ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく(85) 綿の里(1) 姫路木綿の生産地は加古川地域   

2023-04-30 08:15:09 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(85) 綿の里(1) 姫路木綿の生産地は加古川地域

 

 木綿 は、米・塩と並んで高砂の重要な積み出し商品でした。

 綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河に伝えられたのが最初であるといわれていますが、栽培技術が伴わずその時は絶滅してしまいした。

 その後、綿作は、文禄の頃(159296)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地になりました。

 木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立ちました。

 江戸時代、大坂・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになりました。

 姫路木綿は、品質がよく、市川や加古川の水質が木綿を晒すには適していました。

 姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評でした。

 しかし、この姫路木綿の原料は、高砂・加古川地方が主な産地であったことは案外知られていません。

 *「玉川さらし」は、木綿商の天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)の金川甚左衛門がつけた商標であり、玉川とは加古川のことです。

 江戸時代の終わりのころ、秋には、真っ白な綿のある風景が一面にひろがりました。

 *挿絵:木綿

 

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明日から「歴史シリーズ・志方町をゆく」を再開

2023-04-29 09:11:08 | 余話として

   

          明日から「歴史シリーズ・志方町をゆく」を再開

 明日から「歴史シリーズ・志方町をゆく」を再開させます。

 この一週間間、「歴史シリーズ・志方町をゆく」のことを考ました。

 やっと、Mさんとお話してテーマを「綿(綿のさと)」に決めました。

 でも、詳しい資料があっての話ではありません。知識もありません。

 「書いていればなんとかなうだろう」という、いつものような無責任なスタートになります。

 まとまった内容にならないと思いますが、よろしくお願いします。

 史料等についてご教授ください。

 

 このブログでは写真か挿絵一枚は挿入することにしていますが、きょうにかぎっては関連した写真・挿絵がありません。

 内容と関係がないのですが、今朝の写真は自宅の「シラン」です。

 いま、ご近所の庭先にシランがいっぱい咲いています。

 それに比べて我が家のシランは蕾のまま・・・

 でも、少し遅れてやっと咲き始めました。

 

 ラベンダーは勢いがなくなりました。

 ネモフィラが大幅に遅れています。

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ヘアリーベッチ

2023-04-28 07:03:38 | 余話として

             ヘアリーベッチ

 写真の花は、河原にいっぱい咲いています。

 肥料にするために水田に植えられていたのが広がったようです。

 調べてみると、田に鋤こむと、肥料になるヘアリーベッチという植物だそうです。

 きのう(27日)は気持ちの良い天気でした。加古川(東岸)の河川敷を散歩きました。

 野草化したヘアりーベッチがたくさん咲いていました。

 それにしても、この時期は黄色いカラシナが咲いていたんですが、選手交代のなったようです。

 〈お知らせ〉

 お休みしていました「歴史シリーズ・志方町をゆく」は、430日(日)から再開させます。よろしくお願いします。 

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ウラジロの新芽がきれいです 

2023-04-27 08:13:36 | 余話として

       ウラジロの新芽がきれいです 

 昨日26日)、午後雨が上がりました。久しぶりで平荘湖の遊歩道にでかけました。

この時期のウラジロの新芽は印象的です。

 みごとなウラジロが見れる場所は、平荘湖の遊歩道に沿った升田山のなかほどです。

 平荘湖を歩かれる時、ぜひご覧ください。

 季節限定の風景です。

 この時期のウラジロの新芽は、もう少し弱々しいのですが、今年は成長が早いのでしょうね、新芽というには元気すぎます。

 暖かかったからでしょうかね。

 *写真:ウラジロの新芽

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ユウゲショウ

2023-04-26 09:15:00 | 余話として

          ユウゲショウ             


 朝の散歩で近所の用水路沿を歩きます。
 その用水路は、まるでドブです。
 いつも白く濁っていて、悪臭さえする用水路です。
 その土手に今、ピンクいろのかわいい花がいっぱい咲いています。
 インターネットで調べるとユウゲショウです。
 それにしても、ユウゲショウとは、なんとなまめかしい名前でしょう。
 咲く場所を間違えてきたようです。ユウゲショウは、あまりにもミスマッチな場所咲いています。
 農業が衰えたとはいえ、用水路の掃除はしてほしいね。

