ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平荘町・上荘町をゆく(30) 見土呂(4) 大地主・大西甚一平

2024-04-15 09:41:04 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

      平荘町・上荘町をゆく(30) 見土呂(4) 大地主・大西甚一平


 加古川地方は、綿作の中心地であり、江戸時代の終わりのころ綿作は大いにさかんでした。
 しかし、明治時代に入りしばらくすると質のよい、安価な輸入綿におされ綿作は急速に衰えました。
 また、明治14年からはじまった松方内閣のデフレ政策により農産物は一気に下落し、土地を手放す農民があいつぎました。
 一方で、これらの土地を集積して、この地方では、多くの大地主が誕生しました。
 加古川地方は特に小作率(土地のうち小作地のしめる割合)が高く、明治36年の調べですが、小作率は加古郡が69.7%、印南郡が55.9%でした。
 この数字は、県平均の52.1%と比べて随分高かい数字です。
 今市村(高砂市)の伊藤長次郎は、県内最大の地主で、明治26年(1893)に播磨11郡で田畑456町、宅地6町、山林48町を所有していました。
 前号で紹介した「みとろ苑」は、見土呂村の大西甚一平の旧家です。
 明治25年(1892)、播磨7郡で田畑202町、宅地4町、山林50町を所有し、県内でも五指に入る大地主でした。

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平荘町・上荘町をゆく(29) 見土呂(3) みとろ苑(旧大西家)

2024-04-14 06:02:52 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

     平荘町・上荘町をゆく(29) 見土呂(3) みとろ苑(旧大西家)


  2009・3・21日の神戸新聞は、「名勝・庭園に続く朗報」・「国登録有形文化財に」のタイトルで「みとろ苑・旧大西家」を大きく報じました。
 上荘町の歴史を語るとき、旧大西家(写真)をぬかすことはできません。
 神戸新聞の記事から一部転載させていただきます。

     みとろ苑・国登録有形文化財に

 江戸時代後期から明治初期にかけて綿花栽培で財産を築いた地主・大西家の別宅として、1918(大正7)年に完成した。
 当時、凶作に見舞われた農民に仕事を与えるため建設されたという。
 1938(昭和13)年に財団法人農村文化協会に寄付され19651(昭和40)年ごろから料亭として活用されている。
 宴会場などに使われる大広間棟は、南北が庭園に面し開放的な造り。
 広間は畳敷きの縁側が囲み、欄間には凝った意匠が施されている。
 渡り廊下は、窓枠の四隅を丸く削った「隅切り」の窓があり、細やかな職人技を感じさせる。
 浴室天井は、放射状のヒノキ材を並べて中央に換気口を設け、独特の造形美を見せる。
 ・・・・・ (神戸新聞より)
 *写真:みとろ苑(旧大西家・大広間)、インターネットより

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平荘町・上荘町をゆく(28) みとろ(2) 見土呂の語源は深泥(みどろ)か?

2024-04-13 09:20:56 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(28) みとろ(1) 見土呂の語源は深泥(みどろ)か?

 「国民宿舎・みとろ荘」近辺の地図をご覧ください。
 「みとろ荘」のところで地形は東西に伸びる段丘をつくっています。
 川沿いに加古川養護学校があります。
 もう少し説明しておきます。
 上荘橋の北詰に広がる集落が上荘町見土呂で、見土呂の集落と「国民宿舎・みとろ荘」と加古川の土手に囲まれたあたりに(写真)低地が広がっています。
 きょうの話題は、この低地の話です。

     見土呂の語源は「深泥(みどろ)」か?

