ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく(113) 細工所(13) 重ね池

2023-05-31 06:31:44 | 加古川市歴史探訪 志方町編

        志方町をゆく(113) 細工所(13) 重ね池

 細工所から野尻の手前までは両側は山が連なり坂となっています。

 その谷を区切り、それぞれを池としています。

 このような池は、「重ね池」と呼ばれています。

 七つ池は、典型的な「重ね池」です。

 重ね池も、山間を区切ればよいというのではなく、工事には地形に合わせてそれぞれの工夫があったようです。

         工事の工夫

 七つ池について『志方町誌』では、次のような工夫を紹介しています。

 「・・・七つ池の下から三つめは上ノ池で、七つ池の中で一番大きな池である。

 この池の堤を観察すると、西南隅のうてみのそばだけが特別に太くなっているのが目につく。

 この池は両側の山から大小いくつもの谷によって水が流れ込んでいるが、中でも一番大きな流れは、東北隅の山側から大小いくつもの谷によって水が流れこんでいるが、中でも一番大きな流れは東北隅の谷から入ってくる水である。

 ここは、すぐ上の平池の[うてみ]のあるところで、うてみを落ちる水といっしょになって、雨の日などその水勢いはすさまじい。

 この水をまともに受けているところが堤のふとい部分である」

 *うてみ・・・越水(洪水吐)





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志方町をゆく(112) 細工所(12) 旧石器の狩人・三村秀弘

2023-05-30 09:00:59 | 加古川市歴史探訪 志方町編

     志方町をゆく(112) 細工所(12) 旧石器の狩人・三村秀弘

 細工所から野尻へドライブをしましょう。

 細工所から野尻への街道に七つの池が並んでいます。「七つ池」です。

        旧石器の狩人・三村秀弘

 昭和6年、考古学者の直良信夫(なおらのぶお)は、明石市の西八木海岸で、化石化した人類の腰の骨を発見しました。

 この骨は、教科書にも登場する「明石原人」の骨です。

 しかし、戦前の日本の学界は「日本には、旧石器時代が存在せず、疑わし・・・」として、これを否定しました。

 不幸は重なり、この骨は東京空襲で焼失してしまいました。

 しかし、昭和24年(1949)群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡の発見により、わが国にも縄 文時代以前に人類が住んでいたことが確かめられました。

 納豆の行商をしていた相沢忠洋(あいざわただひろ)さんは、行商の途中、赤城山山麓で旧石器時代の地層から旧石器の遺物を発見しました。

 兵庫県は、どうであったのでしょうか。

 昭和35年・家島群島の無人島・太島(ふとんじま)で旧石器の存在は確認されたのですが、本土側では、旧石器の存在は依然として謎のままでした。

 しかし、「県下にも旧石器は必ずある・・」と信じていた一人のアマチュアの考古学愛好家がいました。

 当時、印南郡志方町で町議をしていた三村秀弘氏です。

 志方町細工所から野尻に向かう道沿いに七つの池が転々と連がっています。七つ池(写真)です。

 ここで、三村氏は旧石器を発見しました。

 遺物のあった4ヶ所は、総称して「七つ池遺跡」と呼ばれています。

 *写真:七ツ池

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志方町をゆく(111) 細工所(11) 七つ池は岡・細工所・高畑の池

2023-05-29 08:06:05 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

         志方町をゆく(111) 細工所(11) 七つ池は岡・細工所・高畑の池

 七つ池について調べてみましょう。

 「七つ池(惣右衛門池を除く)」は岡・細工所・高畑の池」です。

     七つ池は岡・細工所・高畑の田を潤す

 地図で「七つ池」の場所を確かめてください。

 県道小野志方線を細工所から野尻の間に、点々と七つの池が続きます。

 図は『志方町誌』(p399)からお借りしました。

 (図のAA’は東西の、BB’は南北の断面を表します)

 分かりにくいかもしれませんので、西(図の左)から七つの池の名前を書いておきましょう。

 下ノ池・新池・上ノ池・平池・明神池・笹池・惣右衛門池です。

 山と山の間をせき止めて造られた典型的な「重ね池」です。

 この七つの池のうち、一番上(東)にある惣右衛門池だけが野尻の池で、他の池は細工所・高畑・岡の旧三ヶ村がこれらの池の水を使う権利を持っています。

 これら三ヶ村は、七つ池の水を4・4・2の割合で使いました。

 七つ池が潤す田は、おおまかに見て高畑40町歩、細工所40町歩、岡が11町歩です。

 (*この数字は『志方町誌』編集された昭和44年当時のもの)

