ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平荘町・上荘町をゆく(64) 山角(やまかど)廃寺

2024-05-20 08:24:35 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     平荘町・上荘町をゆく(64) 山角(やまかど)廃寺

 平荘小学校の校庭の隅に、塔の心礎(写真)があります。中心に円形の孔が彫りこまれています。

*昨日、山角廃寺の礎石(写真)を撮影に平小学校へ出かけました。残念なことに同校は今年から小中一貫の義務教育学校「両荘みらい学園」になり校門には鍵がかかっており入ることはできませんでした。写真は数年前に撮った一枚です。

 かつて、山角(やまかど)に寺があったことを物語っています。
 この寺の元の位置についてははっきりしませんが、近くに古瓦の散布が見られたという報告があり、おそらく、この付近にあったのでしょう。
 仏教は6世紀に朝鮮より伝わり、白鳳時代(645~710)に、非常な勢いで全国各地にひろがりました。
 山角にある古代寺院もその一つです。
 加古川市には、同時期の寺院として、野口・西条・中西(西神吉町)・石守(神野町)等でも確認されています。
 時代は仏教文化が、古墳文化にとって変わろうとする時期でした。とすると、この寺院を建設したのは、それまで古墳を築いていたこの地域の豪族であったとも想像できます。
 平荘は、古墳の発達した地域でした。
 荘園時代、山角辺りは、印南荘屏村と呼ばれていた。屏は塀であり、西と北を山(塀)で囲まれた地形です。
 慶長時代の絵図では、山角は山門の字を当てており、村の名前は、山(塀)の前にある村の意から来ているのかもしれません。
 加古川市史(第一巻)は「・・今後における資料増加に期待するとして、ここでは7世紀末から8世紀はじめのころに創建された山角廃寺の存在を推測することにとどめておきたい・・・」としています。

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平荘町・上荘町をゆく(63) (民話)芝村の天神さん

2024-05-19 09:32:10 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   平荘町・上荘園町をゆく(63) (民話)芝村の天神さん

 むかし、仁明天皇の頃の話です。
 平荘の芝村(現:養老)の医者の娘に、きくのという人がいました。
 京都の貴族の家に奉公をしていました。きだての良い娘でした。
お嫁入りの年頃になったので、おひまをいただいて家に帰り、25才で結婚し男の子が生まれました。
 とっても、かわいい子でしたが、ふとした風邪がもとで亡くなってしいました。悲しいことが、重なりました。
 夫も二ヶ月後になくなったのです。きくのは、生きる望みがなくなりました。
 ちょうどその頃、都の菅原是善卿(すがはらこれよしきょう)夫妻に男の子が生まれ、乳母を捜しておられました。ある人の紹介で、きくのが是善卿のところへあがることになりました。
 是善卿の若君は、後の道真公です。
 きくのは、道真公が8才になるまで大切にお世話をしました。
 きくのは「・・・若君も、もう8才になられ、ことに優れたかたになられ、たのもしく思っています。このあたりで、故郷へおひまをいただきとうございます。・・・」と是善卿に申し出ました。
 その後、道真公はたいそう位の高い方になられました。
 道真公が57才の時でした。
 道真公が偉くなるのを恨んだ藤原時平が、道真公が悪いことをたくらんだと陰謀をめぐらし、罪をかぶせました。
 道真公は、筑紫の大宰府に流されることになりました。

