ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

升田山を歩く(21) 慈眼寺の鐘(三木市)・元は佐伯寺の鐘

2020-04-30 06:51:03 | 升田山を歩く

   慈眼寺の鐘(三木市)

       元は佐伯寺の鐘

 今日の話題は、加古川市から離れ、三木市久留美(くるみ)の慈眼寺の鐘の話です。 

 慈眼寺(じげんじ)には、秋の紅葉の時期によく出かけます。

 道路からあまり離れていないのに、山寺の雰囲気いっぱいの曹洞宗の寺です。

 秋には紅葉で埋まる寺として、近在に知られています。

 山門を入ると左手に鐘楼(写真)があります。

 この梵鐘には、「延慶(えんぎょう)二年(1309)、播州印南郡益田村佐伯寺鐘」の銘があります。

 三木市で最も古い梵鐘で、県文化財です。

 この梵鐘は、もと加古川市東神吉町升田にあったが、言い伝えによると、1578年、秀吉による「神吉城」攻撃の際この鐘を奪い、三木城攻撃の折、慈眼寺山門の木にかけ、合図用として用いられたといいます。

 そして、合戦後に慈眼寺に寄付されたと言うのですが、定かな証拠はありません。

 この鐘は数奇な運命をたどっているようです。

 佐伯寺は、嘉吉の乱(1441)で赤松氏に味方したため焼き討ちにあい焼失しました。その後の鐘の運命は、はっきりしません。

 ともかく、もと佐伯寺にあった梵鐘は、現在慈眼寺にあります。

 

 

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升田山を歩く(20) 佐伯寺、西念寺そして妙願寺へ

2020-04-29 06:45:06 | 升田山を歩く

        佐伯寺、西念寺そして妙願寺へ

 升田にある妙願寺に関する話題を2題続けます。そのため、先に妙願寺を紹介しておきます。 

 升田村に関係した人物に、赤松の家臣に佐伯公行という人がいました。姫路の書写山で僧になり、名を善西といいました。

 善西は、永正十三年(1516)、升田に天台宗の佐伯寺を建てました。

 九代目の実如の時、天台宗から浄土真宗に改宗し、その後、佐伯寺は焼失し、西念寺として再興されました。

 正徳3年(1713)十四代・寂如上人の時、寺号を現在の妙願寺と改めました。

 また、『印南郡誌』は、「・・・升田村佐伯寺の本尊は、佐伯寺の本尊である・・・」と、『播磨鑑』の記述を引用しています。

 これらの伝承を語るように、現在の妙願寺の隅には、手洗鉢や古代の石造遺品があります。これらは、もとの佐伯寺から運び込まれたものだろうと思われます。

 

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升田山を歩く(19) 蝦夷がいた

2020-04-28 11:11:24 | 升田山を歩く

    蝦夷がいた

 今回の「蝦夷がいた」は、ビクビクしながらの紹介です。軽く読み飛ばしていただいても結構です。升田の「佐伯氏」にこだわっています。

 

 東神吉町升田集落の中ほどで、集落を東西に走る古代山陽道沿いに佐伯廃寺跡があります。

 石の多宝塔(写真)が残っています。

 記録によると、佐伯寺は鎌倉時代の後期に建設されたといわれています。

 ところが、嘉吉の乱(1441)の時、寺は赤松氏に味方したため焼き討ちにあって、跡地に多宝塔だけが残ったらしいいのです。

 古代の佐伯氏の話です。

 桓武天皇の時代、佐伯氏は、蝦夷(俘囚)の管理にあたっていました。印南郡にも俘囚がいたことが確認されています。

 とするならば、佐伯寺は蝦夷の管理にあたり、この辺りを支配した古代豪族・佐伯氏の菩提寺と考えるのかもしれません。

 『日本三代実録』の仁和三年(887)七月の条に、印南郡のひと佐伯是継が、居を山城(京都)に移したことがみえます。

 是継の一家はこの時、山城へ移住したと思えますが、一族の一部はこの地に残留したのでしょう。

 そして、彼ら子孫は升田に佐伯寺を建設したとも想像します。

 尚、佐伯寺の多宝塔ですが、石づくりの多宝塔の数は極端に少なく、信濃が10基で過半数をしめ、近江・伊賀に二基、その外には大和・和泉・備中・播磨に各一基あるのみです。

