今日79歳になりました
今日は朝から多くの方から「誕生祝の言葉」いただいています。ありがとうございます。
お昼に、奥さんからこんな絵手紙をもらったたよ。
「誕生日なんてどうでもいい」と思っていましたが、誕生日もいいものですね。
「もうちょっとだけ元気を出して頑張なくっちゃ」という気になりました。
今日79歳になりました
今日は朝から多くの方から「誕生祝の言葉」いただいています。ありがとうございます。
お昼に、奥さんからこんな絵手紙をもらったたよ。
「誕生日なんてどうでもいい」と思っていましたが、誕生日もいいものですね。
「もうちょっとだけ元気を出して頑張なくっちゃ」という気になりました。
79歳になってしまいました。来年は80歳、怖いね。
迷惑をかけないように、もう少しだけ頑張ります。
娘から誕生日カードをももらいました。
裏にメッセージがあります。内容は内緒・・・
野口町をゆく(43) 懐かしい野口の風景(2) 別府鉄道「円長寺駅」
別府鉄道「円長寺駅」の写真は、以前出版された『加古川・高砂の昭和』(樹林舎)からお借りしています。
別府港駅を出発した別府鉄道は土山線と野口線に分かれて走ります。いま野口線に乗車しましょう。
ジーゼルカー(レカー)は、地図で見るように別府口駅から前号で見た「坂井駅」に到着し、すぐに円長寺に到着します。
下の説明は、写真のキャプションからです。
延長寺駅は、地元が土地を提供して誕生した「請願駅」です。
駅のすぐ南は円長寺公園になっており、現在、別府鉄道で活躍したキハ2号が保存されています。
*写真:円長寺駅(加古川市野口町長砂・昭和50年代・写真提供=島津行雄氏)
「野口町をゆく・野口合戦」を終えます。
さくじつ『加古川・高砂の100年』(樹林舎)が出版されましたので、そこから2・3お借りします。
野口町をゆく(42) 懐かしい野口の風景(1) 別府鉄道坂井駅
大正10年に開業した別府軽便鉄道野口駅として昭和12年に開設され、路線名は昭和21年に別府鉄道と改称されました。
別府鉄道は、昭和59年の路線が廃止され、坂井駅も同時に廃駅となりました。
現在は路線跡は遊歩道「松風こみち」として整備されています。
写真のおばさん方達、加古川の町へお買い物にお出かけでしょうか。
*写真:野口へ向かう別府鉄道(呉田利明氏提供・昭和35年撮影)
余話として:きょう『加古川・高砂の100年』が発売
きょう『加古川・高砂の100年』(樹林舎)が発売されます。
2012年6月に発行された『加古川・高砂の昭和』の続編です。
写真の収集・説明(キャプション)の作業に参加させていただきました。あらためて、見ると「私たちの地域の100年は、まさに激動の100年」でした。
これからも加古川市・高砂市・稲美町・播磨町は、激動は続きます。どんな変化になるのでしょう。
懐かしさとともに、監視する目も必要ですね。
加古川・高砂市、稲美・播磨町の主な書店で販売されます。ご購入ください。
野口町をゆく(41) 野口合戦(11) 黒田二十四騎・野口佐助
黒田官兵衛は、後に九州中津の城主となり、その後、息子・長政は福岡藩の初代城主となりました。
官兵衛が中津へ移って以来、黒田家には勇猛な24人の家来が誕生しました。彼らは「黒田二十四騎」と呼ばれました。
「黒田二十四騎」のメンバーは、黒田家が豊前国(大分県)中津城主になった時の侍大将です。
このうち22人が姫路近辺の生まれ、または播州育ちでした。
野口佐助(のぐちさすけ)
これら黒田二十四騎のメンバーである母里太兵衛(もりたへえ)や後藤又兵衛(ごとうまたべえ)については、いろいろな所で紹介されています。
が、よく知られていないメンバーもいます。
現在の加古川市野口町出身の野口佐助(のぐちさすけ)も、その一人です。野口佐助について、『黒田軍団(山本一城著)』(宮帯出版社)からその一部をお借りし紹介します。(文体は変えています)
・・・
野口左助は、播磨国加古郡の出身です。
父浄金(1524~1602)は、黒田孝高(官兵衛)の囲碁友だちの僧でした。
天正三年(1575)、17才で出仕した左助は、地元の地名を姓としました。
翌々年、上月合戦(こうづきかっせん)の高倉山城(福原城の支城)の大手口で一番槍の功名をたてていす。
ついで、三木城で騎馬武者二人を槍で倒しました。
中津において、野口佐助は母里太兵衛の妹と結婚しています。
*図:野口佐助(福岡博物館蔵)
野口町をゆく(40) 野口合戦(9)
水足(野口町)は長井氏の勧請の神社か?
