ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

「神野町をゆく(88)」 「神野町をゆく」終了

2022-05-08 07:37:51 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

   「神野町をゆく(88)」 「神野町をゆく」終了

 前号で「神野町をゆく」は、前号で88号になりました。

 ダラダラと続けました。

 少し嫌になったでしょう。この辺でいったん「神野町をゆく」を終了させます。ですが、神野町の大きなお寺「宝塔寺」が、のどに刺さった小骨のようで気になっています。

 書きたいのですが、調べていません。後日、「宝塔寺のふしぎ」を書いてみます。

それで、「神野町をゆく」をおわります。

 

 次は「野口町をゆく」を予定しています。少し、リニューアルして再度野口町を散歩してみます。

 21日(土)頃から新しい企画をはじめます。

 お願です。野口町の「古い写真」をお持ちの方はご一報下さい。また「不思議な話」もお聞かせください。

 そんな、写真やお話を膨らませたいです。

 *写真:宝塔寺(神野町石守)

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神野町をゆく(87) 神野倉庫(3)・神野倉庫解体 

2022-05-07 05:48:04 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(87) 神野倉庫(3)・神野倉庫解体   

 2007年、旧陸軍神野弾薬倉庫の解体作業がほぼ終わりました。

 この戦争遺跡は、やがて取り壊されるとは聞いていましたが、解体作業がはじまっているのを知ったのは1月の中旬でした。

 さっそく、写真(記録)を撮りに出かけました。

 旧神野弾薬庫は、昭和12年(1932)頃に建設され、戦後は加古川刑務所が建てられました。

 終戦で不要となった弾薬庫や工場(現在の刑務所と日岡公園の間)など9棟が放置されたままになっていました。

 地元の「旧陸軍神野弾薬庫等の戦争遺跡保存会」等が建設の「戦争遺跡」として保存を求めてましたが、傷みがひどく保存は難しい状態でした。

 加古川市は、日岡公園の駐車場としてこの3万9千平方メートルの土地を3億2100万円で買収し、そして、解体作業を始めました。

 1月半ば頃、工事は急ピッチで進んでいました。

 弾薬倉庫は、老朽化が進み、解体もやむおえない面もあるのですが、加古川市から戦争の証がまたひとつ消えました。戦争の風化がどんどん進んでいます。

 写真は、いずれも一部です。解体が進む倉庫・解体直前の倉庫・解体直前の倉庫の内部です。

 

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神野町をゆく(86) 神野倉庫(2)・弾薬格納号壕

2022-05-06 07:56:50 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(86) 神野倉庫(2)・弾薬格納号壕

 それにしても、洞窟の暗く湿った空気は、気持ちのよいものではありませんでした。

 懐中電灯で照らしてみると、砂利をいっぱい含んだ地層のトンネルででした。

 ゴキブリのような虫がいました。

 この洞窟は、昭和20年でその役割を終えて久しく、緊急の弾薬の避難所でした。

 加古川刑務所は、もと「神野倉庫」とよばれ弾薬庫でした。

*「神野倉庫」については、前号「神野町をゆく(85)・神野倉庫」をご覧ください。

 終戦もまもない頃、本土空襲も激しくなりました。そのため、弾薬の一部をこれらの洞窟に分散させたのでです。

 戦後しばらくは、現在陸上競技場の東側辺りにも、同じ目的でつくられた洞窟が残っていました。

 私と同年配の方は、赤土に転々を連なった不思議な穴をはっきりと覚えておられることと思います。

 当時は、防空壕だと思っていました。

 ずいぶん前に、弾薬庫へ入った時の記憶です。たしか、梅雨の頃でした。

 今でも、日岡山近辺のどこかに残っていると思われます。探検してみましょうか。・・・・・

 

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神野町をゆく(85) 神野倉庫(1)◇ 

2022-05-05 10:18:54 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(85) 神野倉庫(1)

 写真は、加古川刑務所です。

 加古川刑務所は、神野ではありませんが、道路を超えると神野町です。

 戦前・戦中、ここは陸軍の弾薬庫であり、「神野倉庫」とよばれていました。「神野町をゆく」に加えて紹介します。

    ◇神野倉庫◇

 神野倉庫では、航空用爆弾に火薬をつめる作業を行っていました。

 「B52」の爆撃機の本土空襲が激しくなった頃、神野倉庫が空襲を受けると大惨事となることが予想されたので、新井用水沿いや日岡山公園周辺に横穴の壕を多数掘って、火薬・弾薬を置いていました。