 播磨の一基とは、もちろん升田の佐伯寺跡の多宝塔のことです。

 *『加古川市史(一・七巻)』・『加古川市の文化財』参照

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升田山を歩く(18) 古代山陽道は升田をはしる

2020-04-27 07:22:13 | 升田山を歩く

       古代山陽道は升田をはしる

 『日本書紀』は、大化二年(646)正月の条の「改新の詔」に、「初めて・・・駅馬・伝馬を置く」とあります。

 新しくできた政府は、まず全国の道を整備し、各地に駅(うまや)をおきました。

 とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は最も重要な道でした。

 兵庫県下におかれた駅は、図のようでした。

 奈良から加古川の野口まで伸びた古代山陽道は、加古川の流れに行く手を妨げられました。

 古代山陽道は、今の国道二号線に沿ってつくられたが、そこは加古川の氾濫原でした。

 そのため、確実に物を運ぶため、点線の図のように古代山陽道は、野口から日岡山へ、そこから升田へ渡り、升田・大国・岸・魚橋というバイパスが多く使用されたようです。

 つまり、升田の集落は古代山陽道のバイパスが通ったのです。

 つまり、奈良時代、日本最大の道が升田山の麓に沿ってはしっていたのです。平安時代も状況に、大きく変化はなかったようです。

 *『兵庫探検(歴史風土編)』(神戸新聞社)、『加古川市史(第一巻)』参照

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升田山を歩く(17) 含芸里(かむきのさと)

2020-04-26 07:33:01 | 升田山を歩く

     地名・カンキについて

 「神吉(かんき)」について考えてみます。

 『播磨国風土記』の印南郡に、「含芸の里(かむきのさと)の伝承があります。
 伝承は「・・・仁徳天皇の時代、他田熊千(おさだのくまち)という人が酒を甕に入れて馬の尻にくくりつけ、家をつくる土地を求めて旅をしていたが、この村で甕を落とした。
 そのために、この村を甕落(かめおち)といった。
 この甕落(かめおち)が訛ってカムキになり、カンキになった」としています。
 どうもあやしい。神吉(かんき)の地名のおこりは、結論を先にいうと「はっきりとわからない」というのが真相のようです。

     益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)

 『風土記』は、奈良時代、国ごとの産物・伝説・土地の質などをまとめた地理・歴史書です。
 奈良時代、地図にあるように、印南郡には益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)・大国の里・六継里(むつぎのさと)等が見えます。
 もっとも、古代の里は、必ずしもはっきりとした境界で分けられた地域ではありません。
 升田山付近の里は、益気里と含芸里で、東神吉町から平荘町にかけての加古川右岸(西岸)と推測されます。

 *『加古川市史(第一巻)』参照

 

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升田山を歩く(16) 砂部弥生遺跡と東神吉弥生遺跡  

2020-04-25 07:46:12 | 升田山を歩く

    砂部弥生遺跡と東神吉弥生遺跡

 砂部遺跡(いさべいせき)は、神吉中学校の少し東で、古代加古川西岸の自然堤防上に位置しています。

 そして、東神吉弥生遺跡は、昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見され、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることが確認されました。

 東神吉遺跡も標高5メートルの古代の自然堤防上に位置しています。

 砂部遺跡の近くで、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・両遺跡は、もともと一つの村であったと考えてよいであろう」と結論づけています。

共に大きな弥生遺跡です。

     升田山古墳の住人か

 升田山古墳群は、当然ですが住居跡ではありません。墓地です。

 被葬者は、生前、升田山古墳の南の平野部で生活をしていた住人、すなわち、砂部・東神吉(集落)の支配者と考えるのが自然と考えるのですが。いかがでしょうか。

 *写真:発掘中の東神吉弥生遺跡(柴田圓治さん撮影)

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升田山を歩く(15) 「加古の入江」:古代、升田山の南の風景