 地名研究家・石見完次氏は「見土呂・ミトロ」の地名について『古地名新解-加古川おもしろ誌-神文書院)で、次のように説明されています。

 「・・・今の集落の下に入り組んだ低地がある。
 昔は、加古川の本流が渕をなしていたとみえる。
 ミドロとは、そういう地形で深泥(ミドロ)といわれる湿地帯と言う意味である。
 “みとろ荘”・“みとろ苑”と清音で呼ぶの語源なら、河水の静かに滞った所という意味である。・・・」
 以下は蛇足です。
 湿地帯とは、汚れた役に立たない場所ではありません。古代人にとって、ミドロこそ農業生産の絶好の土地でした。


*ミトロ(写真の中央辺りの小高い所にある建物・みとろ荘、右の建物・養護学校)

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平荘町・上荘町をゆく(27) みとろ(1) 見土呂姫の伝承

2024-04-12 07:48:24 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

           平荘町・上荘町をゆく(27) みとろ(1) 見土呂姫の伝承

 上荘町見土呂(みとろ)山条のお堂の横に立派な石棺仏(写真)があり、この三体の石仏には、次のような話があります。
 お堂にその説明があるので読んでおきます。
 (注:一部書き変えている)

         「見土呂(みとろ)姫」の伝承

 赤松円心の砦として室町時代の初めに井ノ口城がつくられました。
 その後、井ノ口城は、赤松満祐(みつすけ)の支配下におかれました。
 当時、城主は井口家治(いえはる)でした。
 家治の娘は、心やさしい美しい見土呂姫でした。
 井口家に出入りしていた若者は、姫のあまりの美しさに心を奪われました。
 ある年の「月見の祝」の時でした。
 若者は、やっと姫に近づくことができ、思いを告白したのですが断られてしまいました。
 絶望のあまり若者は、姫を殺してして、裏山に埋めてしまったのです。
 しばらくして、そのことを知った村人は姫の死を悼み、この石仏を立てたといいます。
 実話とおもえませんが、こんな見土呂姫の悲話を伝えています。
 井ノ口城は現在の「みとろ荘」のある場所でした。
 南北朝時代、この地域は赤松氏の支配する地でした。
 

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平荘町・上荘町をゆく(26) 井ノ口(3) 井ノ口城滅亡

2024-04-11 08:13:48 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

    平荘町・上荘町をゆく(26) 井ノ口(3) 井ノ口城滅亡

 戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利方に味方した三木・別所方につき、信長・秀吉方と戦いました。
 当時、小規模ながら井ノ口に「井ノ口城」がありました。
 場所は、「国民宿舎・みとろ荘」(写真)の場所です。
 三木合戦では、井ノ口城は三木・別所方に味方しました。
 「みとろ荘」の入り口の左の植え込みに、井ノ口城跡の説明があるの読んでおきます。(一部省略)

             井ノ口城

 城の規模は『播磨鑑』には、本丸26間、二の丸は27間と書かれています。
 『播磨諸城交替連綿之記』によれば、志方城主である志方家則の二男孫次郎家金が城主と伝えられ、この孫次郎がが井口氏の始祖となり、子息二人と共に居住していました。
 その後、三木の合戦の時には別所方についた、依藤三河守の居城となっていました。・・・・

 説明は、以上のようです。
 三木合戦の時の井ノ口城主は依藤(よりふじ)氏であるといいいます。
 井ノ口城のあった場所は、三木方、信長方双方にとって重要な拠点です。
 加古川と湯之山街道の交わる場所です。三木城の西方からの兵が、そして物がここを通して動くのです。
 依藤氏がこの場所をおさえました。詳しいことは分かりませんが、依藤氏というのですから、東条地方に勢力を持ち、別所氏を支えた有力武将の一族につながる者でしょう。
 天正八年(1580)正月、三木・別所方は落城しました。
 井ノ口城も、この時運命をともにしました。

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平荘町・上荘町をゆく(25) カンス塚古墳の金のイヤリング

