡らなくてはなりません。

 渡しには舟渡し、歩(かち)渡し等がありました。加古川の渡しには人夫が100人、馬子が150人ほどいたといいます。

 挿し絵は、正保播磨国絵図(1650)の加古川渡しの部分です。加古川村と平津村の間に船頭村はまだなく、そこに2本の川があり、『東加古川 川幅70間(120m)舟渡り、歩渡し有り』、『西加古川 川幅50間(91m)舟渡り、歩渡し有り』と記載されており、当時2回の川渡しが必要でした。

 船頭側では道が二又に分かれて、左側の道沿い(西国街道)に大きな灯寵が見えます。

右側(砂部方面)への道の向こうに船頭村の家並みが見えます。遠方には高御位山と思わ

れる姿の山が描かれています。

 明治時代になっても、西国街道を往来するのに加古川では渡し舟を使用していました。

 明治7年(1874)になって粗末な木製の橋が加古川村と船頭村の間に初めてできました。

 昔、砂部村に住んでいた人たちは、東の方面に行くには加古川を渡し舟で渡らなければなりませんでした。

 明治11年の印南郡絵図(対岸表示がない箇所は対岸が加古郡ですから記載されていません)によると、印南郡内で加古川に渡し場があったのは、上流部から順に井ノロ(現:平荘町)、国包、都染、薬栗、養老、里、池尻、古新、友澤です。

『砂部あれこれ(喜多正人著)参照

*図:加古川の渡し場の風景右図の加古川の渡し場から延びるのが現在の寺家町商店街(当時の西国街道)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(64)  上部用水(神吉庄水路・平津庄水路・伊保庄水路)

2024-02-01 09:50:12 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

     東神吉町をゆく(64) 上部用水(神吉庄水路・平津庄水路・伊保庄水路)

 『砂部あれこれ』(喜多正人著)を読んでみます。地図を見ながらお読みください。

 上部用水(うえべようすい)の取水口から取り込まれた水は、まず、神吉庄水路と平津庄・伊保庄水路に分かれ、さらにその先で平津庄水路と平津庄水路に分かれ流れ下ります。

 これれらの水路が灌漑する地域を地図で確認ください。上部用水は、たいへん広い地域を灌漑する用水です。

 升田村では、村の中を西へ流れる2本の水路(神吉庄と伊保庄・平津庄)を、それぞれ神吉川、向い川(平津庄水路・伊保庄水路)と呼んでいたそうです。

        三つの水路(印南郡の1/3を占める)

 俗に上部井の用水は、神吉庄2、000石(神吉1,200石、砂部347石、中西186石、大国267)、伊保庄4,000(伊保崎1,100石、中筋1,000石、南池300石、北池300石、曽根町1,300)、平津庄4,000(西井ノロ750石、岸500石、米田667石、塩市333石、平津750石、神爪500石、島500)合計1万石の田を潤しているといわれ、印南郡全域石高の約三分の一を占めていました。

         海岸部の用水

 なお、高砂市西部の海岸部の用水は、もともと阿弥陀町にあるため池を水源にしていました。

 しかし、水量は十分でありません。また、同地域には法華山谷川や天川が流れていますが、いずれも勾配が少なく海に近いために塩分があり、稲作には不向きでした。

 そのため、苦労をして上部井水を用水路を築きました。

 *『砂部あれこれ』(喜多正人著)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(63) 砂部(3) 『砂部あれこれ(喜多正人著)』

2024-01-31 08:29:09 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

       東神吉町をゆく(63) 砂部(3) 『砂部あれこれ(喜多正人著)』

 ブログ等で加古川の歴史散歩をしています。たくさんの話題を取り上げてきました。

 20年ほど前のことです。そんな私の遊びを神戸新聞のI記者が大きく取り上げてくれました。それ以後、読者の数が増えてきました。

 その時、「私の肩書をどうしますか」と聞かれたので、「退職者とでも書いておいてください」とお願いすると、I記者は「地域史家」にしておきましょう」ということになり、以来この肩書が独り歩きしています。古文書の読めない地域史家です。