2020-04-24 09:08:24 | 升田山を歩く

  「加古の入江」 古代、升田山の南の風景

 升田山の頂上へ上り南の景色をご覧ください。広い平野が広がっています。

 この平野部の古代の風景を想像しましょう。

 今から一万年程前に最後の氷河期は終わり、現在のような暖かな気候になりました。

 それに伴い、加古川の水量は増え、大量の土砂を下流に運びました。

 その土砂は、河口にたまり三角州をつくり、やがて三角州は大きくなり、平野をつくったのです。

 かつて、海抜10メートルより低い平野部(太線の南)は、「加古の入江」と呼ばれた海の底でした。2~3000年以前より、土砂の堆積により陸化が始まりました。

 弥生時代、10mの等高線より南は、まだ三角州と海がまじりあった土地で人が住みはじめました。地図の黒い点は、弥生遺跡(集落跡)です。

 河口部分(加古の入江)で、弥生遺跡より以前の縄文時代の遺跡は見つかっていません。

 このことは、このあたりに人が住み始めたのは弥生時代以後であることを表しています。

 *図:●は、弥生時代の住居跡

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升田山を歩く(14)  慰 霊 碑

2020-04-23 07:41:21 | 升田山を歩く

           慰 霊 碑

 弁天社のすぐ横に慰霊碑があります。

 昭和41年5月4日早朝、湖底のカンス塚古墳の最終調査に向かう途中に湖上で水難にあい、20歳の若さで短い人生を終わらせしまった加藤進一郎さんの慰霊碑です。

 加藤さんは、昭和39年には京都の龍谷大学史学科へ進み、考古学を専攻しました。
 春休みを利用して数名の友人と共に湖面の南側に位置するカンス塚古墳の最終調査へ向かう途中に悲劇が起こりました。

 10数mの湖底へ沈んでしまったのです。

 地元の消防団や住民、警察などが捜索しました。翌日の日没ごろになって遺体が引き揚げられました。

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升田山を歩く(13) 金のイヤリング(カンス塚古墳出土)

2020-04-22 09:34:53 | 升田山を歩く

    金のイヤリング(カンス塚古墳出土) 

 平荘湖古墳群のほとんどの古墳は6・7世紀のものです。その中にあって、カンス塚古墳は5世紀後半にさかのぼる古い古墳です。

 カンス塚古墳は、平荘湖の建設に伴い湖底に沈んだ全長30メートルの古墳で、 一部盗掘されていましたが、玉類などの装身具・刀剣・鉾・やじり・鎌・斧・砥石・須恵器それに鉄鉗(かなはし)・槌などの鍛治具など多くの種類の出土品がありました。

