ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平荘町・上荘町をゆく(37) 白沢(2) 渡来人

2024-04-23 10:06:15 | 歴史・文学

        平荘町・上荘町をゆく(37) 白沢(2) 渡来人

 「白沢」について石見完次氏は、『古地名新解』で、次のように説明しておられます。
 文章を一部書き直して紹介させていただきます。
 ・・・「白沢」は、天和八年(1622)、ここに白沢新村が開かれたが、白沢の地名は、それ以前からあったらしい。
 近年の調査では、奈良時代から約100年間、この谷で土器(スエキ)が焼かれていたことがわかった。
 シラサワの語源については、シラが問題で「シラ」は新羅人(渡来人)のことで、ここに渡来人の窯人がいたと考えられる。
 この山間の古道は、加古川を遡ってきた古代人が入りこんだ道であろう。
 シラサワの北にある来住村(キシムラ:小野市)のキシは新羅国の官位の名称であるし、点在する古窯は、朝鮮技術のある窯人がひらいたものと考えられる。
点在する古窯跡から須恵器が見つかっているが、5号窯から写真のような人形が発見された。
 高さ12cmの人形である。頭部は扁平な笠をかぶっている。中国・朝鮮の貴婦人のようである。
 右肩から紐が垂れている。おそらく太鼓をぶら下げていたのであろう。どこか大陸につながる雰囲気の人形である。
 白沢は、「新羅(シラ)」の人が須恵器を焼いていた場所であったと思われる。
 「沢」は流れのある谷間の意味である。とすると、「白沢」は渡来人のいた谷間を意味する。
 ここには、渡来人の伝承が残っていた・・・
*『古地名新解』(石見完次著)・『加古川市史(第四巻)』参照

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東神吉町をゆく(66) 砂部 砂部遺跡

2024-02-03 10:00:30 | 歴史・文学

 

        東神吉町をゆく(66) 砂部 砂部遺跡 

 砂部遺跡が発見されたのは比較的近年の昭和40年(1965)2月のことでした。

 最初の発見は、故礒野重吉氏が自己の所有する田(おりべ医院専用駐車場の南側)の表土を、削り取って、水田に農業用水が入りやすいように作業をしていた時でした。

 たまたま現地を通りかかった神吉在住の当時の永井宏市会議員が、土器のけらが多く出てきているのを発見して、教育委員会に届け出たのがきっかけでした。

 その後、昭和49年より同地域において、平荘町の権現ダムから高砂市の海岸部へ工業用水を送る送水管敷設工事が予定されていましたので、同年12月より同51年3月にかけ3次にわたる発掘調査が実施されました。

 この結果、遺跡の範囲は、旧西加古川の西岸自然堤防沿いのやや高くなった地域で、加古川バイパス北側の東西300m・南北300mに及ぴ、多数の石器・土器・土師器・勾玉等が出土したほか、須恵器や青銅器、祭祀遺構、住居建物址が発見されました。

 そして、砂部遺跡は縄文時代後期から平安時代にかけての遺構であり、加古川下流部右岸域における極めて重要な遺跡であることが判明しました。

紀元前300年(2300年前)から弥生時代、古墳時代、奈良時代、そして平安時代にかけて約1,000間、はるか昔の時代に砂部の地に「集落」があり、農耕が行われ、私たちの祖先が生活していたことを想像出来ますか?

 このときの調査内容は加古川市教育委員会が昭和51年(1976)と同53年に発行した2冊の報告書に詳しくまとめられています。

 そして、この報告書では兵庫県が水道管工事を優先させたので、加古川バイパスの北側位置の遺構保存をあきらめ、未調査のまま消滅してしまったことを非難しています。

 *『砂部あれこれ』(喜多正人著)より

 *写真:最初の発見地(背後の学校は神吉中学)

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上村池遺跡(うえむらいけいせき)説明会

2022-01-29 17:47:45 | 歴史・文学

      

   上村池遺跡(うえむらいけいせき)説明会 

 きょう(29日・土)の午後、八幡町中西条の「上村池遺跡」の説明会に出かけました。

 

