ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

東神吉町をゆく(63) 砂部(3) 『砂部あれこれ(喜多正人著)』

2024-01-31 08:29:09 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

       東神吉町をゆく(63) 砂部(3) 『砂部あれこれ(喜多正人著)』

 ブログ等で加古川の歴史散歩をしています。たくさんの話題を取り上げてきました。

 20年ほど前のことです。そんな私の遊びを神戸新聞のI記者が大きく取り上げてくれました。それ以後、読者の数が増えてきました。

 その時、「私の肩書をどうしますか」と聞かれたので、「退職者とでも書いておいてください」とお願いすると、I記者は「地域史家」にしておきましょう」ということになり、以来この肩書が独り歩きしています。古文書の読めない地域史家です。

 いま、ブログを続けていると5,000回をはるかに超えましたが、私が新しく発掘した話題はほとんどありません。史料のほとんどは『加古川市史・町史・郡史からお借りしています。

        『砂部あれこれ』(喜多正人著)

 でも、散歩をしながら多くの人とお話しをします。資料を紹介してくださいます。

 以前に砂部の喜多正人さんから『砂部あれこれ(喜多正人著)』をいただきました。

 『加古川市史』等では紹介されていない、キラキラした史実がいっぱい詰まってる貴重な本です。

 しばらく、喜多さんから頂いた本から砂部村の歴史の一部を紹介しましょう。

 *写真:『砂部あれこれ(喜多正人著)』

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東神吉町をゆく(62) 砂部(2) 金沢九郎兵衛(2) 蛇塚の話

2024-01-30 09:45:47 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(62) 砂部(2) 金沢九郎兵衛(2) 蛇塚の話

  余話を付け加えておきましょう。

 金沢新田は、完成しました。

 その後、村人は「九郎兵衛と蛇塚」の話を語り伝えています。

  ・・・・ 

 金沢新田の開発中のことです。

 新田に大蛇を葬ったという大きな塚がありました。

 村人は、これを「蛇塚」と呼んでいました。

 「もし、牛がこの塚の草をたべると発熱するし、人がその塚の草を踏んだだけで熱病する」と恐れられていました。

 金沢新田の開発は進み、蛇塚を掘り起こし、水路を造らなければならなくなりました。

 ところが「大蛇のたたり」を恐れて、誰も塚を掘ろうという者がいません。

 九郎兵衛は、家人に「新田開発も後は蛇塚を残すだけとなった。塚を掘ると大蛇のたたりで死ぬかもしれない。それで、他の者に任せてはかわいそうである・・・」と、九郎兵衛は自ら塚に鍬を入れたのです。

 幸い、何事もおこりませんでした。

 塚のあとから、蛇の骨のような物が二個出てきました。

 一つを自宅(加古川市東神吉町砂部)に持ち帰った。他の一つは、観音寺(加古川市尾上町池田)に奉納しました。

 ある夜のことでした。九郎兵衛の夢枕に大蛇があらわれ、「私の祠を建てて祭ってくれたら金沢家を守護するであろう」と、いって姿を消したのでした。

 金沢家では祠を建ててお祀りをしました。



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東神吉町をゆく(62) 砂部(1) 金沢九郎兵衛(1)

2024-01-29 09:41:05 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

   東神吉町をゆく(62) 砂部(1) 金沢九郎兵衛(1)

 地図(国土地理院発行・大正12年)の赤いカ所所をご覧ください。「金沢新田」です。

 この低湿地帯にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村(現在:加古川市東神吉町砂部)の金沢九郎兵衛です。

 金沢家に残る文書等から判断して、「金沢新田」の開発は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。

  *金沢家に残る文書では天保九完成になっています。

 この時の新田は84町4反21畝でした。

 開墾費用は銀854貫85匁五分と莫大で、九郎兵衛に当然そんなお金はありません。スポンサーは加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村の近藤亀蔵でした。

 少し余話を書いておきます。

 ・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫村という集落がありました。昔、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいました。

 「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門通れば後光さす・・」と、当時の俗謡にも歌われるほどでした。

