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ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平岡町をゆく(44) いなみ野学園誕生

2024-08-10 08:17:04 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

                平岡町をゆく(44) なみ野学園誕生

 一昔前、お年よりは村では長老と呼ばれ、物知りで尊敬されました。

 現在、時代は、急速に変化し、お年よりも技術の変化に対応し、また、趣味を深めるために多くのお年寄りが、学習を再開されています。

 そのための大学が、平岡町(加古川市)にできました。

 本格的なお年寄りの学習への取り組みが全国に先がけて、平岡からはじまりました。

 「いなみ野学園」です。

 この学校は、昭和44年7月1日、県立農業高校講堂で、その産声をあげました。

 開校式の模様を、翌日の新聞は次のように報じました。

 「・・・・お年寄りに生きがいを」と兵庫県教委は、旧兵庫農大加古川農場跡に老人大学「いなみ野学園」を開設し、1日午前11時から、近くの県立農業高校講堂で開校式が行われた。・・・新しい時代の知識、技術を学習、社会活動に参加することによって、生きがいのある生活を創造しようと、全国に先駆けて開設したもので、雨の中を県下各地から60才から85歳までの「学生」381人が集まって開式した。



 ・・・・学部は、研修部と実習部の二つで、研修部は教養科目と専門科目に分れ、専門科目は、さらに園芸、造園、家畜、家きん、昆虫・魚、機械、土木、食品、社会福祉のコースに分け、県立農業高校教諭をはじめ、テーマによっては学外の専門家を招く・・・

 今、お年寄りが元気です。


平岡町をゆく(43) 東加古川駅新設

2024-08-09 06:13:53 | 加古川市の歴史・平岡町編

                 平岡町をゆく(43) 東加古川駅新設

 国鉄(JR)の電化は市民の願いでした。

 昭和26年9月30日、「加古川勤労通勤者の会」が市長・市会議員・加古川市駅長等が参加し、市役所(現:加古川公民館で集まり、次のような決議をしました。



 ・・・西明石~姫路間の鉄道乗車の激増により、通勤時の混乱は、終戦当時に近似。産業能率の低下は、甚大なるものがあり、我らは国鉄電車化により一日も早く解決されるように実現を要望する・・・



 その後も猛烈な運動が展開され、昭和31年、ようやく電化工事が始まりました。そして、昭和33年2月27日待望の試運転車がはじまりました。

          《東加古川駅》

 この時、まだ東加古川駅はありませんでした。東加古川駅が新設されるのは、昭和36年10月1日でした。

 東加古川の新設以後、平岡町の人口はまさに「うなりのぼり」の状態で増加し、辺りの風景は一変しました。

*写真:開業した国鉄(JR)東加古川駅。


平岡町をゆく(42) シーボルト

2024-08-08 07:31:26 | 加古川市の歴史・平岡町編

          平岡町をゆく(42) シーボルト

    歴史教科書でおなじみのシーボルトの話です。

 ドイツの医学者で博物学者であったシーボルトは、文政6年(1823)、長崎の出島の商館医師として日本に赴任しました。

 文政9年(1826)、出島商館長に随行して、江戸参府の旅行をしました。

 143日間の旅行でした。その時、シーボルトは、日記『江戸参府紀行』を書いています。

 一行が下関から船で出発したのは3月1日で、室津には、7日に入港しました。

 姫路で宿泊し、10日、朝9時に姫路を出発し、高砂・曽根を見学し、その日は加古川町で宿泊しました。

  『江戸参府紀行』の一部を読んでみましょう。

 「・・・三月十一日、好天に恵まれ、われわれは六時に加古川をあとにした。我々の眼前には広々とした平野がつづき、皆米が作られていた。ただ若干の畑には、小麦や大麦などのほかの穀物が植えてあった。・・・・

 われわれは西谷(現:加古川市平岡町西谷)で休む。ここから先へ行く道々、いくつかの池を見た。それは水田の灌漑のために、人力をもって自然に挑戦で作ったものであって心地よい松の森をめぐらしてある。・・・・」