 なかでも一対の金のイヤリング(写真)は注目を集めました。

 県下でも、加古川市の他に2例(姫路市と龍野市の古墳)があるだけで、全国でも、50ほどの出土例しか知られていません。

 朝鮮半島からもたらされたものでしょう。

 それにしても、カンス塚の「カンス」とはどんな意味でしょうか。はっきりしません。

 金のイヤリングは、加古川市総合文化センターの歴史資料館(平岡町)に展示されています。

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升田山を歩く(12) (民話)又平新田村の弁天さん

2020-04-21 09:56:35 | 升田山を歩く

    (民話)又平新田村の弁天さん

 平荘湖の底に沈んだ又平新田村に弁天池という大きな池があり、池の北東隅の島に弁天さんがおまつりしてありました。

 この島は古墳で、弁天さんが、しばしば稚児に化けて、池の表面にあらわれたという言い伝えから、村人は稚児が窟(ちごがくつ)と呼んでいました。

 むかし、この村に彦衛門という人がいました。

 池守りなどをしていたので、毎日池に行き、いつの間にか弁天さんと心安くなっていました。

 ある日、彦衛門はいつものように池の廻りを歩いていると弁天さんが手招きしていいました。

 「いっぺん、あなたの家に遊びに行きたいが、私は天界の身、人に見られると困るので、家の者をみんなよそへやってもらえんやろか・・・」

 彦衛門は、うれしくなって、急いで家に帰りました。

 何とか口実をつくり、おかみさんに親類へ行くよう言いつけました。

 おかみさんは、「きっと何かあるぞ」と思いました。

 村はずれまで行き、途中で引き返えすと、案の定、家の中から女の人の声が聞こえてきます。

 彦衛門が、綺麗な着物を着た美しい娘と話しているのでした。

 おかみさんが、のぞいているのを見つけた弁天さんは、「下界の人に見られては、ここに居ることはできません」といって立ちあがりました。

 彦衛門は、袖を持って、もどそうとした拍子に、袖がちぎれ、ちぎれた錦の片袖だけが残りました。

 島に帰った弁天さんは、「ひとところに長くいては、なじみができていけない」と、淡路島へ行ってしまいました。

 弁天さんがいなくなった又平新村では、それから、この片袖をご神体としてお祭しているといわれています。

 又平新田村の弁天社(写真)は、平荘湖の建設により、現在、湖の南東の堤防に新しく移築されています。(境内に前回紹介した稚児が窟古墳の石棺があります)

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升田山を歩く(11) 稚児窟古墳(池尻16号墳)の石棺の蓋

2020-04-20 07:56:34 | 升田山を歩く

 古墳時代、升田山付近では、「八十の岩橋(4)」で紹介したように、さかんに石棺等が造られていたようです。稚児窟古墳(池尻16号墳)の石棺もそのひとつと思われます。

   稚児窟古墳(池尻16号墳)の石棺の蓋

 池尻16号墳古墳は、稚児窟古墳(ちごがくつこふん)の通称で知られ、6世紀後半の古墳と想像されています。

 稚児窟古墳は、加古川右岸の飯盛山南麓にある弁天池北岸にありましたが、加古川工業用水ダム(平荘湖)の建設によって、他の多くの古墳とともに水没しました。

 ダム建設に先立ち、1962年から1967年にかけて20基前後の古墳が調査され、池尻16号墳は、1964年12月から1965年1月にかけて調査が行われました。

 墳丘の規摸は、南北38.5m、東西42mで、ほぼ方形でしたが、かつては、南北40m、東西42m以上あったと推定されています。

 平荘湖古墳群では、先に紹介した升田山15号墳に次ぐ大きさです。

 古墳の高さは約4mで、墳頂部は弁天祠が造られていました。

 また、墳頂部には石室内から運び出された大きな家形石棺の蓋(写真)が残されていました。

 現在は、平荘湖畔の弁天神社に移され保存されています。

 なお、身の部分は志方町投松(ねじまつ)の公会堂の玄関横にあります。

 次号の「升田山を歩く」で、この弁天社に伝わる伝承を紹介しましょう。

 「稚児窟古墳(池尻16号墳)」のあった場所は、「升田山を歩く(8)」の地図で確認ください。

 

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升田山を歩く(10) こけ地蔵

2020-04-19 08:15:05 | 升田山を歩く

    こけ地蔵

 ウェルネスホールへの途中で、道を右(東)に少し入るとこけ地蔵があります。

 すぐ南の道を5分ほど歩くと升田山15墳です。ひょっとするとこの「こけ地蔵」は、この古墳の石棺の蓋かもしれません。

  

