志方町をゆく(85) 綿の里(1) 姫路木綿の生産地は加古川地域
木綿 は、米・塩と並んで高砂の重要な積み出し商品でした。
綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河に伝えられたのが最初であるといわれていますが、栽培技術が伴わずその時は絶滅してしまいした。
その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地になりました。
木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立ちました。
江戸時代、大坂・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになりました。
姫路木綿は、品質がよく、市川や加古川の水質が木綿を晒すには適していました。
姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評でした。
しかし、この姫路木綿の原料は、高砂・加古川地方が主な産地であったことは案外知られていません。
*「玉川さらし」は、木綿商の天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)の金川甚左衛門がつけた商標であり、玉川とは加古川のことです。
江戸時代の終わりのころ、秋には、真っ白な綿のある風景が一面にひろがりました。
*挿絵:木綿