*写真は晩年のシーボルト


平岡町をゆく(41) 土山大洪水(3)

2024-08-07 09:25:59 | 加古川市の歴史・平岡町編

           平岡町をゆく(41) 土山大洪水(3)

 昭和20年10月8日、天満の大池をはじめ河池・新川池と堤防が次々に崩れ、その水は、一挙に喜瀬川沿いの村々を襲い26名の命を奪う大惨事となりました。

 この大洪水について、岩本智恵子さんから手紙をいただきました。その一部を紹介します。

(この手紙をいただのは1997年)

   ◇岩本さんからの手紙

 ・・・・川沿いの田畑、家も多く流れ、村の中心部も床上八尺というより濁流が入り、赤い泥水が畳や家具をたおし、壁を抜いて流れ去りました。

 私ども逃げるのがやっとで、家の裏口より、第二国道へ駆け上がると同時に、壁は音をたてて流れ、一部屋は流失しました。

 国道の南側は田んぼばかりでしたが、牛が二頭足が立たないのか流れていきました。

 その後、西へ逃げ五社の若宮で休ませていただき、夕方水に遭わなかった叔母の家で一晩泊めてもらいました。 ・・・・・

 当時、私は21才、昭和19年6月に母の郷里である土山(加古川市)に疎開して参り、20年の10に長女を出産し、危ない場所へも、泥だらけの家の手伝いもしていません。

 その後も、赤い土は庭の隅や押入れに残っておりましが、両親は大変だったと思います。

 *紙面の都合で、手紙の一部の紹介になってしまいました。




平岡町をゆく(40) 土山大洪水(2)

2024-08-06 09:33:05 | 加古川市の歴史・平岡町編

   平岡町をゆく(40) 土山大洪水(2)

 平岡町中野(加古川市)に、江戸時代の寛政元年から現代まで坪狩りが続いており、その記録が「坪刈帳」として残されています。

 それには、米の収穫量だけでなく台風、旱害、害虫の被害、それに当時の物価などの世相も書き記しています。

 昭和20年の「坪刈帳」には、他地区のことですが、土山(加古川市)の水害のようすを、次のように記録しています。よほどの大災害であったようです。



   ・・・(昭和20年)9月17日、関西及四国・九州に大暴風雨あり、(9月17日午後10時より、18日午前6時まで引き続き)為めに大被害蒙りたる上、10月4日より毎日大雨にて・・・10月9には土山貯水池決壊し・・・



 備考  土山

  1、流失家屋  19戸     2、全潰  5戸

  3、半潰    24戸       4、納屋其他流失  7戸

  5、同上全潰   8戸     6、同上半潰  45戸

  7、死者    26人       9、浸水家屋床上  214戸  

    (浸水家屋)床下  4戸    *番号八が抜けている。記載ミス。

  10、 牛斃死   6頭        11、家屋流失  70戸

 この大災害は、土山のみならず喜瀬川沿いの地域に大きな爪跡をのこしました。

 *写真の橋から少し上流のカ所が、もっとも被害が大きかったか所。


平岡町をゆく(39) 土山大洪水(1)

2024-08-05 08:18:46 | 加古川市の歴史・平岡町編

      平岡町をゆく(39) 土山大洪水(1)