 これに対する水の割合は4・4・2で、池の管理費用等も4・4・2で負担となります。

 岡の集落は潤す田の割に水をたくさん利用します。それに伴って当然管理負担も2割となります。

 その主な理由は、岡の場合土地が細工所や高畑に比べて高地にあり水を引く溝が長くなり、途中の水漏れなどのため田畑の広さ以上に水を使うためです。

 *図:七つ池(『志方町誌』参照)

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志方町をゆく(110) 細工所(10) 一級河川・西 川

2023-05-28 07:18:33 | 加古川市歴史探訪 志方町編

   

      志方町をゆく(110) 細工所(10) 一級河川・西 川

 今日は、「西川は一級河川」という、どうでもよい話題です。 



 主要地方道路高砂・北条線の細工所の交差点(東志方小学校東)を流れる小さな川・西川があります。

 その西川の橋たもとに、写真のような標柱がたっています。読んでみます。

 「一級河川西川起点」と書かれています。

 これをご覧になった方は「あれ、こんな小さな川が一級河川だなんて?」と、疑問に思われた方もあるのではないでしょうか。

 志方町で、西川より大きな川である法華山谷川は「二級河川」です。

        二級河川・法華山谷川

 一級河川・二級河川とは何でしょう。インターネットで調べてみました。

<質問>

 かなり小規模な一級河川があるにも関わらず、地方を代表するような大きな川が二級河川であったりすることが不思議でなりません。

<回答>

 国土交通大臣が指定・管理する水系が、一級河川。都道府県知事が管理する水系が二級河川です。

 複数の県をまたいで流れる河川は、一級河川に指定されています。

 また、一つの県でも重要性の高い河川は、国が管理する一級河川に指定されています。

 以上の説明の「水系」に注目ください。

 一級河川・二級河川の指定は、個々の河川ではなく水系を指定しています。

 つまり、加古川と加古川に流れ込む大小すべての川は一級河川です。

 西川は、東志方の田畑を潤し、堂々の一級加古川に流れる河川です。

 従って、一級河川ということです。

 法華山谷川は瀬戸内海に流れ込み、県が管理する川のため二級河川というわけです。

 どうでもよいことですが、こだわってみたくなる話題でした。

 *写真:志方東交差点横の西川にある標柱(志方町細工所)

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皇帝ダリアが育っています

2023-05-27 06:25:36 | 余話として

           二本の皇帝ダリア

 土曜日は歴史の話題から離れます。

 去年の秋、ご近所の方から二本の皇帝ダリアの苗をいただきました。

 庭に移植したのですが、悲しいかな冬の寒さで苗はスッカリ姿が消してしまいました。

 諦めていました。でも、一本の根は生きていたようです。

 5月の末に目を出しました。嬉しかったですね。

 朝の散歩で、そのことを皇帝ダリアをいただいた方とお話をしました。

 新しい元気のよい苗をもう一本くださいました。

 今、二本の皇帝ダリアが育っています。

 今年の秋、元気な花はまだでしょうね・・・



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志方町をゆく(109) 細工所(9) 法華山谷川の流れ(4) 「七つ池」をつくり、その水を西川に流す

2023-05-26 09:56:34 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

     志方町をゆく(109) 細工所(9) 法華山谷川の流れ(4)

        「七つ池」をつくり、その水を西川に流す

 今、当然のように法華山谷川川筋変更の事をかいていますが、史料に拠っての文章ではありません。

 でも「多分そうであろう」と想像して書いています。

         流路変更(法華山谷川)

