ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく(10) 今市札(藩札)

2023-01-31 09:21:07 | 加古川市歴史探訪 志方町編

   

   志方町をゆく(10) 今市札(藩札)

 写真の今市で発行した藩札の「播州今市」に注目してください。

 渋沢は、売買の便利をはかるために木綿預手形(今市札・藩札)を発行しました。

 この木綿手形の背景には当時金相場が高騰して、正貨である幕府貨幣の流通が滞っていたという事情がありました。 

 そして、どこの藩(天領を含む)台所は火の車でした。

 一橋家の慶喜は第15代の将軍で、何かと物入りでしたした。十分な準備金はありません。

 そこで、渋沢は一ツ橋家のために裕福な者から借銀をして準備金を用意し、今市札の発行考えました。

 今市札への出資者は、揖東郡日飼村(たつの市)堀彦左衛門(2500)、加東郡垂水村(加東市)藤浦常八(1250)、多可郡下比延村(西脇市)広田傳左衛門(800)のほか地元・今市村伊藤長次郎(600)、同村入江十郎(300)、同村鈴木又蔵(200)両、同村入江亀太郎(150両)、その他一人(120)、四人(200両)両ずつ、一人(60)で、総額6330両を集めました。利息は年8朱で10年返済でした。

 これらの出資者は、すべて産物会所及び引替所の役職に就き、一橋家の発行する手形は、大きな信用を得ることができました。

 そのため、一橋家領の木綿預手形は一匁のものはいつでも一匁と額面通り流通したといいます。

 今市村の商は、大いに繁栄しました。

 *写真:今市札、『高砂市史(伊保篇)』(『旧高砂史』)より



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志方町をゆく(9) 東志方(天領)の綿

2023-01-30 09:35:53 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

      志方町をゆく(9) 東志方(天領)の綿

 渋沢栄一は、一橋家経済的に恵まれた家ではありません。

 一橋家の財政立て直しのための一つに、播磨の特産品である木綿や菜種油に注目します。姫路藩の木綿専売制は有名でした。

 渋沢栄一は、「一橋家領の木綿は、姫路藩のようにまとめて大坂・江戸で売るならもうかるだろう」と考えました。

 東志方や加古川下流の今市(いまいち)・中島の村々は、一橋藩領(天領)した。

 しかし、木綿の専売制を実施している姫路藩から勝手に綿や布を買い集めることはできません。

 彼は行動の人です。慶応元年(1865)に細工所村(加古川市東志方町)へ出張し、8月28日から1ヵ月間、今市村に逗留して一橋産物会所(役所)の開設を準備しました。

 余談ですが、当時の人は現代人と違います。みんな、頑丈な丸太のような働く足を持っていました。高砂~志方間の距離はまったく問題になりません。朝出かけて仕事を済ませて帰ってこれる距離です。

 記録にはないのですが、渋沢栄一が東志方に来ていたことは確実だと思われます。

 こんなこを想像するのも楽しいですね。

 今市村(高砂)に役所を置いたのは、今市には資産家が多く、家屋や土蔵などの設備もあり、なにより水運が便利だったからでした。

 史料はあまりないのですが、栄一は一ツ橋藩は東志方から綿布・綿を多量に買い集め江戸・大坂との商売を盛んにしようと考えました。

 *写真:現在も残る今市の豪商宅



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志方町をゆく(8) 渋沢栄一、一ツ橋家に仕える

2023-01-29 08:55:24 | 加古川市歴史探訪 志方町編

      志方町をゆく(8) 渋沢栄一、一ツ橋家に仕える

「志方町をゆく」と言いながら、志方町から一時離れます。渋沢栄一の話になります。

    平岡円四郎と渋沢栄一の運命的な出会い

 渋沢栄一は、天保11年(1840)今の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)に生まれました。

 血洗島は、なんとも恐ろし気な名前です。中山道と利根川に挟まれた地域で、水害も多い集落でした交通の要衝でした

 栄一は、水戸学(尊王攘夷思想)の影響を強く受け、胸にほとばしるような倒幕の激情が溢れていました。

 文久3年(1863)の10月でした、渋沢栄一等の攘夷論者たちはクーデターの実行(幕府方の高崎城の襲撃)の謀議があり、激論になりましたが、意見は分かれ挙兵は一時中止となりました。

 しかし、この計画はうすうす漏れており、身は危険を感じた栄一は、京都へ出ます。

 そして、こともあろうに一ツ橋家の当主徳川慶喜(後の15代将軍)の側近中の側近、平岡円四郎との出会いがありました。

 そこで、平岡から驚くべきことを聞きました。

 「栄一らの高崎城襲撃計画のことが仲間の持っていた手紙がみつかり、このままでは幕府側につかまり、牢死する以外にない」「生きる道は、一ツ橋家の家臣になることだ、どうだ・・・」と言う意外な提案でした。