 125日の神戸新聞の朝刊に上村池遺跡(八幡町中西条)の「奈良期の大型建物跡発掘」の記事の最初の部分を読んでみます。

 

 ・・・市文化財調査研究センターによると弥生時代から平安時代にかけての遺構、遺物が確認されている複合遺跡。

 1016年度には同市八幡町上西条の1500平方メートルを発掘調査し、飛鳥時代から平安、鎌倉時代にかけての集落跡を発見した。

 今回は、ほ場整備事業に伴う発掘調査で、面積は約600平方メートル。

 16年の調査場所の西側に位置し、昨年11月から調べていた。

 地面に掘った穴に柱を立てる「掘建柱建物」の跡とみられる柱穴は、複数棟分を発見。倉庫跡とみられる物もあったという。

 柱や溝等の穴は、180ヵ所以上あり須恵器等の土器片も出土している・・・・ 

 

 なお、調査員さんの説明では、「この辺は、まだ全体の調査が行われておらず、全体の調査が進めば奈良時代の大きな集落跡が出現し、ここは望理里(まがりのさと)の中心地であり、建物跡から判断して「望理の里」の役所の所在地かもしれません」とのことでした。

 

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「北条直正物語」をつくりました

2020-09-16 23:05:58 | 歴史・文学

           「北条直正物語」をつくりました

   先週から、水と闘い現在の稲美町を作り上げた「北条直正」について、久しぶりに力をだして、まとめていました。きのう、なんとか、できあがりました。
 彼は、大正9年6月15日亡くなりました。西暦でいえば1920年です。今年は没後100周年です。
 稲美町も彼について顕彰の行事を予定されていましたが、今のところコロナで予定が立っていません。残念です。
 疲れました。受験勉強を思い出しました。でも、散歩だけは続けています。
 写真は、3日ほど前の夕暮れ時の散歩中の景色です。きれかったですね・・・

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 松本清張、小説『Dの複合』で、天下原の羽衣伝説を紹介

2020-09-07 12:09:34 | 歴史・文学

 ウェルネス・パーク西の道を500mほど、まっすぐに行くと毘沙門堂があります。 毘沙門堂には羽衣伝説があります。

     松本清張、小説『Dの複合』で、

          天下原の羽衣伝説を紹介

 ここ(東神吉町)天ヶ原(あまがはら)の呼称は、ここに羽衣が舞い降りたという伝承から名づけられています。

 松本清張は、小説「Dの複合」で、少しだけ天ヶ原ついて少し書いていますので紹介します。

 

 (略)・・・余裕があれば加古川まで引っ返して、羽衣の伝説地を見たいのです。「へえ、加古川にも羽衣伝説がある?」伊勢(『Dの複合』の主人公)はビックリした。「少し北に行ったところに、印南郡神吉村(加古川市東神吉町)というのがあって、そこに天ヶ原(天下原)という土地があり、羽衣伝説が遺っているそうです・・・・。

 清張は、もう少し天ヶ原について続けていますが省略します。

 この毘沙門堂は散歩の途中でしばしばよるところです。先週の木曜日にも休憩した場所です。

 なんと、なんと昨日の神戸新聞の明石版に、この毘沙門堂が大きく紹介されているんです。「明石版」にですよ!

 東播版にもこんな楽しい加古川・高砂市・稲美・播磨町の歴史をいっぱい紹介して欲しいですね。

 *(東播版の記事略)

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韓国の国花・ムクゲ

2020-06-27 12:31:22 | 歴史・文学

   韓国の国花・ムクゲ

 先日から庭のムクゲの花が咲き始めました。

 この花が咲くと「むくげの季節」だと思い出すんです。

 というのは、私の専攻は意外だと思われると思いますが、ある大学(兵教大)で朝鮮現代史を専攻しました。

 それも、昭和10年代の韓国と日本の関係です。

 なんともやりきれない気持ちになる関係史です。

 ・・・・

 槿(ムクゲ)は、夏から秋にかけて毎朝咲きかわり、咲き続けます。

 朝鮮では槿を「無窮花(ムグンファ)」“かぎりなく咲き続ける花”ともいい、主権を奪われた朝鮮民族の歴史を表しており、ムグンファを慰めとしました。

 韓国の国花です。

 主権を奪ったのは、もちろん日本です。

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『寺家町を歩く』来週には完成

2020-05-16 11:43:21 | 歴史・文学

        『寺家町を歩く』来週には完成

 先に『升田山を歩く』を下記のように紹介しました。

 

