ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

尾上町をゆく(59) 「尾上町をゆく」終了  次は「東神吉町をゆく」を予定しています

2023-11-15 08:12:19 | 加古川市尾上町探訪

    尾上町をゆく(59) 「尾上町をゆく」終了 

       次は「東神吉町をゆく」を予定しています

 ご近所のSさんが、ブログで60年前のレンゲ畑の向こうの鶴林寺の景色を紹介されています。

 私の自宅辺りから鶴林寺の方向を撮影されています。

 今は、この今福と鶴林寺の間のレンゲ畑に国道250号線の明姫幹線(明石と姫路間を結ぶ一般道)が走り、60年前の景色がまるで幻のようです。

 尾上町は激変しました。



 「尾上町をゆく」も59号になりました。

 この鶴林寺の風景を見ながら、このあたりで「尾上町をゆく」終え。次の地域を訪ねます。

 20日(月)から「東神吉町をゆく」を予定してます。引き続きよろしく、お願いします。

 「昔の東神吉町の写真」をお持ち方、またはお持ち方を紹介していただける方は一報ください。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(58) 加古川市、し尿処理場問題

2023-11-14 06:50:18 | 加古川市尾上町探訪

 

     尾上町をゆく(58) 加古川市、し尿処理場問題

 し尿は肥料として使用していました。そんなに昔の話ではありません。しかし、そんな時代は終わりました。

 昭和30年頃から、衛生問題と化学肥料の普及により、し尿処理場建設問題はいっきに行政の課題となってきました。

 加古川市の場合、さらに猛烈な人口増が問題を深刻にさせました。その経過を「加古川市議会史(記述編)」にみてみます。

      し尿処理場建設は待ったなし

 ・・・加古川市は、まさに「糞づまり」で、まったなしの対策が迫られました。市会で用地買収費が予算化されました。

 しかし、候補地としてあげられた養田(加古川市尾上町)地区との話し合いは、「迷惑施設」を拒否する地区住民により、合意にいたりませんでした。(昭和381月)

 いろいろと場所の選定がおこなわれましたが、結局適当な場所は見つかりませんでした。

 再び、養田地区との話し合いが持たれましたが、再度の交渉も妥結せず、昭和30年度から屎尿の一部は海洋投棄にふみ切らざるを得なくなりました。

 ようやく、昭和40年10月に旧陸軍飛行場跡地の一部買収ができましたが、その後も、漁業組合・開拓組合・土地所有者の利害が錯綜し、交渉は難航しましたが、難産の末決着し、昭和40年12月24日市議会で承認されました。

 場所は加古川市養田字養田開拓、地価は、坪5000円でした。

 その後も、急増する人口に屎尿処理能力は追いつかず、昭和45年5月27日、西本町地区では屎尿があふれ出す騒ぎがおこりました。

 昭和52年には一部海洋投棄を再開しましたが、その後施設は徐々に整えられていきました。

 *写真:し尿処理場(養田)、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(57) 浜ノ宮天神社の伝承・道真お手植えの松

2023-11-13 09:33:05 | 加古川市尾上町探訪

     尾上町をゆく(56) 浜ノ宮天神社の伝承・道真お手植えの松

 延喜元年(えんぎがんねん・901)、正月の下旬の頃でした。

 右大臣という位の高い菅原道真(すがはらのみちざね)が、藤原氏のはかりごとのため、筑紫(今の福岡県)の大宰府(だざいふ)に流される途中、新野辺の沖を航海されていたときでした。

 空が急に暗くなり、海上は大しけとなりました。

 そこで船を浜に着け、松林に避難されました。

 そして、安田の十五社大神と尾上の住吉神神社(尾上神社)に航海の安全を祈られました。

 しばらくすると、ふしぎと急に風雨がやみ、海上が静かになり、ふたたび九州に向かわれました。

 そのとき、菅原道真は、松の根を上にして逆にして植えられました。

 しかし、ふしぎやふしぎ・・・・その松はぐんぐん大きくなり、村人を驚かせたということです。

 浜ノ宮天神社の拝殿(はいでん)の西にある松が、その松であるといいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(56) 浜ノ宮神社の伝承(1) もとは「十五社」か?

2023-11-12 10:44:45 | 加古川市尾上町探訪

     尾上町をゆく(56) 浜ノ宮神社の伝承(1) もとは「十五社」か?