 平岡は、栄一を見込んでいたようでした。

 悩んだ末、栄一は一ツ橋家に仕えることにしました。

 栄一は、本来徹底した現実主義者のようです。この辺を平岡は見抜いていたのかもしれません。

 栄一は、激動の渦巻く京都に身を置くことになりました。

 一ツ橋家と渋沢栄一の結びつきができあがりました。

 *写真:2021NHK大河ドラマ「青春を衝け」で渋沢栄一を演じる吉沢亮=NHK提供

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志方町をゆく(7) 余話:市丸廟(高砂市)

2023-01-28 08:51:58 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 2018730日の神戸新聞に地元の歴史家・唐津哲男市は高砂市の市丸廟(いちまるびょう)について報告されいます。中島・今市は後に天領(東志方)と関係を持ちますので余話として転載させていただきました。

     志方町をゆく(7) 余話:市丸廟(高砂市)

 約300年前の1707(宝永4)年に富士山が大噴火し、今の神奈川県小田原市付近が、約1・5~2メートルの火山灰と溶岩に覆われた災害があった。幕府領だった高砂の今市と中島が小田原藩の避難地とされた。

 同地区は加古川の支流である2本の荒井川に挟まれた地形のため、たびたび洪水に見舞われ、村人は疲弊していた。小田原藩から来た代官市丸又四郎はこの窮状を救済するため植林と竹の移植で堤防をつくり、弁財天と稲荷神社を勧請。それ以降村人は安心して生活することができた。

 後年、村人は、堤防の一角に市丸又四郎の顕彰碑「市丸廟」を建立し、親しみを込めて「べざいさん」と呼んだ。(以下略)(わが町リポーター・唐津哲男氏の報告より)

 

 以下は予告です。すでに紹介したように富士山の宝永噴火の翌年(1708この地は小田原藩の領地になりました。

 そして、ここ今市・中島の地は小田原が復興なった延享年(1747)こんどは一ツ橋藩の天領として江戸時代の最後まで続きます。

 幕末、今市・中島は渋沢栄一が活躍する舞台となりました。



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志方町をゆく(6) 細工所(天領)陣屋役人・山崎新蔵

2023-01-27 09:51:06 | 加古川市歴史探訪 志方町編

             志方町をゆく(6) 細工所(天領)陣屋役人・山崎新蔵

 印南郡では、東志方の9ヶ村の外に曽根村・今市村・中嶋村(以上は現、高砂市)が一ツ橋領の天領となり、陣屋(役所)は細工所に置かれました。

 しかし、現在陣屋の遺構は、何も残っていません。

 ただ、細工所公会堂の庭に「細工所陣屋跡」の碑(写真)が、陣屋があったことを物語るだけです。



 陣屋跡は古老の口伝によると「旧東志方郵便局及び細工所公会堂を中心にあったという・・」という程度で、陣屋に関しての詳細については、わかりません。

 生前、宮永半治氏(志方町細工所)は、安楽寺に一基の陣屋に縁のある人物の墓碑を発見されました。

 代官・元締・手代・書記のものかはっきりしませんが、戒名の院号や碑文から細工所陣屋で、かなりの地位のあった役人のと思われます。

 墓碑の文を読んでおきます。

   戒名「円説院定岳教禅居士」は、生前、山崎新蔵。

     元、滋賀の人。

    その後、遠州(現静岡県)に住み、播州の一ツ橋公領の官吏。

    天明元年(1781)五月二十一日、播州細工所の官舎で病気のため亡くなり、安楽寺に葬られた。

    行年 六十四才。

 一ツ橋公陣屋跡については、宮永半治氏が発見された墓碑から確かに陣屋が細工所に置かれ、一時、山崎新蔵という官吏が勤めていたことをることができました。

  *写真:細工所公会堂の庭の「細工所陣屋跡」の碑



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志方町をゆく(5) 宝永の富士山大噴火と東志方の村々(2)  東志方9ヵ村は、小田原藩領に

2023-01-26 07:38:23 | 加古川市歴史探訪 志方町編

    志方町をゆく(5) 宝永の富士山大噴火と東志方の村々(2)

      東志方9ヵ村は、小田原藩領に

 宝永4年(1707)11月23日(現暦:1216日)、「宝永の噴火」と知られる富士山が、空前の大爆発をおこし、南関東地方に大災害をもたらしました。

 ことに、富士山は、膨大な火山灰を噴出させ、風下の小田原領を直撃しました。

 当時、小田原藩の藩主は大久保忠増で幕府の老中でした。

 小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまいました。

 そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年に、復興がなるまでという期限つきで、新たな領地を得ることになりました。こんな例は外にありません。