         道真公との再会

 都をあとに、船で播磨灘にさしかかったとき、にわかに海が荒れて船が沈むばかりになりました。
 やっとの思いで、別府(加古川市別府町)の浜にこぎつけ上陸されました。
 そして、あたりをご覧になりながら、「私が小さい時、乳をもらった乳母は、この近くの芝村というところだったが、ここからどれほどの道のりですか・・」と村人にたずねられました。
 「一里ばかりです」と村人は答えました。
 道真公は「きくのは、生きていないかもかもしれないが、せめて乳母の住んだあとだけでもたずねてみたい・・」と芝村にでかけられました。
 きくのは、生きていて二人は再開するができました。
 別れの時です。道真公は、きくのにもう二度と会えないかもしれないと、歌をお詠みになりました。
     ながらえて ありとも我は おもはじな
      逢見るそ社(こそ) つきぬ奇縁を
 (わたしは、生きながらえて もういちどお目にかかれようとは思いません。今日こうしてお会いできましたことこそ、尽きない不思議なご縁がありましたから)
 その翌年、きくのは亡くなりました。
 きくのには、子どもがなく家が絶えたため、短冊は村長(むらおさ)に預けられました。
 芝村では、この短冊をご神体として、きくのが住んでいた場所に天神社(写真)を建て、お祭しています。
 後、芝村には雷が落ちたり、火事がおきたりする心配がなかったと言い伝えられています。
 *こんな民話が、芝村に伝わるのは、姫路から大坂・京都への道、湯乃山街道が平荘を通っていたからではないでしょうか。

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平荘町・上荘町をゆく(62) 一本松(加古川市平荘町)◇     

2024-05-18 10:30:50 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

             平荘町・上荘町をゆく(62) 一本松(加古川市平荘町)
 
 姫路市の「一本松村」の話からはじめます。
 姫路市の国道2号線、市川橋東詰あたりに「一本松」(姫路市花田町)があります。
 この一本松について『姫路の町名』(神戸新聞総合出版センター)は、次のように説明しています。
 この村(一本松村)は、元西南のところにあり、大きな一本の老木があったので一本松と呼ばれるようになっていたのですが、明暦年間(1655~58)に市川の本流が改修された時、川の中に没し、村は原野だった現在の所に移って「一本松原田村」となり、のちに「一本松」と呼ばれるようになりました。

 村人の一部は、印南郡平荘村(現:加古川市平荘町)に移り一本松新村をつくりました。
 平荘町一本松は、姫路の一本松村の人が移住してできた村です。
 後に、牛谷(高砂市)からの移住もあり、元禄10年の記録では、村高170石の大きな新田村となりました。
 『印南郡史』には「・・・一本松村より移住せしは岸本家一統にして、玉岡家一統は、その後牛谷より来住せしものなり・・・」と書いています。

  一本松は、上荘町の村々とよく似た斜面上の集落です。
 集落の南に西川が流れていますが、水の得にくい土地柄でです。
 地図を見ながら推測だけで書いています。
 村の北に大きな三つの池(北から奥ノ池・土ノ池・中ノ池)があります。
 一本松村にとって、これらの池は悲願であったに違いありません。
 

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平荘町・上荘町をゆく(61) 寺谷新村(現:東磐)

2024-05-17 09:47:43 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(61) 寺谷新村(現:東磐)


 『印南郡史』からの引用です。(書き直しています)


 ・・・・磐村は、もと寺谷・蔭山の二村であったが、明治11年10月合併して一村となりました。
 村の名・磐(いわお)は、村の北一帯につながる紅岩(べにいわ・写真)にちなみ磐村としています。
 (中略)寺谷村(現:東磐)の開発について、岸本家の過去帖には次のようにあるります。
 ・・・・岸本市右衛門源與は天正13年(1585)3月25日生まれで、・・・・慶長11年(1606)、見土呂村に来て、同14年から16年の間、寺谷(ひがし磐)の地の水の状況を調査し、同17年(1612)3月のはじめ28歳で当村を開発ました。
 なお、『印南郡史』には、「寺谷村と名づけたのは、この地に報恩寺の一院があったためと伝えています。
 地名に“寺所口”を言うところが残っていますが村の名は、これによるものでしょう?
 岸本市右衛門は、寛永9年正月の22日49才で没しました。
 *『印南郡歴(前編)』参照  写真:紅山(べにやま)

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平荘町・上荘町をゆく(60) 蔭山新田(現:西磐・にしいわお)誕生

