ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

尾上町をゆく(43) 未成線(2) もう一つの未成線

2023-10-31 11:09:53 | 加古川市尾上町探訪

    尾上町をゆく(43) 未成線(2) もう一つの未成線

 前号のブログ「未成線(1)」の続きです。

 尾上町には未成線跡が2つも残っています。一つは前号で紹介した山陽電車辺りから南へ延びた未成線です。

 *「未成線」については前号をお読み下さい。

 この記事について「神戸製鋼所への引き込み線として計画された・・・」と書きましたが、「加古川飛行場(尾上飛行場)への引きこみ線ではないか」とさっそく指摘がありました。

 さらに、地元の歴史に詳しい山内英明さんより。次のようなコメントをいただきました。

     〈山内 英明からのコメント〉

 播丹鉄道(現加古川線)が日岡に引き込み線(西之山信号所)を作って土取りし、尾上駅まで運んでいました。それを運搬して作られたのが加古川飛行場で、例の引き込み線跡は建設時のトロッコ軌道の流れをくむと思われます。戦後に再利用計画があったものがとん挫したので未成線と呼ばれているようです。

 山陽電車辺りから南へ延びた未成線は、尾上飛行場(加古川飛行場)への引き込み線として計画された未成線のようです。

 ご指摘ありがとうございました。

      もう一つの未成線

 きょうの大崎公園を突っ切り、加古川の堤防に沿って南に伸びるもう一つの未成線についても、神戸製鋼所への引っ込み線であったのか自信が持てなくなりました。

 きょうのところは、地図にあるような未成線が現在も残っていると言うことだけにとどめておきます。

 正確なことが分かりましたら、後日お知らせします。

 なお、いろいろと想像しながら未成線跡を散策ください。

 *写真:青色・未成線跡、黄色・旧高砂線跡、赤色・山陽電車

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尾上町を歩く(42)  未成線(1) 山電尾上の松駅辺りから南に計画された未成線

2023-10-30 08:21:59 | 加古川市尾上町探訪

  

 

  尾上町を歩く(42)  未成線(1)・山電尾上の松駅辺りから南に計画された未成線

 「未成線(みせいせん)」とは聞きなれない言葉ですが、加古川市尾上町には2本の未成線跡が残っています。

 私も80歳のお爺さになりした。機械にはめっきり弱い方です。特に、ITのスピードにはついていけません。でも、最近チャットGPTにチャレンジしています。

 チャットGPTでは「(鉄道の)未成線」を次のように説明しています。

         鉄道の未成線とは

 ・・・鉄道の未成線(みせいせん)とは、建設計画や工事が進行中に中断され、完成しなかった鉄道路線を指します。

 これらの未成線は、さまざまな理由で建設が中止されたり遅延したりした結果、一部の区間が使用できるものも含まれています。

 未成線の理由には、財政的な問題、環境への配慮、地元の反対、技術的な課題などが挙げられます。

 神戸製鋼への引っ込み線として計画されていたようですが、これらの路線が未成線になった理由は、はっきりしません。

 きょうは、尾上の松駅付近辺りから南に計画されていた「未成線」を歩いてみます。

 なお 、もう一本の未成線の写真は次回に紹介します。

 *写真:青色・未成線跡、黄色・旧高砂線跡、赤色・山陽電車

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尾上町をゆく(41) 旧山陽電車「尾上の松駅」

2023-10-29 07:58:54 | 加古川市尾上町探訪

 

    尾上町をゆく(41) 旧山陽電車「尾上の松駅」

 大正12年(1923)山陽電車は、尾上、浜ノ宮の松林の北端を走りました。

 「浜の宮駅」、「尾上の松駅」は、大正12年8月19、神戸姫路電気鉄道会社の駅として開業しました。

 神戸姫路電気鉄道会社は、姫路~明石間の鉄道を、明石から兵庫駅前は、兵庫電気軌道会社が経営にあたりました。

 その後、両鉄道会社は、昭和2年(1927)に宇治川電鉄に合併され、明石で、東西線は結ばれ、さらに昭和8年(1933)、山陽電鉄に経営が移りました。

 尾上町(加古川市尾上町)には浜ノ宮駅と尾上の松の二つの駅がつくられました。浜の宮駅は現在の場所と変わっていません。

 旧尾上駅の写真を見てください。尾上町に昔から住む方にとっては、郷愁を誘う「尾上の松駅」の写真です。

 国鉄(現:JR)高砂線の尾上駅から見あげた建物が山電「尾上の松駅」で、写真の左下の男性の場所が高砂線尾上駅です

 今の尾上の松駅の東、約300メートルの少し高くなった所に駅舎はありました。国鉄高砂線い乗りかえができました。

 駅舎が現在の場所に移動したのは、昭和40年(1965)7月23日でした。

 なつかしい遠い風景になってしまいました。

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尾上町をゆく(40) 尾上村、そして加古川市尾上町へ

2023-10-28 08:34:04 | 加古川市尾上町探訪

      