 その一つが、東志方の9ヵ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)だった。

 この状態が約40年、延享4年(1747)まで続きます。

     そして、天領一ツ橋領(東志方9ヶ村)

 その後、東志方のこれらの村は、新たな支配領に組み込まれることになります。

 八代将軍・吉宗は、家康によって創設された御三家にならって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。

 東志方の9ヶ村は、相模小田原藩の領土であったのですが、延享4年(1747)から今度は、そっくり御三卿の一つの「一ツ橋領」に組み込まれたのです。

 つまり、東志方9ヶ村は天領となりました。

 そして、東志方の9ヶ村は、一ツ橋領として江戸時代の終わりまで続くことになりました。 



 

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志方町をゆく(4) 宝永の富士山大噴火と東志方の村々(1)

2023-01-25 09:22:34 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       

      志方町をゆく(4) 宝永の富士山大噴火と東志方の村々(1)

 とんでもない出来事がおきました。富士山の大爆発です。

 宝永4年(1707)、10月28日(旧104日)東海~南海巨大地震である宝永地震(M8.4)が発生しましたが、この宝永地震の49日後の12月16日(旧1123日)の朝10時ごろでした。富士山の大噴火が始まったのです。

 世にいう富士山宝永大噴火です。

 今日のFBでは志方町は登場しませんがこの宝永富士山大爆発と東志方は大きく関係しました。その関係は次回に紹介しましょう。

 噴火が始まると、山麓の村々には焼け石が絶え間なく降り注ぎ、家も畑もたちまち、その下に埋まっていきました。

 江戸でも、その後10日あまり灰がふり、時には栗粒ほどの黒い砂が混じり、家々の屋根に落ちる音が大雨のようでした。

 特に、噴火の大きな被害を直接受けたのは小田原藩の各村々でした。

 噴火が終息した後は、一面に灰や焼砂に覆われ、絶望的な風景が広がりました。すべての収穫は奪われてしまったのです。

 たちまち、飢饉が襲いました。餓死するものも相次ぎました。

 小田原藩は、米一万俵を各村々に分配したのですが、その程度では焼け石に水でした。

 その上に、降り積もった焼け砂や灰を除去するには多大の労力と経費を必要でした。

 小田原藩領民の自力だけでは不可能で、幕府も救済の手を差し伸べざるを得なくなりました。

 *写真:宝永火山でできた噴火口


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志方町をゆく(3) 地名考・志方

2023-01-24 08:33:33 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

         志方町をゆく(3) 地名考・志方

 『風土記』は、奈良時代、元明天皇の命令により、国ごとの産物・伝説などをまとめた当時の地理・歴史書です。

 播磨風土記には、加古川のヒオカについて、次のような地名説話があります。



 ・・・昔むかし、ヒオカの辺りは一面に木や草の茂る広々とした原野でした。

 天皇が、ヒオカ山へ狩に来られました。

 その時、突然一匹の大きな鹿が飛び出しました。

 天皇とお供の者は大喜びで、鹿の後を追いかけました。

 その時、鹿は、「ヒヒヒ・・・」と大きく鳴いて丘へ駆け上って逃げてしまったのです。

 この「ヒヒヒ・・・」と言う鳴き声を残しながら鹿が丘に消えたので、その山の名は、ヒオカとなづけらました・・・



 何んとなく、疑いたくなるような話ですね。

 この話の内容はともかく、奈良時代の頃、加古川から志方地方は草深い鹿の多く住む地域であったためこんな話が生まれたのでしょう。

 そのため、志方地方は最初シカタ地方と呼ばれ「鹿田」字が当てられました。

 その後、「志方」に変化したようです。

 いつのころか、はっきりしません。

 *図:1960年代の日本の鹿の分布図(『志方町誌』より)

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志方町をゆく(2) 歴史探訪「志方町をゆく」は、短く、易しい文章で