2024-05-16 10:40:24 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

       平荘町・上荘町をゆく(60) 蔭山新田(現:西磐・にしいわお)誕生


 昔、加古川は、もっと東の方を流れていたようですが、それが、鎌倉時代の嘉禄元年(1225)年の大洪水で流されてしまい荒地になってしまいました。
 その後も開墾しては流され、また開墾をするという歴史を繰り返しました。
 『村翁夜話』に「・・・山角村前は往古の大川筋なり、今字に雁南と言う所ありて九十石の高あり・・・」とあり、山角・養老(もと芝村)前あたりを雁南新田といいました。
 万治元年(1652)、この地を大洪水が襲いました。
 村人は困り果て、翌年6軒が移住を決め、そして、蔭山(現:西磐)の地に移住し蔭山新田を開きました。
 その後、収穫も安定した村になったようです。
 100年後、村人は、蔭山新田(現:西磐)の歴史を後世に伝えるため、「開拓紀念碑」(写真)をつくりました。
 文面は、次のようです。(一部元文を書き改めています)

 「印南郡蔭山新村は、多田吉左衛門・高橋新兵衛・井上与右衛門・同市兵衛・同惣兵衛・同八兵衛の六人が開発した。
 姫路藩主・忠次様のご命を受け、新しい村をつくることができた。
 (蔭山新田は)万治元年に雁南新田(古くは中島新田)より移ってきた。
 今に至る百年、藩に感謝すると共に祖先の功績をあらわすため、この碑をつくる・・・」
 この記念碑は、現在西磐の墓地の入り口にあります。
 元文は、『印南郡史』に記録されているのでご覧ください。

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平荘町・上荘町をゆく(59) 磐(いわお)と紅山(べにやま)

2024-05-15 09:19:59 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   

    平荘町・上荘町をゆく(58) 磐(いわお)と紅山(べにやま)

 紅山は、小野市の観光スポットになっており、184㍍の山頂は加古川市と小野市の境界でです。
 登山口が小野市側にあるので、加古川市としては観光地になりにくかったのでしょう。
 山頂からの南側(加古川市側)の風景がほしかったので写真を撮りに出かけました。
 「30分ばかりで降りてこよう」と考えたのが間違いでした。結構きつく、何回も休憩をとりました。
 でも、山頂での気分は爽快でした。
 南側(小野アルプス)に降りるとスリル満点ですが、歳を考えて来たコースを引きかえしたました。

        加古川市平荘町磐(いわお)

 紅山の南側の山麓に磐(いわお)の集落があります。
 写真では、山陽自動車道の南に谷がりますが、その両側の小さな山塊に隠れています。
 集落は見えませんが、東(左)側の山塊の向こうが東磐(寺谷)であり、西に西磐(蔭山)です。

 

 ・・・明治11年12月、寺谷新村と蔭山新田が合併して磐村が誕生しました。
 蔭山新村(現:西磐)は、もと里(平荘町里)にあったのですが、万治元年(1658)年の洪水で流出したため、この地に移住し開拓しました。
 寺谷新村(現:東磐)は、慶長17年(1612)、岸本市右衛門らが開拓に当たった新田です。
 これら二村が、明治12年に合併し、村名を山肌が赤い紅山にちなんで磐村(いわおむら)としました。・・・・」
 単純な村名ですがが、下から眺める紅山はどうどうとした山塊です。
 磐は、紅山が壁になり北風を防いでいます。
 水は岩肌を流れ、あるいは地下水となり村に集まります。
 最近、東磐からミネラルをいっぱい含んだ天然水が湧き出す場所がみつかっています。

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平荘町・上荘町をゆく(58) 村名二題、上原村と養老村 

2024-05-14 09:26:28 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

    平荘町・上荘町をゆく(58) 村名二題、上原村と養老村   

    〈上原・かみはら〉
 天文元年(1532)の報恩寺の文書に「薬師堂、鎮守伊和明神、原村有之」とあります。
 ここに見える原村は、現在の上原(かみはら)です。
 志方町に原村があり何かと混乱があったようです。
 平荘の原は、これと区別するために、明治11年、村名を原から上原に変えました。
 この時、志方町の原村は下原(しもはら)と変わりましたが、昭和29年、西志方町原は志方町と合併時に元の「原」に戻しています。
 それにしても、この時(明治11年)「どちらの村を上とするか」について、おそらく議論が沸騰したことと想像されます。上と下では上下関係があるように思われます。詳細はわかりません。
 「上原」は、そのまま今日にいたっています。