     尾上町をゆく(40) 尾上村、そして加古川市尾上町へ

 前回で紹介したように、明治22年4月1日、 江戸時代、尾上地区村々の長田・口里・池田・安田・養田のそれぞれの集落が合併し、尾上村が誕生しました。

 そして、昭和25年6月1日、尾上村は、加古川町・神野村・野口村・平岡村と合併し、加古川市尾上町となりました。

 合併のようすを「加古川市議会史(記述編)」にみます。

 尾上村では、執拗な一部の合併反対者を説得できず、住民投票によってその是非を決めることになりました。

 投票は、25年4月5日に実施されました。

 結果は投票総数、2.169票のうち賛成派1.290、反対は861票、無効票は18票で、賛成票は意外に伸びず、反対票はかなりの数字にのぼりました。

 尾上村の役職者たちは、投票当日「反対論者が、棄権者は賛成者とみなすから、合併賛成者は投票するな・・・」と宣伝したから住民の多数が、この宣伝を率直に聞きいれて棄権した」とみなしました。

 実際の合併賛成は、より多数にのぼると判断し、加古川市との合併に踏み切ったといいます。

 反対の理由を知りたいのですが、「加古川市議会史」は、その理由を記述していません。

 *写真:尾上村役場(現在の加古川市役所尾上支所)

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尾上町をゆく(39) 尾上村誕生

2023-10-27 06:46:48 | 加古川市尾上町探訪

     尾上町をゆく(39) 尾上村誕生

 江戸時代、現在の尾上地区には長田・口里・池田・安田・養田そして今福の6ヵ村がありました。

 それらの村々は、明治22年4月1日、新しい村制により合併し、尾上村が誕生しました。

 したがって、「尾上」と言う名称は、この時以来行政上の名称に決められました。

 江戸時代、江戸時代、尾上村という名称はなかったのです。

 今福を例にしますが、明治22年4月1日、今福村は、尾上村今福となり今福村はなくなったのです。

 今福村の名称は、この時なくなったのですが、今日でもお年寄りは「今福」のことを「今福村」いう人もおられます。



 なお、昭和25年6月15日、加古川町・神野村・野口村・平岡村そして尾上村が合併し、加古川市が誕生しました。

 明治38年の尾上村の人口調査がありますので掲載しておきます。

  <尾上村(明治38年12月)

 男:1612人 女:1610人 合計:3223人 戸数:552軒

 図:『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課)(昭和37)より

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尾上町をゆく(38) 尾上神社の鐘(朝鮮鐘)

2023-10-26 08:40:26 | 加古川市尾上町探訪

   尾上町をゆく(38) 尾上神社の鐘(朝鮮鐘)

 世阿弥作の謡曲「高砂」に、「高砂の松の春風吹き暮れて、 尾の上の鐘も響くなり」と尾上の鐘を描いています。

 尾上神社(加古川市尾上町)の鐘がそれで、鐘の表面に飛天と楽器、上部には天蓋(てんがい)を浮き彫りにした珍しい朝鮮鐘です。

 島根県の天倫寺に同じ鋳型から作られた鐘があります。この鐘には、顕宗二年(朝鮮の年号・1011)の銘があるので、尾上神社の鐘もこの頃、つまり朝鮮の高麗時代に作られたものでしょう。

 この鐘は、何時どのような経緯で日本へもたらされたのかは分かっていません。

 尾上の前の海を「ひびき灘」といわれますが、この鐘の音の響く範囲の海ということです。

 また、現存する「朝鮮鐘」の多くは、鎌倉時代から南北朝期の「倭寇」の活躍した時代にもたらされたものといわれています。何時のころから尾上神社にあるのかも分かりません。



 朝鮮の高麗時代(日本の平安時代の中期から、南北朝時代にあたる)、仏教は政府に保護され大いに栄えました。しかし、次の李氏朝鮮の時代(南北朝時代から明治の中ごろまで)儒教が国教とされ、仏教は徹底して弾圧され、多くの寺院は破壊され、朝鮮鐘も潰されました。