 享保年間に、近藤家は日本一の金持ちといわれました。

 ともかく、近藤一族をスポンサーに、開発願主は九郎兵衛で、金沢新田は完成しました。

 お気づきと思いますが、基本的に金沢町は金沢新田の場所につくられており、「町名」はそこから名づけられています。そのもととなったのは、九郎兵衛の姓です。

 金沢家に残る天保11年(1840)の文書によると新田は、59町2反20歩3畝で、開発当時の総反別(84町4反21畝)よりも、著しく減少しています。

 これは、一部のカ所で地味が悪く、水稲が十分生育しなかったためであろうと思われます。

 20年を経過した明治10年(1877)の調査記録によると田地・宅地・畑および未開発地を合わせると85町6反2畝5歩と記されており、開発当時の規模に回復しています。

 *写真:昭和30年代の金沢新田(『加古川市史・第二巻)』より)



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東神吉町をゆく(61) 旧北条街道

2024-01-28 09:47:42 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(61) 旧北条街道

 加古川市米田町平津の国道2号線の交差点は高砂・北条線陸橋となっています。

 この道は、北の西神吉町あたりで大池・新池の東を通り、志方町投松(ねじまつ)へぬけ、加西市北条へ続く広い北条線(北条街道)です。

 写真は、現在の「北条線」以前の、明治18年(1885)に完成した「北条街道」です。

 現在の北条線に並行して走る、やや細い道がありますが、それが旧北条線です。

 「この道を北へ行くと喫茶店「明日香」のある交差点に出ます」といえば、旧北条線(街道)がお分かりになると思います。

 今も、地区の大切な生活道路です。

 以下は蛇足です。



 明治18年以前、特に江戸時代以前の北条道(街道)は、今の北条街道とはコースも異なり一部は各所に残るのですが、細い農道のようで、説明がなければ、それがかつての北条街道とはほとんど分からない状態になっています。

 が、北条への産業道として、そして、何よりも法華山一乗寺への参詣道として大切な役割を果たしていました。

 *写真:旧北条街道(明治18年完成)・加古川バイパス付近より南(昭和41年撮影)

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東神吉町をゆく(60) 長谷川亀次郎家

2024-01-27 08:12:36 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

      東神吉町をゆく(60) 長谷川亀次郎家

 ブログの「東神吉町をゆく・57~59:井口小学校」で井口小学校・長谷川亀次郎を紹介しました紹介しました。

 井口小学校・亀次郎については、それらをご覧ください。

 次の話題に移りたかったのですが、柴田圓治さんが、ありしひ日の長谷川家を撮影されていましたので、掲載させていただきます。

 今回は長谷川家の写真だけになります。

*写真:解体前の長谷川本家(昭和53920日撮影:柴田圓治さん撮影)



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東神吉町をゆく(59) 井口小学校(3)  井口小学校の財政

2024-01-26 08:17:12 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

     東神吉町をゆく(59) 井口小学校(3)  井口小学校の財政

 長谷川亀次郎と同じ時代の人で、村総代を長く務められた柴田吉太平氏が村の記録『諸事記』(全三巻)を残されています。

 『諸事記』から、井口小学校の収入をみておきましょう。

     小学校新築之事(原文略)

  井ノ口村・井ノ口新村・六本松村(現:西井ノ口)に長谷川亀次郎が一人で学校を新築するとのこと、村では、人足を出し、寄付金を少々出しています。校名は「南学校」と命名しました。 (以下、漢数字はアラビア数字にかえています)

 〈新築経費金 961円〉

   内

 金  650円  長谷川亀次郎

 〃  50円   同 新 蔵

 〃  17円  柴田  吉太平

 〃  13円  長谷川 甚七

 〃  13円   同  庄吉

 〃  11円  伊藤  源四郎

 〃  13円50銭 同  惣七

 〃  11円  柴田   弥 市

 〃  186円 その他  口々

   〈明治六年学校入費〉

 高金 514円14銭  収入三ヶ村分(井ノ口村・同新村・六本松村負担金)

 金  428円   寄附金

 金   5円10銭  生徒授業料

 金  77円4銭 貸金利子

 支出の部は省略します。

 生徒の授業料による収入が5円10銭ということは、ほとんどの生徒は、授業料免除のようで、学校の経費のほとんどは、村の寄付と村の有志(特に長谷川亀次郎)の寄付により賄われています。

 金銭面で亀次郎のはたした役割は、絶大きなものがありました。

 *地図:井口小学校のあった場所(井ノ口公会堂を東へ行った三叉路)

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東神吉町をゆく(58) 井口小学校(2)  県下一のピカピカの小学校