    

    〈養老村・ようろうむら)
 もうひとつの村名「養老村」のことです
 明治10年12月、印南郡芝村と同中村が合併して新しく設定された村名です。
 ちなみに、平荘村の初代から五代までの村長を記しておきましょう。
   初代  滝 右左治   二代 滝 信二
   三代  前川 昌三   四代 滝 一二
   五代  滝  悦一
 「養老」村の有力の滝から、養老の滝を連想し、そこから村名を「養老」をしたといいます。

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平荘町・上荘町をゆく(57) (平荘町)野の仏たち(8) 長楽寺(小畑)の六地蔵 

2024-05-13 08:20:53 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

平荘町・上荘町をゆく(57) (平荘町)野の仏たち(8) 長楽寺(小畑)の六地蔵

 小畑(平荘町小畑)の長楽寺を訪ねています。少し風が強いが、暖かな5月春の日差しの中にありました。
 墓地の南に手入れの行き届いた竹林があり、竹をわたる5月の風の騒ぎは気持ちがいい・・・
  ◇六地蔵
 本堂が南面しています。
 その左側が墓地にりっぱな石棺仏があります。
 墓地の西端に六地蔵(写真)があります。
 家型石棺の蓋の内側に彫られ、地面からの高さ183センチの堂々とした石棺仏で、正面の縁取りした内部の平面に二列三段に六地蔵を配しています。
 それにしても、六地蔵の刻み方は複雑で、坐像、立像そして上部の二体だけが蓮華座であり、光背部も二種の違った形式で刻んでいます。
 
 ◇平荘地区は、まさに石棺仏お宝庫です。でも、話題が地味ですこし飽きてこられましたね。次回から話題を変えることにしましょう。 

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平荘町・上荘町をゆく(56) (平荘町)野の仏たち(7) ほほえみ地蔵 

2024-05-12 09:11:33 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     

  

  平荘町・上荘町ゆく(56) (平荘町)野の仏たち(7) ほほえみ地蔵


 昭和54年、西山(加古川市平荘町)の墓地で二基の仏たち(写真)は発見されました。
 見つけたのは西山在住の藤原良夫さんで、ウルシやツタが生い茂った中にで発見されました。
 二基のうち写真右の一基は、「ほほえみ地蔵」として知られています。
 お祭りの夜に、ゆれる灯明の明かりに照らされると、お顔が、にっこりと笑っているように見えたところから名づけられました。
 「ほほえみ地蔵」は「線刻地蔵板碑」で、線刻で鮮明な写真がとれませんでしたので拓本で紹介します。
 説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。
 この板碑は、古墳時代の家形石棺の身の底の部分を再利用し、線刻で蓮華座上に立つ地蔵菩薩を彫り出した珍しいものです。
 地蔵像の左右に銘文があり、応長元年(1311)9月に造られたことが分かります。
 ・・・(一部略)・・・
 制作年代が明らかなこの板碑は、この地域の特徴である、いわゆる石棺仏であり、線刻で仏像が表現された鎌倉時代の石造品としては県内唯一の例と考えられるものです。
 それにしても、この地域に石棺仏の多いのは驚きです。
 今後も新しく発見されるかもしれません。

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平荘町・上荘町をゆく(55) (平荘町)野の仏たち(6) 観音寺(里山条)の石仏

2024-05-11 07:13:18 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(55) (平荘町)野の仏たち(6) 

       観音寺(里山条)の石仏

 平荘町里山条に小さなお寺があります。
 観音寺です。さすがに、山条というだけあって、加古川が少し離れて下に流れています。
 加古川が溢れたときも、水はここまで押してきません。
 観音寺は、名前に不似合いなほどの小さなお寺です。
 この石仏(写真)は、注意しなければ見過ごしてしまいそうな小ぶりの石仏です。
 銘がないので、いつごろの造られたのかはっきりしませんが、室町時代の中ごろの石仏らしい。
 この石仏も石棺に彫られています。
 地元の人は、赤い可愛い前垂れをかけ大切にお守りをしておられました。
 観音寺に行った日は、曇り空で地蔵様は少し寒そうでしたが、写真を撮るために前掛けをはずさせていただきました。
 それにしても、平荘地域に石棺仏の多いのには驚かされます。こんな何気ない石仏も石棺仏です。