 いま、ブログを続けていると5,000回をはるかに超えましたが、私が新しく発掘した話題はほとんどありません。史料のほとんどは『加古川市史・町史・郡史からお借りしています。

        『砂部あれこれ』(喜多正人著)

 でも、散歩をしながら多くの人とお話しをします。資料を紹介してくださいます。

 以前に砂部の喜多正人さんから『砂部あれこれ(喜多正人著)』をいただきました。

 『加古川市史』等では紹介されていない、キラキラした史実がいっぱい詰まってる貴重な本です。

 しばらく、喜多さんから頂いた本から砂部村の歴史の一部を紹介しましょう。

 *写真:『砂部あれこれ(喜多正人著)』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(62) 砂部(2) 金沢九郎兵衛(2) 蛇塚の話

2024-01-30 09:45:47 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(62) 砂部(2) 金沢九郎兵衛(2) 蛇塚の話

  余話を付け加えておきましょう。

 金沢新田は、完成しました。

 その後、村人は「九郎兵衛と蛇塚」の話を語り伝えています。

  ・・・・ 

 金沢新田の開発中のことです。

 新田に大蛇を葬ったという大きな塚がありました。

 村人は、これを「蛇塚」と呼んでいました。

 「もし、牛がこの塚の草をたべると発熱するし、人がその塚の草を踏んだだけで熱病する」と恐れられていました。

 金沢新田の開発は進み、蛇塚を掘り起こし、水路を造らなければならなくなりました。

 ところが「大蛇のたたり」を恐れて、誰も塚を掘ろうという者がいません。

 九郎兵衛は、家人に「新田開発も後は蛇塚を残すだけとなった。塚を掘ると大蛇のたたりで死ぬかもしれない。それで、他の者に任せてはかわいそうである・・・」と、九郎兵衛は自ら塚に鍬を入れたのです。

 幸い、何事もおこりませんでした。

 塚のあとから、蛇の骨のような物が二個出てきました。

 一つを自宅(加古川市東神吉町砂部)に持ち帰った。他の一つは、観音寺(加古川市尾上町池田)に奉納しました。

 ある夜のことでした。九郎兵衛の夢枕に大蛇があらわれ、「私の祠を建てて祭ってくれたら金沢家を守護するであろう」と、いって姿を消したのでした。

 金沢家では祠を建ててお祀りをしました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(62) 砂部(1) 金沢九郎兵衛(1)

2024-01-29 09:41:05 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

   東神吉町をゆく(62) 砂部(1) 金沢九郎兵衛(1)

 地図(国土地理院発行・大正12年)の赤いカ所所をご覧ください。「金沢新田」です。

 この低湿地帯にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村(現在:加古川市東神吉町砂部)の金沢九郎兵衛です。

 金沢家に残る文書等から判断して、「金沢新田」の開発は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。

  *金沢家に残る文書では天保九完成になっています。

 この時の新田は84町4反21畝でした。

 開墾費用は銀854貫85匁五分と莫大で、九郎兵衛に当然そんなお金はありません。スポンサーは加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村の近藤亀蔵でした。

 少し余話を書いておきます。

 ・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫村という集落がありました。昔、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいました。

 「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門通れば後光さす・・」と、当時の俗謡にも歌われるほどでした。

 享保年間に、近藤家は日本一の金持ちといわれました。

 ともかく、近藤一族をスポンサーに、開発願主は九郎兵衛で、金沢新田は完成しました。

 お気づきと思いますが、基本的に金沢町は金沢新田の場所につくられており、「町名」はそこから名づけられています。そのもととなったのは、九郎兵衛の姓です。

 金沢家に残る天保11年(1840)の文書によると新田は、59町2反20歩3畝で、開発当時の総反別(84町4反21畝)よりも、著しく減少しています。

 これは、一部のカ所で地味が悪く、水稲が十分生育しなかったためであろうと思われます。

 20年を経過した明治10年(1877)の調査記録によると田地・宅地・畑および未開発地を合わせると85町6反2畝5歩と記されており、開発当時の規模に回復しています。