2024-01-25 08:11:19 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

    東神吉町をゆく(58) 井口小学校(2)  県下一のピカピカの小学校

 明治六年(1873)、(東神吉町)西井ノ口にピカピカの二階建の「井口小学校」が新築されました。

 その規模・設備等は当時としては異彩をはなっており、県下では他に例を見なかったようです。教育史の一ページに記録されるべき学校でした。

 しかし、残念なことにあまり広く紹介されていません。

 井口小学校の詳細については、今後の研究を待つことにします。

 きょうは、西井ノ口村に建設された「井口小学校」について、西井ノ口の広報「にしいのくち(99)」の説明をお借りします。(一部書き変えています)

      明治六年、西井の口に小学校が建設

「・・・(学制により新しい小学校はスタートしましたが、ほとんどの地域では、寺院を借用して校舎にあて、その内部の設備の如きは、もとより論ずるに足らないほど貧弱なものであった。

 かかる時代において異彩を放ちしは、西井口村所在の井口小学校だった。

 同校は洋風二階造にして、村の東南端、通風採光よろしき地にあり、これは同村篤志家、長谷川亀次郎氏は、県下の学校の多くは寺院民屋を借用し、ひとつも見るべきものなきを慨き(なげき)、独力で一千円を投じて竣工せしものである。

 当時、唯一の洋風二階建の校舎のため、近郷近郡より来観するものも多かった。

 「学校新築と散髪は県下第一番の始め」と同村民は伝えている。

近村の里謡(りよう)に「石の宝殿から井ノロ見やれ、海もないのにたこばかり」 とあるは、明治六年一月一日、長谷川亀次郎は、村民と示談し、即日散髪を断行し、学校新築用の瓦運びをした状況をあらわしている。

 以上は、「印南郡誌」の「教育・小学校の設備」の項の冒頭の一節です。



 明治五年の学制令を受けて、藩校・藩学、そして寺子屋の一部が小学校として発足しましたが、小さな村で校舎を新築して発足したのは、おそらく西井ノロが、県下で最初で最後であつたに違いありません。

 多くの「小学枝」が藁屋根であった明治六年に、瓦屋根の、しかも西洋風二階建ての校合を新築したことは驚きです。

 *写真:ピカピカの井口小学校(『印南郡誌』より)

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東神吉町をゆく(57) 井口小学校(1) 長谷川亀次郎って誰?

2024-01-24 09:29:09 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

     東神吉町をゆく(57) 井口小学校(1) 長谷川亀次郎って誰?

  前号で長谷川亀次郎が突然登場しました。「長谷川家文書」より、亀次郎について少し紹介しておきましょう。

    <長谷川亀次郎、年表(一部省略)>

 天保9(1838)   西井ノ口村に生まれる。

   ?年      高砂へ進出。 

 安永6年(1859)  名字帯刀を許される。

 文政元年(1861)  大判27枚を献上 大庄屋並びに五人扶持になる。

    <江戸幕府崩壊>

 明治2年(1869)  調達金・木綿代金を多く修める。 

 明治3年(1870)  蒸気船安洋丸をつくり、大坂~高砂を航海する。

 明治5年(1872)  高砂南本町に物産会社をつくる。

           姫路と三日月町で鉱石の精錬会社を設立。

 明治6年(1873)   印南郡に西井ノ口村に学校を新築。

 明治12年(1879) 申義堂を西井ノ口に移築

  明治22(1889)  死亡、戒名は釈浄脩以下略

 亀次郎は商業・教育の分野で大きな足跡を残しています。

 

 井之口小学校」を創立した長谷川亀次郎氏の功績を称える、「旌徳碑(せいとくひ)」(写真)が井之口小学校跡にあります。

 一部だけですが読んでおきます。

 ・・・ 明治初年、君は、航海椎がすべて英国にあることを憤慨して、独力で安洋丸という汽船を造り、それによって大坂~高砂商業を盛んにした。

 そして、君(亀次郎)は、特に教育が振るわないこと考え、千金を投じて井之口村に学校を新築した。

 当時、県下の学校の多くは人家(寺)をもつて代用(寺子屋)し、一つとして見るに値するものはなかったが、君がその面目を改めた。

 君は、維新前に金数十枚を旧姫路藩主・酒井侯に献じた。

 藩主は、彼を大庄屋並みに扱い、後に「藩士に準じた。

 晩年、一年発起して仏門に帰依する。

 そして、高砂町の申義堂を西井ノ口の移し説教所を設けた。

 ・・・・

  明治23年1月23日、病に罹り急逝す。享年52歳。

 *写真:長谷川亀次郎の旌徳碑(場所は西井ノ口公会堂南側にある道路を東へ行くと三叉路となっています。旌徳碑は、その南西角です)