 少し西へ行くと古墳時代の西山1号墳、それに、西山大塚があり、さらに行くとそこは平荘湖古墳群です。
 この近辺には古墳が集中しており、石棺仏を造る材料は困らなかったのでしょう。
 観音寺の入り口には、古墳時代後期(6世紀)の大きな家型石棺の蓋が二つ(写真下)無造作におかれています。

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平荘町・上荘町をゆく(54) (平荘町)野の仏たち(5) 地蔵寺の石仏たち

2024-05-10 08:26:28 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

 

 

    平荘町・上荘町をゆく(54) 野の仏たち(5) 地蔵寺の石仏たち 

      大日一尊種子板碑


 池尻(平荘町)の地蔵山の山麓に、地蔵寺はあります。
 山門をくぐると左側に、二基の石棺仏(写真)が並んでいます。
 向かって右の石仏は地蔵像で、この地蔵像の背面に大日如来を表わす梵字が彫られています。
 大日一尊種子板碑です。
 この梵字の下に、弘安四年(1281)四月廿日の銘があります。
 
    六地蔵立像

 写真左側の石仏は六地蔵です。八体であるのに六地蔵とは不思議に思えますが、下の男女二体の像は、供養者の像です。
 銘はないのですが鎌倉後期の石仏のようです。
 供養者はどんな人物だろう。このような立派な像は宗教心だけではできるものではありません。
 当時、この近辺に経済力をもった人物であったのでしょう。

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平荘町・上荘町をゆく(53) (平荘町)野の仏たち(4) 双石仏と四尊石仏残欠

2024-05-09 10:06:49 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     平荘町・上荘町をゆく(53) (平荘町)野の仏たち(4) 双石仏と四尊石仏残欠

 前号では、平荘町養老の地蔵堂の四尊石仏を紹介しました。
 きょうは、隣の地蔵堂の石仏を訪ねてみます。
 二基の石仏があります。
 左側の石仏(写真上)には、高さ50cm・幅53cmで立像(地蔵)と坐像(阿弥陀)が彫ら、右側一基(写真下)には、高さ約63㎝・幅53㎝の石棺に四体の阿弥陀坐像が彫られています。
 これらの石仏について、説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。

 ・・・堂内にある二面の石仏も石棺の側石にそれぞれ仏像を彫ったもので、一面は阿弥陀像と地蔵、もう一つには阿弥陀三体(欠けたた部分に一体があり、本来は四体)が彫られており、造られたのは二面とも南北朝から室町初期と思われます・・・

 説明板にあるように、これらの石仏は、隣の地蔵堂の四体石仏も含めて、全て一枚の石板に数体の仏像を刻んだ石棺仏です。
 この特色を持つ石仏は平荘町に多く分布しており、この地域の特色です。
 それにしても、養老の地蔵堂の石仏たちは、近くで見つかった仏たちを寄せ集めのようで、一時は橋に利用されたり、長い間忘れ去られたりで、数奇な運命をたどっているようです。

 少し余話をしておきます。
 かつて、これらの石仏は「中村の地蔵様」として親しまれていました。
 明治10年12月、中村と芝村が合併して新しい村「養老」が誕生しました。
 命名にあたり芝村の有力者・滝氏にちなんで養老としたといいます。

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平荘町・上荘町をゆく(52) (平荘町)野の仏たち(3) 四尊石仏