 『志方町誌』も法華山谷川の流路変更に慎重ながら川筋の変更を認めておられます。

 地形から考えて法華山谷川の川筋の変更は間違いと思います。



 想像を一歩進めます。川筋変更がなされたのは姫路藩主・榊原忠次の統治の時代ではないかと想像するのです。

 江戸の初めの頃は日本の大開発時代です。法華山谷川の川筋を変え、細工所・高畑から畑にかけて水田を広げたのでしょう。

        水は農民の命

 しかし、先に述べたように川筋を変更するということは、農民にとって大問題です。近隣の村々との利害が一致するとは限りません。

 水が少なくなる。つまり、水がとられる地区の農民にとっては、たとえ藩主の命令であったとしても受け入れがたい問題です。

 藩主としても、一方的な命令では農民の不満はたまり、やがて大きな問題の火種になりかねません。

 藩・農民双方にとっても都合のよい解決法を見つけなければならないのです。

 現在の言葉ではウィン・ウィンの関係を見つけ出さねばなりません。

 法華山谷川は、川筋が分かれて一部は志方(志方町・西志方)方面へも流れていたのでしょう。

 畑・行常あたりから高畑・細工所に流れて西川に繋がっていた川筋を変更し、水田が広がり、そして水は大池を超えて志方(村)の方へ流れるようになったのでしょう。

 当然、細工所・高畑・岡あたりから現在の西川沿いの村々にとっては水が大きく減少します。

         流路変更と七つ池

 解決方法を見つけなければ、農民の不満は爆発します。

 そこで考えられたのが「七つ池の築造」だったと想像します。

 『志方町誌』で「七つ池」に関しての詳細はあるのですが、築造の時代を記していません。

 大胆な想像をしてみます。

 七つ池は、法華山谷川川筋変更問題と同時に計画されたのではないかと考えます。

 つまり、法華山谷川の川筋を変更して、法華山谷川に沿った地域の水田を広げ、また志方村(現:志方町・西志方)の方面の開発の水を確保しようとしました。

 西川につながっていた法華山谷川の水の代わりに「七つ池」つくり、その水を西川に流したのではないかと想像します。

 つまり、ウィン・ウィン関係を見事に成立させたのではないかと推測されます。

 以上の文章を書きながら、とんでもない想像をみなさんに押しつけていないだろうかと若干不安になっています。

 皆さんは、どのように想像されますか。

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志方町をゆく(108) 細工所(8) 法華山谷川の流れ(3)

2023-05-25 08:17:42 | 加古川市歴史探訪 志方町編

   志方町をゆく(108) 細工所(8) 法華山谷川のながれ(3)

         法華山谷川の川筋変更は江戸初期か

  『志方町誌』は、法華山谷川の流路更説には慎重ですが、慎重ながら流路の変更説を主張されています。

       水利権

  農民にとって「水」はまさに農民の命でした。そのため各地で水をめぐって激しい争いがおきています。

 水に関しては、厳格な掟(おきて)がありました。水利権です。水利の変更はほとんど不可能でした。

 ましてや、川筋を変更するとなると大問題です。

         藩権力

 記録はないのですが、それを可能にする方法が、ひとつだけあります。

 それは、法華山谷川の川筋変更を藩に願いでることです。(藩の指導であったのかもしれません)

 東志方の開発許可を姫路藩に申し出て、藩の許可を得ることでした。

 江戸時代、姫路藩の財政事情は火の車でした。

 年貢の増収を目指さなければならない事情がありました。

旧来の村の水利習慣をかたくなに守っておれば新田は増えません、とうぜん年貢は増えません。

 そこで、藩は各地の水利慣行を変更してでも年貢の増収を目指しました。

 「藩(藩主)の命令」ということであれば、利害が対立する村々としても「ノー」とは言えません。利害の対立する村々も、認めざるを得ませんでした。

      他藩の開発許可は出せない

 東志方の村々には特別な問題がありました。

 宝永六年(1709)、先の紹介したように多くの東志方の村々は小田原藩領となり、それに続き延享三年(1686)より一橋藩の天領として幕末まで続きました。

 宝永六年以降、姫路藩は他藩である東志方の村々に命令を出すことができなくなりました。

 ですから、川筋変更の許可(命令)が出て、川筋の変更が実施されたのは江戸時代の初めから宝永六年に限られます。

 法華山谷川の河川の流路変更も江戸時代前期であったのでしょう。



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志方町をゆく(107) 細工所(7) 法華山谷川の流れ(2)

2023-05-24 06:54:26 | 加古川市歴史探訪 志方町編

         志方町をゆく(107) 細工所(7) 法華山谷川の流れ(2)

