ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

西神吉町をゆく(39) 『風土記』に見る大国里・含芸里

2024-03-17 08:27:10 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

    

    西神吉町をゆく(39) 『風土記』に見る大国里・含芸里

 奈良時代に編集された『風土記』は、国ごとの産物・伝説・土地の質等をまとめています。

 『風土記』に、「印南郡(いんなみぐん)には益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)・大国(おおぐにのさと)・六継里(むつぎのさと)等があった」と記しています。

 印南郡は、加古川右岸に広がる地域です。

 このうち、大国の里は西神吉町に地名が残っていますが、『風土記』には、大石・伊保山(いほやま)・池の原等の地名がでてきます。

 当時の大国里は、現代の大国を含めて西および西南の平野地に伸びていたようです。

 いずれにせよ、「百姓(おおみたから)の家、多く此(ここ)に居り。故(かれ)、大国といふ」と記しているように、大国は郡内でも豊かな地域だったのでしょう。

 含芸里(かむきのさと)は、東神吉町から志方町にかけての地域であったと思われます。

 益気里(やけのさと)は、東神吉町から平荘町にかけての地域と推測さます。

 六継里(むつぎのさと)は、海岸部でしょうが、はっきりしません。

 現在の西神吉町は、古代の大国里と含芸里の一部を含む地域でした。

 

   「西神吉町をゆく」終了  次回から「平荘町・上荘町をゆく」

 「西神吉町をゆく」は今回で一端終了します。お読みいただきありがとうございました。

 次回から「平荘町・上荘町をゆく」を取り上げますので、引き続きよろしくお願いします。



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西神吉町をゆく(38) 宮前村・宮前新村

2024-03-16 08:53:08 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

 

        西神吉町をゆく(38) 宮前村・宮前新村

 図は、「元禄播磨国絵図(絵図)解読図」から、さらに西神吉村の部分を取り出しています。

 宮前村と宮前新村の場所を確かめてください。

 宮前村は、宮前新村と明治10年12月合併して宮前村となりました。

 村名は、神吉八幡社(妙見社)の宮の前に発達したからでしょう。



 宮前新村は、「宮前新村明細帳(寛保二・1742)」に「一 村之初り寛文九酉年」と記録されているように、宮前新村は、1669年に宮前村から分かれた新村です。

 明細帳から宮前村・宮前新村の数字を拾ってみます。当時(江戸中期)の村の姿を想像してください。



    宮前村明細帳より

 人口  307人  (男149人  女158人) 

 戸数  66軒(本百姓47軒・水呑19)

         大工  4人    牛 14疋



    宮前新村明細帳より      

 戸数  40人  (男 19人  女 21人)

     10軒(本百姓2軒・水呑8軒) 

                牛 1疋 

  宮前新村の村高は12石3升7合の村で、生活はかなり厳しいようです。

  *水呑・・・農地を持たない百姓



 少し年代の異なる数字を合計していますが、江戸時代中期、宮前村・宮前新村をあわせると、76軒・347人の村でした。



  

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西神吉町をゆく(37) 宮前村の免(税率)は、四つ七分

2024-03-15 09:55:38 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

 

      西神吉町をゆく(37) 宮前村の免(税率)は、四つ七分

 西神吉町宮前村の明細帳(寛保二・1742)の写しが残っています。

 最初の四行だけを読んでおきましょう。

 