2024-04-10 07:25:56 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

        平荘町・上荘町をゆく(25) カンス塚古墳の金のイヤリング


 話題を平荘湖にもどります。


 平荘湖古墳群のほとんどの古墳は7世紀のものです。その中にあって、カンス塚古墳は5世紀後半にさかのぼる古いものです。 
 カンス塚古墳は、平荘湖の建設に伴い湖底に沈んだ全長30メートルの古墳です。 
 一部盗掘されていましたが、玉類などの装身具・刀剣・鉾・やじり・鎌・斧・砥石・須恵器、それに鉄鉗(かなはし)・槌などの鍛治具など多くの種類の出土品がありました。 なかでも一対の金のイヤリング(写真)は注目を集めました。 
 県下でも、加古川市の他に2例(姫路市と龍野市の古墳)があるだけで、全国でも、50ほどの出土例しか知られていません。 
      朝鮮半島から
金のイヤーリングは、朝鮮半島からもたらされたものです。この古墳の主と、その交易関係に興味がわいてきます。 
 それにしても、カンス塚の「カンス」とはどんな意味でしょう。前々から気になっていました。 
 この古墳から出土した鉄鉗(かなはし)に注目してください。この鉄鉗の形がカンス塚古墳の形(帆立貝式古墳:前方後円墳の前方部が短いもの)に似ており、つまり、カンスはカナハシが変化した単語であるというのです。 
 また、「カンスは鉄・銅で作った湯沸かし器や茶の湯で用いる茶釜をいう」と辞書にあります。ホタテの形に似ていなくもありません。 
 定説はありません。不思議な名前のままでよいのでは・・・
 *写真:カンス塚古墳出土の金のイヤリング 

 

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平荘町・上荘町をゆく(24) 井ノ口(2) 井ノ口の賑わい

2024-04-09 06:30:59 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

  

    平荘町・上荘町をゆく(24) 井ノ口(2) 井ノ口の賑わい

 日光山常楽寺は、井ノ口(上荘町井ノ口)にある真言宗のお寺で、薬師如来を本尊としています。
 寺伝では大化年間の創建とするが、平安時代後期の寺院と想像されます。
 まもなく、ツツジに埋まる寺院です。
 少し離れて下の方に加古川がゆったりと流れています。
 常楽寺の建つ場所は、約35㍍で、加古川の流れはこの辺りでは15㍍ですから、約20メートルばかり川から高いところに常楽寺はあります。
 そのため、この場所は洪水の影響は受けていません。
 井ノ口の集落は、全体的に山が川に落ちこむ坂の上の集落です。
 洪水の心配はないのですが、農業のための水がありません。川から水を引けないのです。水は高いところへ流れてくれません。
 そのため、農業はため池や湧き水にたよることになります。
 井ノ口は、農業にたよるだけでは、生活が成り立たない地域であったのでしょう。
 地図を見ながら想像しています。
 だとすると、生活の糧は何でしょうか。
 井ノ口は、加古川と湯山街道が交わる位置にあります。
 そのため、農業に商業を加味した生活が考えられます。井ノ口は純農村のたたずまいですが、古くは商業が重要な役割をはたしていたと考えられます。
 井ノ口村には、商業的な賑わいがありました。
 そんな経済力が常楽寺を支えたのでしょう。
 鄙の村では、堂々とした寺を維持することはできません。


 *写真:九重の層塔(鎌倉時代)、この外にも常楽寺には多くの石造物があります。

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平荘町・上荘町をゆく(23) 井ノ口(1) 伝承・井ノ口の清水

2024-04-08 07:31:17 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

    平荘町・上荘町をゆく(23) 井ノ口(1) 伝承・井ノ口の清水

 川東の国包で足踏みをしました。川西の上荘町の歴史探索に出かけましょう。

 集落の名前にもなったといわれるの井ノ口(上荘町井ノ口)伝承です。
 むかし、むかし都が奈良に定められた頃のお話です。
 天皇は、役人の衣についていろいろ試されていましたが、染色に困っておられました。
 それは、藍色が思い通りに染まらないのです。そんな時でした。
 「播磨の国、印南(いんなみ)に大変よい水が出る場所がある・・・」という、神様のお告げを聞かれました。
 さっそく、天皇の命をうけた者が、その場所にやってきました。
 すると、山の麓に清水がコンコンと湧き出していました。
 その水を都へ持ち帰り、衣を染めると、なんと鮮やかに染めあがりました。
 天皇は、たいそうお喜びになり、次のような歌をお詠になりました。