  菅原道真は、藤原氏との権力闘争に敗れ、大宰府に追いやらます。

 大宰府へ罪人として護送されます。

 各地に残る道真の逸話は、多く語られています。以下は、浜ノ宮天神社の伝わる伝承です。

      浜ノ宮神社は「十五社」(安田)から現在の場所へ?

 浜ノ宮天神社(加古川市尾上町口里)は、「・・・貞観10年(868)、十五社(加古川市尾上町安田)の神々を勧請(霊を迎えてまつること)し、道真が延喜元年(901)、途中この神社に寄った縁で道真を神として奉った・・・」といいます。

 また、別の説では「大宰府への途中、播磨灘で嵐にあい、「安田の十五社」、尾上神かもしれません社に海上の静穏を祈りました。

 その縁で道真の死後、傍らに道真を祭り、文元元年(1444)口里に新しい神社を建て奉り、その後、神社の名も「浜ノ宮天神社」としたというのです。

 「ともに、現在の浜ノ宮天神社は、安田の十五社が元の場所であり、十五社を上ノ宮と呼んでいる」ことに注目します。

 十五社は、明姫幹線と別府川の交差点からすぐ北の葬儀場のすぐ西の森がその場所です。

 現在でも、「十五社」は、浜ノ宮天神社の境外神社です。

 浜ノ宮天神社は、安田から口里へ移動したのでしょうか。

 十五社辺りは、加古川の旧河川跡の近くです。

 別府川が流れています。移転の理由は水害であったのかもしれません。

 伝承は何らかの歴史を語っているのかもしれません。

 *写真:安田の「十五神社大神」の神額

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(55) (お話)松林で迷った話

2023-11-11 09:08:38 | 加古川市尾上町探訪

   尾上町をゆく(55) (お話)松林で迷った話

 『郷土のお話と歌』(加古川市教育委員会)に次のような話があります。

 浜ノ宮の松林は、不気味なほど深い森であったようです。

  

 ・・・・明治の中ごろのことでした。別府村のある人が、加古川まで買いものに出かけました。

 その当時は、まだ「多木道」がなかったので、新野辺から斜めに浜ノ宮神杜の参道を通って宮の前へ出て、それから鶴林寺の方へ出るのが普通の近道でした。

 加古川で所用をすませ、子どものみやげにと思って、饅頭を買って帰っていました。

 季節は秋ごろでした。

 あたりが暗くなったので、ちょうちんに灯をつけて浜ノ宮まで帰ってきたところ、空模様も悪くて、ポツリ・ポツリと雨が、ろうそくの灯にかかったのか、ちょうちんの灯が消えてしまいました。

 あたりはまっ暗になりました。

 でも、お宮の前にある神主さんの家のそばにあった桑の木や井戸も、つるべがあるのまでハッキリわかるのでした。

 拝殿にはいり鈴を鳴らしてみたら、ガラガラと鳴ります。

 なんでもないと思いながらお宮を出て帰途についたのですが、どう歩いても松林から出られませんでした。

 そうこうするうちに、いっぺんにパッと明るく朝になりました。

 そして、新野辺のおばさんから、「あんた、別府の人やが、朝早うからどこへ行ってでしてん?」といわれて、初めて気がつきました。

 この人は夜どおし浜ノ宮の松林の中を歩いていたのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(54) 尾上の松林

2023-11-10 07:07:52 | 加古川市尾上町探訪

    尾上町をゆく(54) 尾上の松林

 田山花袋の「播磨名所」に、次のような記述があります。一部を紹介ます。



 ・・・高砂尾上とは丸で別々になってしまったが、昔は確かに一村落であったに相違ない。

 そして、今の尾上にやゝその面影を残しているやうな松林がこの海岸一面に連なりわたって居て、松の影は松の影と相重なり、波の音は波の音と相雑(あいまじ)って、他に見ることの出来ないやうな荒涼寂莫たる趣を呈していたに違いない・・・・



 浜ノ宮中学校から浜の宮神社(加古川市尾上町口里)にかけての松林は、神社の境内地として保護され、明治維新以後は、官有林に編入され同神社や氏子によって維持されてきたました。

 満州事変以来、この松林には陸軍病院、航空整備隊、さらに陸軍航空通信学校尾上教育隊が開設されるなど、多くの松は切り倒されました。

 さらにその後、多くの松が松くい虫にやられました。

 松林の風景は大きく変わってしまいました。

 しかし、この松林は、播磨風土記に見える「賀古(かこ)の松原」の面影を今に伝えているようです。

 むかし、この松林はうっそうとしており、不気味なほどであったといいます。そのためか、松林には、いろいろな話が伝えられています。

 次号では、その一つを紹介しましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(53) 高射砲道路(高射砲道)  