 その結果、朝鮮鐘は、朝鮮でも数は少なく貴重なものになっています。

 兵庫県には朝鮮鐘が二つ伝わる。もう一つは鶴林寺の鐘である。

 *写真:尾上神社の朝鮮鐘

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尾上町をゆく(37) 尾上神社 高砂神社の本家は尾上神社

2023-10-25 07:16:05 | 加古川市尾上町探訪

          尾上町をゆく(37) 尾上神社 高砂神社の本家は尾上神社

 尾上町「今福」の記述が少し長くなりました。ここで話題を少し変え、「尾上神社」の話をしましょう。

 「尾上町をゆく(1)」で中世の高砂は今津(加古川市尾上町池田付近)であることを確認した。

 きょうはその続きです。



 慶応6年(1601)、姫路藩主・池田輝正は高砂の町の建設に取りかかりました。以後、高砂の町は、猛烈な勢いで繁栄します。

 新しい城、高砂城の建設も始まりました。それに伴い、高砂神社は、農人町(のうにんまち)へ移転することになりました。

 ここで一つの疑問があります。

 もし、古くから高砂神社が、当時、地域の絶大な信仰を集めた神社なら、領主としても簡単に移転はできなかったと思えるのです。しかし、混乱もなく移転しているようです。

 その後、一国一城制(元和元年・1615)の施行に伴い高砂城は壊され、高砂神社は、元の現在の場所にもどり再建されました。

 以後、高砂神社は姫路藩主の保護、それに高砂の経済的な繁栄により、立派な神社と其の姿を一変することになります。

 それに反して、川東の尾上(池田)は、多くの人が高砂へ移住したりかつての賑わいを失っていきます。

 以後、「高砂の尾上」と一つの地域のように呼ばれた「尾上と高砂地域」は、はっきり別の町としての歴史を歩むことになりました。



 謡曲・高砂の「尉と姥」の物語は、江戸時代以後、もっぱら高砂神社と結びついて、今日にいたっています。

 謡曲・高砂は室町時代の作品です。作者・世阿弥の言う高砂神社は、もとは尾上神社と考えるのが自然です。当時、高砂神社は、尾上神社を指していたということです。

 これは筆者(私)が、尾上の住人である身びいきから言うのではありません。

 *写真:尾上神社

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尾上町をゆく(36) 今福(25) 今福周辺の風景(昭和38年)

2023-10-24 08:46:14 | 加古川市尾上町探訪

 

    尾上町をゆく(36) 今福(25) 今福周辺の風景(昭和38年)

 ご近所のSさんから添付している写真をいただきました。

 写真上部は播磨灘で、加古川が流れいます。

 手前の寺は鶴林寺で、その東を国鉄(現JR)高砂線(現・鶴林新道)が走っています。

 「尾上の松」を出発した汽車は高砂へと急いでいます。

 中央のグラウンドような土地は造成中の神鋼鋼線の建設現場です。

 その土地の右の集落が尾上町「今福」で、見にくいですが、集落の一番東の赤い屋根の家が自宅です。

 Sさんは、「この写真は、たしか昭和38年撮影の写真である」と思い出してくださいました。

        激 変

 昭和38年の撮影だと約60前の写真になります。

 60年前というと、そんなに昔ではありません。

 鶴林寺の周囲は、ほとんど「田んぼ」です。

 でも、いまは住宅が密集して、「田んぼ」もほとんどなくなりました。

 みんな、確かに人口が増えたと感じておられと思いますが、この写真を改めてみるとその激変ぶりにあらためて驚かれます。

 貴重な写真となりました。紹介させていただきます。

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尾上町をゆく(35) 今福(24) 永田耕衣(5) 耕衣の書