     あいにあう 井ノ口の清水 なかりせば
         都の衣 いかに染めなん


 この井ノ口の伝承は、都に通じる「湯乃山街道」が上荘を通り、都からの物や情報がさかんに行きかったことから生まれた伝承だと思われます。
 井ノ口にはあちらこちらに地下水が湧き出す場所があります。
 近くには、湧き水(タンサン水)を利用した保養施設・国民宿舎(みとろ荘)があります。


 *『郷土の話とうた(第3集)』(加古川市教育委員会)参照

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平荘町・上荘町をゆく(22) 加古川市内で初となる小中一貫の義務教育学校「両荘みらい学園」の開校

2024-04-07 09:32:07 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(22) 加古川市内で初となる小中一貫の義務教育学校「両荘みらい学園」の開校


 〈神戸新聞より〉


 加古川市内で初となる小中一貫の義務教育学校「両荘みらい学園」の開校記念式典が8日、同学園で開かれる。1日付で開校、8日は春休みを終えた児童生徒が初めて登校する日となる。新たな学びやが船出の時を迎える。(宮崎真彦)

 加古川市教育委員会は2020年、両荘地区の子どもの大幅な減少が予想されることから、同地区の上荘小、平荘小、両荘中を統合し、9年制の義務教育学校を設置することを決めた。統合で規模を確保し、教育環境の充実を図ることが期待されている。両荘中の敷地に増改築して整備。また同中に隣接し、老朽化が進んでいた両荘公民館も同学園敷地内に移設新築するとした。

 22年1月に公募で校名を「両荘みらい学園」に決定。高砂市出身の音楽デュオ「花*花」が校歌の作詞・作曲を担当した。校章は加古川市上荘町小野のイラストレーター前川裕美さんのデザイン案が採用された。

 教室棟や体育館が改修されたほか、2階建ての学校図書館を新設。中庭側が全面ガラス張りで、明るく開放的な空間を確保する。中庭の地面はゴムチップ製で、部活動でも利用しやすい仕様に。ビオトープの周辺にはベンチが設置され、待ち合わせやだんらんの場所として活用できる。

 同学園は、義務教育9年間の教育課程を弾力的に運営できる前期4年、中期3年、後期2年の「4・3・2制」を採用する。

 また、地域の自然や伝統文化、自身の将来などついて学ぶ「ふるさとみらい科」を新設するほか、1年生から英語科を導入し、一貫した英語教育を推進する。5~9年生時に海外協力校とのオンライン交流を行うなど、英語でのコミュニケーション能力向上を図るという。同市担当者は「地域に根ざした学びの場を設けつつ、グローバルな視野を持った人材育成を目指す」と話す。

 8日の式典は午後2時から同学園の体育館であり、花*花や校歌の編曲を担当した陸上自衛隊中央音楽隊の柴田昌宜副隊長も出席する予定。児童生徒が練習を重ねてきた校歌を初披露する。


