ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

漂う春の香り(東志方町広尾円照寺)

2018-01-31 08:20:03 | 風景

 毎年この時期になると、新聞は円照寺の「ロウバイが咲きました」というニュースを伝えます。

 この記事を読むと、もうすぐ春だと嬉しくなります。

 以下は昨日(1/30)の神戸新聞からの転載です。

 なお、今年のロウバイの写真も添えられていましたが、ブログの写真は去年の同新聞のロウバイの写真です。

 記事では、孫(当時小2)をモデルに使っていただきました。

      漂う春の香り

 「花の寺」として知られる円照寺(加古川市志方町広尾)の旧境内で、ロウバイの花が見頃を迎えた。

 ろう細工のようにあでやかな黄色い花が、厳寒の青空に映えている、見頃は2月中旬まで。

 中国原産の落葉低木。

 同寺では、上月譲宗住職(71)が三十数年前から、丸みのある花弁が特徴の「マンゲツロウバイ」を植え始めた。

 今は3株が残り、最高約5㍍の木もあって毎年花を咲かせる。

 今年は例年通り、1月中旬に2㌢ほどの小さな花を咲かせ始めたが、寒波で開

 花が滞っているという。

 現在は四分咲きで、2月上旬には満開を迎える。

 近くの久保田悦子さん(33)は愛犬の散歩で旧境内前をよく通るといい、「かわいらしい花から優しい香りがする。春がすぐ近くに来ているのかな」と話した。

 円照寺 ☎0794522067(辰巳直之)(no98

 *きのう(1/30)の神戸新聞朝刊より(写真は、昨年の同場所でのものです)

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生きている証のために

2018-01-30 07:28:02 | 余話として

         生きている証のために

 退職してから14年ほどがたちました。早いです。

 退職後最初の2年間は、ある大学(院)で英語を勉強しました。

 そして、その後、「まだ、元気で生きているゾ・・・」ということを証明するため「ひろかずのブログ」をはじめました。

 はじめは「エッセーでも書こうかな」と考えたのですが、ダメでした。才能(文才)がないのと生活領域が狭く、すぐにネタ切れになってしまいました。

 そこで、少し関心のあった地域の歴史を中心に書き始めました。

 でも、始めた当時は「ひろかずのブログ」は当然のごとく知名度はゼロ。

 アクセスは、ほとんどありません。

 1日に20もあればいい日が1年ほど続きました。それでもめげずに続けました。

 3年ほどたった時です、号数は1700号を超えました。

 アクセスも250ほどに増えたときです。神戸新聞の記者(I記者)が読まれて取材に来てくださいました。

 アクセスは250ぐらいであったのが一挙に7001000に跳ね上がり、以後その数字が定着しただけでなく、その後徐々に増えて、現在はほとんど1日に2000を超えるようになりました。

     「 ひろかずの日記」もよろしくお願いします

 昨年、気楽に、好きなことを書きたい欄がほしくなり、新たに「ひろかずのブログ」と並行して、「ひろかずの日記」をはじめました。

 無責任なまとまりのない、その日の気分任せのブログです。

 それでも50100ほどのアクセスはあります。(*昨日のアクセスは106です)

 今後、アクセスを考えず「なんでも」書きますのでよろしくお願いします。(no97

 ◇写真:「ひろかずのブログ」が1700号になったときの新聞記事(神戸新聞)

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『追及力』(光文社新書)を読みました

2018-01-29 09:15:08 | 読書

     『追及力』(光文社新書)を読みました

 きのう(1/28)東京新聞記者・望月衣朔子さんと参議院議員の森ゆうこさんの『追及力』を読みおえました。

 望月さんの本は、今月に入り『新聞記者』「武器輸出と日本企業』に続けて3冊目です。

 新聞記者の本はいいですね。

 まず読みやすいことです。読者が読んでくれる文で書いています。

 それに多くは、現代進行形の問題をあつかっておられるので、とにかくわかりやすいです。

 でも、望月さんの本を読んでいると彼女の行動が想像され、感情が乗り移ってきます。

 望月さんのエネルギィ―がビンビン伝わってきます。

 退職者(私たち)の「のんびり感」に浸っている生活が叱られているようです。

 そして、保守政党の醜さ(横暴さ)を新聞記者だけでなく私たちも注視し続けることを訴えておられます。

 