 戦争がおわり、夫のもとに急ぐ宮本百合子(小説では、ひろ子)は体験にもとずいた小説『播州平野』を書きました。その一節に土山(平岡町)が登場します。



 土山は、印南野台地上にあり、かつて旱魃は幾度も経験しましたが、洪水とはおよそ無縁の土地でした。

 それが昭和20年10月、台風が襲い、池の堤防が崩れ、水が一挙に喜瀬川沿いの民家を直撃したのです。

 死者26名を出す、未曾有の大洪水でした。

 当時の神戸新聞(12日付)は「・・・国道も土山、大久保付近二カ所で橋梁が流されて、僅かに仮橋で交通を保っているに過ぎない」と、簡単に報じています。

 この時、喜瀬川は、流れを一部変えました。

 図の土山の小字(土山の字限図より作製)をご覧ください。

 字、「ドウジ山」と「中曽根」の間にくびれたカ所があります。そのあたりの被害が特に大きかった地域でした。

 宮本百合子は、昭和20年10月9日やっとの思いで、姫路につきました。その日、この地方を台風が襲いました。

 百合子が土山の被害に遭遇するのは10月11日のことです。小説『播州平野』をお読みください。

*なお、この土山大洪水については、3回のシリーズで取り上げます。


平岡町をゆく(38) 土山荘

2024-08-04 15:05:07 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

     平岡町をゆく(38) 土山荘

  「土山」(加古川市)について、。『荘園志料(上巻)』(角川書店・清水正健編)は、次のように解説しています。

 土山荘・・・延元四年の文章にみえて、亦(また)薬師荘とも号す。・・・・野口荘内に土山村存す。

 また、『ひょうごの地名』(神戸新聞出帆センター・吉田茂樹著)では「(土山は)市の東部にある地名で、『広峰文書』延元四年(1339)の「土山荘」に由来する。おそらく元は『土山(ハニヤマ)」と称され、良質の埴土を産出した所と思われる」と説明している。土山は、広峰社(姫路市)の支配下の荘園であったと言う。

 『荘園志料』の「・・・亦、薬師荘とも号す、・・・」について、元神戸大学の石田善人先生(故人)は『兵庫史学(26)』で、「・・・播磨の国、土山荘地頭職(じとうしき)(領家は奈良の薬師寺であり、薬師寺を支配した興福寺がこれに関係する)も広峰社にあった」と述べておられます。

 *地頭職・・・荘園・公領の管理権・租税徴収権などをもつ職務・権利のこと

 話が、ややこしくなってきました。つまり、土山荘を支配する広峰社は、奈良の薬師寺・興福寺とも関係があったというのです。

 そして、広峰社の支配下にあると言うことは、同時に薬師寺の支配下の荘園でもあったと言うことで、そのため土山荘は、薬師荘ともよばれていました。

*図は「加古川周辺の荘園分布図」(竹内理三『荘園の分布』-吉川弘文館より)


平岡町をゆく(37)  (土山)一里番所

2024-07-28 10:57:38 | 加古川市の歴史・平岡町編

        平岡町をゆく(37) (土山)一里番所

 土山(加古川市平岡町土山)について、『加古郡史』は、次のように書いています。

 《土山村》

 印南野の南偏に位す。往古より駅路にして、中世以後、此所に一里番所をもうけたり。

 加古郡には、寺家町・新在家にも一里番所が置かれていたことが知られていました。

 一里番所とは、ほぼ一里ごとに、街道筋のさまざまな御用(公用・雑事)を行うために設けられた役所です。

 新在家~土山間では、その距離が一里(約4キロ)にならない。少し短すぎます。

 これは、土山が郡境にあり、特別な役割があったものと推測されます。

 一里番所を通過し、運搬される品物の相改役人、筆取(記録係)、御状箱持人足などがおかれました。

 一里番所の運営費ならびに人足は、村々の負担でした。

 土山の一里番所について史料は、何も語っていませんが、土山の字「下馬」が一里番所のあった場所と推測されています。

  平岡東小学校の地は元、下馬池という池ででした。おそらく、一里番所は、その周辺にあったのでしょう。




平岡町をゆく(36) 中野村の坪狩記録

2024-07-27 04:49:36 | 加古川市の歴史・平岡町編

     