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タカサゴユリ

2023-04-25 09:29:03 | 余話として

    

     タカサゴユリ

 写真の草は、タカサゴユリです。

 23年前、タネがが飛んできて花を咲かせ居座ていす。

 居心地がよかったのか、今年は自宅の玄関横にいっぱい広がっています。

 インターネットで調べると、「台湾の原産で、1924年に導入され、庭園や切り花用に栽培されてきたが、種子の発芽から6ヶ月で開花するため、近年各地で野生化して道ばたや堤防などで繁殖している・・・」とあります。

 夏から秋が楽しみです。

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ナデシコ

2023-04-24 08:43:58 | 余話として

     

            ナデシコ

 

 昨年の秋植えたナデシコが、まだ元気に咲いています。

 強い花です。冬を乗り切った花です。

 ナデシコから「かわいさ」「やさしさ」「ひ弱さ」という感じを持ちますが、全然違います。

 逞しいです。

 全日本女子サッカーの「ナデシコジャパン」のようです。

 いつまで、咲くのだろう。

 しっかり水をやらねば・・・・

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ハナミズキ

2023-04-23 08:48:29 | 余話として

 

     ハナミズキ

 今、庭のハナミズキがきれいです。

 14年前に植えました。加古川市から誕生記念樹としていただいたハナミズキです。

 孫の誕生記念樹です。

 本人と同じに、でかく元気に育っています。

 今年、孫は中学3年生になりました。

 学校は楽しく、友達がいっぱいいるそうです。(お爺ちゃん)嬉しいね・・・

 *今週の「志方町をゆく」はお休みします。

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志方町をゆく(84) 長楽寺・大藤山(18) 抱き地蔵

2023-04-22 07:20:53 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(84) 長楽寺・大藤山(18) 抱き地蔵

      抱いて寝れば子宝が!

 長楽寺には「抱き地蔵」と呼ばれる小さな石の地蔵さんが数体あります。

 子どもが欲しい女性は、「これを借りて帰り、抱いて寝れば子ども授かる」と言い伝えられています。

 「おなかの子どもが、お地蔵さんにお母さんを取られてしまうと思って、生まれてくるのでしょう」と住職は説明されています。

 願いがかなったら、お礼として「前かけ」を一枚つけて寺に返す習慣があります。

 成績のよいお地蔵さんには、たくさんの「前かけ」が掛けてあり、借りる人も枚数の多いお地蔵さんを希望するといいます。

      江戸時代に始まった慣習か?

 いつの頃、この「抱き地蔵」の習慣が始まったかについては、はっきりとしていませんが、このほほえましい習慣は、記録はないのですが、江戸時代までさかのぼるのではないかともいわれています。

 ・・・・

 何年たっても子どもができない・・・。

 こんな時に願いをかなえてくれたのは「抱き地蔵」でした。(「長楽寺・大藤山」完)

 *写真:抱き地蔵の一体

 

 ◇「志方町をゆく」をお読みいただきありがとうございます。少し、退屈なったでしょうね。

  このあたりで少し「志方町をゆく」をお休みします。

  来週一週間ぐらい気分転換で、初夏の加古川を散策します。

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志方町をゆく(83) 長楽寺・大藤山(17) 雨乞い

2023-04-21 10:05:04 | 加古川市歴史探訪 志方町編

   志方町をゆく(83) 長楽寺・大藤山(17) 雨乞い

 永室の磯野道子さんが、姑(きよ)さんからのすばらしい聞き語り(村の風俗習慣)を著書『めんめらの生きた道』に書きのこしておられます。

 それには、この地域が水で困ったことをも記録されていますので、掲載させていただきます。

       雨乞い

 磯野道子さんが採集された地元に残る雨乞いの歌です。

    雨ごい たま乞い じゅうごいの(龍ごいの) 雲にしずくも ないかいな

 ・・・・

 日やけで、ひとっつも雨が降らへん年にな、田植がでけへんいうて雨乞いしてんで。

 男の人が、昔の唐傘(からかさ)をさかとんぼに上向けて、そん中へ木でも竹でも、燃えるもんいっぱい入れたり、松の枝持ったり、小麦藁を竹の先に括ったりして、長楽寺へ集まってね。