 *写真:昭和30年代の金沢新田(『加古川市史・第二巻)』より)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(61) 旧北条街道

2024-01-28 09:47:42 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(61) 旧北条街道

 加古川市米田町平津の国道2号線の交差点は高砂・北条線陸橋となっています。

 この道は、北の西神吉町あたりで大池・新池の東を通り、志方町投松(ねじまつ)へぬけ、加西市北条へ続く広い北条線(北条街道)です。

 写真は、現在の「北条線」以前の、明治18年(1885)に完成した「北条街道」です。

 現在の北条線に並行して走る、やや細い道がありますが、それが旧北条線です。

 「この道を北へ行くと喫茶店「明日香」のある交差点に出ます」といえば、旧北条線(街道)がお分かりになると思います。

 今も、地区の大切な生活道路です。

 以下は蛇足です。



 明治18年以前、特に江戸時代以前の北条道(街道)は、今の北条街道とはコースも異なり一部は各所に残るのですが、細い農道のようで、説明がなければ、それがかつての北条街道とはほとんど分からない状態になっています。

 が、北条への産業道として、そして、何よりも法華山一乗寺への参詣道として大切な役割を果たしていました。

 *写真:旧北条街道(明治18年完成)・加古川バイパス付近より南(昭和41年撮影)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(60) 長谷川亀次郎家

2024-01-27 08:12:36 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

      東神吉町をゆく(60) 長谷川亀次郎家

 ブログの「東神吉町をゆく・57~59:井口小学校」で井口小学校・長谷川亀次郎を紹介しました紹介しました。

 井口小学校・亀次郎については、それらをご覧ください。

 次の話題に移りたかったのですが、柴田圓治さんが、ありしひ日の長谷川家を撮影されていましたので、掲載させていただきます。

 今回は長谷川家の写真だけになります。

*写真:解体前の長谷川本家(昭和53920日撮影:柴田圓治さん撮影)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(59) 井口小学校(3)  井口小学校の財政

2024-01-26 08:17:12 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

     東神吉町をゆく(59) 井口小学校(3)  井口小学校の財政

 長谷川亀次郎と同じ時代の人で、村総代を長く務められた柴田吉太平氏が村の記録『諸事記』(全三巻)を残されています。

 『諸事記』から、井口小学校の収入をみておきましょう。

     小学校新築之事(原文略)

  井ノ口村・井ノ口新村・六本松村(現:西井ノ口)に長谷川亀次郎が一人で学校を新築するとのこと、村では、人足を出し、寄付金を少々出しています。校名は「南学校」と命名しました。 (以下、漢数字はアラビア数字にかえています)

 〈新築経費金 961円〉

   内

 金  650円  長谷川亀次郎

 〃  50円   同 新 蔵

 〃  17円  柴田  吉太平

 〃  13円  長谷川 甚七

 〃  13円   同  庄吉

 〃  11円  伊藤  源四郎

 〃  13円50銭 同  惣七

 〃  11円  柴田   弥 市

 〃  186円 その他  口々

   〈明治六年学校入費〉

 高金 514円14銭  収入三ヶ村分(井ノ口村・同新村・六本松村負担金)

 金  428円   寄附金

 金   5円10銭  生徒授業料

 金  77円4銭 貸金利子

 支出の部は省略します。

 生徒の授業料による収入が5円10銭ということは、ほとんどの生徒は、授業料免除のようで、学校の経費のほとんどは、村の寄付と村の有志(特に長谷川亀次郎)の寄付により賄われています。

 金銭面で亀次郎のはたした役割は、絶大きなものがありました。

 *地図:井口小学校のあった場所(井ノ口公会堂を東へ行った三叉路)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(58) 井口小学校(2)  県下一のピカピカの小学校

2024-01-25 08:11:19 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

    東神吉町をゆく(58) 井口小学校(2)  県下一のピカピカの小学校

 明治六年(1873)、(東神吉町)西井ノ口にピカピカの二階建の「井口小学校」が新築されました。

 その規模・設備等は当時としては異彩をはなっており、県下では他に例を見なかったようです。教育史の一ページに記録されるべき学校でした。

 しかし、残念なことにあまり広く紹介されていません。

 井口小学校の詳細については、今後の研究を待つことにします。

 きょうは、西井ノ口村に建設された「井口小学校」について、西井ノ口の広報「にしいのくち(99)」の説明をお借りします。(一部書き変えています)

