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東神吉町をゆく(56) 西井ノ口と申義(7) 申義堂は東神吉村西井ノ口へ
明治4年、廃藩置県に伴い、申義堂は廃校になりました。
その後、申義堂は姫路光源寺の説教所としての役割を担いました。
しかし、その場所に明治12年、高砂警察署の建設されることになり、立ちのかねばならないことになりました。
申義堂(説教所)・西井ノ口へ移築
岸本家と長谷川家の関係を少し整理しておきます。
・岸本家の出身地は、大国村(現:西神吉町大国)で、長谷川家は(西)井ノ口村出身でともに近くです。
・大国村の岸本家も井の口村の長谷川家も綿屋でした。
・高砂における岸本家と長谷川家は近所に位置しています。
・両家は江戸時代、高砂町の町役として活躍をしています。
・『長谷川亀次郎を偲ぶ』によれば、亀次郎の妻・うのは、岸本家から嫁いでいます。
とにかく、長谷川家と岸本家は深い関係にありました。
このことを踏まえて、少し、想像みました。従って以下は記録による話ではありません。皆さんはどう思われますか。
ある日の会話
「(長谷川)亀次郎さん、相談に乗ってもらえませんか」
「岸本さんのことでっさかい、出来ることでしたらなんなりと・・・」
「実は、説教所(申義堂)のことやけど、あの場所に新しい(高砂)警察署がつくられるので、立ちのかなあかんのや。どうしたものやろか・・・
説教所を閉めるのはおしいし・・・
近所で新しい場所というても、この頃は何かと物入りでね。
(こんな話が幾日も続きました。ある日のことでした)
「岸本さん、例の件ですが私(亀次郎)に任せてもらえませんか。私もずいぶん考えました。
出しょうの井ノ口村に移してもらえまへんやろか。費用の方は私の方でなんとかします。
「そこ(井ノ口村)で、説教所をつくりたいんです」「井ノ口村では弟の新蔵は、村役をしております。そして、新宅をしました庄蔵は手広く綿問屋を営んでおりました。多少の蓄えはあります。
私も、高砂の町で、いささか蓄えさせてもらいました。
話はトントン調子に進み、高砂町申義堂は、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロ村によみがえったのです。
こうして、申義堂は、昭和7・8年ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年4月でした。
*写真:長谷川亀次郎