ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

80歳の宣言

2023-06-30 12:44:57 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

     80歳の宣言

 今日の「志方町をゆく」は、お休みとします。

 

 とうとう、今日で80歳になりました。周囲に迷惑をまき散らしながら、80歳になってしまいました。

 今年の正月に高御位山に登りました。しんどかったのですが、その後「やった・できた」という余震が長く残りました。

 先週あたりから、誕生日に最後の高御位山を登ってみようと計画しました。

 でも、6月30日の天気予報は、雨。そのため、計画を一日前倒しをして昨日(29日)決行しました。

 正月の時は、しんどかったのですが、寒い一日で登山には、ましでした。

 昨日は登り始めたら、すぐに「蒸し暑さ」で悩まされ、「しんどさ」は倍増でした。

 もう、高御位山登山は無理です。、最後にしようと固く決意しました。

 でも、これからは、体力は一番大切になりそうです。昨日は体力の劣化をしみじみと感じた一日になりました。



 きょうから散歩だけで辛抱します。そして、もうすこし、「郷土の歴史(もどき)」を今までどうりに皆さんに押し付けようと思います。

 もう少しだけ、お付き合いください。よろしくお願いします

 これが、私の80歳のささやかな宣言です。

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志方町をゆく(141) 横大路(16) 弁天さんの夜

2023-06-29 06:18:02 | 加古川市歴史探訪 志方町編

      志方町をゆく(141) 横大路(16) 弁天さんの夜

 『志方郷(23号)』に書かれている松本正巳さんの文章(一部)を読んでいます。  

〈弁天さんの祭〉 

 「・・・弁天さんのまつりは、毎年7月22日と23日に行われました。

 22日の宵宮には、どこの家でもご馳走を作り、嫁入りしている娘や他所へ出ている息子が帰り、にぎやかに祭をたのしみました。

 弁天さんの境内では相撲大会が行われ、夜店がせまい境内から参道にまで、所せましと出ていました。

 夜店の並んでいるところは、カーバイトの明かりをつけて明るく、参って来る人を祭の中へ引き入れてくれます。

 店屋は氷屋、おもちゃ屋、冷やしラムネなど、子供の心をひきつけます。

 相撲大会の世話は全部子どもです・・・」



 この文章を読んだ時、懐かしさがいっぺんに吹き出してきました。

 松本さんが書かれた、この弁天さんの祭りに、幼稚園・小学校1年生だった私もいたんです。相撲大会とカーバイトのにおいいっぱいの相撲大会でした。

 私の知る弁天さんの祭は、昭和24・25年ごろですから、戦争の間もないころでした。

 祭の日は、はやくから小銭を握って出かけました。

 昨日(28日)午後、久しぶりにこの場所へでかけました。思い出の風景ではありません。周囲の住宅に押しつぶされそうでした。

 少し高くなった土俵は残っていました、長い間使われた様子は感じられませんでした。

 また、松本さんは「戦時中は出征兵士の家族が、お祭りして無事を祈りました・・」とも書かれています。

 母がいたのは、弁天さんの近所でしたから、母はここへ父の無事を祈ったかもしれません。

 でも、間もなく「戦死」の知らせがありました。粗末な箱に小さな石ころ一つだけ入っていたと聞きました。

  *写真:弁天さん(628日撮影)

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志方町をゆく(140) 横大路(15) 秀吉の「鐘かけの松」◇

2023-06-28 09:27:32 | 加古川市歴史探訪 志方町編

             志方町をゆく(140) 横大路(15)  秀吉の「鐘かけの松」◇

 志方町横大路の妙正寺には、かつて樹齢500年以上と推定される見事な松がありました。

 その松は山門を入って左の塀の側でした。近隣の自慢の松でした。

 幹の高さは五間程で、太さは大人4人が手をつないでやっととどき、技は四方に張り出し、あたかも唐傘を拡げた格好から「傘松」とも呼ばれていました。

 村の子どもたちは、大きな枝に荒縄を懸け、ブラシコをしてよく遊んだそうです。

      秀吉公「鐘かけの松」と鐘かけ松で作ったひ火鉢

 一説では、天正年間 (約400年前)羽柴秀吉が志方城(志方町観音寺の場所にあった)を攻めた時に、この地に陣をおき、陣太鼓をつるして軍を叱咤したと伝えられ、別名、鐘懸松または、釣鐘松と呼ばれていました。