 長楽寺でご祈祷してもろてから、蓮池の土手へ出て雨乞いしよったったで。

 松の枝や小麦藁持った人は、松明みたいに火付けて、それ振りまわしながら歌うとて土手の上を歩いていくね。

 唐傘の火も、よう燃えて、火の粉が散ってきれかったで。

 「おぱあちゃん蓮池まで見にいたったんか」

 「うちは姉さんといっしょに、高まちまで見にいてん」

 「高まちまで歌の声も聞こえてくんのか」

 「そら天まで聞こえるように、大きな声でいよってのに、高まちの高い田んぼのあで畦)へあがったら、よう見えてよう聞こえたで」

 「そえで雨が降ってったんか」

 さあ、雨乞いしたら、じっきに降ったんか、どないやったかわっせてもたけど、火イ燃やしたら、よう雨が降るねで」

      戦時中まで続いた雨乞い

 私は実際に雨乞いに参加した人をたずねて、その時のようすを聞いてみた。・・・

 「水が足らんいうて、毎年のように雨乞いしよりましたで。

 火をようけ燃やしたら、空気がうすなるさけん雲を呼んで雨が降るいうのは道理だっしゃろな。

 雨乞いしたらやっぱり雨が降りましたで」

 その後、こどもの頃に雨乞いを見たという数人の人に出会ったが、昭和の戦時中までは水が足りなくて、農家は水の苦労が絶えなかったらしい・・・・

 「それでも爾が降らへんのはどこの村も同じことで、蓮池の土手で雨乞いしよる時には、西牧も、西中も原の大池でも、どこの村でも、赤い火燃やして廻り夜のが見えよりましたで。

 成井の村かしらんけど、高御位の上へ松明持ってあがりよんのも、見えよりましたで」

 「どの村も雨乞いしよったけど、一番水に困っとったんは、永室やろな・・・」

 

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志方町をゆく(82) 長楽寺・大藤山(16) 水で苦しみました

2023-04-20 11:18:07 | 加古川市歴史探訪 志方町編

      志方町をゆく(82) 長楽寺・大藤山(16) 水で苦しみました

       助永村の免相(めんあい)は、三割三分

 永室村は、明治9年に助村と比村が合併してできた村です。

 長楽寺は、加古川市志方町永室です。宝永二年(1752)助永村の明細帳を見ておきます。

 『加古川市史(第五巻)』にある宝永二年(1752)助永村の明細帳の「免三つ三分」の数字に注目ください。

 

  一 高三百三拾九石七斗五升五合  免三つ三分

   内 十八町九反七畝二十九歩  田方 

     二町七反六畝弐拾七分   畑方

 

「免」は、免相(めんあい)のことです。

「免相」は、年貢の賦課率のことで、助永村の年貢率は三割三分ということです。

 藩(姫路藩)としては、年貢が多いことに越したことはありません。

 しかし、農民の生活ができないほど多くの年貢は課すことはできません。

 そのため、収穫の多い村には多くの年貢を課しました。

 一般的に、年貢率の高い村の方が豊かな生活の村といえます。

 歴史の授業で、「江戸時代の農民の年貢率(免相)は、だいたい五公五民」と学習した。

 「五公五民」は、収穫の五割が年貢(五公)ということです。

 それにしても、助永村の免相(年貢率)が三割三分は非常に少ない数字です。

 助永村は、貧しい村でした。つまり、助永は、三割三分以上の年貢では、生活は成り立たないということを意味しています。

 ない者からは、取ることができません。

      水に苦しみました

 免相(年貢)の少ない理由は水です。

 大藤山の南面にある村で太陽はいっぱいあります。水さえ十分にあれば秋の稔りは約束されます。

 しかし、ダンベ池・中池・皿池の水は十分でなかったようです。

 少しでも雨の少ない年は、たちまちに旱魃となり、田畑は干上がってしまいました。

 