 *写真:ガラス張りが特徴的な新設された図書館

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平荘町・上荘町をゆく(21) 国包(8) 建具職人の町

2024-04-06 07:08:28 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   

       平荘町・上荘町をゆく(21) 国包(8) 建具職人の町
 加古川は、かつて物資運搬の重要な水路であり、江戸時代には高瀬舟が酒米を運び、イカダに組んだ木材が上流から川を下りました。
 国包(加古川市上荘町)は、それらの物資の集積地であり、宿場町でした。
 そのような素地のなかで木材加工の建具産業が生まれ、発展しました。
 きょうのブログは、加古川商工会議所発行の「商工加古川 1989年6月号・特集地場産業”建具”:伝統と現在」より無断で引用させていただきました。文体・内容は少し変えています。
      建具の発祥
 国包建具の発祥は、文政年間(1825年頃)といわれています。
 かつて加古川は、いかだを組んだ木材が丹波や杉原地方から流れを下り、秋には、高瀬舟が酒米を運んでいました。
 そして国包は、それら物資の集散地、宿場町として栄えました。
 国包は、集められた木材を切る「木挽(こび)き職人」が生まれ、いつのころからか、それら木挽き職人が唐箕(とうみ)という、穀物からもみやちりを吹き分ける道具を作るようになり、さらに発展して建具を作る職人達が生まれてきたのだといいます。
      職人の町
 豊富な材料に恵まれていたとはいえ国包建具を支えてきたのは「職人」達でした。
 そんな中にあって、今も語り継がれている伝説的な名職人がひとりいました。
  ◇建具ショック人・「磯島」
 大正の初め頃、数年間だけ国包に滞在していた「磯島」という人物です。今となっては年齢、出身地、名前すら満足にはわからないこの人物です。
 「名人」と呼ばれるその技術は見事であり、国包建具にはかり知れない影響を与えたとさえ言われています。
 仕事の技術は素晴しくて、遊び好き。しかし、いかなる時も差し金(曲がり尺)だけは肌身離さなかったというこの職人は、ある建具店の客間にその絶品を残しています。
 国包の建具産業が、技術を競い、しのぎを削り合った「職人気質」によって支えられてきた事を、伺い知ることが出来ます。
     産地の岐路
 ところが昭和40年代後半から50年にかけて、この国包建具産業にも大きな岐路にたちました。
 オイルショック後の新築住宅数のジリ貧状況の加え、プレハブ住宅の進出、アルミサッシの普及などで建具仕事の分野が減少してきたのです。
 「このままでは取り残される」という焦りが濃くなりだした産地で一つの動きがありました。
 昭和47年5月、岐阜県で開かれた建具日本一を競う木製建具展示会に6人の業者が出品したのである。国包の業者が全国展示会にこれだけ大挙出品したのは例の無いことでした。
 「何かしなければ」と出品した6人の作品は労働大臣賞をはじめ栄誉をごっそり手中にし、国包の職人たちに”誇り”を復活させました。


 *写真:ゴマ柄亀甲と変わり裏花亀甲の組み合わせ(高橋建具製作所提供)

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平荘町・上荘町をゆく(20) 国包(7) 上荘小学校校・国包分教場

2024-04-05 08:03:20 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

        平荘町・上荘町をゆく(20) 国包(7) 上荘小学校校・国包分教場

   明治22年4月1日の町村合併でも、国包地区は印南郡上荘村のままで残り、今日まで川東ですが上荘地区国包として継続しました。
 八幡村と加古川市との合併が持ち上がりました。しかし、八幡村が加古川市と合併するとなると国包は川東と川西の上荘村とに分かれる分村問題に発展しかねません。
 昭和30年1月25日に、加古川市の議長・合併委員長・助役が山手三ヶ村(上荘村・平荘村・八幡村)を訪問し、正式に合併を申し入れました。
 いろいろと課題はありましたが、その後、合併の話はトントン拍子に進み、3月12日に加古川市と山手三ヵ村との合併を決議しました。
 昭和30年4月1日、加古川市上荘町、平荘町、八幡町は加古川市として新しいスタートをきったのです。

     二年生までは国包の分教場で

 ここで問題が残りました。国包地区の通学の問題です。
  国包地区の児童は、近くに八幡小学校があるのに川を渡って、二キロメートルの道を歩いて上荘小学校へ通うことになりました。
  二年生までは国包に分教場があり、三年生から本校へかようことになりました。
  昭和30年4月、山手三ヵ村(上荘村・平荘村・八幡村)が加古川市に合併したため、小学生の通学区の問題が話し合われ、町内会長らの粘り強い交渉が実を結び、昭和37年(1962)4月の新一年生から国包地区の児童は八幡小学校へ通学できるようになりました。
 この分教場は、いま国包公会堂となっています。
 分教場には大きな欅の樹(写真)がありました。
 中学校は、戦後六・三制の実施に伴い、昭和23年に上荘中学・平荘中学が合併して組合立両荘中学校が設立されましたが、国包地区の中学生は、八幡・神野・加古三ヵ村の組合立山手中学校へ通学するようになりました。
 大英断でした。  

  *写真:分教場にあった欅と現在の公会堂

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平荘町・上荘町をゆく(19) 上荘地区の村々

2024-04-04 09:03:13 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

        平荘町上荘町(19) 上荘地区の村々


 かつて、上荘地区は湯乃山街道にそった集落であり、国包にいたては加古川と交わり、一大ターミナルとして賑わったところでした。
 江戸時代、図のように上荘地区には国包・井ノ口・白沢・見土呂・都染・薬栗そして小野の各村々がありました。
 これら七ヵ村は、明治22年4月1日、新しい町村制により合併して印南郡上荘村となり、役場を見土呂村に置きました。

 加古川市は新しい住民が増え、そして上荘地区は加古川の北部に位置しており町の名前を言われても、すぐに浮かんでこない方が多いと思われますので、少し休憩をして、上荘町の各町の場所を紹介しておきましょう。
 昭和30年4月1日、加古川市と合併して加古川市上荘町となりました。
 村名はこの地区が奈良の西大寺の荘園であった「印南荘」の上部(北部)に当たるため、平之荘(平荘)に対して上之荘(上荘)と呼ばれるようになりました。
 「上荘」の読み方ですが、現在『日本行政区画便覧』により「かみそう」と読ませています。
 *中世の荘園である「印南荘」については、後日、紹介します、 
 *図:『兵庫県市町村合併史』(兵庫県)参照

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平荘町・上荘町をゆく(18) 国包(6) 国包は、湯乃山街道と加古川の交わるターミナル

2024-04-03 08:24:04 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

    平荘町・上荘町をゆく(18) 

       国包(6) 国包は、湯乃山街道と加古川の交わるターミナル

 
 国包は、京都から伊丹へ、そして有馬・三木そして加古川市志方・姫路を通る街道「湯之山街道」と加古川の水運が交わる場所でした。
 高砂の港に運ばれた物資の記録があります。途中の国包でも同じような取引が行われていたと想像されます。掲載しておきましょう。
 その主ものは次のようです。


 ◇下り荷物(高砂へ運ばれたもの)
  木工品・・・・・木材・タンス・下駄・桶・樽など
  生活用品・・・薪・炭・紙・綿など
  食料品・・・・・米・芋・茶・梨など
 ◇上り荷物(高砂港から上流地方へ)


  農具・・・水車・唐箕(とうみ)など
  肥料・・・干鰯(ほしか)・油粕など
  海産物
  嗜好品・・・・・菓子・煙草・酒など
  食料品・・・・・塩・砂糖・そんめんなど
  衣料品・・・・・呉服など
  生活用品・・・鍋釜・火打石・畳表・ろうそく・石炭・仏壇など
  
 国包を通る街道が加古川に突き当たるところに渡し場が設けられていました。
 今、渡し場のあった場所の跡は全くありませんが、渡し場のあった場所に、写真のようなプレートが設置されています。

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平荘町・上荘町をゆく(17) 国包(5) 築山(つきやま)

2024-04-02 08:36:17 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   

     平荘町・上荘町をゆく(17) 国包(5) 築山(つきやま)