 史実は、志方城攻めに秀吉・官兵衛は加わっておらず、この戦いの大将は信長の長男・信忠です。

 ですが、庶民は志方攻めを秀吉として語り継いでいます。

 妙正寺の松は、天下の名樹としてその名に恥じない風格の古松でしたが、昭和22年8月、瀬戸内海一帯にまんえんした害虫(松喰虫)のため予防効果もなく枯れてしまいました。



 ずいぶん前ですが、妙正寺を取材をさせていただいた時でした。

 その時、本堂の隅にみごとな火鉢を見つけました。住職にお聞きすると、「松の大木(鐘懸松)で造った火鉢です」と話してくださいました。

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志方町をゆく(139) 横大路(14) 太鼓堂のある寺(妙正寺)  

2023-06-27 08:48:36 | 加古川市歴史探訪 志方町編

        志方町をゆく(139) 横大路(14)

        太鼓堂のある寺(妙正寺)            

 山門横()の建物は「鐘楼かな」と思いました。でも、鐘楼は、山門の西側にあります。住職に確かめてみると、太鼓堂(写真)であるとのことです。

 近辺で太鼓堂のある寺は珍しい例です。

 この太鼓堂について、礒野道子さん(故人)が『志方郷(13)』に書かれているのでお借りします。(一部省略:文体は変えています)

        太鼓堂のある寺

 瓦屋根の上に、太鼓を納めたやぐらが聳えています。

 一階の入り口から入ると、右側の壁に沿うて、六段程30センチおきに段が打ち付けてあります。これを足がかりにして二階へよじのぼると、思ったより明るい。

 「秀吉公ゆかり?」の品と伝えられる太鼓は、その中央に吊り下げています。る。

 太鼓の丸い皮の直径は70センチ、胴の丈は85センチもあって堂々としています。

 ・・・ この太鼓について『印南郡誌』は三通りの説を伝えています。

 *『印南郡誌』にあるこれらの説は、どれも怪しいので省かせていただきます。(*は飯沼の注です)

      お寺で、お経がはじまるぞ・・・

 太鼓堂および鐘の伝承はともかく、太鼓は、戦前まで、次のように用いられていました。

 寺の行事、報恩講や永代経が始まる30分前に、先ず太鼓が打ち鳴らされました。

 村人は、太鼓の合図で着衣を改め、寺参りの準備をしました。

 次に鐘が鳴るとお経が姶まるので、人々は寺へ参ったといいます。

 寺の太鼓や鐘の音は時を告げる大切な手段でした。

 *写真:妙正寺の太鼓堂

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志方町をゆく(138) 横大路(13) 大内家のこと(3)  大内家とシオカキ井戸

2023-06-26 08:01:00 | 加古川市歴史探訪 志方町編

   志方町をゆく(138) 横大路(13) 大内家のこと(3)

          大内家とシオカキ井戸

 『志方町誌』をお読みください。大内家は学者・歌人・医者等々有為の人を多数輩出しています。

 江戸時代までは、字を知らない人が多かったので、赤チャンが生まれたら横大路の学者・大内氏に名前を付けてもらう事が普通となっていました。

 大内家では、命名を乞われるたびた横大路峠の井戸(シオカキ井戸)で身を清めてた後に命名したといわれています。

      シオカキ井戸

 横大路峠から高御位(成井)への道をすこし行きます。

 「シオカキ井戸」は、その山側の家のそばの農道ぞいに残っています。

 この井戸の水がよく出ている時は、釣瓶(つるべ)があって竹の竿がついていたそうです。

 昔から霊泉と伝えられ、「シオカキ」とは「清める・潔斎」するという意味です。



 この水は赤ちゃんの産湯(うぶゆ)や神仏に供える水として村中の人が守ってきましたが、ある日、突然出なくなりました。

 戦後の南海地震の翌日から出なくなりました。水脈がかわったのでしょうね。

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志方町をゆく(137) 横大路(12) 大内家のこと(2) 大内家の家紋

2023-06-25 08:29:36 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    

   志方町をゆく(137) 横大路(12)      