 「・・・加古川市観光協会が升田山のハイキングコースを完成させました。

 これに勝手に協賛して、フェイスブックとブログで連載した「升田山を歩くを暇に任せて、冊子にまとめてみました。・・・」

 ・・・・

 つまらない冊子でしたが、読んでいただいて散策を楽しんでいただいた方も、けっこうおられたようです。

 気をよくして、かつて書いた原稿をもとに、今続編として『寺家町を歩く(no1)』の編集・校正を急いでいます。来週中には、出来上がりそうです。

 コロナの緊急事態宣言が終わりましたら、お読みいただいて寺家町をお歩きください。そして、お買い物をお楽しみください。

 *『升田山を歩く』をご希望の方は、ご連絡ください。(無料)

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西郷隆盛の写真

2020-03-28 14:53:26 | 歴史・文学

    西郷の写真がない

  いま、『西郷の貌(かお)・加治将一著』を読んでいますので、この記事を取り上げました。この小説は「古写真が暴いた明治政府の偽造史」です。

 不思議なことに西郷隆盛の写真は現在、存在していません。不思議なことです。

 一般的に、現在私たちが西郷隆盛の貌と信じている西郷隆盛の貌は、イタリア人のキヨソーネの描いた肖像画です。

 キヨソーネは、西郷にあった形跡すらありません。

 彼は二人の近親者をモデルに制作しています。

 その近親者とは、西郷弟の西郷従道(さいごうつぐみち)と従兄弟(いとこの)大山巌(いわお)です。

 目元を従道から、顔の輪郭や鼻・口は大山をモデルにしています。

 もう一度、繰り返します。不思議なことに西郷隆盛の貌(写真)はないのです。

 なぜ、西郷の写真はないのか?なぜ偽造しなければならなかったのでしょう。

 不思議です。何か重大な裏がありそうです。

 そんな中で発見された西郷隆盛の写真です。

 2018・1・16の「ひろかずの日記」に、朝日新聞(DIGITAL)の下記の記事を掲載しました。

 はて、本当の西郷隆盛像でしょうか。

   西郷隆盛の新肖像画を発見?

       縁者「特徴そろっている」

 西郷隆盛を描いた可能性がある新しい肖像画が、鹿児島県枕崎市で見つかった。

 作者や制作年は不明で、西郷の遺品などを管理している鹿児島市の西郷南洲顕彰館が今月から一般公開して情報を求めている。

 西郷ゆかりの縁者は「祖先から聞いていた西郷さんの特徴がそろっている」と期待している。

 肖像画が保管されていたのは、枕崎市宮田町の丸谷兼彦さん(87)、昭子さん(83)夫妻宅。油絵で描かれ、サイズは縦54センチ、横45センチ。

 署名はなく、だれがいつ描いたのか全くわかっていない。ただ、1926年ごろには昭子さんの実家の仏間に掲げられていたという。
 これまでに外部に持ち出されたことはなく、兼彦さんは「西郷さんの肖像か真偽のほどはわからないが、維新150周年の記念の年に多くの人に見てもらえたら」と話す。

 *写真:新たに見つかった西郷隆盛とみられる肖像画

 

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『加古川さんぽ-市内各町の歴史散策』の表紙ができました

2019-02-08 09:49:51 | 歴史・文学

 