  一 高四百弐拾八石弐升九合  免 四つ七分

     此田畑弐拾六町七反三畝拾壱歩

     内 田 弐拾三町五反弐畝弐拾五歩

     畑 三町弐反拾六歩 



 一行目の免「四つ七分」に注目してください。免とは、年貢率のことで、収穫の四割七分が税金ということです。

 この免(宮前村の年貢率)は、他の地区と比べて若干少なくなっています。

 江戸時代、「免」は5~6割が普通です。ちなみに、私の村(加古川市尾上町今福村)の免は6割でした。

 年貢率が低いことは、藩が寛大であったという事ではなく、生活は貧しく、それ以上に税をかけることができなかったたことをあらわしています。

 つまり、宮前村は高台にあり、水が得にくく、一般的に生活は苦しい地域であったのでしょう。

 西村の明細帳(宝暦10年・1760)も、西村の年貢率は「四つ七分」と記録されています。

 年貢は、これだけではなく犬米・夫口米・草藁銀・柿渋などの雑税があり、実際は五割を超えていました。

 百姓の悲鳴が聞こえてきそうです。

 次号も宮前村の明細帳を続けます。

*『加古川市史(第二巻)』『宮前村明細帳(写し)』参照

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西神吉町をゆく(36) 河岸段丘

2024-03-14 06:57:47 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

    西神吉町をゆく(36) 海岸段丘

 明石市の江井島から林の海岸を散歩されてことがありますか。

 そこは、10mもある台地が急に海に落ち込だ海岸をつくっています。

 屏風を立てたような風景のため、「屏風ヶ浦」と呼ばれています。

 この海岸は、昭和6年「明石原人」が発見されたことでも知られています。

 地球は、幾度となく氷河期を経ました。暖期には、海が押し寄せました。

 屏風ヶ浦は長い年月、隆起と海の侵食により、現在の地形をつくりました。現在は、護岸工事で侵食はとまっています。



 話を西神吉町にもどします。岸から大国・中西にかけて、写真のような崖(海岸段空段丘)が続いています。

 ここは、かつての海岸であり、屏風ヶ浦と同じく波の浸食作用により急な崖をつくりました。

 屏風ヶ浦と決定的に異なるのは、近くに大河加古川があったことです。

 加古川が、土砂を大量に運び崖の南に平野をつくりました。 

 海は、はるか南に遠ざかりました。そのため海の侵食の影響は屏風ヶ浦ほどではありません。

 西神吉の崖の北に広がる台地も屏風ヶ浦とおなじく、小さいが一貫した隆起現象が続いています。

 ここはかつての海岸であり、波が岸辺を洗い崖をつくりました。

 つまり、西神吉町の北部は、この隆起した台地上の地域がほとんどです。

 この地域は加古川東岸の印南野台地と同じく台地を潤すほどの川がありません。水の確保が難しい地域でした。

 西神吉から・志方に広がる台地を勝手に、「西神吉・志方台地」と呼んでおきます。

 ここでは水との闘った歴史があったと想像できます。

*『加古川市史(第一巻)』参照

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西神吉町をゆく(35) 高砂の大年寄り岸本家は西神吉大国の出身

2024-03-13 10:02:23 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

 

         西神吉町をゆく(35) 高砂の大年寄り岸本家は西神吉大国の出身

 話は、高砂へと飛びます。

 江戸時代、高砂そして姫路藩の掲載に貢献した岸本家は大西神吉町大国出身でした。そのため、岸本家についてすこし話しておきましょう。



 高砂町の中央を南北に貫通する幹線遭路沿いの町並は北本町です。

 江戸時代、ここに高砂町大年寄(たかさごまちおおとしより)・岸本吉兵衛がいましたいた。

 岸本家は、代々木綿業を営む豪商で、姫路藩の木綿専売制に深く関与します。

 文化年間(180418)、姫路藩家老・河合寸翁(かわいすんおう)の建議で郷学(ごうがく)・ 申義堂(しんぎどう)が建てられ、土地・建物は岸本家が提供しています。

 高砂町の町は、天保10年(1839)の家数82戸・人数358人でした。

       大年寄・岸本家

 岸本家は、印南郡大国村(現:加古川市西神吉町大国)から、享保年間(171635)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。

 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。

 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 岸本家は、三代で、その基礎が確立され、その資産は、持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。

 そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の行政の一端を担うようになりました。

 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 姫路藩には多額の収入が入るようになり、藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。

 この時、岸本家は、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たし、姫路藩の財政にも深く関っていくことになります。