  『水足誌』に、次のような記述があります。

 「・・・・大野山周辺、新井川の高い斜面に横穴を掘って火薬を隠したり、北浦の新田の畦や空き地に300キロ、500キロの爆弾が数個ゴロゴロと、ころがされてムシロで覆われており、兵隊が時々見回ってくる状態になった。

 もしこんな所へ敵機の爆弾が落ちようものなら、水足村など一瞬にケシとぶのではないかとヒヤヒヤしたものである。

 戦後どこへ運び去られたか知らないが、海へ投棄されたとも噂された。

 横穴に残った火薬が地下水で溶けて長い間、新井用水の水が黄色く染まって流れていたことは当時の人々の記憶に生々しいことである・・・」

 終戦後、跡地利用にはいろいろな案がでたが、1948年(昭和23)に刑務所が建設されました。

 *写真:加古川刑務

 

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神野町をゆく(84) 手末構居

2022-05-04 08:16:03 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(84) 手末構居

 復習です。

 鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があり、その外にも、比較的小規模な多くの城がありました。

 城について、『加古川市史(第二巻)』の説明をお借りします。

 「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、(はっきりした定義はなく)その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居とよび、構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域をでない・・・」

 これらの土豪たちは、戦国時代の三木合戦では、三木の別所につくか、それとも信長・秀吉に味方するかの決断をせまられました。

     手末村

 江戸時代、今の神野地区に手末村・二塚村・西之山村・石守村・福沢新村・福留村・横市新村・下西条村の8ヵ村があり、その内、明治9年に手末(てずえ)村と二塚村が合併して神野村になりました。

 戦国時代、手末村を支配したと思われる豪族の手末構居がありました。おそらく、手末城の主も三木合戦に参戦したのでしょう。詳細は分かりません。

 場所は、神野小学校から県道八幡・別府線をやや西条へ行ったところ(写真)です。

  

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神野町をゆく(83) 西之山墓地の仏たち

2022-05-03 09:33:55 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

   神野町をゆく(83) 西之山墓地の仏たち

 写真の石仏は、神野町西之山の古い墓地の石仏です。

 左に4体、右に2体の石仏が刻まれています。

 墓地の入り口にあるので、六地蔵のようにもみえます。

 西之山の人は、六地蔵としてまつっておられるようですが、六地蔵ではありません。

 左側の4体の内、3体は阿弥陀(坐像)であり、1体が地蔵(立像)でです。

 右側の2体(坐像)も阿弥陀像であり、地蔵像ではありません。

 南北朝時代の製作と考えられています。

 六地蔵は、人間は死後「生前のおこない」により、六つの世界に生まれかわるとされています。

 その六つの世界とは、地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゃら)・人間・天上で、そして、死者は、どの世界に生まれても「地蔵菩薩があらわれ、悔い改めた人には救いの手を差し伸べてくださる」といいます。

 西之山の墓地の仏たちに、地蔵さんは一体だけです。

 阿弥陀様も彼岸の仏ですから、まあ、いいでしょう・・・

 この仏が刻まれているのは、組み合わせ石棺の側石(竜山石)であり、これらの仏は石棺仏です。

 西之山は、古墳の多い地域の真っただ中にあります。近辺の古墳の石が利用されたのでしょう。

 

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神野町をゆく(82) 江戸の初めは大開拓時代

2022-05-02 09:16:38 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(82) 江戸の初めは大開拓時代

 関ヵ原の戦い(1600)を中心とし、その前後約6070年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代将軍家綱の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史をとおしてみても、他の時代に類例がないほど上木技術が大きく発達した時代でした。

 土木技術を大別すれば次の三分野に分けることができます。

 (1)鉱山開発技術、(2)築城技術、(3)用水土木技術。

 戦国時代の支配者は、武勇・武略と同時に、治水土木にも有能でなければ、戦国時代を勝ち抜けませんでした。

 戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、すぐれた治水土木家でした。

 やがて、関ヶ原の戦いを最後に戦国時代は終わり世の中は戦争のない平和な時代(江戸時代)になりました。

 (1)~(3)の技術は、平和な事業に利用されました。一番大きかったのは用水土木技術が耕地開発に利用されたことです。

 江戸時代の初期は、ものすごい勢いで荒れ地が耕地に変えられた時代となりました。日本の農村の原風景は、この時代に形づくられたといえます。

 江戸時代の初期は、まさに日本の大開拓の時代でした。

        福沢の開村は 延宝七年(1679)  