 前号の続きです。地図で法華山谷川の流路を見ています。

 畑から細工所・高畑に向かって広がる水田耕地(水田)に注目ください。

 不自然なところがあります。

 水は当然、高い所から低い所へと流れます。

 とすると法華山辺りから流れ出した水は、畑の集落あたりから高畑・細工所の方へ一番低い所を流れて川をつくるのが自然です。

 しかし、そうはなっていません。一番低い所を避けて山裾から平野部の少し高い所を流れ、そして東飯坂の集落から南(志方町志方)へ大きくカーブをきって流れています。

 これは、明らかに元の流路が、高い所に付け替えられ、そのあたりを水田につくり、高所を流れる川から池に水をためたり、田に水を引いたのでしょう。

 これが現在の法華山谷川のながれです。

 元の川の氾濫原は豊かな水田に一変しました。

 それは、いつの頃だったのでしょう。

 記録がないので確実なことは言えませんが、他の地域の開発のようすなどから想像して、江戸時代の初めの頃ではなかったかと考えます。

 地形から判断して、法華山谷川は畑の集落あたりから高畑・細工所の方へ流れ、現在の西川と繋がっていたと想像して間違いないと思われます。



 次の文章をお読みください。

     日本の農村の原風景は江戸時代の初めにつくられた

 江戸時代も、元禄の頃までは、「日本の大開拓時代」といわれますが、荒れ地(氾濫原)も一挙に開拓が進み、この頃に現在の日本農村の原風景は形作られました。

 その理由を歴史学者・大石慎三郎氏は、次のように説明されています。



 「・・・天下分け目と言われた関ヶ原野戦いを中心として、その前後約6070年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・

 戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」(『江戸時代』中公新書)



 つまり、江戸時代は戦争のない時代となりました。戦国時代の(軍事)技術が農業に転用されたのです。

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志方町をゆく(106) 細工所(6) 法華山谷川の流れ(1)

2023-05-23 09:37:52 | 加古川市歴史探訪 志方町編

     志方町をゆく(106) 細工所(6) 法華山谷川の流れ(1)

 細工所といいながら、内容は「細工所界隈」です。『志方町誌』から法華山谷川ついて、その一部をおかりします。

*文体は少しだけ変えています。

 

 今、高畑・細工所問の県道に立って、法華山を望むと、大きく口を開いたような細長い平野が見渡されます。

 ここからさらに退いて平荘地区の小畑あたりに来て法華山を望むと、この口を開いたような平野はさらに長く大きくなります。

 「法華山谷川は、この平野の真ん中を流れて、現在の西川の川筋を通って加古川に流れ込む川であった」と古老は伝えています。

 たしかに、ここから見渡される広い平野は、法華山谷川の流域として開けたのでしょう。

 「大昔、志方に住みついた人々もこの川に沿うて北上してきたものであろうという」ことはうなづけます。

 これについて、もう少し古老のいい分を聞いてみます。

 「・・・行常(ゆきつね)を出たあたりから高畑へかけて川の底が両側の土地よりも高くて、どうも白然に出来た川とは思えません。ちょっと雨が降ると堤すれすれに増水して、今にも堤防が切れるぱかりです・・・」

 こういう無理があるのは人工的に川筋を変更した証拠だというのです。

 つぎに、大沢から細工所にかけての一帯は地下水が豊富で、しかもその地下水は南流しています。

 即ち、これは昔の川床なのだというのです。細工所の南部は、少し掘ると砂礫が多く、水が湧いて困ほどです。

*写真:東志方高畑辺りから法華山谷川を望む。

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志方町をゆく(105) 細工所(5) 一橋公陣屋跡と山崎新蔵

2023-05-22 07:15:03 | 加古川市歴史探訪 志方町編

      志方町をゆく(105) 細工所(5) 一橋公陣屋跡と山崎新蔵

      一橋公陣屋跡

 東志方の9ヶ村の外に曽根村・今市村・中嶋村(以上は現、高砂市)が一橋領となり、陣屋(役所)は、細工所に置かれました。

 現在、陣屋の遺構は、何も残っていませんし、詳細もわかりません。

 ただ、細工所公会堂の庭に「細工所陣屋跡」の碑が、陣屋があったことを物語っているばかりです。

      一橋領細工所陣屋役人の墓碑

 地元の宮永半治氏(志方町細工所)は、生前細工所に置かれていたという、一橋公の「細工所陣屋跡」を調べておられます。

 しかし、口伝によると「旧東志方郵便局及び細工所公会堂を中心にあったという・・・・」という程度で、はっきりしません。記録もありません。

 そんな中で、安楽寺に一基の陣屋に縁のある人の墓碑を発見されています。

 代官・元締・手代・書記のものかはっきりしませんが、戒名の院号や碑文から細工所陣屋でかなりの地位のあった役人のものと思われます。

 墓碑の裏側の碑文は、宮永氏は写し取られています。省略しますが、簡単な訳をつけておきます。

  (碑文)