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志方町をゆく(81) 長楽寺・大藤山(15) 「谷」という村があった

2023-04-19 10:15:53 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

   志方町をゆく(71) 長楽寺・大藤山」(15)

      「谷」という村があった

 司馬遼太郎は『この国のかたち(一)』(文春文庫)で「谷」について次のように書いています。その一部を読んでみます。

      谷の国

 「谷」こそ日本人にとってめでたき土地だった。

 丘(岡)等はネギか大根、せいぜい雑穀しか植えられない。

 江戸期のことばでも、碁の岡目八目とか岡場所(正規でない遊里)という場合の岡は、傍(はた)とか、第二義的な土地という意味だった。

 村落も谷にできた。

 近世の城下町も谷か、河口の低湿地にできた。

 様子が少し変わったのは、幕末から明治にかけて開港場ができてからである。

 西洋人たちは、(平地は感染症がはやる地域であり、日本へ来ても)横浜、長崎あるいは神戸等の後背地のある乾燥地のある高燥な丘に異人館を営んだ。

 低地こそ人の住む場所だと思い込んでいた地下衆(日本人)には奇異な感じがしたに違いない。・・・

     「谷」という村があった

 上記の文を読んだ時、長楽寺のことが頭に浮かびました。

 長楽寺のパンフレットに「谷という地名」について、次のように説明しています。

 ・・・

 寛延三年(1750)助永村明細帳に「当所(助永村)百姓家数六十四軒 居所三ヶ所、本村家数二十二軒、枝村構家数三十一軒、枝村谷家十二軒

 ・・・

 地元では長楽寺を「谷の長楽寺」と「谷」をつけて呼ぶのが普通で、谷は長楽寺から「ダンべ池」あたりにあった集落名のようです。

 なお「ダンべ池」とは不思議な地名ですが歴史学者は「ダンべ」は、漢字では「段平」で、台地上の平地を意味したのであろうとされています。

 この枝村は「谷」とはいうものの十分な水がなく一軒、二軒と下の集落に移住し、明治3年を最後に姿を消しました。

 明治3年とは歴史が忘れ去られるような昔ではありません。史実でしょう。

 *写真:ダンべ池あたりに谷の集落があった。

 

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志方町をゆく(80) 長楽寺・大藤山(14) 植原繁市(2)

2023-04-18 06:22:09 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    志方町をゆく(70) 長楽寺・大藤山(14) 植原繁市(2)

 前号で植原繁市の歌碑を紹介しました。長楽寺へ参拝の時はお寄りください。

 繁市はの名はあまり知られていないようですが、多くの素晴らしい詩・童謡・民謡・俳句集等を残しておられます。

 県立加古川北高校で国語の先生をしておられた高橋夏男先生は、繁市の作品を『植原繁市作品集』として纏められました。

 

 それら繁市の作品を紹介したいのですが、紙面の関係でできません。

 FBでは、作品集から「寂しさ(前号)」と今回の自画像(繁市のこと)だけになりました。ご了承ください。

 なお、繁市の作品の中で一番知られているのは「加古川音頭」でしょうね。コロナもやっと終わりました。

 今年の盆踊りでは、「加古川音頭」をよく聞かれると思います。

 その時、繁市の作品であることを思い出してください。

 

     ◇自画像

 

   これは植原繁市の横顔なり

   何といふ寂しさみすぼらしさぞや

 

   痛ましく落窪みたる瞳の奥に

   淡紅色の風船の如きもの映れるは何ぞ

 

   また、その乱れたる髪の毛の中に

   萎れたる薔薇の如きもの挿(さ)せるは何ぞ

 

   血の気なく蒼ざめし頬のあたり

   蜜柑の花の匂い仄かに漂ふは何ぞ

 

   きみよ、さはうちつけに尋ね給ふな

   愚かなるわが心ぞと嗤ひそ

 

   こは二十四の春を過ぎてなほれんれんと

   心ひかるヽなきがらなり

 *写真:植原繁市作品集(2冊)

