志方町をゆく(109) 細工所(9) 法華山谷川の流れ(4)
「七つ池」をつくり、その水を西川に流す
今、当然のように法華山谷川川筋変更の事をかいていますが、史料に拠っての文章ではありません。
でも「多分そうであろう」と想像して書いています。
流路変更(法華山谷川)
『志方町誌』も法華山谷川の流路変更に慎重ながら川筋の変更を認めておられます。
地形から考えて法華山谷川の川筋の変更は間違いと思います。
想像を一歩進めます。川筋変更がなされたのは姫路藩主・榊原忠次の統治の時代ではないかと想像するのです。
江戸の初めの頃は日本の大開発時代です。法華山谷川の川筋を変え、細工所・高畑から畑にかけて水田を広げたのでしょう。
水は農民の命
しかし、先に述べたように川筋を変更するということは、農民にとって大問題です。近隣の村々との利害が一致するとは限りません。
水が少なくなる。つまり、水がとられる地区の農民にとっては、たとえ藩主の命令であったとしても受け入れがたい問題です。
藩主としても、一方的な命令では農民の不満はたまり、やがて大きな問題の火種になりかねません。
藩・農民双方にとっても都合のよい解決法を見つけなければならないのです。
現在の言葉ではウィン・ウィンの関係を見つけ出さねばなりません。
法華山谷川は、川筋が分かれて一部は志方(志方町・西志方)方面へも流れていたのでしょう。
畑・行常あたりから高畑・細工所に流れて西川に繋がっていた川筋を変更し、水田が広がり、そして水は大池を超えて志方(村)の方へ流れるようになったのでしょう。
当然、細工所・高畑・岡あたりから現在の西川沿いの村々にとっては水が大きく減少します。
流路変更と七つ池
解決方法を見つけなければ、農民の不満は爆発します。
そこで考えられたのが「七つ池の築造」だったと想像します。
『志方町誌』で「七つ池」に関しての詳細はあるのですが、築造の時代を記していません。
大胆な想像をしてみます。
七つ池は、法華山谷川川筋変更問題と同時に計画されたのではないかと考えます。
つまり、法華山谷川の川筋を変更して、法華山谷川に沿った地域の水田を広げ、また志方村(現:志方町・西志方)の方面の開発の水を確保しようとしました。
西川につながっていた法華山谷川の水の代わりに「七つ池」つくり、その水を西川に流したのではないかと想像します。
つまり、ウィン・ウィン関係を見事に成立させたのではないかと推測されます。
以上の文章を書きながら、とんでもない想像をみなさんに押しつけていないだろうかと若干不安になっています。
皆さんは、どのように想像されますか。