 戒名「円説院定岳教禅居士」は、生前、山崎新蔵で元、滋賀の人です。

 その後、遠州(現静岡県)に住み、播州の一橋公領の官吏でした。

 天明元年(1781)五月二十一日、播州細工所の官舎で病気のため亡くなり、安楽寺に葬られました。

 行年 六十四才、息子の孝政がこの墓を建てる。・・・

 一橋公陣屋跡については、わからないことばかりですが、宮永半治氏が発見された墓碑から確かに陣屋が細工所に置かれており、そして一時、山崎新蔵という官吏が勤めていたことがわかります。

*写真:陣屋跡の説明柱と宮永氏が発見された山崎新蔵の墓碑(安楽寺本堂裏の墓地)



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志方町をゆく(104) 細工所(4)  宝永の富士山大噴火と東志方の村々(2) 東志方9ヵ村は、小田原藩領、天領に

2023-05-21 06:31:08 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

   志方町をゆく(104) 細工所(4)

    宝永の富士山大噴火と東志方の村々(2) 

        東志方9ヵ村は、小田原藩領、天領に

 今日の「志方町をゆく」は、「志方町をゆく(5)」と同じ内容の記事です。

 宝永4年(1707)11月23日(現暦:1216日)、「宝永の噴火」と知られる富士山が、空前の大爆発をおこし、南関東地方に大災害をもたらしました。

 ことに、富士山は、膨大な火山灰を噴出させ、風下の小田原領を直撃しました。

 当時、小田原藩の藩主は大久保忠増で幕府の老中でした。

 小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまいました。

 そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年(1708)に、復興がなるまでという期限つきで、新たな領地を得ることになりました。こんな例は外にありません。

 その新たな領地の一つが、東志方の9ヵ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)でした。

 この状態が約40年、延享4年(1747)まで続きます。

      そして、天領一橋領(東志方99ヶ村)

 八代将軍・吉宗は、家康によって創設された御三家にならって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。

 東志方の9ヶ村は、相模小田原藩の領土であったのですが、延享4年(1747)から今度は、そっくり御三卿の一つの「一橋領」に組み込まれたのです。

 つまり、東志方9ヶ村は天領となりました。

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志方町をゆく(103) 細工所(3) 宝永の富士山大噴火と東志方の村々(1)

2023-05-20 06:44:31 | 加古川市歴史探訪 志方町編

         志方町をゆく(103) 細工所(3) 

            宝永の富士山大噴火と東志方の村々(1)

 今回の「 宝永の富士山大噴火と東志方の村々」 は、すでに何回も紹介しました。「志方町をゆく」でも紹介済みです。しかし、細工所(東志方)でこの話題を紹介しないと何となく落ちつきません。

 くどくなりますが、お付き合いください。

       宝永の富士山大噴火と東志方の村々

 とんでもない事件がおきました。富士山の大爆発です。

 宝永4年(1707)、10月28日(旧104日)東海~南海巨大地震である宝永地震(M8.4)が発生しましたが、この宝永地震の49日後の12月16日(旧1123日)の朝10時ごろでした。富士山が大噴火しました。世にいう「富士山宝永大噴火」です。

 今日のFBでは志方町は登場しませんがこの宝永富士山大爆発と東志方は大きく関係することなります。その顛末は、次回に紹介しましょう。

 噴火が始まると、山麓の村々には焼け石が絶え間なく降り注ぎ、家も畑もたちまち、その下に埋まっていきました。

 江戸でも、その後10日あまり灰がふり、時には栗粒ほどの黒い砂が混じり、家々の屋根に落ちる音が大雨のようでした。

 特に、噴火の大きな被害を直接受けたのは小田原藩の各村々でした。

 噴火が終息した後は、一面に灰や焼砂に覆われ、絶望的な風景が広がりました。すべての収穫は奪われてしまいました。

 たちまち、飢饉が襲いました。餓死するものも相次ぎました。

 小田原藩は、米一万俵を各村々に分配したのですが、その程度では焼け石に水でした。

 その上に、降り積もった焼け砂や灰を除去するには多大の労力と経費が必要でした。

 小田原藩領民の自力だけでは不可能で、幕府も救済の手を差し伸べざるを得なくなります。

 *写真:宝永火山でできた噴火口

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志方町を歩く(102) 細工所(2) 消えた「細工所村」

2023-05-19 06:25:15 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町を歩く(102) 細工所(2) 消えた「細工所村」     

 「・・・明治22年4月1日、全国的に市町村の再編がおこなわれました。

 この時、細工所村・高畑村・岡村・広尾村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村・畑村・雑郷村・東飯坂村・東中村の12ヶ村が合併して東志方村が誕生しました。