2023-11-09 09:11:15 | 加古川市尾上町探訪

 

          尾上町をゆく(53) 高射砲道路(高射砲道)

 「尾上町をゆく(47)・尾上飛行場(2)」の写真を再度使わせていただきます。

 写真で尾上飛行場の位置を確認しました。

 きょうは飛行場の北の赤い線で示した道「高射砲道路」の説明です。

        高射砲道路は尾上飛行場と高射砲隊を結ぶ道

 昭和12・13年頃、野口町水足に高射砲隊ができました。

 同じ頃、尾上に尾上飛行場(加古川飛行場)が、そして今の加古川刑務所の場所(日岡山東)に、神野弾薬庫(神野倉庫)が建設され、加古川駅と神野弾薬庫に、弾薬を運ぶために水足経由で鉄道が敷かれました。

 そして、水足の高射砲隊と尾上の加古川飛行場は道路で結ばれました。

 その道は、野口町水足の「播磨化成」の西を、まっすぐ南へ伸びる道です。

 「浜国道(現:国道250号線)」をこえて、飛行場につながっていました。

 いまでも、この道を「高射砲道」と呼んでおられる方が多くおられます。

 現在、この道は「県道野口尾上線(386号線)」で、海岸部と中部を結ぶ重要な産業道路としての役割を果しています。

 加古川は「小軍都化」していました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(52) 陸軍航空通信隊尾上教育隊(2)<軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図>

2023-11-08 07:56:30 | 加古川市尾上町探訪

   尾上町をゆく(52) 陸軍航空通信隊尾上教育隊(2)<軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図>

 軍航空通信学校の一部は戦後、戦後浜ノ宮中学校校舎として利用されました。

 戦史研究家・上谷昭夫氏が「陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図」を掲載されています。お借りします。

 

 終戦後の一時期、加古川飛行場を管理した連合国占領軍が、兵舎として利用したこともあり、また、兵舎の一部は浜ノ宮中学校としても利用されました。

 現在、この教育隊のあとに次のような説明があります。

      教育隊跡地の説明 

 「当公園内には、戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎が建設され、約1,500人の隊員が駐留していました。

 戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基礎石が存在していました。

 ここにあの不幸な歴史を二度と繰り返さないことを誓い、基礎石の一部を保存し、後世に伝えることにしました」

       加古川第一陸軍病院

 なお、上記の図の左端(西端)病院があります、説明をしておきます。

 この病院は、昭和12年(1937)に加古川飛行場に付属する「加古川陸軍病院」として開設されました。

 診療は、内科・外科・眼科があり、歯科は姫路陸軍病院へ行かねばなりませんでした。

 昭和16年に、神野兵舎付属の陸軍病院(現:甲南加古川病院」)が開設されたので、名称を「加古川第一陸軍病院」と改めました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(51) 陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)

2023-11-07 08:29:18 | 加古川市尾上町探訪

     

      尾上町をゆく(51) 陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)

 加古川は小軍都であったが、幸い大きな空襲から免れた、「もし」もう少し戦争が長引いておれば、大災害は免れなかったと思われます。

        陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)

 浜国道がすぐ隣ですが、騒音は気になりません。静かです。

 陸軍航空通信学校尾上教育隊施設跡(写真)は、松の木漏れ日の中で戦争があったことを伝えています。

       陸軍航空通信学校尾上教育隊跡

 加古川市尾上町の浜の宮公園(松林内)には、陸軍航空通学校「尾上教育隊」の兵舎の跡が残っています。ここで学んだ少年兵たちが住んだ兵舎の名残です。

 ここの生徒であったKさんは、「外出できたのは一度か二度、夜は上官の制裁が日課のようでした」と厳しかった生活を証言されています。

 航空教育隊は、昭和13年7月5日、朝鮮の平壌(ピョンヤン)で編成され新兵の教育を実施しました。

 昭和16年2月5日、加古川に移駐し、その後、紹和18年9月17日、加古川航空通信学校として改編しました。

 さらに、昭和20年5月3日、加古川で編成「陸軍航空通信学校」の教育隊として改編し、通信隊は、主として少年飛行兵の教育を担当しました。

 1800名(跡地の説明板では、1500名)が在校しました。

 また、昭和19年4月1日に新設された陸軍幹部候補生第1期生(旧制中学校三年修了以上)が入校しました。 

 *戦史研究家(上谷昭夫氏)の研究、参照

 *写真:通信隊航空学校の跡地(現状)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(49) 尾上飛行場(4) 加古川は小軍都 