 嘉禄元年(1225)、大洪水が国包を襲いました。
 「この地は、加古川が大きく蛇行し、特に洪水が多かった地域です。
 国包には、写真のような人工の築山(つきやま)があります。
 洪水時の避難場所です。
 宝暦六年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人が、洪水で被害に困る住民のために私財を投げ打って築いたものだと伝えられています。
 当時は、水害のため飢饉の状態でした。この工事により、多くの貧しい人々が仕事を得て救われたとも伝えられています。
 後年、この築山に土地の人々が感謝の気持ちと安全への祈りをこめ築山神社を築きました。
 なお、この築山には近くから見ると一本のように見える大樹があります。
 樹齢は、250年ほどで、築山を造ったときに植えられたともいわれ、樹木では、唯一の加古川市指定の文化財(平成2年に市指定文化財の指定)です。
 ところが、平成24年4月3日の強風で北側の榎とまん中の椋が、地面から高さ約1,5メートルのところで折れるという被害があり、残った南側の榎の被害状況も心配されていました。
 その後、地元の保存対策のおかげで、残った榎の樹勢もある程度回復しました。そのため、指定名称と数量の内容を変更して、引き続き市指定文化財として保護されています。


 *写真:被害前の築山とエノキ・ムクノキ

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平荘町・上荘町をゆく(16) 国包(4) 湯乃山街道

2024-04-01 08:42:21 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

    平荘町・上荘町をゆく(16) 国包(4) 湯乃山街道


 聖武天皇の時代、一時衰えていた温泉を行基が復興して以来、有馬温泉は有名になり、都からはるばる貴族たちも入湯に来るようになりました。
 湯乃山街道は、湯治客ばかりでなく一般の旅人も盛んに利用した道でした。
 南北朝の時代には、播磨と西摂津を制圧した赤松氏がこの道を重要視し、有馬、生瀬(なまぜ)などに役所を設けて京都への軍用路として整備します。
 さらに、天正八年(1580)に別所氏の三木城攻めに成功した豊臣秀吉が有馬温泉を愛し、淡河(おうご)や生瀬に宿場を設けて有馬への道を整備するにおよんで、有馬温泉はますます栄え、それとともに往来する湯治客や旅人も多くなって、やがて湯乃山(ゆのやま)街道と呼ぶようになりました。
      有馬千軒
 その間、有馬温泉は、承徳元年(1097)の山津波で潰れたり、文禄五年(1596)の大地震で壊滅したりしますが、そのつど復活し、文化・文政期(1804~29)には「有馬千軒」といわれるほどに繁盛するようになりました。
 承徳元年の山津波で潰れ、百年余りもさびれていた有馬温泉を復興させたのは仁西(にんさい)でした。
 現在でも有馬温泉に「~坊」と名のつく旅館が多いのは、仁西が薬師如来を守る十二神将になぞらえて十二の坊社を建てたのが始まりだと伝えられています。
      上荘・平荘は湯の湯乃山街道沿いの集落
 湯乃山街道は、京都から有馬・三木そして加古川へ、そこで加古川を渡り、西井ノ口・都染(つそめ)・薬栗(くすくり)・山角(やまかど)の各村を、それから志方町・姫路へと湯乃山街道は通じます。
 上荘・平荘の村々は、基本的に湯乃山街道沿いに発達集落で、湯乃山街道を人々は行き交かい、物資や情報が動きました。
 この街道沿いに、三木城・志方城、そして名刹・報恩寺(現:平荘町)があるのも頷けます。
      兵(つわもの)の道
 信長・秀吉の時代、東播磨の各地の城主の多くは、三木・別所氏の支配下でした。
 三木合戦では、街道沿いの村々は、兵(つわもの)の喧騒で満ちました。
 古代から上荘・平荘の村々は、鄙の村ではなかったのです。


 *写真:加古川川東の土手の手前の湯乃山街道。電柱の上荘町の文字に注目ください。国包は上荘町です。八幡町ではありません。
 

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