2023-10-23 07:17:26 | 加古川市尾上町探訪

     尾上町をゆく(35) 今福(23) 永田耕衣(5) 耕衣の書

 耕衣の「書」について若干紹介しておきます。

 耕衣は自らの「書」について、次のように語っています。



 ・・・・「書は人である」にすぎない。「人は書である」にすぎない。

 己の「拙さ」を剥ぎ出しに、自分の字を書けばよいというのが、私の強い思いであった。

 ただ書は人である限り、面白い書を出来するには、まず己の「人間」が十方無礙に面白く、成長不断である必要がある・・・「田荷軒書談」(1971)より

       アカンベをしている書

 耕衣は多くの書を残しています。

 昭和44年には、東京三越本店美術サロンで「書と絵による永田耕衣展」が開かれたが、その折、棟方志巧は祝辞をよせています。

    ヨロコンダリ、ワラッタリ。

    ベソヲカイタリ。

    アカンベヲ、シタリ。

    ナキヤマナイヨウ、ダッタリ。

    ダダヲコネタリ。

 終には、スヤスヤねむって仕舞って、ひとり笑いしている様な書を生むのを得意としているこの人の書は、滅多に無いようだ。

 羨ましい。

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尾上町をゆく(34) 今福(23) 永田耕衣(4) あるがままの人生

2023-10-22 08:10:47 | 加古川市尾上町探訪

 

  尾上町をゆく(34) 今福(23) 永田耕衣(4) あるがままの人生

      便所で大震災に

 精一杯生きていた耕衣に突然の事件がおそいました。

 95才の1月17日のことです。阪神・淡路大震災が耕衣を直撃したのです。

 その時、耕衣は2階のトイレに入っていました。

 家ごと揺さぶられて立っていられません。

 やがて、家はつぶされ閉じこまれてしまいました。

 助けを求めた声も、95才の体力のせいか叫び声にはなりませんでした。

 この時の耕衣の態度もおもしろい・・・

 後のインタビューで、次のように答えています。

 いかにも耕衣らしいエピソードです。



 ・・・銅製の器を手元に見つけ、それで洗面台をカランカランと打ち鳴らしたんです。

 「ここだ!ここだ!」とね。

 ・・・

 怖いと言うよりも僕流にいえば「悲傷(ひしょう)」ですね。

 悲惨だけれども、変な快感があった。

 だから、南無妙法蓮華経の念仏に合わせながら、カランカランと叩いたんだね。

 自分が大変だというより、人ごみみたいな気分だったな・・・・喜劇やね。そんな感じ・・・」

 

 耕衣らしい句を詠んでおきます。

     踏み切りの スベリヒユまで 歩かれへん

 平成6年、左大腿骨を骨折しました。

 手術を受けました。その時に詠んだ句が「大腿骨まる折れの秋深きかな」です。

 手術後、体力の衰えか、散歩の足は伸びませんでした。

 こんな状況での句が「踏み切りの スベリヒユまで 歩かれへん」です。

 どこまでも、あるがままの人生を楽しもうとする耕衣の姿が、そこにありました。

      枯草のように耕衣逝く

 平成8年8月25日、まさに耕衣は、大往生をとげました。

 城山三郎氏は『部長の大晩年』で「・・・耕衣は清潔な枯れ草のように97才の6ヶ月にわたる生涯を終えた」と書いています。

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尾上町をゆく(33) 今福(22) 永田耕衣(3) 棟方志功との出会い

2023-10-21 07:09:16 | 加古川市尾上町探訪

     尾上町をゆく(33) 今福(22) 永田耕衣(3) 棟方志功との出会い

 耕衣は、38年間勤めた三菱製紙高砂工場を満55才で定年を迎えました。

 退職後は在職中の趣味であった俳句の世界に没入します。

 在職中のことについて、『部長の大晩年』(朝日新聞社)から引用しておきます。

 

     棟方志功との出会い



 ・・・耕衣が棟方志功を知ったのはまだ37才、平社員のころであった。

 志功は耕衣より3才年少だが、既にその当時でも国画会の名物会員であり、その「大和し美わし(うるわし)」により、柳宗悦(やなぎむねよし)等に認められ・・・さらに倉敷紡績社長で大原美術館の創設者である大原孫三郎に招かれて、大原邸の襖絵などを描きに時々倉敷へ出かけていた。

 そして、時には加古川駅で下車した。

 柳らと一緒に、あるいは単身で、高砂の工楽長三郎邸に立ち寄るためである。

 ・・・(工楽)長三郎は、芸術や文化への感心が強く、若手の技術家や学者を招いて、土地の同期の人々と共に話を聞く集を持つようになった。

 会の名は「白泥会」。

 ・・・耕衣は、この会に参加するというより、会を作った発起人の一人であった。

 耕衣は、この白泥会に志巧の話を聞くだけでなく、会がない日でも志巧が工樂邸に泊まる時には、欠かさず訪ねて話しこんでいる。

 また、別のところで、耕衣は志巧について「・・・(あう度に)意気投合した芸術談義が常に交はされたが、驚くべきことに、棟方志巧は会うたびに、その芸術論のテーマが進展していた。・・・