 平安時代は、「鬼」や「もののけ」が信じられ、呪詛(じゅそ)が広く行われていました。その役割を担ったのが陰陽師(おんみょうじ)でした。

 良く知られている陰陽師は、阿部清明(あべのせいめい)であり、それに対抗した陰陽師は、西神吉町岸に生まれたという蘆屋道満でした。

 道長との対抗に敗れた道満は播磨へ流罪となり、晩年は西神吉町岸の近くで余生を過ごし、亡くなったといいます。

 ある夜、式神は天下原(あまがはら)の空を横切り、むかし修業をした古墳に近づきました。

 *式神(しきしん・しきがみ)・・・陰陽師の命令に従って、呪詛・妖術などをおこなう鬼神

 式神は、そこに懐かしい石棺の蓋があるのに気がつきました。

 石棺の蓋には、地蔵の姿がありました。

 式神と地蔵は、「お前は石棺だ・・・」、「俺様は、地蔵だ・・・」とお互いに言い争いました。

 火の玉は、地蔵に体当たりした。地蔵は、前に傾きました。

 村人は「お気のどくに・・・」と立て直すが、朝になるとまた地蔵は倒されているのです。

 こんなことが繰り返され、この地蔵は「こけ地蔵」と呼ばれるようになったといわれています。

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升田山を歩く(9) 升田山15号墳

2020-04-18 08:16:22 | 升田山を歩く

    升田山15号墳

『加古川市史(第1巻)』に、次のような記述があります。

 ・・・日岡山古墳群の現存する5基(前述の4基と稲日大郎姫の御陵)の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けている。前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではないが、前方部を平野側に向けている場合が多い。

 それはまた、被葬者が支配した土地としてよさそうである。したがって、日岡山古墳群の方向と平野部の遺跡との関係は大変興味深い・・・

 つまり、溝口遺跡・美乃利遺跡は、日岡豪族が生前生活していた集落であったと指摘しています。

 

 以下は、勝手な素人の説です。読み飛ばしてください。

 日岡山豪族の説をお借りし、升田山15号墳に当てはめてみます。前方後円墳ではないのですが、羨道(墳墓の入り口)は南側を向いています。

 15号墳の被葬者は、現在の東神吉の支配者であったのでしょう。

生前の集落を守っているのでしょうね。

「ワシ(私)の支配した集落を末長く守っているゾ・・・コロナよ、入ってくるな」と、言っているのかもしれませんよ。

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升田山を歩く(8) 平荘湖古墳群

2020-04-17 10:01:35 | 升田山を歩く

     平荘湖古墳群

 升田山古墳を含めた平荘湖古墳群の分布をみておきましょう。

 海浜の工業地帯に用水を供給する平荘ダム建設のために、多くの古墳が平荘湖に沈んで姿を消しました。

 工事に並行して、1962年(昭和37)から66年にわたり、数次の調査が行われています。

 水没した古墳は約50基ですが、升田山に約11基、飯盛山に約5基残っています。

 全体では、かなりの数の墓古墳がありました。

 これだけの古墳をつくった人々の生活の基盤になったのは、升田山から南西に広がる平野部であったと考えられます。

 加古川右岸(東岸)は、早くから開発が進み4・5世紀を形成する勢力が存在していました。

 が、それに比べると左岸(西岸)はやや遅れ、6世紀になって、豪族はようやく大きな勢力に成長したようです。

  このように、左岸(西岸)の開発が遅れたのは、加古川の河口部の分流がほとんど左岸に集中しており、西岸の平野部の流れが長く安定しなかったためと考えられます。

 *地図:平荘湖周辺の古墳群

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升田山を歩く(7) 古墳説明板(柱)の修理を! 

2020-04-16 08:28:04 | 升田山を歩く

     素晴らしい眺め

 13日(月)は、小さな手術もしました。

 そして、火曜日は、冬が舞いもどったような寒い日。それに、テレビは、コロナの話。

 でも、14日(水)は、前日までの天気が嘘のようなメッチャいい天気でした。

 コロナに関係のない、升田山(105メートル)に再度挑戦しました。山頂まで、たかが105メートルですが結構しんどい山登りです。年(76)のせいでしょうね。

 ですが、山頂の風はいいですよ。それに、加古川近郊だけでなく、上島・家嶋・小豆島そして、明石大橋・淡路島も眺めることができました。

 なによりも、コロナの心配のない空間です。

      古墳説明板(柱)の修理を!

 帰りは、山頂から平荘湖の第3堰堤までのコースを歩くことにしました。

 山は、もう、若葉の季節です。でも、まだツツジの花が残っています。

 でも、一つだけ「恨み節」があります。升田山ハイキングコースの整備はこれで終わりではないでしょうが、気になりました。

 途中に古墳がたくさんあります。一部は新しい説明柱(板)に変えられていましたが、ほとんどの古墳は写真のような状態です。

 新しいのと取り換えてほしいですね。

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