 もっとも新記者の書かれたものがいいというわけではありません。現在の政治状況に「よいしょ」をしている記者もたくさんおられます。

 現在の保守政党は、どうしてここまで堕落し、傲慢になってしまったのでしょうね。

 先日、野中広務元自民党の幹事長が亡くなられました。

 あのころは、まだ自民党は「あからさまな憲法改憲を否定し」「武器輸出はしない」「原発を外国に売ったりはしない」等々の政策を堅持されていました。

 今の政府・自民党は何でもありです。

 そして、貧富の差を広げています。

 いま、行政の歪みに素直な怒りの声をあげることが必要ですね。(no96

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夜明け前の散歩

2018-01-28 09:10:00 | 散歩学

      夜明け前の散歩

 この年(74才)になると、寝つきが悪い日が月に12度あります。

 そんな日の翌日はよく寝れますので、あまり気になりません。が、夜が長いのには閉口します。

 26日がそうでした。

 10時ごろに寝て、ベッドで1時間ほど本を読みます。私の至福の時間です。

 そのあと11時頃に寝たのですが2時には目が覚めてしまいました。そのあと寝れません。

 時間が過ぎるのが遅いです。まだ3時、まだ4時時・・・・

 あきらめて、起きだしました。

 コーヒーを沸かし、本の続きを少し読むことにしました。

 5時になりました。

 外はまだ真っ暗。

 

 幸い、外は寒そうですが、無風状態。

 朝飯前の散歩に出かけました。

 いつものコースですが、少しだけ変えました。といいうのは暗いんです。路地を歩くことやめました。

 いつもなら裏道を歩くのですが、泥棒と間違えられそうです。それに、犬がいいます。

 吠えられそうです。

 この時期(冬)の、この時間の散歩は少しきついようです。今日は、たまたま無風でラッキーだっただけです。

 ゆっくりと5.000歩を歩きました。

 気温は低いのですが、汗をかきました。

 冬のこんな時期に外を歩いて、汗をかいて着替えた経験がありますか。

 その後のコーヒーは特別でしたね。(no95

 *散歩の後のコーヒー(ひろかずのイニシアル「H」の愛用のカップで)

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湯乃山街道(ゆのやまかいどう)を歩く

2018-01-27 05:12:15 | 散歩学

 先日、厄神から宗佐を歩きました。

 1014年、この道を何度も歩きました。

 といいうのは、この年にNHKドラマ「軍師・官兵衛」が放映され、地元の学習会でも官兵衛を取り上げました。その調査(取材)のためでした。

 「軍師・官兵衛」の舞台の中心は姫路市でしたが、加古川市も登場しました。

 ここから西へ行けば、官兵衛の奥さんの里の志方城です。東へ行けば三木城(別所氏の居城)です。

 戦国時代、志方と三木城の間に国包・宗佐は兵(つわもの)であふれていました。

     湯乃山街道(ゆのやまかいどう)

厄神・宗佐を通るこの道は湯乃山街道です。

 三木からさらに西へ姫路まで加古川市の北部を通る道です。

 その昔、摂津と播磨を結ぶ道は、海岸部の山陽道(江戸時代の西国街道)ばかりではありません。

 湯乃山街道は、有馬温泉を通るため、そう呼ばれる山陽道の裏街道でした。

 湯治客ばかりではなく、多くの人が利用した道でした。

 特に南北朝の時代、播磨と西摂津を制した赤松氏がこの道を重要視し、京都への軍事道路として整備した街道です。

 湯乃山街道は、京都・大阪方面からから有馬・三木そして加古川へ、そこで加古川を渡り、志方町・姫路へと湯乃山街道は、さらに伸びています。

 加古川市の上荘・平荘・国包・宗佐等の各村々は、湯乃山街道沿いに発達しました。

 湯乃山街道を人々は行きかった。物や情報が動きました。

 昔、湯乃山街道沿いの村々には賑わいがありました。

 以下、蛇足である。

 姫路から官兵衛の妻の実家・志方へは、湯乃山街道が一番便利でした。官兵衛は元気な頃、この道を何回となく歩いています。

 「志方城は三木方であるため、人目をさけて夜が多かったのではないか」と想像します。(no94)

 *写真:旧、湯乃山街道(国包あたり)

 