 福沢村もこの大開拓時代に開村をしています。

 福沢村の天満神社には、次のような開村顕彰碑があります。読んでおきましょう。

    延宝七年(1679) 加古新村才兵衛 石守村

    嘉兵衛 福里村(福沢村)吉左衛門相謀り

    福沢新村を開発す 開村三百年を記念し、茲(ここ)に顕彰す

             昭和五十三年十月吉日 福沢村中

 *写真:福沢天満神社

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神野町をゆく(81) 小林政太郎の頌徳碑

2022-05-01 07:12:18 | 加古川市歴史探訪・神野町編

  

    神野町をゆく(81) 小林政太郎の頌徳碑

 県道八幡・別府線で北へ向かうと曇川に架かる橋の手前のこんもりした石守集落の公園(ビオトープ公園)の入口に石碑(写真)があります。

 小林政太郎の頌徳碑です。

政太郎につては「神野町をゆく(14)・(15)」で紹介していますが、史料として、少しだけ付け加えておきます。

 小林政太郎は、石守産業組合の先駆者として、また神野村長活躍されました。そして、上記の場所に小林政太郎の銅像が建てられましたが、戦争の兵器資材に提供されて、その姿がなくなっていました。

 そのため基台の上に石碑が建てられました。

 頌徳日の題字は、郷土の書家・石見富雄によるもので、裏面の碑文は肥料王と言われた別府の多木粂次郎の作によるものです。



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神野町をゆく(80) 福沢村:傾斜地に広がる集落

2022-04-30 07:34:19 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     

   神野町をゆく(80) 福沢村:傾斜地に広がる集落

 ・・・(福沢は)神野村の南端にあり、大正年代まで戸数わずか30戸程度の小村で藁屋根が多く、各家は真竹の藪で囲まれ、冬は寒い風を防ぎ、夏は暑さを凌ぐ、いかにも素朴な農村でした。

 ・・・明治9年に地方区画制に伴い合併して石守村になりました。

 福沢は高燥地帯で、水利が悪く、昔から稲作はわずかで、ほとんど畑作にたよる貧村で特記するものがない・・・

 『福沢三百年誌』で著者・竹中佳次氏は、その序で以上のように述べておられます。

 福留の交差点から福沢を通り曇川に向かって歩くと、福沢は傾斜地に広がる地区であることがわかります。

 曇川の両側の地形は高くなっており、曇川は谷の底を流れています。

 曇川に沿った場所は、水田となりますが、あまり広くはありません。

 曇川から少しはなれた高い場所に村落・水田をつくりたいのですが、今度は水がありません。

 高いところには水は流れてくれません。そのため地形の高くなっている曇川の上流から水路を引く必要がありました。

 「用水」です。曇川には、幾筋もの用水がつくられました。

 「青之井用水」もその一つで、寛文4年(1664)中一色(現:稲美町)より引水して、石守地区の田畑を灌漑しています。

 青之井用水は、福沢の皿池へ流れ込み貯水されました。

 「青之井用水」につては「神野町をゆく(35)」をご覧ください。

 しかし、水はそれでも充分ではありません。福沢集落のお百姓さんたちは、水との闘の歴史でした。

なお、『福沢三百年誌』に明治30年の福沢村の絵図があります。福沢村の位置・福沢の34軒の家並から村のようすを想像ください。

  

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神野町をゆく(79) 笠塔婆

2022-04-29 10:05:18 | 加古川市歴史探訪・神野町編

   神野町をゆく(79) 笠塔婆

          じもとでは、ハッタイ地蔵と呼んでいます 

 兵庫県加古川医療センターをから見て、南を流れる曇り川に突き当たった所に小さな垣根に囲まれた一角があります。ここに、今日の話題の傘塔婆があります。

 さくら咲く季節以外、あまりここを訪れる人もないようです。

 石守の人に大切にされてきた笠塔婆です。が、詳しいことはわかりません。

 傘塔婆の横に加古川市文化財保護協会の説明がありますので読んでおきます。

    〈笠塔婆〉

 この笠塔婆は、凝灰岩製で、無銘のため造立年代はわからないが、おおそらく室町時代に造られたものと思われる。

 現在、宝珠を欠き、塔身と笠だけである。蓮座を石の表面より直接刻出し、舟型をを彫り込んで像を像を浮かせている。

 仏像は南 釈迦 西 阿弥陀 東 薬壷を持つ薬師如来かと思われる。

 塔身高 9.1センチ 仏高 18.5センチ。

 なお。この笠塔婆は石守の人たちからは、ハッタイ地蔵として信仰されている。

 

