平荘町・上荘町をゆく(32) 薬栗(1) 薬栗村と年貢
薬栗(上荘町薬栗)の岡田家に残る『明細帳』(元文二年・1737)のはじめの部分を読んでおきます。
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薬栗は、何時のころ村が始まったのかは分かりません。
薬栗は、もと今の集落より二丁ばかり南南西にあったのですが、姫路城主・榊原忠次の時に今の場所へ移っています。承応年間(1652・9~55・4)のことでした。
薬栗に古屋敷・町屋敷という小字(こあざ)があります。古屋敷は、元の薬栗村があったところで、町屋敷が今の薬栗の発祥の地です。
元の古屋敷は、加古川本流の洪水で削り取られたのでしょう。
また、小字「寺の元」は、もと長慶寺があった場所で、長慶寺も洪水のために今の場所に移動したと考えられます。
薬栗の免(年貢率)
「明細帳」から薬栗の年貢率をみておきます。
「高 弐百四拾六石一合 免四つ取」
免とは税率のことで、江戸時代の年貢は個人にたいてではなく、村に一括して課されました。
それを庄屋が中心になり、村人に年貢を割り振るのです。
この時、村人と庄屋との間で、もめ事がしばしば発生しました。
薬栗村の収穫は、146石8升1合で、その4割が年貢でした。
税は年貢だけではないが、この税率(4割)は、加古川地域の他の村々と比べて少ない方です。
当時の税は、生産の高い村々から多く、少ないところの税率は低くなっていました。
つまり、生産の少ない地域から多くの税を取れないのです。
免(税率)が低いのは、薬栗村だけではなく、上荘地域の村々に共通しています。
江戸時代、上荘地区の人々の生活は豊かとはいえなかったようです。
先人は、日照を恐れた。そして、しばしば洪水に備えなければならかったようです。
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