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廃線跡(三木線)を歩く

2018-01-26 07:44:04 | 散歩学

 若いときにポルトガル語を勉強しました。

 理由は、加古川市がブラジルと姉妹都市のためポルトガル語講座を開設したためでした。

 でも、私にとって理由はそれだけではありません。

 「ポルトガル」という単語が持つニュアンスに魅かれためです。

 「ポルトガル」は、その単語だけで大海の潮のにおいがあります。

 それに遠い昔の西洋の歴史をまるごと含んだ言葉でした。

    廃線跡(三木線)を歩く

 「廃線」も、「ポルトガル」同様に、それだけで風景なります。

 23日、10年ぶりで廃線になった三木線の国包駅のあった場所に出かけました。

 それだけで、もう懐かしい気持ちにさせられました。

 そこから廃線上を加古川線の厄神駅まで歩くことにしました。

 少しおかしくなりました。

 「廃線」の単語に一番ピッタリする言葉は「哀愁」でしょう。

 74歳のお爺さんがその廃線上を若干猫背でトボトボと歩いている姿は絵になります。人生に疲れた老人そのものです。

 こう、もう一人の私が冷ややかな目でみています。

 ものずきに、こんな寒き日にはだれも歩いていません。

 猫や犬さえ歩いていません。

 厄神駅まで、誰にも出会いませんでした。

 

 厄神駅の裏側に到着しました。ちょうど踏切の警報が鳴っています。

 西脇行きの電車が入ってきました。

 南端のホームの外に歴史を終えた三木線の跡がそのままに残っていす。・・・・

 きのう、芥川賞受賞者・若竹千佐子さんに刺激されて、少しだけましな文で書こうと思ったのですが、やはり無理でした。

 やはりいつもの拙文で書くことにします。よろしく願いします。(no93
 *写真:JR加古川線の厄神駅裏に残る三木線の廃線跡

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脳内の住民どもが大騒ぎ

2018-01-25 12:40:46 | 読書

 74歳のお爺さんです。新聞は、よく読むほうだと思っています。

 その理由なんて考えたことがないのですが、「①知らないことを知ることができる。②読みやすい」ということがその理由でしょう。

 でも、今日の文化欄(神戸新聞)で芥川を受賞された若竹千佐子さんの「脳内の住民どもが大騒ぎ」という文章を読みました。新鮮でした。

 その最初の部分を引用させていただきました。続きは新聞をお読みください。

 明日の「ひろかずの日記」では、若竹さんに影響されて少し気取って書いてみますか・・・・

     脳内の住民どもが大騒ぎ(神戸新聞より)

 ええ、芥川賞受賞などという晴れがましきことが私の人生途上にあるなどとはおそらく神様さえもご存じない。

 ただただ感涙にむせんでいるのであります。

 思い起こせぱ今を去ること約54年前。

 10月鍬天の東京オリンビック。

 両の瞼を閉じますればはっきりと目に映るのはソビエトの重量挙げ選手その名もヤボチンスキーの活躍、金髪碧眼のベラ・チャスラフスカ、なんと綺麗だったことでしょう。

 高らかに鳴るファンファーレを聞き、東京の向こうに世界が広がっていると感じたのです。

 あの時初めて、東北の田舎町の大柄の小娘は世界を知ったのであります。

 かび臭い暗い図書室で、本棚の片隅に私の書いた本は並べばいいなと思った。爾来かたときも・・・

 あっあっどうしたことでしょう.

 脳内の住人が結界を打ち破り現実界になだれ込もうとしております。

 ひとこと、ひとことだけでも言わせてくれと、そりゃもう雲霞(うんか)のことく、怒涛の勢い・・・・(no92

 *写真:若竹千佐子さん(神戸新聞より)

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三木線「国包駅」跡~JR厄神駅までを歩く

2018-01-25 09:06:37 | 散歩学

 

      国鉄 (JR)「 国 包 駅」

 JR加古川線は、大正二年(1913)、加古川~西脇間で開業ました。会社名は「播州鉄道」でした。

 開業後、経営難もあり、大正12年(1923)に播但鉄道に経営は移り、その後、国鉄に買収され、さらに国鉄民営化の中で、JR加古川線となって現在にいたっています。

 開業当時、国包に設けられた駅は、現在の「厄神駅」ではなく「国包駅」でした。

    三木線国包駅跡~JR厄神駅までを歩く

 23日は午後から気温はどんどん下がりました。

 が、「寒さにも負けず」久しぶりで国包~宗佐間を歩きました。

 途中、かつて「三木鉄道の国包駅」のあった場所に寄りました。

 もちろん廃線で、駅舎は取り壊されて残っていません。

 ただ、線路跡(写真)はレールは、ないもののそのままです。

 74歳のお爺さん、年甲斐もなくうれしくなり、JR加古川戦の厄神駅までどんどん歩きました。あす、「散歩記」として報告します。

 三木線のことです。三木線は大正五年(1916)に国包と別所(三木市)間に三木鉄道が開通し、翌年、三木まで延長されました。

 三木鉄道に「国包駅」が設けられました。

 それにともなって、加古川線の「国包駅」は「厄神駅」に変更されたのです。

 2008年3月廃線となり、「国包駅」の名称もなくなりました。(no91)