 この仏像は、前号で紹介した「たごり地蔵」の伝承と混線していますが、それだけ病が当時の重要ごとだったのでしょう。

 

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神野町をゆく(78) たごり地蔵

2022-04-28 07:02:00 | 加古川市歴史探訪・神野町編

          神野町をゆく(78) たごり地蔵

 県道八幡・別府線の石守のバス停から東へ200メートルばかり行くと、田んぼの中に小さな公園があります。

 そこに3体の石仏が並んでいます。

 入り口から一番奥(東)の石仏は「立石地蔵」(写真)ですが、地元では、もっぱら「たごり地蔵」と呼んでいます。

 南北朝時代の石仏です。

 それにしても、「たごり」とは、聞きなれない言葉です。

 「たごり」は、もともと動詞の「たごる」からきており、「咳をする」という意味です。てっきり、この地方の方言かと思っていたのですが、辞書には、次のようにあります。

  吐る(たぐる・・・①口から吐く。もどす。 ②咳をする。また、こみあげる。(『大辞林』小学館)                

 「たごり」は「たごる」が変化した言葉です。

 現在では医学が発達し、栄養状態もよくなりましたが、昔はちょっとした病が命にかかわりました。

 そうした中で、野の仏に願をかけると病気がなおると言う信仰が生まれたのでしょう。

 「たごり地蔵」のおかげで病が癒えると、はったい粉を持ってお礼参りをしたといいます。

 地元の郷土史家の石見完次氏は、「この地は、昔の望理里(まがりのさと・主に現在の八幡町・神野町)と北条郷(大野付近より南の地域)の境、つまり関にあたる場所にあり、関が咳に通じるところから、たごり地蔵と呼ばれるようになったのかもしれない」と想像されています。

 「たごり地蔵」は「立石地蔵」であり、今の場所より少し東の「立石」という田にあったようです。



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神野町をゆく(77) けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

2022-04-27 09:32:05 | 加古川市歴史探訪・神野町編

  神野町をゆく(77) けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

 芭蕉の没後、播磨地方には芭蕉を敬慕する数多くの俳諧師が、きらぼしのごとく輩出しました。

 松岡青蘿(まつおかせいら)もその一人で、蕪村などとともに「芭蕉中興の六人」に数えられています。

 青蘿は身持ち不慎のため、23才の時、姫路から追放されました。

 身持ち不慎の理由は、賭博とも言われています。

 その後、諸国を遍歴し、好きな俳諧の修業をつんで、明和四年(1767)播州にもどりましたが、姫路には入れてもらえませんでした。

 そのため、加古川(寺家町)の大庄屋・中谷家の庇護のもとに居を構えました。

 これが、栗本庵(幽松庵)です。

 明和五年(1768)、加古郡福沢新村(現:神野町石守)の善証寺の元へ参禅し、剃髪しました。

 *善証寺・・・寛永四年(1627)創設

 その日は、芭蕉忌でした。

 「青蘿(せいら)」は、その時、和尚から授けられた俳号です。

    けふよりは 頭巾の恩も 知る身かな

 これは、この時の句です。

 福沢の善証寺のそばに、この青蘿の句碑(写真)があります。

 句碑は、昭和578月建立されました。

 

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神野町をゆく(76) 庚申信仰(こうじんしんこう)

2022-04-26 10:22:32 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(76) 庚申信仰(こうじんしんこう)

 県道八幡・別府線の福沢の交差点の北東隅に、写真のようなユーモラスの三猿が 「青面金剛」の前にありました。

 「ありました」と書いたのは、200710月に来て「三匹のサル(見ざる・聞かざる・言わざる)」の写真を撮ったことを覚えています。先日、久しぶりでここへ行ってみました。

 サルの像はなく、ピカピカの御影石の「正面金剛像」の石碑に代わっていました。

 この時、次のような文を書いています。再掲しておきます。



 県道八幡・別府線の福沢の交差点の北東隅に三匹サルの像を見つけました。これは 旧福沢新村(現:神野町石守)で、庚申信仰がおこなわれていたことを物語っています。

 江戸時代、ずいぶん盛んであった庚申信仰も現在ではすっかり姿を消しました。

 庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことです。

 庚申の夜、(60日に一回)、人体に住むというサンシチユウと言う虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといいます。

 そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像をおがんだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。

 そのとき、多くの場合「青面金剛像」を拝みました。新しくは三猿も拝みました。

 いつしか、この行事は人々が集まって、酒を酌み交わすというレクレーションも兼ねた楽しい行事に代わっていきました。

 庚申の日に夫婦が交わって子どもができると、その子は盗賊になるともいい、石川五右衛門は、その例であるともいわれます

 