       大内家のこと(2) 大内家の家紋

 この絵は何を描いているのでしょうか。よくご覧ください。

 分かりましたか。

 相対する雲のよな図は鹿の角です。中の4つのダイヤは田を表しています。

 昔、志方は「鹿多」または「鹿田の荘」と呼ばれていました。

 この模様は「鹿と田」つまり「志方」をズバリ図案化しています。

 そして、これは大内家の家紋です。

 志方は、大内家が中心であり、大きな政治力を持ったいたからこそ志方を表す図が許されたのでしょう。

 前回紹介した「大内家の祖先は朝鮮の百済の王家一族の血を引く」という伝承は、少し信じがたいようですが、志方の開拓を始めた一族であったのは確かなようです。

 そうでなければ、当然こんな図を家紋にすることは許されなかったことでしょうね。

 *図:大内家の家紋



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志方町をゆく(136) 横大路(11) 大内家のこと(1) 大内家の伝承

2023-06-24 07:57:15 | 加古川市歴史探訪 志方町編

    志方町をゆく(136) 横大路(11)

      大内家のこと(1) 大内家の伝承

 今日は、まず大内家の伝承を『志方町誌』に見ておきます。

 横大路の大内家の歴史は、以下のような確かめようのない「伝承」から始まります。

 でも、後に紹介しますが志方地域の中心とした始まった大家であったことは確かのようです。(文章は若干変えています)

     横大路・大内家の伝承

 大内重信の祖先は百済国(くだら)の琳聖太子は百済国の皇子で、推古天皇19年の時来朝して、周防国(現山口県)佐伯郡多々良港に上陸ので、天皇から多々良という姓と土地三郡を賜わりました。

 また、館を大内郡に建てて、そこに住んだので大内を称するようになりました。

 この子孫はのち周防国山口の城主となりましたが、茂信は琳聖太子から数え19代目大内藤根の三男で、志方に来て横大路大内家の姶祖となりました。

 志方に来たいきさつは、10歳の時母に死別、哀慕のあまり神社仏遍歴の旅に出て、たまたま但馬国気多郡妙見山に参寵の夜、夢を見て横大路に来住したものです。

 承和九(842)のことで茂信25才の秋と伝えています。

 茂信が旅装を解いたのは横大路ではなく、宮谷(宮谷玉の緒の地蔵尊の近く)であったとも伝えられています。

 志方八幡社は櫛橋氏が志方に城を築いた時、鎮護の神として宮谷から今の宮山に勧請しました。それは明応元年(1492)のことです。

 *写真:志方町横大路ルピナス畑

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『政治はケンカだ(泉房穂著:前明石市長)』紹介

2023-06-23 08:26:19 | 余話として

 

    『政治はケンカだ(泉房穂著:前明石市長)』紹介

 先日『社会の変え方(泉房穂著)』を紹介させていただきました。まさに、感動一冊でした。

 私の気持ちの中で良質のお酒のように、今もその発酵が盛んに進んでいます。

 もっと泉さんの著書を読んでみたく、『政治はケンカだ!(講談社)』を購入しました。

 またまた、感動です。

 ぜひ、お読みください。保守を支持されている方も、偏見なくお読みください。保守・革新・中道を超えた内容の本です。

 市民とともに歩んだ泉氏の12年間の記録です。

 明石市は、加古川市・高砂市・稲美町・播磨町は隣の町です。

 参考になることがいっぱい詰まっています。

 本のタイトルは、少しセンセーショナルですが、内容は大まじめな本です。参考になることがいっぱいの泉さんからのプレゼントです。

 



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志方町をゆく(135) 横大路(10) 集団疎開(8)   お母さんからの手紙

2023-06-22 06:44:46 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    志方町をゆく(15) 横大路(10) 集団疎開(8)

       お母さんからの手紙

 潮海一雄は、志方町横大路の妙正寺で昭和1992日から最後の昭和20113日)まで集団疎開をされています。

 手紙は、お母さんから、妙正寺に届いた手紙(原文)です。

 

   ◇お知らせ◇

 志方への集団疎開は志方町(観音寺)等へもあり、記録が残されていますが、ここでは省かせていただきます。次回は。余話を挟みます。そのあと少し「横大路」を続けます。

 

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志方町をゆく(134) 横大路(9) 集団疎開(7)  お父さんが来た  

2023-06-21 07:16:05 | 加古川市歴史探訪 志方町編

   志方町をゆく(134) 横大路(9) 集団疎開(7) 