 従って、明治22年4月1日より「細工所村」はなくなり、「東志方村細工所」となりました。

 現在でも、細工所を「細工所村」と呼ぶ人がしばしばありますが、120年以上以前に「細工所村」は、なくなっています。

    細工所村から細工所へ(名称変更の県の通達)

 つまり、明治22年3月31日まで細工所は細工所村で、それ以降は東志方村細工所となりました。

 しかし、ながい間の習慣は「細工所村」という村名は、一挙にはなくならなかったようです。

 明治22年以降も書類上でも旧来の村の名称「細工所村」が使われていたようです。

 大正二年四月二日、「本村大字名を左記の通り改称し・・・本月四月一日より実施することに相成・・・」という県からの通達が東志方村長を通して細工所にも通知されています。

 「それまでの大字名(細工所村)を改称して、細工所を使用しなさい」とする通達です。東志方の各村々にも同じ通達が出されました。

 しかし、この通達以後も役所の公式の文書では「細工所村」が使用されていたようです。

 写真をご覧ください。通達が出た後の大正七年度の「書類綴込帳」には、依然として「細工書村」と書かれています。

 *「書類綴込帳(大正七年度)」:細工所町内会蔵

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志方町をゆく(101) 細工所(1) 細工所の意味は?

2023-05-18 06:44:46 | 加古川市歴史探訪 志方町編

    志方町をゆく(101) 細工所(1) 細工所の意味は?

「わたの里」は不十分でしたが、いったん終了し、今回から東志方細工所を歩きます。

     地名考・細工所(さいくじょ)

 “細工所”(さいくじょ)というのですから、何かを作っていた所だろうと想像します。

 歴史学者の落合重信氏は『ひょうご地名考』(後藤書店)で、志方町細工所について、次のように述べておられます。



 ・・・細工所というのは、事典にあるように「禁裏・国衙(こくが:国の役所)・幕府・荘園・寺院などに設置された手工業者の役所、および工房」という意味です。

 そこにいた手工業者はいろいろだが、鍛治・鋳物師・土器作・弓作・大工・紺屋・桧物師・白皮染等広範にわたっています。・・・



 細工所には、近くから須恵器(すえき)を生産した古代の窯跡が残っています。

      細工所は塞ぐ所(防ぐ所)か?

 郷土史家の石見完次氏も、「ここは古窯跡が多いところだから、古代土器の工房」かと考えておられます。

 しかし、最近の研究では、「細工所は“塞ぐ所(さえぐしょ・さえぐところ)”のことで、防御の設備のあった場所ではないか」とする説を紹介されています。

 細工所は、中道子山城(城山)の麓にあり、街道筋だから“塞ぐ所”(防衛の場所)であったとする説です。

 細工所には、「瓦・土器を作った工房説」が有力ですが、「防衛の場所」説も捨てがたいものがあります。

 あなたは、どう思われますか。



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志方町をゆく(100) わたの里(16)  「わたの里」終了、次回から、東志方細工所の歴史探訪

2023-05-17 06:42:00 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

  志方町をゆく(100) わたの里(16)

    「(シリーズ)わたの里」終了、次回から、東志方細工所の歴史探訪

 

 最後にコットンプロジェクト(かこっとん)の活動の一端を紹介です。

 コットンプロジェクトは「ワタで日本を元気にする」ことを目指して、播州加古川流域(兵庫県南西部)で2011年に始まった取り組みです。

 この地域は、綿花栽培や加工に適した加古川の水流と穏やかな瀬戸内気候に恵まれていました。

 そのため、私たちの地域では綿花栽培の盛んでした。

 しかし、綿作は歴史の荒波のなかで、衰えましたが、最近綿のよさが見直されてきました。

 コットンプロジェクトは、自然・歴史・産業といった地域の「ワタ資源」を活かし、これからの時代に即した新しい形の「コットン産業」を提供することで、私たちの地域、ひいては日本全体を元気にしていきたいという思いではじまったプロジェクトです。

 (シリーズ)「わたの里」は、意気込んで纏めてみよう思いましたが、浅学のため、その歴史・現状を充分再現できていません。

 今後、「稲岡工業の史料」の解明も進み、新しい歴史の発見があると思います。

中途半端ですが、「(シリーズ)わたの里」」はいったん終了します。

 〈お知らせ〉

 次回から「志方町をゆく」は「志方町細工所」の歴史散策をします。引き続きよろしくお願いします。

 *写真:コットンプロジェクトの活動の一部

 

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