2024-05-08 06:07:21 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

      平荘・上荘町をゆく(52) (平荘町)野の仏たち(3) 四尊石仏


 平荘町養老の西の端に、同じ敷地内に二つの地蔵堂があります。
 きょうは、向かって左の四尊石仏(写真)を訪ねます。
 四尊地蔵にはこんな話があります。

 ・・・ある時、村人が牛(馬)を引いて、この石橋を渡ろうとすると必ず急に牛(馬)の足が動かなくなってしまいました。
 村人は、不思議に思っていました。
 ある時である、村の女の人が洗濯をしていると、小川に架かる橋の下の辺りの水面に仏様の姿をみました。
 村人は、驚いて石橋を起こしてみると、この四体の像を刻んだ仏様のお姿があらわれたのです・・・・
 『加古川市史(第七巻)』でも、「この石仏はもと西山から養老に通じるあぜ道の橋にしていたのを像容を配していたことから、現在の場所へ移したものであるとしています。
 また、正面が黒色を帯びているのは、長い間祀られたもので、香煙によるものである」と記されています。
 説明板(加古川市教育委員会)によれば南北朝(14世紀)としているが、田岡香逸氏は、『加古川市史(七巻)』で「おそらく室町時代のものとしてもおそく、1550年をさかのぼるものではない・・・」と述べておられます。
 四体は、阿弥陀像です。
 *次号では、向かって右の地蔵堂の石仏を訪ねてみます。

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平荘町・上荘町をゆく(51)  (平荘町)野の仏たち(2)  石棺仏・一結衆十六人

2024-05-07 07:56:58 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

  

     平荘町・上荘町をゆく(51)  (平荘町)野の仏たち(2) 

     石棺仏・一結衆十六人

 加古川地域には不思議な石仏がたくさんあります。
 石棺の蓋、あるいは身の部分に仏を刻んだ石棺仏です。
 これらの石棺仏は、鎌倉時代から室町時代にかけてさかんに造られたが、その後、なぜかプツリと姿を消しました。
 鎌倉時代、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾され、この時、多くの古墳も壊され、出土した石棺は、仏像を彫る材料として再利用されたのでしょう。
 でも、単なる廃物利用ではなさそうです。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたようです。
 石棺仏は、全国に120基ほど確認されているが、その8割が加古川史、加西市地域に集中しています。
 その理由は、はっきりとしません。加古川市・加西市地域では普通に見られるこれら石棺仏ですが、珍しいものです。
 写真は、神木(こうぎ・平荘町神木)の石棺仏(鎌倉後期)の石棺仏です。

      一結衆十六人

 県下で、鎌倉時代から室町時代にかけてのこれら石造物は、すべて死者の追善や生者の逆修(ぎゃくしゅ)のための供養塔です。
 「逆修」は、「死なぬ前に、あらかじめ自分のために77日の仏事を修めて冥福をを祈ること」で、当時、生きているうちに自分の死後の供養を行えば、死んでから遺族の行う追善供養の七倍の功徳があると信じられていました。

 しかし、鎌倉時代の庶民は一般的に裕福ではありませんでした。
 これら石造物の造立者は、有力な農民だったと思われるが、それにしても独力で造立するには負担が大きすぎます。
 個人の墓塔となるのは、次の室町時代を待たねばなりません。
 神木の石棺仏も写真では確認しにくいのですが、右下に「一結衆十六人」と刻んでいます。

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平荘町・上荘町をゆく(50) 野の仏たち(平荘町)(1) 石仏は中世からのメッセージ

2024-05-06 11:21:17 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(50) 野の仏たち(平荘町)(1) 

      石仏は中世からのメッセージ


    平荘町に集中する石仏


 平荘町の石仏を訪ねてみましょう。
 加古川市だけでなく、中世の地方史、特に、庶民の生活等についてはほとんど分かりません。
 史料があっても大寺院等に保存されており、中世の庶民の生活はでてきません。
 さいわい、庶民の生活・願い等が想像できる史料があります。それが石仏です。
 庶民は、石仏に病気の回復を、死後の幸せを願ったことでしょう。
 市域には江戸時代以前の銘のある石仏が43基あります。その内、平荘町が18基を占めています。
 特に鎌倉時代中期以前の石仏については、県下で50基を数えるのみですが、そのうち、東播は26基で、加古川市域には11基を占めています。
 しかも、一基を除けば全てが平荘町に集中しています。
 しばらく、そんな平荘町の石仏の探索をしましょう。
 そして、霞の向こうある、中世の平荘町の姿を少しでも再現しましょう。
 *写真:八体仏(平荘町小畑・加古川市文化財)

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