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神野町をゆく(75) 民話:はいどらの観音さん

2022-04-25 08:55:43 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(75) 民話:はいどらの観音さん 

 石守村に、こんな話がつたわっています。

 ・・・・母里村の野寺(稲美町)の観音さんを「はいどら観音」と呼んでいます。

 昔、奈良に都があった頃のことです。神野の石守に法雲寺にというお寺がありました。

 この寺は焼け落ち、本尊の観音像は、焼け残った堂に祀つられていました。お寺は荒れ放題。

 ある夜、二塚村の稲根神社の神があらわれ、「野寺へお移しするように」とのお告げがあっりました。

 村長(むらおさ)は、観音さんを「はいどら」に入れて野寺へ移すことにしました。

 ところが、少し行った畠の道で、観音さんを運んでいた男は、キリキリと腹がこわり、道端に座り込んでしまいました。

 村長は困りはて、「観音さん・・窮屈ですけど、どうぞ辛抱しておくんなはれ・・」と一心にお願いしました。

 すると、男たちはフッと立ち上がり、元気に観音さんを背負い歩き出しました。

 二人は、念仏を唱えなながら、一里あまりの野寺まで歩き続けました。

 休むごとに、「はいどら」の中を覗き込み、「観音さん・・すんまへん、もうすくだッせ・・」といって歩きました。無事に野寺へ着くことができました。



 野寺の観音堂では、鬼追いの行事がおこなわれていますが、その日は石守の村役が顔を出さないことには、鬼追いの儀式は始まらなかったと言います。

 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所)参照

 *写真:高薗寺の観音堂の本尊(十一面千手観世音菩薩立像)。「はいどらの観音」であると伝えられている。

 

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神野町をゆく(74) 福留日岡神社の謎・若狭の水が加古川の井戸から? 

2022-04-24 09:01:06 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 神野町西条の話が続きました。しばらく西条を離れて石守の散歩をしてみましょう。

 2017920日の神戸新聞に福留日岡神社の伝承の記事があります。「神野をゆく(10)・もう一つの日岡神社(1)」の続きとしてお読みください。

 

    神野町をゆく(74) 福留日岡神社の謎

     若狭の水が加古川の井戸から? 

 奈良・東大寺二月堂の「お水取り」に使うとされる福井・若狭地方の聖水が、兵庫県加古川の神社の井戸に湧く。福留日岡神社(加古川市神野町福留)の氏子の間に伝わる伝承を、県いなみ野学園(同市平岡町新在家)の大学院生3人が調べ、伝承が残る井戸の存在を広める活動を始めた。3人は「より多くの人に、歴史あるロマンを感じてほしい」と話す。(神戸新聞より)

 

 20159月、ラジオ関西(神戸市)が同学園と共同制作する番組「いなみ野シニアの元気ニュース」の取材で同神社を訪れ、井戸の存在を知った。

 宮総代の茨木貞夫さん(71)から「かつては、若狭の聖水として井戸水を本殿に供えていた」と聞いたが、既に井戸は埋められた後だった。高田さんは「残念に思ったけど、由来について調べようと使命感を持った」と振り返る。

 若狭と加古川の結び付きを求めて1511月、3人は福井県小浜市へ。毎年32日に聖水を東大寺に送る神事「お水送り」で知られる神宮寺を訪れた。そこで、古来から若狭と奈良は地下を通る水の道で結ばれているとされ、近くの川から注がれた聖水は二月堂の「若狭井」に湧くという言い伝えを取材。さらに住職からは、若狭と関係が深いとして、丹波市春日町の兵主(ひょうず)神社の存在を聞いた。

 3人は後日、同神社を訪れ、地域住民から、かつて付近の池で若狭の水流に生息していた魚が見つかったと聞いた。また、同市は加古川の源流にあたり、水は福留日岡神社近くの曇川まで流れていることも調べた。

 その後、調査の経緯や内容を、番組で3回にわたり紹介。「物理的にありえないけど、面白い」などとリスナーから反響が寄せられたという。

 昨年3月には氏子らが井戸を掘り起こすと、底から冷たい水が湧き出たという。「村の大切な宝として、後世に引き継ぎたい」と茨木さん。看板を立てるなど周辺を整備・保存する予定で、高田さんは「歴史的文化財として市内外にアピールしたい」と話した。 

 *写真:伝承のある井戸を調べた(後列左から)粟野勝介さん、安藤興一さん、(前列左端の)高田繁範さんと氏子ら

 

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