今日の報告は、小林誠司さんの論文「水足村の諏訪神社に課する一考察」の一部を断りもなくお借りして紹介しています。
水足諏訪神社
野口水足集落の諏訪神社は古社として知られています。
主神の諏訪大神は一般に軍神または武神信仰が背景にあると思われますが、水足村の鎮守社ととどのような関係があるのかについては、明らかではありません。
水足集落と諏訪神社の関係
諏訪神社を神としてまつる神社は近在では外にありません。
諏訪神社は、水足集落から見て見て鬼門にあたる丘陵に鎮座しています。この点に注目すると水足集落深い関係なることは明らかでしょう。
水足集落は、どこまでたどることができるでしょう。
水足村の寺社明細帳、および諏訪神社の本殿の棟札等から近世初期に遡ることは確実です。
諏訪神社は中世期に遡ると推測されるのですが、いつのころ水足集落に勧請されたのか明らかではありません。
水足諏訪神社は、武人を祀る点をふまえると、現時点ではこの諏訪神社を祀るにふさわしい武人は野口では野口城主・長井氏以外に見出すことはできません。
*写真:現在の水足(野口町)の諏訪神社
野口をゆく(39) 野口合戦(8) 余話:工藤平助
ここで、ぜひ話しておきたい余話があります。
江戸時代も終わりの頃、女性の人権を主張した人物がいました。只野真葛(ただのまくず)です。
真葛についての詳細については、『只野真葛(関民子著)』(吉川弘文館)で詳しく紹介されています。
只野真葛は、工藤平助の娘です。
工藤平助は、ロシア人(赤蝦夷)の南下を幕府に説いた人物です。
工藤平助は、工藤家の養子になり姓を変えましたが、元の姓は「長井」です。
『只野真葛』の一節を紹介しておきます。(文体を変えています)
・・・工藤平助の先祖は、播磨の城主で豊臣秀吉に滅ぼされ、その後郷士として住みつき豊かに暮らしていました。
しかし、父の代に諸国の隠し田などの調査があり、郷士長井家がそれを持っていたため取り調べを受けた際、「ここは代々長井家が領有している土地だから今後とも長井家のものである」と述べたので、幕府の怒りを買って残らず取り上げられてしまいました。生計のため大坂に出、後に和歌山に移って医者になりました。・・・(後略)
その後、仙台藩医工藤丈庵の養子となり、和漢のみならず蘭学をも修め、さらに長崎におもむいて海防の必要を悟り、『赤蝦夷風説考』を著わし、ロシアの侵略にそなえて蝦夷地を経略する必要を説きました。
『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助は、戦国時代、秀吉に攻められて落城した野口城(加古川市)の城主のご子孫でなんです。
『赤蝦夷風説考』は、高等学校の歴史の教科書に登場します。
頭の片隅に置いておいてよい話題ですね。
*挿絵:マンガ『北海を翔ける男(クニ・トシロウ著)』(実業之日本社)より
野口町をゆく(38) 野口合戦(7) 鶴林寺の禁制が語ること
時代は戦国時代の終わりの頃、天正6年(1578)です。
東播磨地方が、信長・秀吉の支配に入るか、それとも中国地方に勢力を持つ毛利の勢力下に入るかを決する戦が、加古川地域で展開されました。
当時、ほとんどの東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下にありました。
加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏のみが、秀吉方に味方しました。
しかし、野口・神吉・高砂・志方城の結束は強く、三木方に味方しました。
秀吉は、近在の寺院等を調略しました。
ここに一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺にあります。内容は、次のようです。
禁制 戸田(とた・鶴林寺のこと)
鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる
軍勢が一般人に乱暴を働くこと
陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること
田畑を荒らすこと
