ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく (余話)樋抜きの儀(原の大池 の水抜き)

2024-05-31 10:09:59 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

          志方町をゆく (余話)樋抜きの儀(原の大池 の水抜き)

 きょうの神戸新聞に風物詩「樋抜きの儀(原の大池 水抜き)」がありました。その一部をお借りします。



 志方町原の大池は、横大路、原、成井、永室、西牧の集落にとって、まさに命の水甕です。

 これらの集落は、農業に十分な川がありません。

 それに、急峻な山からの水は、そのままでは平野部へ流れ、法華谷川に流れ込んでしまいます。

 そのため、山に降った水を、いったん溜めておくため池がどうしても必要になります。

 原の大池の水は百姓にとって、まさに命でした。

     「ため池の大切さを記憶に残してもらえたら」

 池は安土桃山時代に築造されたといいます。

 ・この日は、近くの志方西小学校の4年生16人も参加。神事の後、取水バルブが開けられると、「円筒分水工」から勢いよく水が流れ出し、児童から歓声が上がりました。・・・

大池五ケ村ため池協議会の米田茂朗会長(63)=同町原=は「地元の伝統行事を体験した子どもたちが、ため池の大切さを記憶に残してもらえたら」と話した。(増井哲夫)



 

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八幡町をゆく(10)  行者塚古墳①・古代からのタイムカプセル

2024-05-30 07:13:21 | 加古川市八幡町をゆく

      八幡町をゆく(10)  行者塚古墳①・古代からのタイムカプセル

(加古川市)行者塚古墳(ぎょうじゃづか)古墳は、加古川左岸の丘陵に築かれた前方後円墳です。

 かつて、この辺りには、古墳時代後期の群集墳が多数存在していたが、そのほとんどは昭和38年(1963)よりはじまった宅地開発にともなって姿を消してしまいました。

 今は、行者塚・人塚・尼塚が残るのみです。

 ここは、昭和48(1973)「西条古墳群」として国の史跡指定されました。

 行者塚の第一次調査(1995)、第二次調査(1996)の調査は、驚くべき内容を明らかにしました。

 その一部を『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川教育委員会・1997)に見てみましょう。

 行者塚古墳を「八幡町」に含めて報告します。

 現在、行者塚古墳は、加古川市山手二丁目となっているが、山手二丁目は、元八幡町中西条と神野町西条の一部が、宅地造成に伴い、昭和58年11月21日新しく設営された地域です。

 行者塚古墳は、古代の不思議をいっぱい詰めたタイムカプセルです。

 「行者塚古墳」を4回シリーズで紹介します。

*写真は、行者塚古墳から発見された帯金具。

 『行者塚古墳(発掘調査報告)(加古川教育委員会)

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八幡町をゆく(9) 行者塚古墳、日岡山から西条への移動?

2024-05-29 08:00:58 | 加古川市八幡町をゆく

   八幡町をゆく(9) 行者塚古墳、日岡山から西条への移動?

 地図をご覧ください。

 加古川市には、大きく日岡山古墳群、西条古墳群、そして平荘古墳群があります。

 行者塚古墳は、西条古墳群に属しています。

 日岡古墳群の多くは、4世紀古墳であり、西条古墳群は5世紀古墳が中心です。

 この二つの古墳の関係が気になります。

 二つの古墳群の関係について、大阪大学の都出比呂志教授は、次のような見解をシンポジウムで述べられておられます。

 「・・・この行者塚古墳は5世紀の古墳ですが、その前には4世紀代には、日岡山に有力な墓があったんですね。

 時期が、この行者塚古墳の時期になりますと場所を移動しています。

 その動く時期は、ちょうど大和や河内の大きな古墳が動く時期と一緒なんです。

 ・・・・ということは、・・・大和・河内という当時の政治的な先進地である中央との動きと、地方の動きとが連動している。

 ・・・・この4世紀、5世紀の時代というのは、日本列島各地の王様がお互いに仲良しの連合というものを作っているわけですね。

 ですから、大和東南部に非常に大きな力を持った王様の時期は、その人達と誼を通じた人達は全国にネットワークを持っていた。

 大和の東南部を4世紀に支配していた人は、日岡山の王様と仲良くしていた。5世紀になって河内を拠点とする違う人が治めた時には、西条の王様と仲良くする・・・

 つまり、都出教授は、日岡山から西条への古墳への移動は、中央の支配者の変動に連動した動きと指摘されています。

 *『開かれた古墳時代のタイムカプセル』(加古川市教育委員会)参照

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八幡町をゆく(8) 下村の綿作

2024-05-28 09:57:16 | 加古川市八幡町をゆく

      八幡町をゆく(8) 下村の綿作


  江戸時代、大坂や江戸の巨大都市が生まれ、交通も発達し、商品の流通は盛んになりました。
 江戸時代の後半、綿花は商品として大規模に栽培されるよういなりました。
 特に、姫路藩は、財政改善の切り札として綿を藩の専売として奨励しました。
 姫路木綿は、品質がよく、江戸で大好評を得た。木綿の多くは、加古川地方で栽培されました。
 文化14年(1817)、上西条(加古川市八幡町)では全耕地面積の21.9%に綿が植えられ、新田のみでははるかに多く、本田の2倍以上を占めていました。
 ここに下村(加古川市八幡町)の綿作の記録があります。下村も畑地と新田畑に集中しています。
 綿作比率は、文化4年(1807)まで、全耕地の10%に満たなかったが、文化 10年後に急速に増加し17.3%を占めるようになりました。
 特に、畑における増加は著しく、享和年間の2・3倍の面積を綿花が占め幕末にいたっている。
 下村の総面積に対する綿作比率(%)の推移を挙げておきます。 


    享和元年(1801)   8.2     文化4年(1807)   8.2  
  文化10年(1813)    17.3     文政5年(1822)  17.4
  天保3年 (1832)  13.4     天保13年(1842)   16.2  
     弘化4年 (1847)  14.5 

  
 秋には真っ白い綿花の風景が広がっていました。
*『近世農業経営の展開(岡光夫著)』(ミネルヴァ書房)参照
 

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八幡町をゆく(7) 太子岩附近にて

2024-05-27 08:47:40 | 加古川市八幡町をゆく

   

  八幡町をゆく(7) 太子岩附近にて


 太子岩付近の本流は比較的水深が浅かったので、鮎釣りをする人や雑魚とりの好きな人が上流から鮎を追って狭い箇所に集め網を打って、これを捕獲していました。
 加古川の鮎は味も香りも一よいと言うので食通には大変評判がよく、子供は、石の下にかくれているえびや雑魚をすくい捕るなどして夏の間はあそびました。
 そうして、水に親しんでいると別に練習などしなくても、いつの間にか泳げるようになっていました。
 五ケ井堰の水門の下流は清流で小砂利が多かったからシジミ貝がたくさんとれました。
 水門の中では小さなえびが側壁にくっついているのを網ですくうと短時間に沢山の小えびがとれ面白いように獲れました。
 太子岩附近は水が淀んでいて流れがゆるやかで深かったので水の多いときは、岸から太子岩まで泳いでも背の立たないこともあり、水の少ないときは太子岩まで泳いで岩の上に立つことができ、そこまで泳げることが自慢でした。
 水門付近は、螢の名所で、六月の初旬になると、沢山の大きな螢が飛び交い明滅するので、麦藁の束を持って行きそれを捕えるのも楽しみでした。
  夏休みになると児重は昼寝の時間に太子岩附近へ泳ぎに行って、タニシを糸でくくったのや米糠で作った団子を餌にして岩にかくれているエビをおびき出し、網ですくい上げて楽しんでいした。
                中西条  山 本 定 次 『ふるさと やはた』より

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八幡町をゆく(6) 叺(かます)

2024-05-26 07:02:51 | 加古川市八幡町をゆく

            八幡町をゆく(6) 叺(かます)


 ・・・・農家の耕作の田鍬きはすべて役牛に頼っていましたので、たいていの農家は温和な牝牛を飼っていました。
 小学校の高学年になると、草刈りをしたり、牛に稲わらや米ぬか・麦などの餌を与えることが学校から帰っての仕事でした。
 また、昭和初期は現在のような会社や工場は少なく、農家はカマスや筵(むしろ)を生産して現金を得ていました。 
 そのため、子供たちはこづかいをもらう楽しみに、よく手伝いをしたものです。
 

 注:叺(かます)    袋の一種。藁蓆(わらむしろ)を二つに半折し、両端を縄で閉じて封筒状にした容器である。肥料、石炭、塩、穀物などを入れる。多木肥料からの注文がありました。
 冬の問は裏作として麦を作り、五月上旬に種籾を苗代に蒔き、6月上旬に麦の収穫と田植えをします。


 手植えで大勢の人手が必要で、稲の成育中は、手押しの除草機で草取りをします。病虫害の予防もはとんどできない状態で、誘蛾灯で殺虫するくらいでした。
 また、肥料も堆肥が主で、硫安や過燐酸・石灰・大豆粕・魚粉などは高価で、あまりつかいませんでした。
 稲の収穫も手で一株ずつ刈り取り、稲架で干し、足踏みの脱穀機で脱粒。
それを唐箕(とうみ)で選別し、筵(むしろ)で乾燥していました。
 その当時、籾摺り機だけは石油発動機による自動籾摺り機があり、それを
持つ人は村中で一人か二人でした。その自動籾摺り機で村中の籾を賃摺りして、短時間に多量の玄米にすることができました
 また、わずかな先進的な農家が、動力脱穀機を使い始めたのもこの頃でした。
  昭和12年より、日中戦争が起こり→国中が軍事一色になり、戦闘用の兵器は長速の進歩を遂げましたが、農具は役牛用の物くらいがわずかに改良されるにすぎませんでした。
 昭和16年、第二次世界大戦が始まり、戦争が激しくなると、兵器・軍需物資の生産に全力を注ぎ、農具の改良どころではありませんでした。・・・
*以下、省略     

                                                                                                           宗佐 小田太一 『ふるさと やはた』より

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八幡町をゆく(5) 田 植

2024-05-25 06:56:15 | 加古川市八幡町をゆく

      八幡町をゆく(5) 田 植 


  朝まだ太腸が顔をのぞかせない暗いときに起きて、おみそ汁・潰けもの・塩こんぷの簡単な朝食をすませてから、おべんとうを持って田んほへ出かけます。
 親戚二、三軒寄って、まず縄をはり、いろいろな世問話をしながら、ときにはヒルに吸いつかれて悲鳴をあげたこともありました。
 背中一度いに太腸の光を受けて、一株一株植え付けると、まるで緑のじゅうたんを敷きつめたようになります。
 お昼時、田の畔に擾をおろし、溝に足をつけてひろげるおべんとうのおいしかったこと……。
 雨が降っても田植えは休めま甘ん。かえるが、「ゲロゲロ」合唱するなか、みのがさを着て一生懸命植えまレた。


     さなぼり


 田植えが終わると、「さなほり」という休(・・)みがあり、街へ買い物行ったり、ご馳走をしりすることが楽しみでした。
 それからは、草とり機をころがしたり、ひえ引き、肥料、牛の堆把を入れたり、農薬散布と忙しい毎日が擁きます。今年は台風が上陸しなかったので
大豊作でした。黄金色の穂が重く垂れ下がり、ザックザックと鎌で刈りとるとき眇うれしさは、忘れることができません。
 しかし、脱毅したもみや機械を道まで出すのが、一苦労でした。
 「かど干し」といって、庭先にムシロをひいて、その上もみを干しもみ摺りを終えて玄米になります。
             宗佐 藤田ことゑ 『ふるさと やはた』より


*写真:「さなぼり」・田植えを終えたころ、加古川商店街で開催されていた大売出し。

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八幡町をゆく(4)  村につき電灯がつき、電話が開通しました

2024-05-24 07:18:05 | 加古川市八幡町をゆく

 

 八幡町をゆく(4)  村につき電灯がつき、電話が開通しました


    電灯のありがたさ 


小学校持代(大正の初期)はになると、ほとんどの家が行燈(あんどん)を用いていました。
少しハイカラな家ではランプでした。
でも、毎晩ランプをつけると油代が高くつくので、お客さんでもある時は別
として、それ以外はできるだけ行鐙でした。
そんな暗い灯の下でも親は毎晩夜業に土間で縄ないや、草履作りをしていました。
 大正三年電灯がつきました。それも、六燭光の電球が一戸一灯でした。
当時は、その明るさに驚喜したものです。
「マッチで電気をつけようとした老人もあった」という笑い話があります。る
以来僅か70年余あまり。今では電気なしには生活できない社会になりました。
文明の有難さを思うと今昔の感にたえません。
                        中西条   山本定次

   

    電話


 加古川郵便局で竜話交換業務を開始したのが明治45年4月。
当地方では八幡村国包郵便局で電話交換業務を開始したのが大正12年3月。
当時、八幡村での電議加入者は3~4で、集落で電話のないところもありました。
昭和47年、上西条、中西条境の宮山脇に無人の自動交換局が設置され、今八幡町の加入者教は1700を越え、殆んどの家庭に架設されるようになりました。
                       下村  本 岡 豊 二

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八幡町をゆく(3) 亀の井堰と亀の井用水の受益地域

2024-05-23 08:43:49 | 加古川市八幡町をゆく

 

 

       八幡町をゆく 亀の井堰と亀の井用水 

  国包は上荘町ですがここでは八幡町として話を住めます。
 国包は、5日も日照が続くと、ツルベで朝夕灌漑をしなければならず、他の村から嫁入りが嫌われていたといいます。
 そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門が美嚢川(みのがわ・三木市)が加古川に出る手前から取水するための堰をつくりました。
 この用水は、国包村、船町それに宗佐村の畑地(図の赤く塗りつぶした場所)を潤し、水田化するためのものでした。
 井堰の構造が割石を亀の背中のように丸く積み上げたことから、堰は「亀の井堰」、用水は「亀の井用水」と呼ばれるようになりました。
現在、石組みはなくなり、写真のようなコンクリートの堰に変わっています。
 取水方法も、「水がいる時期に風船が膨らみ川をせき止め水をためる」ように変わりました。
 田畑に水が必要な田植え時期や、今の時期にゴム風船を膨らませたような堰を見ることができます。お出かけください。
 *写真と図:亀の井堰と亀の井用水の受益地域(赤く塗った所)

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八幡町をゆく(2) 国鉄(JR)国包(くにかね)駅

2024-05-22 09:31:47 | 加古川市八幡町をゆく

   八幡町をゆく(2) 国鉄(JR)国包(くにかね)駅


 国包(くにかね)は、志方町の投松(ねじまつ)と共に難解地名としてよく紹介されます。
 加古川市の人にとっても、国包はよほど八幡地区と思われているらしく、国包には写真のような丁寧な説明板がありました。
 築山の近くにあった「この表示板」は現在ありません。

          昔、JR加古川線に国包駅がありました


 JR加古川線は、大正二年(1913)、加古川~西脇間で開業しました。会社名は「播州鉄道」でした。
 開業後、経営難もあり、大正12年(1923)に播但鉄道に経営は移りました。
 大正五年(1913)、西脇まで播州鉄道は開通します。この時、国包に「国包駅」が設けられました。
 そして、大正五年(1916)に国包と別所(三木市)間に三木鉄道が開通し、翌年、三木まで延長されました。
 三木鉄道に「国包駅」が設けれられることになり、それにともなって、加古川線の「国包駅」は「厄神駅」になりました。
 現在、三木鉄道は廃線になり、「国包駅」の名称はなくなりました。 
 

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八幡町をゆく(1) 冊子『ふるさと やはた』

2024-05-21 09:44:30 | 加古川市八幡町をゆく

 

         八幡町をゆく(1) 冊子『ふるさと やはた』

 
 明治22年、町村制実施に伴い、野村(野村新村と野村は、明治初年に合併し、野村となる)・宗佐(そうさ)・下村・船町・上西条・中西条が合併して「八幡村」が誕生しました。
 史料が少ないため、詳しくは分かりませんが、町名はこの地区にある「厄神・八幡神社」から、八幡を「やはた」と読ませ、村名にしたようです。
 さあいわい、私の手元に、『ふるさと・やはた(高齢者生きがい充実特別事業著)』と言う冊子(写真)があります。
 下村・宗佐・中西条の高齢者の力作です。
 明治・大正・昭和の八幡町の歴史は、この冊子を紹介してくださいました。
 冊子の「あとがき」に、「・・・編集者として20年・30年先には、おじいちゃん・おばあちゃんたちが書き残した貴重な財産になるようなものを作りたい・・・」と書かれています。
 この冊子の発行は、昭和59年3月ですからすでに発行から75年がたっています。
 「あとがき」にある、昭和59年をはるかにより超えています。
 貴重な冊子になりました。冊子の存在を知る人も少ないようです。
 八幡町の古いところは、『加古川市史』などを参考にして、八幡町を再現しましょう。
 もっとも、他の町の紹介と同様、かなりの独断と偏りを持った記述になりますが、お付き合いください。

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平荘町・上荘町をゆく(64) 山角(やまかど)廃寺

2024-05-20 08:24:35 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     平荘町・上荘町をゆく(64) 山角(やまかど)廃寺

 平荘小学校の校庭の隅に、塔の心礎(写真)があります。中心に円形の孔が彫りこまれています。

*昨日、山角廃寺の礎石(写真)を撮影に平小学校へ出かけました。残念なことに同校は今年から小中一貫の義務教育学校「両荘みらい学園」になり校門には鍵がかかっており入ることはできませんでした。写真は数年前に撮った一枚です。

 かつて、山角(やまかど)に寺があったことを物語っています。
 この寺の元の位置についてははっきりしませんが、近くに古瓦の散布が見られたという報告があり、おそらく、この付近にあったのでしょう。
 仏教は6世紀に朝鮮より伝わり、白鳳時代(645~710)に、非常な勢いで全国各地にひろがりました。
 山角にある古代寺院もその一つです。
 加古川市には、同時期の寺院として、野口・西条・中西(西神吉町)・石守(神野町)等でも確認されています。
 時代は仏教文化が、古墳文化にとって変わろうとする時期でした。とすると、この寺院を建設したのは、それまで古墳を築いていたこの地域の豪族であったとも想像できます。
 平荘は、古墳の発達した地域でした。
 荘園時代、山角辺りは、印南荘屏村と呼ばれていた。屏は塀であり、西と北を山(塀)で囲まれた地形です。
 慶長時代の絵図では、山角は山門の字を当てており、村の名前は、山(塀)の前にある村の意から来ているのかもしれません。
 加古川市史(第一巻)は「・・今後における資料増加に期待するとして、ここでは7世紀末から8世紀はじめのころに創建された山角廃寺の存在を推測することにとどめておきたい・・・」としています。

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平荘町・上荘町をゆく(63) (民話)芝村の天神さん

2024-05-19 09:32:10 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   平荘町・上荘園町をゆく(63) (民話)芝村の天神さん

 むかし、仁明天皇の頃の話です。
 平荘の芝村(現:養老)の医者の娘に、きくのという人がいました。
 京都の貴族の家に奉公をしていました。きだての良い娘でした。
お嫁入りの年頃になったので、おひまをいただいて家に帰り、25才で結婚し男の子が生まれました。
 とっても、かわいい子でしたが、ふとした風邪がもとで亡くなってしいました。悲しいことが、重なりました。
 夫も二ヶ月後になくなったのです。きくのは、生きる望みがなくなりました。
 ちょうどその頃、都の菅原是善卿(すがはらこれよしきょう)夫妻に男の子が生まれ、乳母を捜しておられました。ある人の紹介で、きくのが是善卿のところへあがることになりました。
 是善卿の若君は、後の道真公です。
 きくのは、道真公が8才になるまで大切にお世話をしました。
 きくのは「・・・若君も、もう8才になられ、ことに優れたかたになられ、たのもしく思っています。このあたりで、故郷へおひまをいただきとうございます。・・・」と是善卿に申し出ました。
 その後、道真公はたいそう位の高い方になられました。
 道真公が57才の時でした。
 道真公が偉くなるのを恨んだ藤原時平が、道真公が悪いことをたくらんだと陰謀をめぐらし、罪をかぶせました。
 道真公は、筑紫の大宰府に流されることになりました。

