余話:新札発行前史 渋沢栄一、「今市札」発行
今朝の新聞各紙は20年ぶりの新札の発行のニュースをつたえています。
シリーズ「新井用水」連載をしていますが、今日は少しよりみちをし、幕末、高砂で新札(藩札)発行の前史があったことをお知らせしましょう。
余話として、「渋沢栄一と今市村」
後に大蔵官僚として大活躍する渋沢栄一は、幕末に一橋家に仕え、高砂市と関係を持ちました。
渋沢栄一は、一橋家の経済を立て直すためにいろいろと手を打ちます。
彼は、一橋家の財政立て直しのための一つに、播磨の特産品である木綿や菜種油に注目しました。
姫路藩の木綿専売制は有名ですが、一橋家領でも木綿が織出され、印南郡北部や加古川下流の今市・中島・曽根の諸村には木綿仲買が存在していました。
特に、今市村の木綿仲買は姫路藩領でも買取活助は姫路藩の専売削の阻害要因になるほどでした。(天領として木綿販売に姫路藩の専売制の方法で若干対立した点もあった)
渋沢は、一橋家領の木綿は、姫路藩のようにまとめて大坂・江戸で売るなら価格も上昇するだろうと考えました。
慶応元年(1865)に細工所村(加古川市東志方町)へ出張し、8月28日から1ヵ月間今市村に逗留して一橋産物会所(役所)の開設を準備しました。
今市村に役所を置いたのは、資産家が多く、家屋や土蔵などの設備もあり、なにより水運が便利だったからです。
実際に会所は今市村・鈴木長左衛門家の空家(あきや)が利用されました。
今市札
また、渋沢は売買の便利をはかるために木綿預手形(今市札)を発行しました。
この木綿手形の背景には当時金相場が高騰して、正貨である幕府貨幣の流通が滞っていたという事情がありました。
人々は正貨の代替物を求めていたのですが、それには信用がなによりも大切でした。
といっても、どこの藩(天領を含む)台所は火の車でした。
一橋家も十分な引替準備金はありません。
そこで、渋沢は裕福な者から借銀をして準備金を用意することを考えました。
この出資者は、揖東郡日飼村(たつの市)堀彦左衛門(2500両)、加東郡垂水村(加東市)藤浦常八(1250両)、多可郡下比延村(西脇市)広田傳左衛門(800両)のほか地元・今市村伊藤長次郎(600両)、同村入江十郎(300両)、同村鈴木又蔵(200)両、同村入江亀太郎(150両)、その他一人(120両)、四人(200両)両ずつ、一人(60両)で、総額6380両を集めました。利息は年8朱で10年返済でした。
これらの出資者はすべて、産物会所及び引替所の役職に就いています。
一橋家の発行する手形は、大きな信用を作りあげることに成功しました。
そのため、一橋家領の木綿預手形は一匁のものはいつでも一匁と額面通り流通したといいます。
今市村の商は、大いに繁栄しました。
*挿絵:今市札(『高砂市史・伊保篇』より)