 それに対し、姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。

 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。

 *『播州高砂岸本家の研究(工藤恭孝)(ジュンク堂書店)参照

 *写真:大国時代の岸本家の菩提寺(常福寺)

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西神吉町をゆく(34) 飛行機野郎・岸本光次

2024-03-12 09:35:18 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

       西神吉町をゆく(34) 飛行機野郎・岸本光次   

 岸本光次氏は、西神吉町大国出身の飛行機野郎です。

 光次が最初に飛行機に関心を持ったのは、アメリカの飛行士が姫路の旧陸軍練習場に着陸した時でした。

 二回目は、船員をしていた頃、ブラジルのリオデジャネイロで、そして3回目は、陸軍の飛行機を見て飛行機乗りになる決心をしたといいます。

 18才から20才までの外国航路の船員生活をやめ、飛行機に取りつかれた光次は上京しました。

 大正9年1月4日でした。

 当時、民間も含めて正式な飛行学校はありません。

 ただ、民間飛行士がオンボロの軍用機を払い下げて、エンジンの解体、修理、練習をするという所が数ヶ所あっただけでした。

 光次は、そんな施設で飛行機について学びました。

 その後、大阪航空企業研修所に移り、二等飛行士に合格。

 光次は、昭和2年2月11日、自前の飛行機で郷土訪問飛行を敢行しました。

 一万五千人が見守る中、現JR鉄橋上流の加古川河川敷に見事な着陸でした。

 その日は紀元節、光次27才でした。

 大国の八幡神社境内に、光次を顕彰する石碑(写真)があります。

 *『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町をゆく(33) 煙草(たばこ)の生産

2024-03-11 09:22:43 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

 

      西神吉町をゆく(33) 煙草(たばこ)生産

  印南郡の刻煙草(きざみたばこ)の製造の歴史は古く、『印南郡史』は、250年前からとしています。

 その中心は、西神吉の大国村・西村でした。

 最初は、包丁で刻む刻煙草でしたが、明治の終わりの頃に「セン切り」という細く削られるようになりました。

 その後、すぐ機械による製造方法に変わりました。

  明治37年4月、政府は煙草の専売局を設置し、煙草の製造は政府が経営するようになりました。

 日露戦争(明治37年始まる)の戦費を確保する必要があったためです。政府は、煙草の専売制で増収を目的としました。

 専売局の設置と同時に、煙草の耕作も政府の指定地のみでの生産となりました。

 大国は、国の委託製造をしていまあしたが、だんだん製造は減り、明治42年ついに生産をやめました。

 磯野孝治さん(80歳・昭和55年当時)は、『私たちのふる里』で、次のように語っておられます。

 ・・・私が子どもの時、大国で煙草の製造家は17軒と葉煙草の仲買人が4人、刻煙草販売人が3名ありました。

 大勢の村の人は、男は煙草を切る職人、女の人は葉巻師でした。



 志方では、まだ靴下を製造する者はまだなく、志方や近村のから大勢の人が働きに来たので、大国は近村にない賑(にぎ)やかな村でした。

 しかし、煙草製造の閉鎖後、多くの村人が失業し、賑やかだった村は急に寂しくなりました。・・・

 *『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照

 *写真:煙草の葉

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西神吉町をゆく(32) 西村の年貢

2024-03-10 10:53:13 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

 

    西神吉町をゆく(32) 西村の年貢

 加古川市西神吉町西村の田中一朗氏が宝暦10年(1760)の西村の明細帳を研究されています。

 西村は、宮山の西に在り、斜面に広がった集落です。

 

     西村の年貢

 