         道真公との再会

 都をあとに、船で播磨灘にさしかかったとき、にわかに海が荒れて船が沈むばかりになりました。
 やっとの思いで、別府(加古川市別府町)の浜にこぎつけ上陸されました。
 そして、あたりをご覧になりながら、「私が小さい時、乳をもらった乳母は、この近くの芝村というところだったが、ここからどれほどの道のりですか・・」と村人にたずねられました。
 「一里ばかりです」と村人は答えました。
 道真公は「きくのは、生きていないかもかもしれないが、せめて乳母の住んだあとだけでもたずねてみたい・・」と芝村にでかけられました。
 きくのは、生きていて二人は再開するができました。
 別れの時です。道真公は、きくのにもう二度と会えないかもしれないと、歌をお詠みになりました。
     ながらえて ありとも我は おもはじな
      逢見るそ社(こそ) つきぬ奇縁を
 (わたしは、生きながらえて もういちどお目にかかれようとは思いません。今日こうしてお会いできましたことこそ、尽きない不思議なご縁がありましたから)
 その翌年、きくのは亡くなりました。
 きくのには、子どもがなく家が絶えたため、短冊は村長(むらおさ)に預けられました。
 芝村では、この短冊をご神体として、きくのが住んでいた場所に天神社(写真)を建て、お祭しています。
 後、芝村には雷が落ちたり、火事がおきたりする心配がなかったと言い伝えられています。
 *こんな民話が、芝村に伝わるのは、姫路から大坂・京都への道、湯乃山街道が平荘を通っていたからではないでしょうか。

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平荘町・上荘町をゆく(62) 一本松(加古川市平荘町)◇     

2024-05-18 10:30:50 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

             平荘町・上荘町をゆく(62) 一本松(加古川市平荘町)
 
 姫路市の「一本松村」の話からはじめます。
 姫路市の国道2号線、市川橋東詰あたりに「一本松」(姫路市花田町)があります。
 この一本松について『姫路の町名』(神戸新聞総合出版センター)は、次のように説明しています。
 この村(一本松村)は、元西南のところにあり、大きな一本の老木があったので一本松と呼ばれるようになっていたのですが、明暦年間(1655~58)に市川の本流が改修された時、川の中に没し、村は原野だった現在の所に移って「一本松原田村」となり、のちに「一本松」と呼ばれるようになりました。

 村人の一部は、印南郡平荘村(現:加古川市平荘町)に移り一本松新村をつくりました。
 平荘町一本松は、姫路の一本松村の人が移住してできた村です。
 後に、牛谷(高砂市)からの移住もあり、元禄10年の記録では、村高170石の大きな新田村となりました。
 『印南郡史』には「・・・一本松村より移住せしは岸本家一統にして、玉岡家一統は、その後牛谷より来住せしものなり・・・」と書いています。

  一本松は、上荘町の村々とよく似た斜面上の集落です。
 集落の南に西川が流れていますが、水の得にくい土地柄でです。
 地図を見ながら推測だけで書いています。
 村の北に大きな三つの池(北から奥ノ池・土ノ池・中ノ池)があります。
 一本松村にとって、これらの池は悲願であったに違いありません。
 

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平荘町・上荘町をゆく(61) 寺谷新村(現:東磐)

2024-05-17 09:47:43 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(61) 寺谷新村(現:東磐)


 『印南郡史』からの引用です。(書き直しています)


 ・・・・磐村は、もと寺谷・蔭山の二村であったが、明治11年10月合併して一村となりました。
 村の名・磐(いわお)は、村の北一帯につながる紅岩(べにいわ・写真)にちなみ磐村としています。
 (中略)寺谷村(現:東磐)の開発について、岸本家の過去帖には次のようにあるります。
 ・・・・岸本市右衛門源與は天正13年(1585)3月25日生まれで、・・・・慶長11年(1606)、見土呂村に来て、同14年から16年の間、寺谷(ひがし磐)の地の水の状況を調査し、同17年(1612)3月のはじめ28歳で当村を開発ました。
 なお、『印南郡史』には、「寺谷村と名づけたのは、この地に報恩寺の一院があったためと伝えています。
 地名に“寺所口”を言うところが残っていますが村の名は、これによるものでしょう?
 岸本市右衛門は、寛永9年正月の22日49才で没しました。
 *『印南郡歴(前編)』参照  写真:紅山(べにやま)

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