2023-11-05 09:12:38 | 加古川市尾上町探訪

     尾上町をゆく(49) 尾上飛行場(4) 加古川は小軍都 

 加古川には、尾上飛行場をはじめ、戦争施設がたくさんありました。

 加古川は「小軍都化」していました。

 「もし」戦争がもう少し長引いていたら、加古川も大規模な空襲を経験することになっていたことでしょう。  

 前号に引き続き尾上飛行場の紹介です。

    尾上飛行場の本部庁舎(写真・上)

 関西の防空を担う拠点として、加古川飛行場を建設

 この建物は、昭和13年ころの尾上飛行場の本部庁舎です。

 (写真提供、上谷昭夫氏)

    尾上飛行場の照空灯車(写真・中)

 照空灯とはサーチライトのことです。

 主に夜間爆撃に対するする防空手段として使われました。

 写真:昭和13年ころ撮影(写真提供、上谷昭夫氏)

    留守部隊で防空任務に(写真・下)

 訓練の戦闘機の前で撮影された留守部隊の隊員

 *留守部隊は、敵軍の攻撃から地域や拠点を守ることが主要な役割の部隊のことです。

 昭和17年ころ撮影、(写真提供、上谷昭夫氏)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(48) 尾上飛行場(3) 尾上飛行場の正門と特攻隊員の最後の別れ

2023-11-04 08:55:59 | 加古川市尾上町探訪

 

    尾上町をゆく(48) 尾上飛行場(3) 尾上飛行場の正門と特攻隊員の最後の別れ

 今回は、写真集から尾上飛行場の正門(写真上)と特攻隊員の最後の別れです。

     尾上飛行場の正門(写真上)

 次回も尾上飛行場の関連の写真集です。

 なお、写真・解説共に『加古川・高砂の昭和』(樹林舎)を参考にしています。

     別れの盃を交わす特攻隊員(写真中)

 昭和20年4月6日、沖縄に来襲する連合国軍に対応するため、陸海軍の特攻隊が編成され、本土や台湾から約350機が出撃しました。

 加古川飛行場でもこの日、出陣式が行われました。既に飛行機も並べられ、死に赴く悲しい出陣式でした。

 この後、熊本県菊池飛行場を経由し鹿児島県の知覧(ちらん)から出撃ました。

 <昭和20年・写真提供:上谷昭夫氏>

     別れの盃を交わす特攻隊員(写真下)

 飛行時間の少ない第1教育隊の練習生までも特攻を志願し、この日は2つの特攻隊員出陣式が行われました。

 整列した隊員たちの引き締まった裏情が印象的です。

 6月10日までに、彼らは沖縄の地に散華(さんげ)しました。

 加古川飛行場で記録された、彼らの最後の姿です。

 <昭和20年・写真提供:故、上木政範氏>







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(47) 尾上飛行場(2) 尾上飛行場特攻機基地に

2023-11-03 08:42:15 | 加古川市尾上町探訪

          尾上町をゆく(47) 尾上飛行場(2) 尾上飛行場特攻機基地に

 戦争史研究家上谷昭夫氏は『写真アルバム、加古川・高砂の昭和』(樹林舎)のコラム・写真の説明で、加古川飛行場について詳しく説明されています。

 一部省略し、文体をすこし変て紹介させていただきます。

 *飛行場は、尾上飛行場または加古川飛行場と呼ばれましたが、ここでは尾上飛行場で統一します。

           尾上飛行場

 兵庫県最長の河川・加古川が漸戸内海にそそぐ河口付近。古来より議曲にも謡われる尾上の松、高砂の松など、美しい松原が広がる浜に、昭和13年3月、転機が訪れました。

 陸軍が同年に策定した緊急航空防空兵力の計画において、関西の防空の必要性にかんがみ、姫路近郊・加古軍尾上村の加古川河口に飛行場の建設をきめました。

 多くの田畑や家屋を買収して、同13年8月30日、飛行場が開隊し、この日をもって加古川飛行場は関西の防空を担う拠点となりました。

 