 

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東神吉町をゆく(56) 西井ノ口と申義堂(7) 申義堂は東神吉村西井ノ口へ

2024-01-23 08:56:15 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

    東神吉町をゆく(56) 西井ノ口と申義(7) 申義堂は東神吉村西井ノ口へ 

 明治4年、廃藩置県に伴い、申義堂は廃校になりました。

 その後、申義堂は姫路光源寺の説教所としての役割を担いました。

 しかし、その場所に明治12年、高砂警察署の建設されることになり、立ちのかねばならないことになりました。

         申義堂(説教所)・西井ノ口へ移築 

 岸本家と長谷川家の関係を少し整理しておきます。

・岸本家の出身地は、大国村(現:西神吉町大国)で、長谷川家は(西)井ノ口村出身でともに近くです。

・大国村の岸本家も井の口村の長谷川家も綿屋でした。

・高砂における岸本家と長谷川家は近所に位置しています。

・両家は江戸時代、高砂町の町役として活躍をしています。

・『長谷川亀次郎を偲ぶ』によれば、亀次郎の妻・うのは、岸本家から嫁いでいます。

 とにかく、長谷川家と岸本家は深い関係にありました。

 このことを踏まえて、少し、想像みました。従って以下は記録による話ではありません。皆さんはどう思われますか。

      ある日の会話

 「(長谷川)亀次郎さん、相談に乗ってもらえませんか」

 「岸本さんのことでっさかい、出来ることでしたらなんなりと・・・」

 「実は、説教所(申義堂)のことやけど、あの場所に新しい(高砂)警察署がつくられるので、立ちのかなあかんのや。どうしたものやろか・・・

 説教所を閉めるのはおしいし・・・

 近所で新しい場所というても、この頃は何かと物入りでね。

(こんな話が幾日も続きました。ある日のことでした)

 「岸本さん、例の件ですが私(亀次郎)に任せてもらえませんか。私もずいぶん考えました。

 出しょうの井ノ口村に移してもらえまへんやろか。費用の方は私の方でなんとかします。

 「そこ(井ノ口村)で、説教所をつくりたいんです」「井ノ口村では弟の新蔵は、村役をしております。そして、新宅をしました庄蔵は手広く綿問屋を営んでおりました。多少の蓄えはあります。

 私も、高砂の町で、いささか蓄えさせてもらいました。

 話はトントン調子に進み、高砂町申義堂は、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロ村によみがえったのです。

 こうして、申義堂は、昭和7・8年ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年4月でした。

 *写真:長谷川亀次郎

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東神吉町をゆく(55) 西井ノ口と申義堂(6) 申義堂廃校

2024-01-22 08:02:41 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

  

   東神吉町をゆく(55) 西井ノ口と申義堂(6) 申義堂廃校

 申義堂は、明治4年、廃藩置県にともない廃校となりましたが、その教育的機能は高砂小学校へひきつがれました。

 ところで、申義堂の建物そのものはどうなったのか、についてふれておかねばなりません。

 土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。

 そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。

 河合寸翁筆による「申義堂」扁額(写真)や文書が同家に保管されているのはそのことを示しています。

 その後、申義堂の土地は、明治12年、高砂警察署の建設のため立ちのき、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しています。

     申義堂・西井ノ口へ移築 

  *以下の記事は、「西井ノ口と申義堂(1)」と重なります。

 申義堂の建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。

 次になぜ、「西井口村へ」という疑問が残ります。次回に紹介するとしましょう。

 申義堂は、昭和7・8ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年月でした。

 天井に棟札が打ち付けられていて、12年の移築が確認されたということが分かりました。

 *『高砂市史(第二巻)・近世篇』・『なぜ申義堂が西井口にあったか(柴田育克)』『長谷川亀次郎を偲ぶ』参照

 *写真:申義堂の扁額の複製(河合寸翁筆)・申義堂に掛けられている。

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東神吉町をゆく(54) 西井ノ口と申義堂(5) 申義堂の大スポンサー岸本家

2024-01-21 08:07:20 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

     

     東神吉町をゆく(54) 西井ノ口と申義堂(5) 申義堂の大スポンサー岸本家

 申義堂の大スポンサーの岸本家は、印南郡大国村(現:西神吉町大国)から、享保年間(171635)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。

 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。

 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 当時高砂町は、東播地域の大動脈の加古川舟運(しゅううん)の拠点であるばかりでなく、瀬戸内海沿岸航路の重要な港町でした。

 高砂の岸本家は、その地の利を活かして、大国村の岸本家以上に大いに発展しました。

 三代の間に、その基礎が確立され、その資産は、持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。

 そして岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。

 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして切手会所が設置され、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 江戸への江戸積み業者は、「切手会所(きってかいしょ)」から藩札を受け取りました。藩は、江戸で綿布を金銀で販売しました。

 姫路藩には多額の正金銀が入るようになり藩の借金は専売制を初めて78年で返済することができました。

 この時、岸本家は、切手会所の貸付相談役(六入衆)の一人に任命され、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たす一方、姫路藩の財政にも深く関っていくことになりました。

 岸本家は、自身が献金するだけでなく、藩の借銀の信用保障を行ない、藩の財政に非常な貢献をし、それに対し姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。

 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。

*写真:再建された申義堂(十輪寺前)

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東神吉町をゆく(53) 西井ノ口と申義堂(4)  申義堂は高砂の町衆の熱意

2024-01-20 08:00:44 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

       東神吉町をゆく(54) 西井ノ口と申義堂(4) 申義堂は高砂の町衆の熱意

 申義堂(しんぎどう)は、さまざまな記録から文政十年(1827)にはすでにできていたようです。

 そして、多くの解説では「申義堂は、河合寸翁(かわいすんのう)による仁寿山黌(じんじゅざんこう)の開設(文政六年・1823)と関連させて、藩が設けた施設」としています。

 たしかに藩が一定の出資を行い、維持運営費として25俵を給していた点からも、そのこととは否定できません。

 ただ、素朴に考えて、25俵という額で申義堂の運営と教授への俸給が賄えたのかというと疑問があります。不可能です。

 学問所は、たんに領主側の意向によってできるのではなく、地域庶民の教育への熱意があって初めて実現されるものです。

 高砂の町には、寺子屋とは異なったより高度な学問を望む施設を欲する動きがまずあり、それを受けて、河合寸翁の建議が出されたとみる方が自然です。

 申義堂の運営は、藩からの25俵と合わせて町の有志が一定の費用をねん出し、藩は教育や運営には直接的な干渉はなかったようです。

         岸本家が中心に

 申義堂の設立運営に関わった町の有力者としてまず岸本家をあげることができます。

『加古郡誌』に「申義堂の建物は、高砂町岸本某の寄付にかかわるものにして、明治維新後廃藩に至りて、廃校するとともにこの建物を岸本某に下付せられしという」とあるように、岸本家が深くかかわっていました。

 しかし、もちろん岸本家単独の意志によるものではなく、町衆が町民子弟の教育施設をつくろうとした時に、岸本家を中心に町の有力者が土地や建物を提供し、資金を出し合ったのでしょう。

 従って、岸本家が建物・土地の多くを提供したからといっても、申義堂の運営が岸本家の単独によりなされたということではないようです。

 なかなか、『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったか』の紹介に入れなく余話ばかりをしているようですが、冊子の紹介の前に、岸本家について少し触れておきます。

 *『高砂市史(第二巻)』参照

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東神吉町をゆく(52) 西井ノ口と申義堂(3) 河合寸翁

2024-01-19 10:16:09 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

        東神吉町をゆく(52) 西井ノ口と申義堂(3) 河合寸翁

       河合寸翁と申義堂

 河合道臣(みちおみ)は、姫路藩の家老で、後の河合寸翁(すんのう)です。以後、河合寸翁として話を進めます。



 藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5年(1808)、姫路藩には73万石の借財がありました。

 寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布を姫路藩の専売にし、藩の財政改革に取り組み、みごと借金ゼロを成し遂げました。

 寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法をとりました。さまざまな妨害もありました。

 しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6(1823)、江戸への木綿専売が幕府に認められました。

 これは、「藩主・酒井忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれています。

 ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができました。

 (寸翁は、綿の専売の外にも多くの産業の振興を手掛けています)