     平岡町をゆく(36) 中野村の坪狩記録

 中野(加古川市平岡町)に、寛政元年(1789)から現在まで335年以上も続いた「坪刈」(つぼがり)の記録が残ってます。

 「坪狩」というのは、農作物(主に稲)を収穫する前に一坪分だけ刈り取り、その収穫を計ることです。

 江戸時代には年貢高の決定や、減免のためにおこなわれました。

 近代になり小作料の決定、農業経営の改良などの参考にされました。

 しかし、現在まで その坪狩りの記録が現在まで残されているケースはほとんどあません。

 中野村の記録(写真)は期間が長く、日本最長の稲作記録で、学術的にも貴重なものです。

 経済的な先進地である近畿の記録としては他に例がありません。

 また、坪狩の記録は稲の収量だけでなく、稲の品種、水利確保、害虫の駆除、台風や旱ばつの天候なども記録しています。

 中野村の坪狩について、詳しくは下記の参考文献を参照ください。

 *『中野村、坪狩記録』(加古川市史編さん室)・ 『加古のながれ』(加古川市史編さん室)


平岡町をゆく(35) 村方困窮す

2024-07-26 08:50:38 | 加古川市の歴史・平岡町編

       平岡町をゆく(35) 村方困窮す

 天保3年(1832)は、日照つづきで不作。同4年は長雨で、またまた不作。さらに、6年、7年13年と凶作がつづきました。

 とりわけ、7年から8年にかけては、全国的な大飢饉でした。

 平岡地域も例外ではなく、生活は困窮を極めました。一枚の文書(加古川市所蔵)があります。



  ◇  「村方困窮につき御見聞くだされたき願書」

   (乍恐奉差上願書之事(おそれながら、差し上げ奉る願書のこと)

          寺家町組

                  高畑村



 この訴えの結末はわかりません。 

 「天保15年(1844)には村の困窮はひどくなり、特に耕作者のいなくなった田畑が100石にもおよび、それを村の惣作田(そうさくでん)として維持していますが、そのため年貢に差し障り、貧しい農民は年貢が納められず、村では借金をして何とか間に合わせている状態でした。

 「惣作田」とは田畑が荒廃した場合、その田畑を村中で耕作し、年貢を納入する田のことです。

 


平岡町をゆく(34) (横蔵寺の伝承) 運慶と湛慶

2024-07-25 07:04:45 | 加古川市の歴史・平岡町編

   平岡町をゆく(34) (横蔵寺の伝承) 運慶と湛慶

 横蔵寺(新在家)の観音様には、こんな話があります。

 ある日、湛慶は、母に父のことをたずねました。母は、今まで、「湛慶の父は仏師だ」としか教えていませんでした。

 「・・・・お前の父は奥州生まれの運慶で、仏像をつくって諸国をまわるうちに宮崎を訪れ、そこでお前を身ごもった。

 そして、湛慶が母の体内に宿ってまもなく、郷里に残してきた老父母のようすが気になり、風のように奥州へ帰っていった・・・」と、母は、その日湛慶に語ったのでした。

 ある夜、湛慶は千手観音の夢を見ました。観音は「・・・わが右半身を作り、東へ行くべし・・・」と告げたのです。

 湛慶は、観音様の右半身を背に負おうと東へ出発しまあした。やがて、加古の里(今の加古川市)につきました 傍らの石に腰をおろしているときです。

「私も休ませでくださらぬか」と声をかけられた。一人の老人が立っていました。

 「どちらから来られたんですか」と湛慶はたずねました。話は弾んで、何時しか、身の上話に及びました。

 湛慶は「もしやあなたは、運慶様ではございませんか・・・」

 老人は驚きました。そして、湛慶の取り出した右半身の観音様は、運慶の持つ左半身の観音様と寸分の違いもなくピッタリと一体の仏像となったのです。

その夜、野づらに風が吹いました。


平岡町をゆく(33) 旧石器人がいた(山之上遺跡)

2024-07-24 05:46:56 | 加古川市の歴史・平岡町編

      平岡町をゆく(33) 旧石器人がいた(山之上遺跡)