これらに違反するものは速やかに厳罰に処す
天正六年三月二五日 筑前守(*秀吉のこと)
秀吉は、鶴林寺の調略に成功し、鶴林寺に攻撃しないことを約束しました。この禁制の日(三月二五日)に注目してください。そして、四月・三木攻は野口城の戦闘から始まりました。
結果、野口城、そして共に戦った教信寺は全焼し、寺そして宝物等のほとんどは焼失し、略奪にあいました。
一方、鶴林寺は攻撃から守られ、寺院および多くの宝物を今日に伝えています。
野口町をゆく(37) 野口合戦(6) 野口城、孤立し破れる
(野口城合戦では、三木側からの援軍はありませんでした)
・・・・
三日目、野口一帯を大波のように、信長軍・糟谷の兵が野口城・教信寺に襲ってきました。
「待ち続けた味方の援軍がとうとう来たぞ・・・」
「見殺しにされるかと案じていたが、これで助かった」と城内に一瞬生気がよみがえりました。
が、味方と錯覚したのは、秀吉方に従って、搦め手(からめて)手攻めに加わった加古川城の手勢500でした。
・・・・
野口城の兵はバタバタと倒れました。そして、戦は終わりました。
城主、そして野口戦の犠牲者の魂を祀る神社か
教信寺の東の「播磨化成」に至る狭い道があり、その途中に稲荷神社(写真上)がありります。
野口戦の説明があります。
この神社は、野口城主、そして野口戦でなくなった多くの兵士の魂を慰めるための神社のようです。
三基の宝篋印塔 長井家の墓所
稲荷神社から南東へ100㍍程の場所で、城主・長井家の屋敷跡です。
そこは野口城主であった長井家の墓所のようです。
古そうな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、三基(写真下)あります。
後日、詳しく調べることにします。
詳細をご存じの方はご教授ください。
*写真上:鎮魂の神社 下:城主・長井家の墓所
野口町をゆく(36) 野口合戦(5)
野口城・長井屋敷跡・教信寺の復元図
天正月6年4月3日、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が野口城の攻撃から始まりました。
きょうはその当時の野口城・長井屋敷跡・教信寺の位置をお確かめください。
木内内則(きうちただのり)氏の作製された「野口城の復元図」を、前号の「野口合戦(4)」の地図と合わせご覧ください。
この「野口城」の図を作製された木内さんの、熱意が伝わって来る作品です。
描かれている図は、地図と同じ方向から描いておられますので、説明は不要でしょう。
図では東西(東西)に並んだ屋並みの西の方向に加古川が流れています。
*図、野口城(推定地):『中世播磨250の山城』木内内則(中世城郭研究家)参照
野口町をゆく(35) 野口合戦(4) 野口城はどこ
天正月6年4月3日、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が野口城の攻撃から始まりました。
早朝より攻撃が開始され、秀吉軍は、3000の兵で攻めたてました。
この戦いで加古川城主:糟谷武則は、初陣でした。
それにしても、「なぜ野口攻めから始まったのか?」
理由として考えられるのは、①街道筋の城である、交通も発達しており経済に豊かな土地である。②城の規模が比較的小さく、比較的攻めやすく成果を上げるのに適当である、と考えていました。
かんじんの野口城のあった場所が、はっきりしません。
地誌『播磨鑑』(はりまかがみ)には、「野口城長43間、横21間、野口庄在寺家村(じけむら」 四方沼田要害ノ城。今ハ田地ト成、村ヨリ半丁ノ方総廻リたけ藪、外ニ堀構」とあり、別の史料(『御領中組々書留』)には「古城跡、長43間、横21間、 惣廻り東西に堀有、寺家村より半丁北」とあります。
これでみると、野口城は長さが約77.4メートル、横が約37.7メートルあり、四方を沼地で囲まれた要害で、外郭には竹藪と堀がめぐらされていたと想像されます。
江戸時代の中期に、すでに田畑になっており、痕跡をとどめていなかったようです。
最近の研究では、地図の場所に野口城があったと想像されています。
*注:地図では「永井屋敷跡」とありますが、「長井屋敷跡」の誤記です。