 経過報告・2

   『加古川さんぽー市内各町の歴史散歩』製作中

 先日、『加古川さんぽ―市内各町の歴史散策』のお知らせをしました。

 でも、3月、印刷屋さんは大忙しなんですね。そのため4月印刷開始になります。

 ですが、きのうお願いをしていた表紙が出来上がりました。楽しい表紙です。

 嬉しいですね。

 時間ができましたので、丁寧に構成・編集をします。

 *写真:『加古川さんぽ 市内各町の歴史散策(上巻)』表紙。(後日下巻の表紙も紹介します)

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ふしぎなご縁

2019-01-29 08:26:18 | 歴史・文学

           ふしぎなご縁

 いま「ひろかずのブログ」では、「三宅周太郎さんのこと」、そして[豊沢(加古)団平さんのこと]を纏めています。

 正直にいうと最初、「加古川の住民であるから一応はとり上げなければ…」と思い、本を読みながら連載を始めました。

 私が読者なら、最初の段階で、「読まない」と決めたかもしれません。

 それほど、地味なテーマですが、不思議なものですね。

 いま、もう少し探ってみたくなっています。最近、三宅周太郎さんの偉大なお仕事が少しだけわかってきました。

 そして、人形浄瑠璃(文楽)のことも少しだけですが、分かってきたような気分になっています。

 このテーマに、私が想像していた以上のアクセスがあります。

 

 以下は余話です。

 もう2年前になります。友達の加古さんが癌で亡くなりました。彼は野球が得意でした。

 その加古さんこそ豊沢団平さんの御子孫のおひとりだったことがわかりました。不思議なこともあるものですね。

 *写真:スイセン(我が家の近くで咲く今朝のスイセンです。本文と関係がありません)

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豊沢団平(5)  団平の死

2019-01-24 09:50:29 | 歴史・文学


             

             団平の死

 明治31年4月1日。場所は大阪の稲荷座。

 その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、聞き入る人々を魅了していました。

 九分どおり済んだと思われた時である、団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。

 意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。71歳でした。

 三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。

 彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。

 粟津の常徳寺が加古家の菩提寺であり、団平はこの境内に眠っています。

 友達の理髪店に行きました。理髪店の裏が常徳寺です。

 *写真:常徳寺の団平の墓

 

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豊沢団平(4) 団平さんのこと:余話二題

2019-01-23 08:18:21 | 歴史・文学

       団平さんのこと:余話二題

 この辺で「三宅周太郎さんのこと」を追えますが、最後に余話を二つばかり付け加えておきます。

   その1:「豊沢団平生誕之地」の碑は残っていた

 たしかに団平さんの碑があったことを覚えています。

 場所も覚えています。

 だれかが、「むかし団平さんという人いて、その人はここで生まれたんや・・・」と教えてくれたからです。

 いつ・だれに聞いたかすっかり忘れました。

 その碑は小さな碑でした。

 文楽の研究家の「三宅周太郎さんのこと」を連載しながら、気になっていました。

 21日(月)の午後、その場所に出かけることにしました。

 場所は、加古川中央公民館の玄関から寺家町商店街への道があますが、商店街の道の10㍍ぐらい手前の左(西側)です。

 「もう50年以上前に見た小さな石碑ですから、もうないだろう・・・」とダメ元で出かけたのです。

 が、なんとあったではありませんか。感激でした。

 今は駐車場になっており少しだけ移動しているようでした。フェンス沿いにありました。

 団平さんの影を見つけました。

 はっきりと「豊沢団平生誕之地」(写真)と読めます。

    その2:幻の「団平羊羹」のこと

 団平について思い出がもう一つあります。

 小学生の時でした。たしか「団平羊羹」がありました。

 味は忘れたが、「ダンペイ」という言葉の不思議な響きが残っています。

 もちろん、その当時は「ダンペイ」が人の名前だとは知りませんでした。

 今も団平羊羹は製造されているのでしょうか。

 あったら、団平羊羹を食べながら、『一の糸(有吉佐和子)』を、もう一度読み返したい・・・

 *写真:「豊沢団平生誕之地」の碑


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豊沢団平(3) 団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人

2019-01-22 09:23:33 | 歴史・文学

      豊沢団平(3)