 昭和24年(1949)年、群馬県岩宿遺跡(いわじゅくいせき)の発見により、わが国にも縄文時代時代以前に人(旧石器人)が住んでいたことが認められました。

 彼らの生活跡から木炭が出土し、火を使っていたことが確認され、土器は、まだ知りませんでした。

 そのため、旧石器時代は、無土器時代とも呼ばれています。

 1万年以前、氷河時代も終わり地球は暖かくなり、やがて縄文時代へと続きます。

 平岡町(加古川市)にも旧石器人の生活の跡(山之上遺跡)が残されています。

 場所は、大中遺跡のすぐ西の潰目池です。

 昭和51年3月、潰目池の底から20点ばかりの旧石器が発見され、これらは約2万年前の石器と判明しました。

 これら旧石器の一部は、加古川総合文化センターに展示されています。それにしても、潰目池とは意味ありげな名前でです。

 地名研究家の石見完次氏(故人)は、『古地名新解・加古川おもしろ誌』で「潰目とは、割れ目、裂け目などの目で、一段高い地盤が崩れ潰れ目ができ、そこに池を造ったので潰目池か」と説明されています。

 *写真は、旧石器が発見された潰目池。


平岡町をゆく(32) 地名「乾角(いぬいかど)」

2024-07-23 09:36:47 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

     平岡町をゆく(32) 地名「乾角(いぬいかど)

 場所は平岡中学校のグランドの南東の角にある交差点のことでです。(写真)

 交差点の信号には「乾角」とあり、漢字の下に「INUIKADO」と、ローマ字の文字で読ませています。

 地名は、読みづらいものがたくさんあります。ともかく、ここの「乾角」は「いぬいかど」と読ませています。

 この辺りは、村(平岡町高畑)の中心地(長松寺)から見て、「北西(乾)の隅」にあたるところから、「いぬいずみ」と呼ばれていたのが、いつしか「いぬいかど」読まれるようになったのではないかと想像しています。

 「いぬいかど」・「いぬいずみ」どちらでもいいのでが「いぬいかど」の呼び方は完全に定着していまます。でも、チョット気になりました。 

 


平岡町をゆく(31) 西谷

2024-07-22 06:36:44 | 加古川市の歴史・平岡町編

     平岡町をゆく探訪(31) 西谷

 西谷新村(西谷)は延宝七年(1679)、高畑村の庄屋・彦左衛門が開発して、新しくできた村です。

  

 高畑村から独立した村であることは、名前からも容易に想像できます。

 『加古郡史』に面白い話があります。

 ・・・・この地を高畑村と新在家が争ったとき、加古新村の加古才兵衛(加古新田の開拓者)が、西谷と言うからには高畑の土地に相違ない。新在家の地なら「東谷」と称したであろうと決済した・・・

 そして、西谷の八幡社(写真)は、その才兵衛が自分の村から勧請した社であるといいます。八幡社の東の溝が高畑村と西谷新村の村界です。

 この溝の部分の辺りが若干低くなっています。

 この溝は用水で、寺田用水の高畑分水が源太池に流れ込み、ここから、さらに二俣へ流れています。

 西谷新村は、昭和25年加古川市との合併に伴い「西谷」と改めました。

 *『古地名新解・加古川おもしろ誌』(石見完次著)参照


平岡町をゆく(30) 一里塚

2024-07-21 06:08:58 | 加古川市の歴史・平岡町編

           平岡町をゆく(30) 一里塚



   門松は 冥土の旅の 一里塚

        めでたくもあり めでたくもなし

 

 これは一休さんの作だといわれています。

 もちろん、一休さんが生きた時代は(13921481)には、一里塚はつくられていません。この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。

 一里塚は慶長9年、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がっていきました。

 一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられました。兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられたといういます。

 図「元禄播磨の国絵図(部分)解読図」を見てください。

 高畑村と西谷新村との間に街道を挟んで●が二つあります。これは一里塚のあった場所をあらわしています。

 平岡(加古川市広岡町)にあった一里塚は、いつの頃まであったのか、また正確な場所は分かっていません。