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尾上町をゆく(47) 尾上飛行場(2) 尾上飛行場特攻機基地に
戦争史研究家上谷昭夫氏は『写真アルバム、加古川・高砂の昭和』(樹林舎)のコラム・写真の説明で、加古川飛行場について詳しく説明されています。
一部省略し、文体をすこし変て紹介させていただきます。
*飛行場は、尾上飛行場または加古川飛行場と呼ばれましたが、ここでは尾上飛行場で統一します。
尾上飛行場
兵庫県最長の河川・加古川が漸戸内海にそそぐ河口付近。古来より議曲にも謡われる尾上の松、高砂の松など、美しい松原が広がる浜に、昭和13年3月、転機が訪れました。
陸軍が同年に策定した緊急航空防空兵力の計画において、関西の防空の必要性にかんがみ、姫路近郊・加古軍尾上村の加古川河口に飛行場の建設をきめました。
多くの田畑や家屋を買収して、同13年8月30日、飛行場が開隊し、この日をもって加古川飛行場は関西の防空を担う拠点となりました。
昭和20年4月、米軍が沖縄に上陸すると、本土・台湾の陸海空軍の飛村隊に対して特攻命令が発動され特攻命令が発動され、加古川飛行場は、全国各地の全国各地から知覧(ちらん)の特攻基地へと向かう特攻機の中継基地となりました。
加古川飛行場においても教育途上の未熱な飛行兵に対し、特攻志願の有無を問いかけました。全員が「希望」「熱望」の志願を提出しました。
「志願しない」という項目のない志願書でした。
加古川飛行場から武隊が編成され、4月28日からの沖縄戦に参戦し、隊員16人が戦死を遂げました。
その後も、飛行機を本土決戦のために、練習機による待機特攻隊も編成されたのですが、8月15日、出撃することなく、4年間に及んだ戦争は日本の敗戦で終わりました。
10月には米軍の進駐があり、残存する70機の飛行機は焼却、または破壊され、加古川飛行場に再び日本の飛打機の姿を見ることはなくなりました。
戦後、遊覧飛行のための滑走路として使われたり、保安隊(現:自衛隊)の自動車運転の陳習場ともなりましたが、加古川市の主導により工場が誘致されると、滑走略は跡形もなく取り壌されました。
飛行場から北へ道路(高射砲道路・赤線)がありますが、後に説明しましょう。