    団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人

 周太郎の「団平」調査は続きました。

 団平を預けられた千賀太夫は、幼少の力松を旅芸人の三味線弾きにする程度の考えで、当時の三味線の名人三代目豊沢広助の門に入れました。

 つまり、親は資産をなくし、なまじ浄瑠璃の為に一生を犠牲にした結果、子を三味線弾きにしたものの、その至難さを身に沁みて知る故に、せめて「旅稼ぎ」でも出来ればと思う程度でした。

 この消極的に、三代目広助の門へ入れられた力松が、親が全く期待もしないのに、後年の名人団平に成長したのです。

 しかも、広助の眼は高いものがありました。

 幼少の力松をただ者でないと見て取り、「旅稼ぎ」などは、もっての外とばかりに、直ちに力松を本場の文楽へ入れて修業せしめたのです。力松12・13の頃と思われます。

 18才にして才能を現し、早くも数人の門人さえ持ち、28才の若さで当時の最高権威竹本長門太夫の三味線を弾くまでに進歩したのでした。

     三宅周太郎のこと

 三宅周太郎は、戦後ずっと京都市内桂野に定住し、劇評一筋の道に精進しましたが、すでにこの界の権威としての不動の地位を確立しました。

 そして、かつての母校・同志社普通部の旧知の人達からの懇請によって、ある日母校での講演会に出席しました。

 それは多感な青春の日を想い浮かべ、ひとしお感興にひたりつつ、その演題は「文楽について」として、文楽の前途を憂いつ、多年にわたる独自の研鑚を傾けたもので、列席の人達に多くの感銘を与えました。

  また、昭和35年7月、加古川市市制十周年記念祝典には、かつて父祖の所有地であった寺家町の旧公民館で、郷土の人達を前にしての特別記念講演にも「豊沢団平について」と題しての文楽ものでした。

 加古川市が生んだ不世出の名人芸の真髄を披れきしたものだったのです。

 *写真:三宅周太朗(京都南座を背に・昭和39年2月26日撮影)

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豊沢団平(2) 団平のルーツ

2019-01-21 10:14:48 | 歴史・文学

 

 豊沢団平は、「ひろかずのブログ」とおなじ記事です。

  豊沢団平(2) 団平のルーツ

 *以下、周太郎の文章は、文体を変えています。

 周太郎は、あるところで次のように語っています。

 

 「・・・浪花女(なにわおんな)の団平は、近世では、芸を命とした第一人者であったことは論を待ちません。それは、人形浄瑠璃の方では既定の事実です。

 しかし、これを知っている人は、インテリと文楽ファンのみといえる程少数でしょう。

 その現在に、何十万何百万の一般人に見せる映画として、近世における「芸を命」の代表者・豊沢団平をあいまいながらも映画として紹介したことは、我々人形浄瑠璃に関心を持つ者には大きな嬉です。

 ・・・・

 (また、ルーツについては)「団平の本名は加古仁兵衛、文政11年(1828)3月の生まれで、団平の先祖は武士でした。

 それが、後に織田の配下の秀吉の中国征代に蚕食せられ、三木城の別所小三郎の部下として寵城すること数ヶ月、討ち死と決心して乳母に蓄えの金と男の児とを託し、附近の筒井家へ送り、そこで乳母が遺児を養育し、その子が町人となり生長して加古川のすぐ隣の粟津村(現:加古川町粟津)へ移住して老年に及び、当時廃寺となっていた同村の常徳寺を起し、自ら出家して復興しました。

 現在の常徳寺は、改築せられたものですが、この寺は名人団平の先祖が復興した寺に当るわけです。

 この後、引続いて粟津村に四代ほど居住し、五代目に当る加古安次郎の代になって、隣なる加古川町内へ移転しています。

 そして、その安次郎の子が後年の豊沢団平のようです。

 この安次郎の生家は、大きな松の木のある寺がある常住寺でした。(*常住寺は、現在加古川中央消防署の近くへ移動している)