 昭和20年4月、米軍が沖縄に上陸すると、本土・台湾の陸海空軍の飛村隊に対して特攻命令が発動され特攻命令が発動され、加古川飛行場は、全国各地の全国各地から知覧(ちらん)の特攻基地へと向かう特攻機の中継基地となりました。

 加古川飛行場においても教育途上の未熱な飛行兵に対し、特攻志願の有無を問いかけました。全員が「希望」「熱望」の志願を提出しました。

「志願しない」という項目のない志願書でした。

 加古川飛行場から武隊が編成され、4月28日からの沖縄戦に参戦し、隊員16人が戦死を遂げました。

 その後も、飛行機を本土決戦のために、練習機による待機特攻隊も編成されたのですが、8月15日、出撃することなく、4年間に及んだ戦争は日本の敗戦で終わりました。

 10月には米軍の進駐があり、残存する70機の飛行機は焼却、または破壊され、加古川飛行場に再び日本の飛打機の姿を見ることはなくなりました。

 戦後、遊覧飛行のための滑走路として使われたり、保安隊(現:自衛隊)の自動車運転の陳習場ともなりましたが、加古川市の主導により工場が誘致されると、滑走略は跡形もなく取り壌されました。

 飛行場から北へ道路(高射砲道路・赤線)がありますが、後に説明しましょう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(46) 尾上飛行場(1)

2023-11-02 08:15:49 | 加古川市尾上町探訪

 

         尾上町をゆく(46) 尾上飛行場(1)

 昭和12年4月の頃、別府尋常小学校の松本泰子さんは、次のような作文を書いおられます



 ・・・私の町の西の尾上村に、飛行場が出来ています。いつも学校の上を「ぷるん、ぷるん」と大きい音を立てて、へんたいで飛んできたり、「ひゅうひゅう」といって、宙返りをしたりして、勇ましいけいこをして居ます。・・・



 加古川飛行場は、1936年(昭和11)阪神地方の防衛のために尾上村に計画されました。

 1936年に土地買収が行われ、翌年の12月に「飛行第13連隊」が駐屯しました。

 その後、戦況の悪化のため、飛行操縦士の大量の養成が必要となり、1944年(昭和19)の春から「第一教育飛行隊」が加古川飛行場に開設されました。

 終戦後は、元耕作者や海外引揚者、復員兵が中心になり農地の開拓が行われましたが、戦後経済の復興に伴って工場(近江絹糸)が進出し、さらに海岸部の埋め立ても行われ風景は一変しました。

 *写真:加古川飛行場(地元では「尾上飛行場」と呼んでいる)の一機。尾翼に加古川飛行場所属をあらわすマークがあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(45) 国鉄(現JR)尾上駅

2023-11-01 12:07:11 | 加古川市尾上町探訪

    尾上町をゆく(45) 国鉄(現JR)尾上駅

 今朝、ブログの読者の柴田博巳さんが、メッチャ懐かしい、旧旧高砂線の尾上駅に入ってきたㇾカー(レールカーのこと)の写真を送ってくださいました。

 写真の高架橋のすぐ右手(東)の高台が山陽電車の「尾上の松駅」で、写真の尾上駅のプラットホームを出ると高架の山陽電車に乗り換えができました。

 貴重な写真ありがとうございました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾上町をゆく(44) JR高砂線

2023-11-01 09:40:29 | 加古川市尾上町探訪

       尾上町をゆく(44) JR高砂線

 私の小学校時代(加古川小学校)は、昭和20年代の最後の頃です。

 その頃、夏には学校から高砂の浜へ海水浴に出かけました。

 高砂線は、子供の声であふれかえっていました。

 私にとって高砂線は、浜に続く思い出がつまった鉄道でした。

 高砂は戦前から多くの工場が進出し、高砂線はお客だけでなく、貨物も大いに利用されていました。

 高砂線は、大正3年播州鉄道高砂線として開通しましたが、経営難のため大正9年に播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年、国鉄に買収されました。

 昭和36年頃から、海岸は埋め立てられ、海水浴場はなくなりました。

 そして、急速なモータリゼーションによりアッという間に貨物・乗客とも急減し、その後、膨大な赤字が重なり、高砂線は昭和59年10月30日廃止になりました。

 線路跡の大部分は、道路(鶴林新道)として利用されています。

 加古川東岸の養田(加古川市尾上町養田)の山陽線と平行している場所に、線路跡が一部そのまま残っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする