ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平荘町・上荘町をゆく(39) 報恩寺(1) 五箇荘・印南荘屏(平)

2024-04-25 09:45:47 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

    

     平荘町・上荘町をゆく(39) 報恩寺(1) 五箇荘・印南荘屏(平)

 律令制度の時代、公地公民制が採用されました。つまり、全ての土地と人々は、国家のものでした。
 やがて人口が増え、土地が不足するようになりました。
 それに、重い税に耐えかねた農民の逃亡が重なり、税がうまく集まらなくなりました。
 そのため、国家が率先して耕した土地の私有を認めたのです。
 これら私有化された土地が「荘園」です。
 奈良時代・平安時代、加古川地方の荘園については史料が少ないためいため詳しいことは分かりません。
 やがて平氏の天下となり、東播一円は、ほとんど平氏の支配するところとなり、仁安二年(1167)、清盛は印南野に大功田(国家に特別の功績があった人に、永世にわたり子孫にあたえられる土地)である五箇荘(ごかのしょう)が与えられました。
 やがて、平家は滅び五箇荘の地は、平氏に代わり源氏の支配するところとなります。
 源氏の支配も長くは続きませんでした。
 時代は混乱し、後醍醐天皇の支配する時代を経て、南北朝時代となります。
 後醍醐天皇の時代から加古川地方は、後醍醐の勢力をバックに、赤松氏が支配するようになりましたが、東播磨の赤松氏の具体的な支配のようすははっきりしません。
 そして、戦国時代に突入し播磨地方の中世は終わりを告げ、荘園は歴史から消えました。

  ◇印南荘・屏(平)
 五箇荘は、清盛の得た大功田を中心にその付近の五つの荘園を取りこんで五箇荘と名づけたと思われます。
五箇荘の範囲は、はっきりとしませんが大きな荘園であったようです。 
 その五つの荘園に賀古荘・今福荘・大国荘・魚住荘そして、印南荘が含まれていたのは確実です。
 五箇荘の内、印南荘に注目します。屏(平荘)は、印南荘に含まれていた一地域です。
 現代の平荘地域とほぼ重なります。
 中世・屏(平)を含んだ印南荘を管理する役割を持ったのが報恩寺でした。
報恩寺を訪ねましょう。
*写真:報恩寺(平荘町山角)

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