『私たちのふる里(第一集)』から、西村の年貢をみておきます。

 それによると、西村の免(年貢率)も四割七分で多い方ではありません。

 つまり、多くの年貢を取り立てることができなかったようです。

 年貢は、米だけではありません。

 その他の税金(小物成)として、運上金・夫米・口米・犬米、さらに石高に応じた在中御普請人足の割り当て等がありました。

 その人足の割り当ては、次のようです。

    ◇春(五十日) 一日に二人、計百人

    ◇秋(三十日) 一日に二人、計六十人

  説明が必要のようです。

   運上金・・・主に商・工・漁・鉱・運送業にかけられた税金

   夫米・・・・夫米は、夫役の代わりに上納した米。

   口米・・・米は本税のほかに面積に応じて、加え徴収した税米。

   犬米・・・藩主が鷹狩りをする時、村々から人や犬が動員された。後に、人や犬の代わりに米を納めるようになりました。

*『私たちのふる里(第一集)』(西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町をゆく(31) 西村の偉人:田中五郎兵衛

2024-03-09 10:24:27 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

 

       西神吉町をゆく(31) 西村の偉人:田中五郎兵衛

 西神吉小学校から東北に少し行った所に田中五郎兵衛の墓(写真)があります。

 西神吉小学校のあたりは、標高10mばかりの台地です。

 江戸時代のはじめ、五郎兵衛は代々西村の庄屋を勤めていました。

 五郎兵衛の村(西村)は貧しい集落でした。

 彼は、何とかしてこの地を豊かな水田にかえたいと考えました。

 しかし、肝心の水源がありません。

 高台を水田にするためには池に頼るほか手段がありません。

 五郎兵衛も時代の人でした。

 江戸時代の初めは、わが国の全歴史を通しても、他の時代に類例がないほど土木技術が発達し、日本の社会が大きく変わった時代でした。

 戦争のない平和な時代になり、戦国時代の技術(築城・土木・鉱山等の技術)が江戸時代に農業に転用されたのです。

 五郎兵衛は、神吉村の大池から水を引くことを姫路城主に願い出て、承応三年(1654)許可を得ました。

 用水の工事に着工し、明暦三年(1657)用水路を完成させました。

 25町歩の稲田をつることができました。西村・中西村の人々は大喜びでした。

 五郎兵衛は、長命で享保元年(1716)年、96歳でなくなりました。

 遺言で西村の水路が良く見える場所に、五郎兵衛の墓所はつくられました。

 五郎兵衛の業績は、もっと紹介されてよい人物です。

*『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照

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西神吉町を歩く(30) 池郷の村々

2024-03-08 08:15:55 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

   

     西神吉町を歩く(30)  池郷の村々 

 加古川運動公園の東に大池・新池・馬頭池(ばとういけ)、そして地図には名前がないのですが、馬頭池の東に地知行池(じちげいけ)があります。

 地図で場所を確認してください。



 これらの池は西神吉地区の一番高い位置にあり、貴重な水瓶であることは確かです。

 つまり、南と西は低くなって、水は自然に流れ下る位置にあります。

 ただ、これは水があっての話です。これらの池は付近に降った雨水に頼るほか水源がなさそうです。

 そのため、池の水は大切に管理されることが必要でした。

 この水を利用したのは、現在の加古川市東神吉町の神吉・天下原(あまがはら)、西神吉町の宮前・中西・西村・大国そして鼎の清水・下富木の村々です。

 これらの村は、互いに話し合い、水利用の取り決めをつくり、協力をしたことでしょう。

 村を越えてこれらの村々は、「水」を通じて強く結びついた地域のようです。    

 このように池を通じて結びついた村々を含む地域を「池郷(いけごう)」といいます。



 きのう(7日・木)曇っていましたが、温かい一日でした。このあたりを歩きました。散歩の歩数は、久しぶりで1万歩を超えました。

 ①これ等の池はいつ頃、造られたのだろう?。②水は、今の時期はかなりあるのですが、水をひく川もなさそうです。とすると田植えのころには足りるのだろうか?・・・・等々を考えながらの散歩でした。

 池が造られたのは、このあたりの開発から考えて、室町時代の終わりのころから江戸時代の初期のころだったとと想像します。

 この辺りの水事情をご存じ方はご教授ください。

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西神吉町をゆく(29) 太閤岩(たいこういわ)