野口町をゆく(34) 野口城の戦い(3) 落城
秀吉軍は、三木城の勢力を、簡単に考えていたようです。
しかし、三木城攻撃の初戦で手痛い敗北を喫しました。
秀吉は、三木城をとりまく城を攻撃し、城を裸にしてしまう作戦に変更しました。
最初に狙いを定めたのが野口城でした。
野口城の城主は、長井四郎左衛門政重です。
そこへ、秀吉軍は手持ちの兵3000で攻めたてました。
対抗する野口方は、軍勢380人に近在の農民、教信寺の僧兵を加えた600人が城にたてこもったといいます。
野口の地形
野口城辺りの地形の話です。中部中学校の東に駅ヶ池(うまやがいけ)があります。
印南野台地は、一般的に水が得にくい土地柄で開拓が遅れましたが、この辺りばかりは、地形が西と南に低く、北と東が高く、印南野台地の西の端にあって、水が集まる場所でした。雨が多い時は、ここに水が集まり沼地になります。
城の周囲には沼が多く、城はそれらを囲(めぐ)らし、わすかに乾いたところにありました。
落 城
秀吉は、土木工事を得意とし、沼地のような湿田はたいした問題ではありません。
彼にすれば「埋めればいい」と、当然のごとく考えていたのかもしれません。
城主・長井政重は櫓で指揮をとりました。勇敢に戦いましたが、切れ目のない激戦に兵はバタバタと倒れました。
最初から、野口軍600の兵だけで、3000の秀吉軍と勝てるとは考えていません。
三木城からの援軍があり、中と外から秀吉軍を押しつぶそうと考えていたのです。
しかし、三木城からも、近隣の他の城からの援軍はありませんでした。
三日目でした。「援軍が来たらしい」と城内には一瞬生気がよみがえりました。
が、援軍と思われたのは、秀吉側に加わった加古川城の糟谷武則の兵でした。
政重は決断しました。「これ以上の兵の死は無駄である・・・」と。
自分の死と引きかえに残る兵の命を願い出ました。
野口城は、三日間で落城しました。
教信寺も全焼してしまいました。
野口町をゆく(33) 野口合戦(2) 加古川評定(かこがわひょうじょう)
今回も野口が登場しません。
秀吉が加古川村(現:本町)へやってきました。
時は、信長・秀吉の頃です。
当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大坂では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗しており、身動きがとれません。
その時、石山本願寺を支援していたのが毛利氏です。
やがて、播磨を舞台に信長軍と毛利軍との激しい戦いが展開されることになりました。
当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂の諸城は、三木の別所氏の支配下にありました。
天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届きました。
内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」
というものでした。三木城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才。
やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東にある称名寺あたりが加古川城跡)で開かれました。
司馬遼太郎は、加古川評定の行われた加古川を小説『播磨灘物語』で、次のように書いています。
「・・・場所は、姫路ではない。姫路では西に寄りすぎる。加古川ということにした。加古川は播州の海岸線のほぼ中所(なかどころ)にあり、どの地方からやって来るにしても便利であった・・・」と地理的な利便性をその第一の理由として挙げています。
信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に代わり、叔父の賀相(よしすけ)等が参加しました。
世に名高い「加古川評定」です。この評定は決裂し、三木方は毛利に味方し、信長方と戦うことになりました。
*挿絵:手前の横向きの人物が秀吉のつもり