 藩主は、この功績に対して寸翁のかねてからの希望をかなえました。

 寸翁の願いとは、有能な次代の人材を育てる学校を創設することでした。

    〈寸翁の夢、人材の育成〉

     仁寿山黌(じんじゅざんこう)の建設

 姫路藩には好古堂という藩校がありました。好古堂では藩士の子弟に学問や武芸を教えました。

 寸翁の時代は、時代が沸き立っていました。河合寸翁は、藩の学問書・好古堂に協力するかたわら、有意な次代の人材を育成するため、仁寿山の麓に学校を設立しました。

 文政6年(1823)正月、教場、図書倉、教師館、食堂から塾舎、医学寮までが整然と整い、朱子学を基にした伸びやかな学校でした。

     申義堂(しんぎどう)を開く

 また、寸翁は文化年間(18041817)、姫路藩主・酒井忠実に願い出て、庶民教育の拠点として高砂の町に学問所をたてました。

 この学問所が申義堂でした。

 *写真:河合寸翁像(姫路神社内)

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東神吉町をゆく(51) 申義堂と西井ノ口(2) なぜ、申義堂が西井ノ口にあった?

2024-01-18 08:26:06 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

   東神吉町をゆく(51) 申義堂と西井ノ口(2) なぜ、申義堂が西井ノ口にあった?

 西井ノ口(東神吉町)の柴田育克(しばたいくよし)さんの研究による『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったか』(写真)という冊子をいただきました。

 さっそく、読ませていただきました。

 みなさんにもぜひ知っていただきたい内容が満載です。

 

 『なぜ、申義堂の建物が西井口にあったか』に沿って、紹介すべきなのですが、少し文体を変えたり、付け加えをしながら紹介をします。

 あつかましくも、柴田育克さんからご了解をいただきました。

 少しだけ、先を急ぎます。

 東神吉町井ノ口には、日本の教育史に残るような学校が、かつてありました。

 この学校の建設に関わったのは西井ノ口の長谷川亀次郎氏でした。

 長谷川亀次郎氏と申義堂が関係してきます。

 ここでは、名前の紹介だけにしておきますが、亀次郎氏のご子孫の方が『長谷川亀次郎を偲ぶ』として冊子にまとめておられます。

 とりあえず、この二冊を中心に申義堂・西井ノ口あった学校・長谷川亀次郎氏のことを紹介します。

 この小学校、長谷川亀次郎については後日紹介します。

       申 義 堂

 柴田氏の報告は、申義堂の不思議から書いておられますので、ブログでも申義堂(しんぎどう)から話を進めます。

 申義堂は、文化年間(18041817)、姫路藩主・酒井忠実が家老の河合寸翁の意見を取り入れ庶民教育の拠点として建てた学問所です。

 河合寸翁の説明から始めることにしますが、きょうはイントロです。

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東神吉町をゆく(50) 西井ノ口と申義堂(1)

2024-01-17 08:47:45 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

   

   東神吉町をゆく(50)  西井ノ口と申義堂(1)

   少し話題を変え高砂の申義堂(しんぎどう)の話をしましょう。

 江戸時代、高砂は飾磨とともに姫路藩の経済を支える重要な町として繁栄していました。

 そして、「申義堂(しんぎどう)」という庶民の学校も建設されました。

 申義堂は、姫路藩家老・河合寸翁の意見によって設立された町民子弟を対象とする教育施設です。

 設立されたのは、文化年間(180418)です。

     申義堂が東神吉町西井ノ口に残っていた

 その申義堂ですが、時代は、江戸から明治時代に変わり、申義堂は廃校になり、建物は明治12年5月に東神吉村西井ノロに移築されました。

 ある寺の説教所として、昭和7,8年ころまでは、使われていたようですが、その後戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用され、それがどういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿(写真)になっていました。

 その建物が、申義堂であることがあらためて確認されたのは、平成2年4月で、新聞は大きく報道しました。

     申義堂・高砂市へ里がえり 

 申義堂の建物は、姫路光源寺の説教所として西井ノロに移築されました。

 昭和7・8年ころまで説教所として使われていたようです。が、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、「申義堂」の建物であったことが確認されたのは、平成2年4月でした。

 その後、平成5年に高砂市にひきわたされることが決まり、平成6年に解体されました。その時、天井に棟札(写真・部分)が見つかり、明治12年の移築されたことが確認されました。

 しばらく、高砂市教育センターに保存されていましたが、平成23年、高砂市横町(十輪寺前)に、補強し、江戸時代当初の姿に復元されました。

 申義堂が西井ノ口に移築された顛末を続けます。

 *写真:解体時に発見された棟札(部分)・井ノ口の保存されていた申義堂(柴田圓治さん撮影・平成2年8月23日)





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