            お父さんが来た     

      〈上田 登〉

 七月の暑い盛りの日、授業中に浜田先生が「上田!お父さんが来られたよ。授業はよいから逢ってきなさい」と・・・

 予想もせぬ父の来訪に言葉もでないほどうれしかった。

 父は内地召集で戦闘帽・ゲートル姿だったと覚えています。

 公会堂より少し離れた畑の中の大きな石に、腰をかけて二時間ほど二人きりで嬉しい時間を過ごしました。

 思いだすことは、お寺の本堂の石段に並んで座り、シラミを潰した事。公会堂の庭で上級生が、バリカンで、頭をかってくれた事。志方村の北部に少年通信兵の訓練校があった事。畑で芋を堀り生で食べて叱られた事、等々・・・。

       終戦、そして集団疎開が終わった

 八月十五日の終戦後、親がむかえに来る様になり、残留者がどんどん滅ってまいりました。

 しかし、いつか神戸に帰れる安心感で、それ以後は気持も落着きました。 秋に入り中町公会堂の仲間も十人位になり、家へ帰れる日を一日千秋の思いで待っておりました。

 ・・・・

 (十一月下旬)引率され帰神、(空襲で家は焼けたので)諏訪山小学校の音楽室に一時落ち着きました。

 数日後、父が迎えに来てくれました。

 再度山の仮り住いに両親、祖母、兄弟妹と家族が揃いました。とても不思議で、テレクサイ感じでした。

 疎開前に母が、葉書の表書き(住所:当時は神戸市神戸区・宛名)をして、私に持たせました。

 私が書いた文章はいつも同じで「お父さん、お母さん、お元気ですか、僕も元気です・・・」「帰りたい、逢いに来て欲しい」は書けませんでした。

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志方町をゆく(133) 横大路(8)    集団疎開(6) 待ち遠しかった炊事当番  

2023-06-20 07:06:23 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(133) 横大路(8)  集団疎開(6) 

           待ち遠しかった炊事当番    

   〈東中弘吉〉

 つらかった疎開の生活の中にも楽しい日が平等に順番に廻ってくるしかけになっていました。炊事当番の日です。

 その日は、当番の生徒は朝から顔が生き生きしていました。

 当時給食の食器はすり鉢型の素焼きの丼鉢で、もちろんご飯は盛り切り飯でした。

 ところが何故かこのすり鉢型の丼が総学童数より八つ程不足しており、その不足分だけ学童が持って来た丸みのある、見るからに大きな丼鉢が使用されました。

 これらは、すり鉢型のものより約三割多く入り、中でも紺色で松の絵が焼付けられたジャンボ丼は五割近くも多く入ったと思います。

 食事で公会堂へ入るとその日の炊事当番が誰であるか一目瞭然でした。

             丼鉢についての珍現象

 大型の丼鉢は、確か炊事当番の人数より二、三個余分にあり、それが誰の席に置かれているかが、当時の私達の小さな社会関係を現わしていました。

 その日の炊事当番と仲の良い友人の席、ボス的存在の生徒の席、勉強の良く出来る指導者の席等、恩を売ったり返したり、管理したり管理されたり、丼の位置一つで、当時の年若い我々のインフォーマルな子供社会の一面を知ることができました。

             田中様ありがとうございました

 食物の点で私にとってもっと有難い裏話がありました。

 さきに触れた民浴(みんよく)です。二人一組で民家に貰い風呂に行きましたが。私は、三年生の五十嵐君とペアになりました。

 隔日に公会堂の裏手の田中様宅へ出かけました。

 このご家庭は遺族家族で、おばあさんと、戦争未亡人、二年生の真之君の三人家族でした。

 私が五十嵐君と二人で入浴している間に必ず食事か軽食の準備をして下さり、入浴後にご馳走になりました。

 食べ残りがあれば、餅、芋、豆などは紙袋に入れてお土産として持たせて下さいました。

 同じように民浴に行った友人の中には、疎開の子と白眼視され、入浴も遠慮勝ちであった者も少くありませんでした。

 それを思うと、私と五十嵐君とは実に恵まれていて、よい家庭に配属されたものでした。(以下略)

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志方町をゆく(132) 横大路(7) 集団疎開(5) 野兎狩り 

2023-06-19 11:18:28 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(132) 横大路(7) 集団疎開(5) 野兎狩り  