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志方町をゆく(79) 長楽寺・大藤山(13) 植原繁市(1)

2023-04-17 06:49:32 | 加古川市歴史探訪 志方町編

     志方町をゆく(79) 長楽寺・大藤山(13) 植原繁市(1)

 以前「花と流星の詩人・植原繁市」と題して、繁市を紹介したことがあります。

 その時は「現在土砂崩れのため、歌碑は流され、見つかっていません」と書きましたが、その後の整備の途中で、埋もれていた石碑は満身創痍で見つかり、元の場所に設置されています。

 歌碑の写真をご覧になりながら彼の詩「寂しさ」をお読みください。

 以前、植原繁市の歌碑を訪ねたのずいぶん以前です。   

 その日は、いまにも泣き出しそうな空でした。

 風もない。木々のざわめきもありません。

 長楽寺の境内は、時間が止まっているようでした。

 植原繁市には、そんな風景が似合うのかもしれません。

      「さびしさ」(詩集『花と流星」より)

     人に告ぐべき

     寂しさにはあらぬ

     ゆふぐれをひとり杜にきて

     しみじみと樹をゆする

 

        泣けばとて、かえるものかよ

        告げばとて、癒ゆるものかよ

        しみじみと樹をゆする

 

 繁市の唯一の詩集『花と流星』にある詩「寂しさ」です。

 繁市は、明治41年、志方町横大路で生まれています。小学校でも病気がちで、姫路商業高校に入学しますが、胃腸疾患のため二年で退学します。

 そうした病弱が彼の繊細さを育てたのでしょう。

 繁市に関して紙面の関係で多くを紹介できないのですが、県立加古川北高校で教鞭をとられた高橋夏樹先生は『植原繁市作品集(二冊)にまとめておられます。

 実生活としては、生涯志方町の職員として働き、収入役の重責もまっとうしました。

 昭和46年3月20日死去。63歳の生涯でした。

*写真:植原繁一の歌碑

 

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志方町をゆく(78) 長楽寺・大藤山(12)  重制六面石幢・十三重の層塔残欠

2023-04-16 08:26:42 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

  

  志方町をゆく(78) 長楽寺・大藤山(12)

             重制六面石幢・十三重の層塔残欠

 長楽寺の境内には、たくさんの石造物があります。

 これら石造物の多くは土砂崩れで壊れたり、土砂に埋もれてしまいましたが、現在境内の石仏などは復旧され元の場所に戻されています。

 今回は「重制六面石幢(せきとう)」と「十三重の層塔残欠」を紹介しましょう。

 加古市教育委員会の説明があるので読んでみます。

      重制六面石幢

 この石幢残欠は自然石の上に据えられ、上にも自然石が載せられているので見たところ石灯籠の形になっているが、火袋に当たるところが、いわゆる重制六面石幢の石幢である。

 この塔身は、元加古川町内にあったものと伝えられている。

 石英粗面岩で塔身の高さ27.5㎝。

 六角形の各部の幅は上部で10.9cm、下部で12.3㎝、二重光背形輪部の中に六地蔵の立像を刻む。

 磨滅がひどく明確を欠くが、合掌、棒珠、持錫塔の姿をしのぶことができる。

 室町時代後期の作と推定される。

 加古川市では数少ない重制石幢の一つである。

        昭和六十二年三月

              加古川市教育委員会

 

    県下最古の層塔:十三重層塔残欠

 重制六面石幢のすぐ西横に「十三重層塔残欠」があります。

 専門家は、このは鎌倉時代初期のもので、県下における最古の石塔であると指摘しています。

 石造物は、近隣の石を材料とするのが普通です。

 長楽寺の十三重層塔残欠は、硬い細工の難しい花崗岩を材料としています。

 大藤山は花崗岩の山ですが、ここの花崗岩は、もろく彫刻には向いていません。

 他所で造られ、ここに運ばれたものでしょう。

 お参りの時はこれら石造物にもお寄りください

 *写真:重制六面石幢(写真上)と十三重層塔残欠(写真下)

 

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