 *写真:三木線廃線跡(1/23日撮影)

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欅(けやき)の樹は残った

2018-01-24 08:06:34 | 散歩学

 23日の午後は冷え込みました。でも、久しぶりで国包から宗佐地区を歩いてきました。国包公民館の前で見つけた欅を紹介します。

      加古川市との合併

 明治22年4月1日の町村合併でも、国包地区は印南郡上荘村のままで残り、今日まで川東ですが上荘地区国包として続いています。

 八幡村と加古川市との合併が持ち上がりました。しかし、八幡村が加古川市と合併するとなると国包は川東と川西の上荘村とに分かれる分村問題に発展しかねません。

 昭和30年1月25日に、加古川市の議長・合併委員長・助役が山手三ヶ村(上荘村・平荘村・八幡村)を訪問し、正式に合併を申し入れました。

 いろいろと課題はありましたが、その後、合併の話はトントン拍子に進み、3月12日に加古川市と山手三ヵ村との合併を決議しました。

 昭和30年4月1日、加古川市上荘町、平荘町、八幡町は加古川市として新しいスタートをきったのです。

             欅(けやき)の樹は残った

 ここで問題が残りました。国包地区の通学の問題です。

 国包地区の児童は、近くに八幡小学校があるのに川を渡って、二キロメートルの道を歩いて上荘小学校へ通っていました。

 二年生までは国包に分教場があり、三年生から本校へかよいました。

 昭和30年4月、山手三ヵ村(上荘村・平荘村・八幡村)が加古川市に合併したため、小学生の通学区の問題が話し合われました。

 町内会長らの粘り強い交渉が実を結び、昭和37年(1962)4月の新一年生から国包地区の児童は八幡小学校へ通学できるようになりました。

 この分教場があった場所は、いま国包公会堂となっています。

 分教場には大きな欅の樹(写真)がありました。

 分教場の写真がほしいのですが、どなたかお持ちの方はおられませんでしょうか。

 中学校は、戦後六・三制の実施に伴い、昭和23年に上荘中学・平荘中学が合併して組合立両荘中学校が設立されましたが、国包地区の中学生は、八幡・神野・加古三ヵ村の組合立山手中学校へ通学するようになった。

 大英断でした。

 *写真:分教場にあった欅(1月23日撮影)

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ガラスの都市

2018-01-23 08:33:37 | できごと

     ガラスの都市

 テレビは、東京の大雪のニュースを伝えています。

 下のニュースはインターネットからお借りしています。

 

 22日の大雪で、東京都心では4年ぶりに20センチを超える積雪となるなど、各地で大きな影響が出ました。
 気象庁によりますと、22日午後11時の積雪が、前橋市で28センチ、宇都宮市で27センチ、東京都心は23センチとなるなど、各地で大雪となりました。都心で20センチを超える積雪を観測するのは、4年ぶりです。
 千葉県山武市のJR東金線の踏切では、22日午後7時半ごろ、車が立往生し、車外に出ていた運転手の男性が電車にひかれ、死亡しました。警察は、雪の影響で車が立往生した可能性があるとみて調べています。
 この大雪の影響で、道路の真ん中で立往生する乗用車などが相次ぎました。

 ・・・

 現在の都市は、雪(自然)の前にはあまりにも、もろいガラスのような構造になってしまったようです。

 でも、歴史からは、少し違った生活が浮かび上がります。

      雪は悪者か?