2023-01-23 08:25:39 | 加古川市歴史探訪 志方町編

     志方町をゆく(2) 歴史探訪「志方町をゆく」は、短く、易しい文章で

 「歴史探訪・志方町をゆく」を気張って書いてみます。

 どんな内容になるか私にもわかりません。

 一回の文章の分量は①短かく(原則原稿用紙1枚程度)、②易しい文章(中学生にも読んでもらえる)で書いてみます。

 できるだけ科学的(客観的)な志方町史にしたいと考えています。

 ですが、教科書のようでは読んでいただけません。そのためたぶんに物語的になるところもあります。

 はっきりしない所は、私の思い込み(主観)で書いてゆきます。暴走しましたら、ご叱責ください。

 またまた、お断りです。

 その第一は、志方町史は時系列で紹介するのが本当でしょうが、紹介したいところに到達した時には、飽きられて読んでいただけないようでは仕方ありません。

 そのため、興味がありそうな話題からの紹介となります。

 そして、第二は志方町は志方・西志方・東志方と、それぞれ特徴を持った町ですが、断りのない限り、この志方町編では一つの地域として扱わせていただきます。

 では、「歴史探訪・志方町をゆく」をはじめましょう。

*写真:円照寺のロウバイ(東志方広尾)

 写真のロウバイは、今年の撮影のロウバイではありません。2月の上旬には写真のように開花します。

 お出かけください。



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志方町をゆく(1) 「志方町をゆく」を始めます

2023-01-20 08:33:08 | 加古川市歴史探訪 志方町編

     志方町をゆく(1) 「志方町をゆく」を始めます

 「別府町をゆく」は、105号になりました。少々あきてこられたのではないでしょうか。ここらで、次の話題「志方町をゆく」を始めます。



 私の個人のことも含めて、おいおいお話をしていこうと思います。

 先日(17日)、資料を借りに西志方小学校をお訪ねしました。私は、短期間ですが、生徒として在籍したのは73年前のことです。

 当時、西志方小学校の運動場の隅に幼稚園があり、その幼稚園を卒業しました。

 そして、古ぼけた西志方小学校へは、1年生の2学期まで通学しました。

 思い出としては、優しかった担任の花井先生の顔と「くさいマックリの臭い」だけです。

 でも、横大路と西志方小学校界隈は、私の遊びの空間でした。子供時代の楽しかった記憶の世界です。

 そんな思いでも含めて志方町の歴史散策(志方町をゆく)を書いてみます。

 23日(月)よりスタートさせていただきます。

 〈お願い〉

 昔の写真がございましたら、紹介ください。よろしくお願いします。

 *写真:志方西小学校(志方西小学校150周年冊子)より






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別府町をゆく(106) 別府町新野辺(32)  浜ノ宮神社の伝承(2) 浜ノ宮天神社・元宮は十五社大神社

2023-01-19 08:43:23 | 加古川市歴史探訪・別府町編

  別府町をゆく(106) 別府町新野辺(32) 

     浜ノ宮神社の伝承(2) 浜ノ宮天神・元宮は十五社大神社

 九州の大宰府に流された菅原遣真は、延喜年(903)、失意のうちに大宰府で亡くなりました。59歳の人生でした。

 道真の死後、京都では天変地異がしきりに起きました。

 旱天・流星・大地震、そして疫病などが続き、貴族たちは道真の怨霊が京の空に舞い戻って来たのではないかと噂し、ひどく動揺しました。

 このため、朝廷は神社を建立して道真の霊を慰めようとしました。

    浜ノ宮天神社の元宮は十五社大神社

 それを伝え聞いた里入たちは、ゆかりの十五社の境内に天満宮をまつり、道真をお祀りしました。

 その後、室町時代に、十五社の神主の夢枕に神様が現われ「昔、筑紫に下るとき、尾上の東の松林の中にしばし休息したが、この地に私のお宮を建てよ・・・・」と。

 神主は、たちまち夢からさめました。

 そこで、さっそく浜の松林に出かけて見ると、松の木がうっそうと生い茂った中に、夢の中と同じ風景の場所がありました。

 神主は、これは天満天神のご威光であって、たいへんありがたいことだと思い、宮殿を造営し、文安元年(1444)831、十五社の宮より神様を新殿に移しました。

 これより、この浜の松林の中にある宮を浜ノ宮天神社と称することになりました。

 *写真:浜ノ宮神社境内    (完)



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別府町をゆく(105) 別府町新野辺(31) 浜ノ宮神社の伝承、 菅原道真のお手植えの松

2023-01-18 09:19:58 | 加古川市歴史探訪・別府町編

        別府町をゆく(105) 別府町新野辺(31) 

       浜ノ宮神社の伝承、 菅原道真のお手植えの松

 延喜元年(えんぎがんねん・901)、正月の下旬の頃です。

 右大臣という位の高い菅原道真(すがはらのみちざね)が、藤原氏のはかりごとのため、筑紫(今の福岡県)の大宰府(だざいふ)に流される途中、新野辺の沖を航海されていたときでした。