   〈東中弘吉〉

 (志方への)出発の当日は我々学童はそれほど悲しいとも思いませんでした。

 丁度、戦争激化のため中止になった「伊勢まいり」の一泊修学旅行のかわり位にしか考えていませんでした。

      野兎狩り      

 ・・・六年、三年の男子がそれぞれ二班に分かれ、公会堂・妙正寺に分宿することになり、そこから西志方村の国民学校(現:加古川市立西志方小学校)へと通学しました。

 食事は公会堂で全が揃って頂き、入浴は妙正寺の生徒は山門を入った右側の風呂に入り、私たち公会堂の班は、二人一組となり近隣の民家へ隔日に貰い風呂でした。

 両親と離別しての生活も、一日、二日は興奮気味で楽しかったのですが、日増しに淋しく、空腹も手伝って、神戸の方を向いて両親や兄弟を思い出して泣く日も多くなりました。

 ・・・・・両校生徒融和を図るため角力大会、運動会、それに合同授業も一、二回実施されました。

 共同行事の一つに野兎狩りがありました。

 何時の頃か忘れましたが、寒い頃でした。山の斜面に頂上から山裾まで網を張り、私達が勢手になって一列縦隊で網の方へ追いつめて行くのです。

 頂上の方で誰かの「あっ、兎だ!」との叫び声が聞えるとほとんど同時に、一匹の兎がものすごい速さで我々の前を通過しました。

 ところが、そこが混成チームの弱さで、神戸の生徒と西志方の生徒との間隔が少し離れ過ぎており、兎もさる者でその間を、アッという間に走り抜けてしまいました。当日の兎狩りは、野兎を見ただけで収獲はゼロ。

 兎を逃がしたことで神戸の生徒は我々は「動作が鈍い、憶病だ」とさんざん失態をなじりました。

 神戸の学童頼むに足らずと考えたのか、現地の生徒だけで第二回目の兎狩りが行われ、この時は、我々にはお呼びがかかりませんでした。

 ところが、相憎く第二回目も収獲はゼロ。それを聞いた我々は「それ見た事か、第一回目の失敗も我々神戸の学童だけの罪ではないぞ」と話し合い、冤罪が晴れた思いでした。

 当時の西志方村の先生方は本当に情け深い方々で、疎開児童に、「どうしても兎汁を馳走してやりたい」の一念から、学校で飼っている兎を我々に供して下いました。

 「兎汁の味」は本当に複雑で、今だに忘れられません。

 *写真:集団疎開中の神戸校(現:神戸市立神戸小学校)(妙正寺山門前で)、前2列は、当時の3年生、後ろ列は、当時の6年生

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志方町をゆく(131) 横大路(6) 集団疎開(4) 腹がへった

2023-06-18 08:18:17 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

    志方町をゆく(131) 横大路(6) 集団疎開(4) 腹がへった

 *以下の文章は『学童疎開追想』ではなく、妙正寺(志方町横大路)に疎開された小川正さんが『神戸校九十年』(神戸小学校同窓会発行:1974)に投稿された文章です。



 〈小川 正(昭和八年三月二十日生)〉

 六年生の時、(戦争は)非常事態になりました。

 疎開するよういわれ、僕は末っ子で集団疎開に廻され、西志方村(横大路)の妙正寺へ行きました。

 食糧も段々と不足して、お粥が常食でした。

 疎開先きの田舎の子は銀飯で、まちの子はおかゆ腹! と田舎の子からよく泣かされました。

お寺だったので朝夕のお勤めのお経を唱えてからでないとご飯は食べられません。

 育ちざかりの頃なので食べたいの一心で、学校の帰りみち、畦に大豆ができているのをそっと持ちかえり、夜皆が寝てから火鉢の上で、一粒ひとつぶ焼いて食べたりしたこともありました。

 ミカンの皮までも焼いて食べ、口の中に入れて毒でないものはみな食べました。

 あさましい気持だが、今の子供に話しても信用してくれないでしょう。

       「お寝しょう」で、ふとんがにおったこともありました

 夜中に眼をさまして泣く子、寝小便する子、はずかしいから、そのままふとんをたたんでかくすので、後からものすごくにおいました。

 すぐに干せばいいのですが、格構が悪い。

 戦争が激しくなり、僕等はいつ神戸へ帰れるのと、毎日、毎日心淋しい日が続きました。

 面会に来てくれる両親も物資不足で、僕らの好きな甘いものも手にはいりません。

 ・・・・

 *写真:妙正寺(志方町横大路)