2024-03-07 09:36:19 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

  

     西神吉町をゆく(29) 太閤岩(たいこういわ)

 志方城で、天6年(1578)8月、大事件が発生しました。

 三木別所氏に味方した志方城方と織田・信長方の戦いが始まりました。

 戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦いました。

 まず、野口の城が落城し、ついで、神吉城が信長方の大軍におしつぶされました。

 その後、信長軍は志方城へ攻め寄せました。

 志方城には10,00名が勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説もあります。

 この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。

 志方城の戦でも援軍は期待できませんでした。敗戦は確実の状況でした。

 唯、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に残す」という美学だけが支えの戦いになります。

 城主・伊則の娘は、信長方の知将・黒田官兵衛の妻である。当然のこことして、説得はあったと思えます。

         太閤岩

 写真の岩は、羽柴秀吉が志方城を攻めた際にこの場所に本陣を置き、采配をとるときに座ったと伝えられている岩です。

 西神吉町辻の北側の岩山にあり、眼下に広がる景色を堪能できます。周囲に視界を遮るものがなく、ここから中道子山城や神吉・加古川城があった場所、西は姫路までを見渡すことができます。

 面白い伝承なのですが、秀吉がここに来たという記録はありません。

 *写真:太閤岩と太の南に広がる西神吉町、そして加古川の中心部の風景です。

 

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西神吉町をゆく(28) 辻姫の伝承

2024-03-06 09:53:44 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

         西神吉町をゆく(28) 辻姫の伝承

 辻(加古川市西神吉町辻)の正念寺(しょうねんじ)の伝承です。

 ・・・戦国時代、今川義元が織田信長軍に敗れ亡びました。家臣等は流浪しました。

 そのひとりの高谷左衛門秀重が、この地(辻)にやって来ました。

 丁度、織田信長が播磨平定に取りかかった時代のことです。

 播磨の盟主、三木の別所長治(ながはる)は毛利軍につきました。

 秀重も三木方に味方し織田軍と戦いましたがに倒れ、天正八年(1580)、に亡くなります。

 残された妻子は、再び流浪することになりました。

 そして、20年後のことです。6人の子どもをつれて秀重の妻「つじ」は、この地に戻って村を盛りたてました。

 村人は、彼女の名「つじ」を村の名としたといいます。

 そして、六人の子どもが寺を建てた土地を「寺田」と呼びました。そこに、「辻姫の墓」(写真)と小さな堂をたてて、その遺徳をしのんだといいます。

・・・

 以上が辻姫の伝承です。

 物語としては楽しいのですが、「辻」の名のおこりは、現在の魚橋・志方線と神爪(かづめ)・辻線との交わった場所(辻)をその名の起こりとする方が自然のようです。

 話は一気に味気なくなりました。夢を壊したような気になっています。

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西神吉町をゆく(27) 富木、南宗寺の観音さん

2024-03-05 10:31:55 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

 

   西神吉町をゆく(27) 富木、南宗寺の観音さん

 昭和54年度の地区役員の田中由美さんは南宗手の観音さんについて、次のように話されています。

      南宗寺の観音さん

 南宗寺は、数百年前大和の国の露岡寺(つゆおかてら)の観音さんを受けてきて祭ったものです。

 しかし、いっの頃かその観音さんは盗まれてしまって、今祭っている観音さんは当特のものではありません。

 この観音さん「はめ(まむし)」をよける利益があると言い伝えられており、毎年夏祭りの初めに川の砂をとってきてきて・観音堂の下にある石囲いの壷の中にいっぱいれ、その砂を身つけていると「はめ」にかまれないといって、他の村からもらいにくる人があったほどでした。