 積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります。

 山の雪は、自然のダムでした。

 この雪が地下水となり、灌漑用水として稲を育ててきました。

 昔は雪が少ない年の翌年は干ばつに襲われたんです。

 雪が、交通の妨げになり邪魔者扱いされるようになったのは最近のことです。

 時代は、激変ました。

 

 当たり前のことをかんがえます。自然は雪だけではありません。

 日本に住む限り火山・地震(津波)等の災害は、近い将来に確実に襲来します。

 人は、あまりにも忘れっぽいのでしょうか。

 そうではないはずです。

 目前の利に目がくらんでいるだけでしょうね。

 一部の富裕者の利(益)を最優先させ、格差を広げながら・・・

 *写真:タクシー待ちの列(産経新聞より)

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きょうの予定:『武器輸出と日本企業』を読みます

2018-01-22 12:06:26 | 読書

   きょうは『武器輸出と日本企業』を読みます

 20日、『新聞記者(望月衣朔子著)』を読み終みおえました。

 余韻が残って言います。

 元気をもらった本でした。

 そこで、昨日(21日)同記者の書かれた『武器輸出と日本企業』(角川新書)が読みたくて、散歩を兼ねて本屋さんに出かけました。

 自宅から駅前の紀伊国屋書店までは約5.000歩です。朝飯前に自宅周辺を5.000歩を歩きますので、これで10.000歩になる予定でした。

 が、紀伊国屋では売り切れ。仕方なくパークタウンの本屋さんまで、足をのばしました。

 ありました!。

 パークタウンへ来たついでに店内を歩き回りました。特に買うものはないウインドウ・ショッピングでしたが楽しいですね。

 楽しい散歩はすぐに歩数が伸びます。

 その日は、15000歩を超えてしまいました。

 

 おかげで、昨夜はよく眠れました。でも、今朝は少し疲れが残っているようです。

 すっかり習慣になりました朝飯前の散歩に出かけました。

 少しだけ工夫をしました。

 いつもは、自宅周辺と長田(尾上町)の集落の中を左回りに歩くのですが、今朝は初めて反対に歩いてみました。

 見慣れた風景も、違ったように見えます。すぐに5.000歩の散歩になりました。

 今、1130分です。

 ・・・

 気温が下がっていますが、幸い風がありません。昼から平荘湖を歩いてきます。

 帰りに、喫茶店によって『武器輸出と日本企業』の残りを読んでしまいます。

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『新聞記者(望月衣朔子著)』を読む

2018-01-21 09:37:18 | 読書

    『新聞記者(望月衣朔子著)』を読む

 18日に紀伊国屋で買った新書で、『新聞記者(望月衣朔子著)』(角川新書)です。

 公民館の歴史講座(1/20)をしてきました。その後、喫茶店に寄りこの本の続きを読み終えました。

 元気になりました。

 「はじめに」で、望月さんは、次のようなことを書いておられます。

 

 ・・・今の段階では、森友、加計間題をはじめ、政権や官邸に対する疑間が払しょくされたとは思えない。

(鑑定会議で)だれも聞かないのなら、私が聞くしかないとも思っている。

 社会派を気取っているわけでも、自分が置かれた状況に舞いあがっているわけでもない。

 おかしいと思えば、納得できるまで何があろうととことん食い下がる。

 新聞記者として、警察や権力者が隠したいと思うことを明るみに出すことをテーマとしてきた。

 そのためには情熱をもって何度も何度も質問をぶつける。

 そんな当たり前のことをしたいと思う。

 

 最後に、次のマハトマ・ガンジーの言葉を紹介しておられます。

 ・・・あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなければならない。そうしたことをするのは、世界を変えることではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである(ガンジー)・・・

 「いま、為政者に無批判にしたがうことを一度立ち止まって考えなくては・・・」と考えます。

  この本を読み終えて、望月さんのエネルギーの源泉を発見したようです。

 まだ余韻が残っています。

 既刊書の蘭に『武器輸出と日本企業(望月衣朔子)』が紹介されています。 

 散歩を兼ねて本屋さんに出かけます。

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10.000歩の散歩

2018-01-20 08:46:38 | 散歩学

          10.000歩の散歩

 きのうは、11日の胃カメラに続いてCTの撮影でした。

 胃カメラとは違い、ルンルンの検査で終わりました。

 でも、朝食抜きでしたので、隣のパークタウンの食堂に直行しました。

 天丼は、美味かったですね。

 