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志方町をゆく(130) 横大路(5) 学窓疎開(3) おやつはイナゴ(疎開追想集より)

2023-06-17 06:35:26 | 加古川市歴史探訪 志方町編

   志方町をゆく(130)  横大路(5) 

     学窓疎開(3) おやつはイナゴ(疎開追想集より)

   〈桑田 結〉 

 私たちは、お寺(志方町横大路妙正寺)の本堂に集まり、先生から、ここで集団生活を送るので、しっかりせよと、お説教されました。

 その後、(男の子は近くの)公会堂へ移って、寝泊りすることになりました。教室位の広さの天井の高い部屋でした。

 昭和19年夏から、昭20年秋まで集団生活を送ったわけですが、広い公会堂にせんべいフトンでの生活はきびしく、手足はアカギレ、栄養失調によるハナタレ、皮膚病、加えて寝小便と9才~10才の子どもにとっては、本当につらい生活でした。

 疎開地に入った当初は、週に一回位はすじ肉だったが肉もありました。

 また、時には、交代で民家へ招待されて家庭の味を味ったりしました。

 しかし、戦局が悪くなるにつれて食事は悪くなる一方で、7、8月頃は、昼食はサカヅキー杯の大豆だけとなり、朝夕の食事も、おかゆより薄い、得体の知れない重湯になっていました。

 イナゴをとって、ホウラクでいって食べるのが唯一のおやつでした。イモのつるなどは貴重な食料でした。

      朝・宝殿駅で発見されることもありました

 疎開中の唯一の楽しみは、やはり両親の面会でした。

 差し入れのおやつが楽しみでしたが、親が帰れば全部集めて、全員のおやつになりました。

 時局とともに、面会に来る親も段々と減り、6月の神戸大空襲以後は、在神の親も丸裸となり、集団疎開に預けておいた方が良い、と云う事で、全く面会もなくなりました。

 学友の中には、戦災で両親を亡くして、縁者に迎えられて、泣き泣き他所へ行くものもいました。

 あまりのつらさに、夜中に脱走して、早朝宝殿駅で見つかる友もたびたび出ました。・・・・

 *絵:イナゴのほうらく焼き



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 志方町をゆく(129) 横大路(4) 学童疎開(2) 河原の葬列

2023-06-16 07:52:27 | 加古川市歴史探訪 志方町編

        志方町をゆく(129) 横大路(4) 学童疎開(2) 河原の葬列

 写真の石碑は、昭和50年に学童疎開を記念して、妙正寺(志方町横大路)の境内に建てられた記念碑です。

     河原の葬列  原田幸次郎(文集より)

 ・・・・集囲疎開の八カ月の生活の思い出は、今でも鮮明なのは不思議なことです。

 集団の中で要領を覚え、時には策略も必要となり、結構大人への段階を早く昇っていたのかも知れません。

 イナゴやセリが食えるものだということを知っただけでなく、浴衣(ゆかた)姿の女性教飾に感じたときめきは家庭では決して経験しないことでした。

      荼毘は河原で         

 そのころは小国民という言葉があり、玉砕のニュースや空襲で子どもにも「死」という言葉は身近なものになっていました。

 この「死」のはかなさと哀れを私に教えた悲しい水死事故が疎開地でおきたのです。

 近くの川で一年生か二年生だったМが溺れて亡くなり、その葬儀がその現場河原で行われました。

 河原には組んだ木が積み上げられ、Мの遺体はみんなの前で茶毘に付されました。

 暑い熱い夏の日の午後、黒い炎と共に幼い疎開学童が一人、家庭の団欒に戻ること無く短い生命を終えてしまったこの日の風景は、疎開の思い出の中で一際鮮烈なものになっています。

 あの日から五十年(平成七年の文集執筆当時)が経ちました。

 Мがあの事故にあっていなかったら日本の高度経済成長と共に生き、家庭をつくり、そろそろ定年を迎える幸福な人生を送ったに違いありません。

 偶発的な出来事とはいえ、Мやその家族にとっては疎開がその運命を変えてしまったと思える事でしょう。

 私にとって学童疎開は親や兄弟と違う他人と初めて集団生活をした「道場」のようなものでした。

 成長の上で得るものも多くありましたが肯定は出来ません。・・・

 *写真:昭和50年、学童疎開を記念して建てられた記念碑(志方町横大路・妙正寺)

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