 私には、この人あるによって生きがいを痛感する習性さえできあがってしまった。

 この人に会う毎に、私の芸術心はデモニッシュに燃え上がった。

 生の歓喜を全身的に恣(ほしい)ままにした・・・」

 *写真:棟方志功(右)と耕衣(左)、工樂邸にて昭和28年6月29日撮影

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尾上町をゆく(32) 今福(21) 永田耕衣(2) 「春の野」のよう・今福(『火の記憶』より)

2023-10-20 04:49:09 | 加古川市尾上町探訪

   

       尾上町をゆく(32) 今福(21) 永田耕衣(2) 

              「春の野」のよう・今福(『火の記憶』より)

 前回の続きです。もう少し明治~大正期の今福を紹介させて下さい。

 ・・・

 耕衣は子供のころの今福の風景を『火の記憶』で、次のようにも語っています。

 耕衣、81才の文章です。



 「・・・私の生家は、印南の只中に存在する50戸ばかりの寒村の、はしっぽにあった。

 門先からは、いつも鶴林寺の森と塔が眺められた。

 二千メートルも南へ行けば瀬戸内海の浜辺に出られるのだが、少年時代もその海に親しむこともなかった。

 山は遠くただダダっ広い田圃と畦道が遊び場であった。

 わずかに荷車の通ることのできる程度の農道が幹線道路で、その他は各農家の所有の田を、お互いに区切りあった畦ばかり。

 そのアゼに、春はレンゲやタンポポが無数に咲いた。

 ことに田植前までの田圃は、たいていレンゲを茂らせていた。

 まったくの「春の野」といえる豪華な夢の世界であった。

 村童たちも夢のように、村を離れて、ソコら中を自由に駆け巡った。

 そうした「野遊び」に「孤独感」はなかった。

 両親をも忘却しきって、さながら舞い遊んだ。

 遊び暮らした。

 一切の「世苦」等は身に覚えぬ別天地であった。

 *写真:耕衣の生家(明治43頃建てかえられた生家。この生家も現在建て替えられています)

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尾上町をゆく(31) 今福(20) 永田耕衣(1) 夢のような世界・今福

2023-10-19 07:09:36 | 加古川市尾上町探訪

        尾上町をゆく(31) 今福(20) 永田耕衣(1) 夢のような世界・今福

 厚生省は日本人の平均寿命、男:8105才、女87.09(2023年)と発表しました。

 高齢者問題は、いよいよ緊急な課題になっています。特に、老後の人生をいかに有意義に生きるかと言う問題はとりわけ重要な視点です。

 なにやら、他人事のように書いていますが、私も80歳になりました。私たち世代の問題です。最近は、すっかり病院とお友達になっています。 

     永田耕衣(こうい)のみた今福村の風景

 今福に、見事に人生を終えた俳人が誕生されました。

 その人は、永田耕衣氏で彼は、明治33221日の生まれです。

 もちろん、耕衣は俳句の世界で、すばらしい業績を残されましたが、彼の生き方はユニークで、現代の高齢者社会において、「老後をいかに生きるべきか」という問題提起をしているようです。

 耕衣氏の業績と、生き方に感銘した城山三郎氏は小説『部長の大晩年』(朝日新聞社)で耕衣氏を紹介されていますので、ぜひ小説をお読みください。

 城山氏は、小説を書くにあたり今福を取材されたのでしょう。

 耕衣の小学生の頃(明治時代の終わり頃)の今福(村)を次のように描いています。

 内容は前回と若干重なりますがご了承ください。

 「・・・(今福は)加古川の豊かな水を引き込んだ水路には、鮒、泥鰌(どじょう)、鯰(なまず)などが多く、林蔵(父)が鯰を好むので耕衣は特に鯰を狙った。

 岸辺の水草や藻をつついて追いかけたのを、タモですくったり、小さな蛙を縛りつけて針でつりあげたり。・・・

 初夏には蛍が特に多いところで、無数の蛍が群れて、いくつもの光の玉、光の雲のようになり、輪を描きながら、夜空を低く舞う。・・・・

 明治の終わりのころの今福を「蛍の里」として描いておられます。

 *写真:永田耕衣

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尾上町をゆく(30) 今福(19) フケの川・2:蛍の里

2023-10-18 07:13:32 | 加古川市尾上町探訪

 