      明治六年、西井の口に小学校が建設

「・・・(学制により新しい小学校はスタートしましたが、ほとんどの地域では、寺院を借用して校舎にあて、その内部の設備の如きは、もとより論ずるに足らないほど貧弱なものであった。

 かかる時代において異彩を放ちしは、西井口村所在の井口小学校だった。

 同校は洋風二階造にして、村の東南端、通風採光よろしき地にあり、これは同村篤志家、長谷川亀次郎氏は、県下の学校の多くは寺院民屋を借用し、ひとつも見るべきものなきを慨き(なげき)、独力で一千円を投じて竣工せしものである。

 当時、唯一の洋風二階建の校舎のため、近郷近郡より来観するものも多かった。

 「学校新築と散髪は県下第一番の始め」と同村民は伝えている。

近村の里謡(りよう)に「石の宝殿から井ノロ見やれ、海もないのにたこばかり」 とあるは、明治六年一月一日、長谷川亀次郎は、村民と示談し、即日散髪を断行し、学校新築用の瓦運びをした状況をあらわしている。

 以上は、「印南郡誌」の「教育・小学校の設備」の項の冒頭の一節です。



 明治五年の学制令を受けて、藩校・藩学、そして寺子屋の一部が小学校として発足しましたが、小さな村で校舎を新築して発足したのは、おそらく西井ノロが、県下で最初で最後であつたに違いありません。

 多くの「小学枝」が藁屋根であった明治六年に、瓦屋根の、しかも西洋風二階建ての校合を新築したことは驚きです。

 *写真:ピカピカの井口小学校(『印南郡誌』より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(57) 井口小学校(1) 長谷川亀次郎って誰?

2024-01-24 09:29:09 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

     東神吉町をゆく(57) 井口小学校(1) 長谷川亀次郎って誰?

  前号で長谷川亀次郎が突然登場しました。「長谷川家文書」より、亀次郎について少し紹介しておきましょう。

    <長谷川亀次郎、年表(一部省略)>

 天保9(1838)   西井ノ口村に生まれる。

   ?年      高砂へ進出。 

 安永6年(1859)  名字帯刀を許される。

 文政元年(1861)  大判27枚を献上 大庄屋並びに五人扶持になる。

    <江戸幕府崩壊>

 明治2年(1869)  調達金・木綿代金を多く修める。 

 明治3年(1870)  蒸気船安洋丸をつくり、大坂~高砂を航海する。

 明治5年(1872)  高砂南本町に物産会社をつくる。

           姫路と三日月町で鉱石の精錬会社を設立。

 明治6年(1873)   印南郡に西井ノ口村に学校を新築。

 明治12年(1879) 申義堂を西井ノ口に移築

  明治22(1889)  死亡、戒名は釈浄脩以下略

 亀次郎は商業・教育の分野で大きな足跡を残しています。

 

 井之口小学校」を創立した長谷川亀次郎氏の功績を称える、「旌徳碑(せいとくひ)」(写真)が井之口小学校跡にあります。

 一部だけですが読んでおきます。

 ・・・ 明治初年、君は、航海椎がすべて英国にあることを憤慨して、独力で安洋丸という汽船を造り、それによって大坂~高砂商業を盛んにした。

 そして、君(亀次郎)は、特に教育が振るわないこと考え、千金を投じて井之口村に学校を新築した。

 当時、県下の学校の多くは人家(寺)をもつて代用(寺子屋)し、一つとして見るに値するものはなかったが、君がその面目を改めた。

 君は、維新前に金数十枚を旧姫路藩主・酒井侯に献じた。

 藩主は、彼を大庄屋並みに扱い、後に「藩士に準じた。

 晩年、一年発起して仏門に帰依する。

 そして、高砂町の申義堂を西井ノ口の移し説教所を設けた。

 ・・・・

  明治23年1月23日、病に罹り急逝す。享年52歳。

 *写真:長谷川亀次郎の旌徳碑(場所は西井ノ口公会堂南側にある道路を東へ行くと三叉路となっています。旌徳碑は、その南西角です)