 空が急に暗くなり、海上は大しけとなりました。

 そこで船を浜に着け、松林に避難されました。

 そして、安田の十五社大神と尾上の住吉神神社(尾上神社)に航海の安全を祈られました。

 しばらくすると、ふしぎと急に風雨がやみ、海上が静かになり、ふたたび九州に向かわれました。

 そのとき、菅原道真は、松の根を上にして逆にして植えられました。

 しかし、ふしぎやふしぎ、その松はぐんぐん大きくなり、村人を驚かせたということです。

 浜ノ宮天神社の拝殿(はいでん)の西にある松が、その松であるといいます。

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別府町をゆく(104) 別府町新野辺(30) 浜ノ宮の松林

2023-01-17 09:39:44 | 加古川市歴史探訪・別府町編

         別府町をゆく(104) 別府町新野辺(30) 浜ノ宮の松林

 田山花袋の「播磨名所」に、次のような記述があります。一部を紹介しておきます。



 ・・・高砂尾上とはまるで別々になって了ったが、昔は確かに一村落であったに相違ない。

 そして今の尾上に、やゝその面影を残しているやうな松林がこの海岸一面に連なりわたって居て、松の影は松の影と相重なり、波の音は波の音と相雑(あいまじ)って、他に見ることの出来ないやうな荒涼寂莫たる趣を呈してゐたに違いない・・・・



 浜ノ宮中学校から浜の宮神社(加古川市尾上町口里)にかけての松林は、神社の境内地として保護され、明治維新以後は、官有林に編入され同神社や氏子によって維持されてきました。

 満州事変以来、この松林には陸軍病院、航空整備隊、さらに陸軍航空通信学校尾上教育隊が開設されるなど、多くの松は切り倒されさらにその後、多くの松が松くい虫にやられました。

 松林の風景は大きく変わりました。

 しかし、この松林は、播磨風土記に見える「賀古(かこ)の松原」の面影を今に伝えているようです。

 *写真は、浜ノ宮公園の黒松

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別府町をゆく(103) 別府町新野辺(29)    新野辺西部地区の土地区画整理事業

2023-01-16 07:25:38 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

 別府町をゆく(103) 別府町新野辺(29 

           新野辺西部地区の土地区画整理事業

 新野辺の西部地区は、駅徒歩圏内(山陽電車別府駅・浜ノ宮駅から)という立地条件の良さから、このままでは無秩序に宅地化が進むのではないかと心配されました。

 そのため、土地区画整理事業により公共施設を整備しようとの機運が盛り上がり、平成2年1月に組合設立発起人会が結成され困難な取り組みの末、平成18年に完成しました。

      土地区画整備事業・平成18年に完成

 平成2年(1990)  組合設立発起人会結成

 平成6年(1994)  地元説明会

 平成7年(1995)  組合設立認可

 平成10年(1998) 起工式

 平成18年(2006) 工事完成・検査

 昭和19年(2007) 市道の全面共用開始

 

  写真(上):土地区画整理事業以前の新野辺西部地区の写真(平成712月撮影)

  写真(下):土地区画整理事業後の写真(平成199月撮影)

比べてください。まず、道幅が広くなったことが目につきます。

 

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別府町をゆく(102) 別府町新野辺(28) 陸軍航空通信隊尾上教育隊(2)

2023-01-15 10:26:14 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

   別府町をゆく(102) 別府町新野辺(28)

      陸軍航空通信隊尾上教育隊(2)

 前回の陸軍航空通信隊尾上教育隊の続きです。 戦後、一部は浜ノ宮中学校校舎として利用されました。

      陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図

 戦史研究家・上谷昭夫氏のパンフに「陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図」があるので掲載させていただきました。

 ・・・・

 終戦後の一時期、加古川飛行場を管理した連合国占領軍が、兵舎として利用し、また、兵舎の一部は浜ノ宮中学校としても利用されました。

 現在、この教育隊の跡に次のような説明があります。読んでおきましょう。

     <教育隊跡地の説明> 

 「当公園内には、戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎が建設され、約1,500人の隊員が駐留していました。

 戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基礎石が存在していました。

 ここにあの不幸な歴史を二度と繰り返さないことを誓い、基礎石の一部を保存し、後世に伝えることにしました」

       加古川第一陸軍病院

 なお、上記の図の左端(西端)病院があります。

 この病院は、昭和12年(1937)に加古川飛行場に付属する「加古川陸軍病院」として開設されました。

 診療は、内科・外科・眼科があり、歯科は姫路陸軍病院へ行かねばならなりませんでした。

 昭和16年に、神野兵舎付属の陸軍病院(現在の「(私立)甲南加古川病院」)が開設されたので、名称を「加古川第一陸軍病院」と改めています。

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