 このお蔭でこの村では、はめで被害を受けたという人はありませんでした。



 富木の南宗寺の今から五代前の院主さんは、絵の上手な人で、号を露岡寺からとって露岡がとされ、多くの作品を残されています。

 百年ほど前、大干ばつがあった時、田も池も干があっがてしまいました。 

 そこで雨乞いすることになり・姫路の寺から火をもらい、その先を木の先に藁をくくりつけ、それに火をつけて池の回りをまわりました。

 その時、干上あがった鷭みず池(ばんずいけ)の中から石の地蔵さんが掘り出されました。

 それをきれいに洗って、観音堂の中に祭ったら大雨が降り、それ以後は雨乞いの地蔵として、あらたかと言い伝えられています。



 観音堂のまわありには大人の両手にもまわらないくらいの松が十一本。その中でも一番大きな松は大人三人でもかかえきれぬ程大きなもので、ふくろうがすんでいました。

 それを太平洋戦争鞍争の末期、供出として切り倒し、根を掘りおこして、飛行機の燃料として供出しました。

 その他、大きな杉の木やむくの木があり、子供達はそれらの木に登って遊んだものでした。戦時中、出征兵士を晃送る時は、観音堂に集まって出征しました。

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西神吉町をゆく(26) 鼎の「清水」

2024-03-04 07:59:18 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

 

     西神吉町をゆく(26) 鼎の「清水」

  鼎の清水について堀田武夫氏は『私たちのふる里(第1集)』(西神吉小学校PTA発行)で清水について下記のように纏めておられます。

 一部をお借りします。



 清水村は、もとは今の変竃所の附近にありました。古屋敷とい字(あざ)の所です。

 集落という程の戸数もありませんでした。

 慶長年間(15961614)約400年に、現在の地の周辺の地を開墾し、畑をつくり水田をつくり集落の名前を「清水新田」と名づけました。大変な苦労でした。

 まず、自分の生活をきりつめ、食物は、肉、魚介類は食べずに、野菜を主にとっていました。

 ・・・・

 昔から、清水へは魚屋さんも出入りしない集落でした。「売りに行っても買ってもらえない」とまで言われました。

 穀物類は、絶対にねずみに食べられないようにする。だから、ねずみも住めない。猫も飼わない、育たない。

 その上、牛や馬を働かすだけ働かして、食物は充分には与えないものですから、

早く亡くなったといいます。



 開墾当時の清水の入は清き水をもとめました。

 「清き水が出るよう」にと、弘法大師にお願いして、井戸を掘り、その水を田に引き入れ、水田をつくり、生活用水に利用し、村の名前を「清水」とし、村人は水埜・清埜・清田・野村などの姓をつけました。

 先担は、土地を大切にし、水も浪費を防ぎ、自分の会べ物も出来るだせ姶末をして、清水という村をつくってきました。

*写真:清水の妙心寺



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西神吉町をゆく(25) 神吉晴夫

2024-03-03 07:16:29 | 加古川市歴史探訪・西神吉町

     西神吉町をゆく(25) 神吉晴夫

 加古川市西神吉町長慶(ちょうけい)には、「神吉(かんき)」姓が多い。

 神吉晴夫は、明治34年に長慶に生まれ、昭和2年東大を中退して、講談社に入社しました。

 昭和20年、講談社から分かれた光文社の出版局長として参画し、昭和36年社長に就任。

 晴夫の活躍については『新・かこがわ事典』に(新・かこがわ事典編集委員会)に詳しく紹介されています。

 『頭の体操』(多湖輝)・『英語に強くなる本』(岩田一男)等は、カッパ・ブックと呼ばれ、昭和30年代ミリオンセラーとなりました。

 これらの出版の仕掛け人が神吉晴夫でした。

 晴夫が活躍したのは、東京オリンピックが開催された前後で、彼の出版に対する考えは、「読者層を20才前後に見据え、高度な内容を平易な文章で語る」ことでした。

 それに、書名の決定にもこだわったといいます。

 しかし、彼のワンマンな経営に反発する労組と対立し、昭和45年に退陣をよぎなくされました。

 晴夫が、最後に長慶を訪ねたのは、昭和51年11月でした。

 翌年の52年2月、76歳で急逝。

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