   尾上町をゆく(30) 今福(19) フケの川・2:蛍の里

 前回、フケの川(五ヶ井用水)をとりあげました。

 城山三郎氏の小説『部長の大晩年』(朝日新聞社)に、今福の「フケの川」あたりの記述があります。

 余話としてとして紹介しておきます。

 なお、この小説モデルの今福出身の俳人・永田耕衣(ながたこうい)さんについては後日あらためて紹介します。

 文中の「水を引き込んだ水路」とは、フケの川(五ヵ井用水)のことです。

      蛍の里・今福(小説『部長の大晩年』より)

 ・・・目を遮るものない平野。耕衣の家から東へ二里のところに、三重の塔のある鶴林寺の森が見える。

 聖徳太子の命で創建された由緒ある寺で、境内も広く、日ごろ各地から参詣者があるが、寺の行事のときには、芝居や見世物が出た。

 ・・・そのあたり(今福村)、加古川の豊かな水を引き込んだ水路には、鮒(ふな)、泥鰌(どじょう)、鯰(なまず)などが多く、林蔵()が鯰を好むので、耕衣はとくに鯰を狙った。

 岸辺の水草や藻をつついて追い出したのを、タモですくったり、小さなかえるを縛り付けて針でつり上たり。

 そうした鯰や川蝦(えび)を父子で火に焼いて食べた。

 ・・・・

 初夏には蛍が特に多いところで、無数の蛍が群れて、いくつもの光の玉、光の雲のようになり、輪を描きながら、夜空を低く舞う・・・

 Sさん(故人)に取材したのは、20年以前のことです。

 Sさんが少年の頃(戦前)、「フケの川には蛍は涌くようにいた」と話されました。 

  *城山氏は小説で「鶴林寺を耕衣の家から東へ二里」と書かれていますが、直線にして東へ1キロもない距離のところです。

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尾上町をゆく(29) 今福(18) フケの川・1(五ヶ井用水)

2023-10-17 07:15:15 | 加古川市尾上町探訪

     尾上町をゆく(29) 今福(18) フケの川・1(五ヶ井用水)

 『日本書紀(にほんしょき)に、次のような話があります。

 ・・・

 (今から1300年以上も前のことです)聖徳太子は、叔母君の33代・推古天皇(すいこてんのう)のために法華経(ほけきょう)の講義をしました。

 これを聞かれた推古天皇は、大いに感動され、その労をねぎらうために、播磨の国の良田、500町歩を聖徳太子に与えました。

 太子はこれをありがたくお受けして、斑鳩寺(揖保郡太子町)と鶴林寺に分け、それぞれ361町、139町を分け与え荘園としました。

 ・・・・

 そして、鶴林寺の田畑を潤すために造られたのが「五ヶ井用水」だというのです。

 しかし、加古川の本流に堰(せき)を築き、洪水の時にも崩れない、しっかりとした堤と水門をつくり加古川から取水するためには、それだけの技術の進歩が必要となります。

 聖徳太子の時代には、まだそれだけの技術の発達はありません。

 それに、何よりもひろい地域を一体的に支配する権力者が出現し、村々の代表の結びつきができなければ、ひろい地域の灌漑施設できません。

 それ以前の水路は、加古川の古い流路を利用していたと考えられます。

 このようなことから考えて、『加古川市史』は、「・・・五ヶ井用水は、戦国時代以降とみてよい」と記しています。

 少しだけ付け加えておきます。加古川地方は奈良の西大寺と影響下にありました。西大寺の技術集団は高度な土木を持った技術集団でした。

 ですから、五ヶ井用水は鎌倉時代までさかのぼれるかもしれません。

       なぜ「五ヶ井用水」

 五ヶ井用水の名称は、昔の①北条郷(大野・美乃利・平野・中津・寺家町・篠原・溝口)、②岸南庄(加古川‐現在の本町・木村・友沢)、③長田庄(長田・安田・新野辺・口里・北在家)、④加古庄(粟津・備後・植田)それに⑤今福庄の五つの地域と集落に水路が引かれているところからつけられた名称です。

 五ヶ井用水は、幾筋にも分かれていますが、今福を通る五ヶ井は、神鋼々線のグランドに沿って流れる用水です。

 中谷理髪店のところを西にカーブし、新幹線とまじわり流れる養田川がそれです。

 昔はホタルが飛び交い、水遊びの子どもの歓声があったといいます。

 *写真:五ヶ井用水の支流(今福を流れるフケの川)

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