 外に出ると、天気は春のようです。散歩をすることにしました。

 そのまま権現ダムまで車で出かけ散歩をしました。

 毎日、10000歩を目標にしていますが、内訳は朝飯前に自宅周辺を歩きます。

 これが、だいたい5000歩。

 それから新聞を読み、朝飯を食べ一日の決まったその日の生活が始まります。

 昼から、散歩の第2ラウンドです。

 この時のコースは、その日の気分で決めますが、平荘湖の周辺が多くなります。

 やはり景色が、きれいです。昼からの散歩も5.000歩ぐらいです。

 2回に分けて散歩すると10.000の散歩も楽に達成できます。

 今月は、今のところ毎日目標を達成しています。

 10.000歩を超過達成しているのは、2回の散歩の上に自宅でごそごそ動くためです。

 きのう(1/19)はCT検査のあと、一度に約10.000歩を歩きました。少し疲れましたね・・・

 *写真:権現ダムの遊歩道からの景色

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喫煙室の体験

2018-01-19 07:53:22 | できごと

       喫煙室の体験

 先日たいへんな経験をしました。

 散歩で、紀伊国屋書店へ出かけたんです。

 新書を2冊買って、さっそく読むために一階の喫茶店に寄りました。

 散歩で、ここに寄ったときのいつものコースです。

 コーヒーはうまいし、値段も320円です。

 注文をして、そして席を探したんですが満席でした。

 5分ほど待ったのですが空席はできません。

 喫煙室に1席あいています。

 しかたがないので喫煙室に入ることにしました。

 まず、嫌な臭いの襲来です。覚悟の上ですから仕方ありません。

 すぐに煙も押し寄せてきました。

 10分ほどいたのですが、もう我慢ができません。

 隣の女の人は、タバコをふかしながら平然とスマホに熱中。なんともないようです。

 読書どころではなくなりました。

 喫煙室から外の席のようすがガラス越しに見えます。

 15分ほどたちました。1席空きました。急いで喫煙席を脱出。

 それにしても、喫煙室は、大げさですが拷問部屋のようです。

 公衆の場所ではタバコは吸わない。あるいは、たばこの極端な値上げをする法律を作っていただけませんでしょうか。

 一度禁煙室を体験してください。

 

 ちなみに、ニュージーランドでは、たばこ1箱平均の値段は$14.67 (約1,760円)で、オーストラリアのたばこの1箱平均の値段 は$16.11 (約1,933円)だそうです。

 日本もそうなりませんかね。ニュージーランド並みのたばこ値上げ法案が国会で取り上げられると、保守系の議員さんたちは猛反対されるでしょうね。

 票が逃げていきますから・・・

 *写真:文章の喫煙(所)ではありません。

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東播磨の地震(その3) 津 波

2018-01-18 08:20:31 | できごと

     津 波

  東北地方太平洋沖地震では、過去に例をみないマグニチュード(M)9.0の大地震による津波が、東北地方全域を一瞬に飲みこんでしまいました。

 津波の高さは10メートルの堤防を軽々と越えています。

 津波は10~20メートルとかいわれていますが、被害状況をみているとそんなレベルではないようです。

 リアス式海岸を襲った津波は、せり上がり、50メートルという高さまで到達したところもあったようです。

     加古川地方の津波

 では、加古川地方(瀬戸内地方)は、かつて津波の襲来どのようであったのでしょう。

 瀬戸内海沿岸に来襲した地震津波に関しては、被害が少なかったためか関心も薄く、その実態はほとんど研究されていません。

 それでも、津波に関する古記録がわずかに残されています。

 それらから推測されます。

     宝永地震(宝永四年・1707)による津波

 宝永地震による瀬戸内海沿岸各地の津波は、大阪府で2.5~3㍍で、兵庫県では赤穂で最高の3㍍を記録しています。

 岡山県でも最高3㍍を記録しています。

 広島県では1.2~2㍍と、津波の高さは東高西低の傾向が見られます。

 これらの記録から、加古川地方でも最高3㍍の津波があったのではないかと推測されます。

    安政地震(安政元年・1854)による津波

 安政地震では、大阪府で2.4~3㍍、兵庫県2~3㍍で、神戸では2㍍、赤穂では最高3㍍の津波を記録しています。

 この時は、岡山県では1~2㍍程度の津波でした。

 このような状況から加古川地方の津波は2~2.5㍍程度の津波があったのではないかと想像できます。

 なお、先に紹介した昭和21(1946)の南海地震の津波は0.8~1.2と低い津波でした。

 残された記録等による推測によれば、加古川地方では津波による被害はほとんどなかったようです。

 それにしても、当地方の津波の被害は少ないようです。

 それは奇跡の地形にあるようです。太平洋からの大津波は淡路島でブロックされ、弱められているようです。

 でも安心はできません。

 *論文:「瀬戸内海の歴史南海地震の津波について」(山本尚明)参照

 

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