 その常住寺から西ヘ一丁程の所に、数年前まで「玉岡」といった資産家の呉服店がありました。

 その家は立派な大きな家で、古くから加古川町の資産家では五本の指に入る家でした。

 その家が実は安次郎氏が初めて加古川へ来て住んだ家、そして団平が生れた家です。

 団平は幼名力松、この安次郎が芸好きであって、いわゆる旦那芸として浄瑠璃を習い、それがこうじて、元来武家出身の名門加古家のこととて裕福であったのですが、ついに家計が傾き、資産を蕩尽するまでに浄瑠璃に打込む結果になりました。

 結局、一家は離散し力松は大阪の叔父に引きとられました。そして、力松は間もなく大阪の竹本千賀太夫の手許に身を寄せたのでし」と書いています。

  *写真:常徳寺の山門横にある「碑」(豊沢団平菩提所)

 

 

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豊沢団平(1) 映画・浪花女

2019-01-20 09:46:45 | 歴史・文学

 今回の主人公、豊沢団平・三宅周太郎はともに加古川寺家町生まれであることを念頭にお読みください。

 なお、今後4回(予定)も、「ひろかずのブログ」と同じ内容になります。ご了解ください。

     豊沢団平(1) 浪花女

 昭和15年9月10日の午後でした。

 その日、朝遅くから伊豆半島を横切った豆台風は、東京の街にも豪雨を伴って走り去ろうとしていました。

 (三宅)周太郎は市電を乗りすて、パラソルの柄を両手でしっかり握りしめて、市の中心部のある文化ホールへ急いでいました。

 そこでは、松竹映画「浪花女」の封切上映に先立って製作関係者、芸能雑誌記者、映画・劇評家等数十名を招待した試写会が催される事になっていたからです。

 周太郎はこの「浪花女」に、期待と幻滅とを相半ばした予想を立てて会場へ着きました。

 試写が始まりました。これは映画界の中でも芸術性を追求して「凝り屋」との異名のある溝口健二の監督によるもので、主演は当時売出しの阪東好太郎・田中絹代で、大阪の文楽の再興に大きく寄与した、三味線弾きの名人、二代目豊沢団平とその妻女千賀との夫婦の純愛を扱ったもので、もちろん団平には好太郎、千賀には田中絹代、他に人形遣いの文吉には高田浩吉、浄瑠璃の越路太夫には浅香新八郎という豪華キャストでした。

 そのストーリーは大阪の小さな商家の娘として育った千賀は、子まであった団平の後妻になろうとして周囲の反対に出会いました。

 それを千賀が押切って年の多く違う団平の後妻になった理由は、ふとした事から団平の病気看護をしている中に、徐々に団平に感化されて義太夫の真価を覚えるようになり、ついに彼女は周囲の反対を押切って団平の女房になりました。

 このようにして女性ながらも千賀は団平の影響で義太夫の真価が判った上、義太夫を愛したのです。

 また、千賀は当時の女としては珍しく「ものを書く才分」をもっていました。

 千賀は、有名な義太夫の「壷坂」を創作したことでした。

 それを読んで団平は彼女の才分に驚き、その作の妙に打たれると共に、その場で節づけの「作曲」をしたのです。

 ・・・明治31年4月、稲荷座の舞台の床の上で三味線をひいている中に倒れ、かすかに「お千賀を呼んで・・・」といって息切れるのです。

 団平は、一代の名人でいながらまさに赤貧洗うが如き無欲な人で、この映画でも千賀が団平の家へ嫁に来た時は、あばら屋でぼろぼろの障子や畳だけといっていい程、家財類は皆目なかったといいます。

 この様に団平は「人形浄瑠璃」の最もさかんな時代に生き、さらにそれを盛大にして「文楽」の大御所的存在になりながらも、金銭に執着心がなく、文字通りその日暮しでした。

 「浪花女」は、最初の情痴本位の日本映画との予想は全くひっくり返り、それは最も関心をいだいていた完全な「文楽映画」でした。

 さらに溝口監督だけに「文楽」なり人形浄瑠璃の考証や考察が充分に行届いているのに、周太郎はいたく感激しました。

 *写真:映画「浪花女」の溝口健二監督

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