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(56) 西井ノ口と申義堂(7) 申義堂は東神吉村西井ノ口へ

2024-01-23 08:56:15 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(56) 西井ノ口と申義(7) 申義堂は東神吉村西井ノ口へ 

 明治4年、廃藩置県に伴い、申義堂は廃校になりました。

 その後、申義堂は姫路光源寺の説教所としての役割を担いました。

 しかし、その場所に明治12年、高砂警察署の建設されることになり、立ちのかねばならないことになりました。

         申義堂(説教所)・西井ノ口へ移築 

 岸本家と長谷川家の関係を少し整理しておきます。

・岸本家の出身地は、大国村(現:西神吉町大国)で、長谷川家は(西)井ノ口村出身でともに近くです。

・大国村の岸本家も井の口村の長谷川家も綿屋でした。

・高砂における岸本家と長谷川家は近所に位置しています。

・両家は江戸時代、高砂町の町役として活躍をしています。

・『長谷川亀次郎を偲ぶ』によれば、亀次郎の妻・うのは、岸本家から嫁いでいます。

 とにかく、長谷川家と岸本家は深い関係にありました。

 このことを踏まえて、少し、想像みました。従って以下は記録による話ではありません。皆さんはどう思われますか。

      ある日の会話

 「(長谷川)亀次郎さん、相談に乗ってもらえませんか」

 「岸本さんのことでっさかい、出来ることでしたらなんなりと・・・」

 「実は、説教所(申義堂)のことやけど、あの場所に新しい(高砂)警察署がつくられるので、立ちのかなあかんのや。どうしたものやろか・・・

 説教所を閉めるのはおしいし・・・

 近所で新しい場所というても、この頃は何かと物入りでね。

(こんな話が幾日も続きました。ある日のことでした)

 「岸本さん、例の件ですが私(亀次郎)に任せてもらえませんか。私もずいぶん考えました。

 出しょうの井ノ口村に移してもらえまへんやろか。費用の方は私の方でなんとかします。

 「そこ(井ノ口村)で、説教所をつくりたいんです」「井ノ口村では弟の新蔵は、村役をしております。そして、新宅をしました庄蔵は手広く綿問屋を営んでおりました。多少の蓄えはあります。

 私も、高砂の町で、いささか蓄えさせてもらいました。

 話はトントン調子に進み、高砂町申義堂は、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロ村によみがえったのです。

 こうして、申義堂は、昭和7・8年ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年4月でした。

 *写真:長谷川亀次郎

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東神吉町をゆく(55) 西井ノ口と申義堂(6) 申義堂廃校

2024-01-22 08:02:41 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

  

   東神吉町をゆく(55) 西井ノ口と申義堂(6) 申義堂廃校

 申義堂は、明治4年、廃藩置県にともない廃校となりましたが、その教育的機能は高砂小学校へひきつがれました。

 ところで、申義堂の建物そのものはどうなったのか、についてふれておかねばなりません。

 土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。

 そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。

 河合寸翁筆による「申義堂」扁額(写真)や文書が同家に保管されているのはそのことを示しています。

 その後、申義堂の土地は、明治12年、高砂警察署の建設のため立ちのき、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しています。

     申義堂・西井ノ口へ移築 

  *以下の記事は、「西井ノ口と申義堂(1)」と重なります。

 申義堂の建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。

 次になぜ、「西井口村へ」という疑問が残ります。次回に紹介するとしましょう。

 申義堂は、昭和7・8ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年月でした。

 天井に棟札が打ち付けられていて、12年の移築が確認されたということが分かりました。

 *『高砂市史(第二巻)・近世篇』・『なぜ申義堂が西井口にあったか(柴田育克)』『長谷川亀次郎を偲ぶ』参照

 *写真:申義堂の扁額の複製(河合寸翁筆)・申義堂に掛けられている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする