ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

別府町をゆく(61) 別府町新野辺(1) 別府町新野辺を散策しましょう

2022-11-30 07:47:45 | 加古川市歴史探訪・別府町編

       別府町をゆく(61) 別府町新野辺(1) 別府町新野辺を散策しましょう

 別府町を紹介していますが、現在まで「別府町をゆく」ではもっぱら別府町別府を中心に紹介しました。

 江戸時代、この地に別府村、新野辺村(しのべむら)そして西脇村がありました。

 これら3ヵ村は、明治22年4月1日、新しい町村制により加古郡別府村が誕生し、昭和3年11月5日、加古郡別府町になり、さらに昭和26年10月1日、古川市と合併して現在の加古川市別府町が誕生し、現在に至っています。

 このあたりで、別府町別府の紹介はいったん少しお休みにし、別府町新野辺(しのべ)歴史散策しましょう。

 *地図:『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県総務部地方課編集)より

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別府町をゆく(60) 写真集・別府町(26) 浜が消える(4)・神戸製鋼所加古川へ進出

2022-11-29 08:24:13 | 加古川市歴史探訪・別府町編

      別府町をゆく(60) 写真集・別府町(26)

      浜が消える(4)・神戸製鋼所加古川へ進出

 加古川市が神戸製鋼所の有力候補地として白羽の矢がたったのは、昭和34年のころで、建設計画が示されました。

 これに対して加古川市議会は、猛烈な勢いで動きました。

 

 昭和35年1月の市議会は、「・・・目標が神戸製鋼所と決まった以上・・・(中略)・・・神戸製鋼所誘致に本市の運命を賭けるべきであろうと考えるのであります。

 地元各位のご協力はもちろん、全市かって一丸となって、これが目標完遂のために、当議会においても、強力な神戸製鋼所誘致特別委員会の設置を提案する次第であります」

 まるで、戦時中の演説かと見まがうほどの雰囲気の中で、全会一致で特別委員会設置が決まりました。

 この間、市民の声があまり聞こえてきませんでした。

 そして、昭和43年(1968)厚板工場の操業を手始めとして、その後着実に銑鉄一貫工場体制による新鋭製鉄所は完成しました。



 加古川製鉄所は、環境保全を最優先する基本理念を持って進められたはずでしたが、「神戸製鋼所第三高炉建設をめぐって推進派と反対派の市民多数が傍聴に押しかけ乱闘(197412)」や「ばい煙公害に悩まされている農民が、第三高炉反対を訴えて市役所に直訴(19755)」といったできごとがおきました。

 その後、大気汚染防止法など基準値超過の際、記録の中止・データーの改ざんなどを行い、大きな社会問題ともなりました。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

 *写真:神戸製鋼所が建設された金沢新田の一部。神戸製鋼所の地番を金沢町としているのは金沢新田跡から名づけられています。

 

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別府町をゆく(59) 写真集・別府町(25) 浜の風景・消える浜(3)

2022-11-28 07:30:41 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

   

  別府町をゆく(59) 写真集・別府町(25) 浜の風景・消える浜(3)

 『加古川市史(第三巻)』の次の指摘に注目します。



 ・・・(埋め立てにより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名の下に、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

 このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないだろうか・・・・

 以下は「広報かこがわ」からの引用です。

 

 ・・・この浚渫(しゅんせつ)で浜辺がなくなり、潮干狩り、海水浴場が姿を消し、昔の面影は一変し、壮観な工場群が建設されようとしている。(「広報かこがわ」1967415日号)



 〈見出し〉 「来春完成めざし  埋め立て始まる  尾上町・別府町地先の公有水面」

 ・・・現在約十隻のしゅんせつ船が稼働しており、排砂管より勢よく土砂が吹き出している、日々海岸が変ぼうしております・・・(「広報かこがわ」1968515日号)



 以上は「市史」「かこがわ広報」の若干後悔をこめた記述です。

 かくして、別府・尾上町から海岸線が消え、市民のウオーターフロントはなくなりました。

 *写真:浜の埋め立て(昭和4243年)



 

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別府町をゆく(57) 写真集・別府町(23)  浜の風景・消える浜(1)

2022-11-27 08:31:13 | 加古川市歴史探訪・別府町編

     

  別府町をゆく(5) 写真集・別府町(23) 海岸が消える(1)

 昭和36年(1961)2月、加古川市は、3億8000万円の赤字を抱えて、財政は火の車でした。

 この時(昭和37年)甘いささやきがありました。



 東は、明石から西は赤穂にいたる地域が「播磨工業地帯」として指定を受け、昭和37年、加古川市・兵庫県・神戸製鋼所は、神戸製鋼所加古川工場建設に関する協定書に調印し、加古川市は工業都市に向けて一歩をふみだしました。

 神戸製鋼所が本格的創業を始めた昭和45年(1970)頃から、加古川市の財政は徐々に改善されました。

 この意味ではある程度評価できます。

 「・・・第二次産業の中で素材産業が大きなウエイトを占める加古川市の産業構造は不安な状況にあり、今後活力ある街づくりを推進するためには、バランスのとれた産業構造を確立し経済活動を活発化することが必要である。・・・」と『平成二年度商工概要』(加古川市経済部商工労政部)は指摘しています。



 また、ご多分にもれず、水質汚濁や大気汚染といった公害とも無縁ではありませんでした。別府・尾上から海岸が消えました。

 別府の浜の景観は一変しました。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

 *写真:呉田利明氏提供(昭和43年撮影)

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別府町をゆく(56) 写真集・別府町(22) 浜の風景・ノリづくり(2)

2022-11-26 09:06:44 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

    別府町をゆく(56) 写真集・別府町(22) ノリづくり(2)

 加古川の河口、加古川や東播磨地域の池などから栄養豊富な水が流れ込み、ノリの生育に適しているとされています。

 そのため、そのためにノリの養殖がさかんで、別府浜ではこうした風景冬の風物詩となっていました。

 神戸製鋼所の進出により生産の中心地は高砂沖に移動し生産者の数も減りましたが、地元のノリ業者(大濱海苔店)は「かこがわノリ」の銘柄でノリの生産を続けておられます。

 このノリは、めっちゃ美味しいですよ。

 *写真の大濱海苔店(加古川市尾上町池田)はインターネットより

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別府町をゆく(55) 写真集・別府町(21)  浜の風景・ノリづくり(1)

2022-11-25 09:26:33 | 加古川市歴史探訪・別府町編


  別府町をゆく(55) 写真集・別府町(21)

                浜の風景・ノリづくり(1)

 昭和26年、別府町が加古川市になって以来、別府の町の風景は、まさに激変しました。

 これが半世紀の間の変わりようかと思えないほどの変化です。

 こどもたちは、想像ができないでしょうね。

 別府の子どもは、別府は海辺の町と思っていないのかもしれません。

 それほどの変わりようです。

 たまには、潮風に誘われて「幻の別府の浜」を散策してみませんか。

 きょうは、昭和32年撮影の別府の浜のノリづくりの風景です。

 *写真:ノリづくりの風景(昭和32年撮影)、呉田利明氏提供

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別府町をゆく(54) 写真集・別府町(20) 浜の風景 魚釣り(2)

2022-11-24 07:16:05 | 加古川市歴史探訪・別府町編

     

   別府町をゆく(54) 写真集(20) 浜の風景 魚釣り(2)

 昭和32年撮影の写真です。

 この突堤は、その先に灯台があります。

 景色はすっかり変わりましたが、現在と同じロケーションです。

 ですから、突堤の左は別府川で右は別府港の風景です。

 でも突堤は現在立派になり、現在は途中のピカピカの海洋センターが建設されています。

 ここが絶好の釣り場でした。

 出かけた時は、いつもおじさんと子こどもたちが釣りを楽しんでしました。

 ここからの夕日はみごとでした。秋遠くの小豆島の島影の向こうに沈んでいきました。

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別府町をゆく(53) 写真集・別府町(19) 浜の風景 魚釣り(1)

2022-11-23 08:05:28 | 加古川市歴史探訪・別府町編

     別府町をゆく(53) 写真集・別府町(19) 浜の風景 魚釣り(1)

 魚釣りは、いつの時代も人気でした。

 この写真は、別府浜での釣りの風景昭和32年)です。

 場所は、背景に「あかがね御殿」がありますので、場所はお分かりと思います。

 今の海洋センター付近です。ここにたくさんの太公望が集まりました。



 「オジサン・・・何が釣れるん・・・」

 アジが多いな。

 「今夜のおかずですか」

 そうやな、酒のアテにな・・・うまいで・・・



 当時は、キャッチ・アンド・リリースなんてしません。

 食べるために釣りをしました。

 釣り竿は、竹でした。

 *写真:昭和32年の魚釣りの風景(提供:呉田利明氏)

 〈ご連絡〉先日の「都合でブログ・フェイスブック」を「1週間ばかりお休みします」とご連絡させていただきましたが、要件は2日で済んでしまいました。ブログ・フェイスブックを続けさせていただきます。

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別府町をゆく(52) 民話:(金沢)九郎兵衛と蛇塚

2022-11-20 07:26:49 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

     別府町をゆく(52) 民話:(金沢)九郎兵衛と蛇塚

 今日の話題は、別府町の写真集ではありません。金沢新田の直接の開発した金沢九郎兵衛についての伝承です。

      民話: 九郎兵衛と蛇塚

 金沢新田の開発中のことでした。

 新田に大蛇を葬ったという大きな塚があり、村人は、これを「蛇塚」とよんでいました。

 「もし、牛がこの塚の草をたべると発熱するし、人がその塚の草をふんだだけで熱がでる」と恐れられていました。

 金沢新田の開発は進み、蛇塚をほりおこし、水路を造らなければならなくなりました。

 ところが「大蛇のたたり」を恐れて、誰も塚を掘ろうという者がいません。

 九郎兵衛は、家族に「新田開発も後は蛇塚を残すだけとなった。塚を掘ると大蛇のたたりで死ぬかもしれぬ。それで、他の者に任せてはかわいそうである・・・」と、自ら塚に鍬をいれました。

 幸い、何事もおこりませんでした。

 塚のあとから、蛇の骨のような物が2個が出てきました。

 一つを自宅に持ち帰り、他の一つは、観音寺(尾上町池田)に納さめました。

 ある夜のことでした。

 九郎兵衛の夢枕に大蛇があらわれ、「私の祠(ほこら)を建てて祭ってくれたら金沢家を守護するであろう」というと姿を消しました。

 金沢家では祠を建てて祭っておられましたが、現在は、大蛇の骨は盗難のためか、なくなっています。

  〈お知らせ〉

 明日から約1週間、ブログ・フェイスブックは、都合でお休みさせていただきます。ご了解ください。

 

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別府町をゆく(51) 写真集・別府町(18) 金沢新田(2)・金沢新田跡の風景

2022-11-19 07:48:31 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 『別府小学校創立百周年記念誌』に、田下明光さん(昭和37年卒業)が子どもの頃、新野辺の海岸で遊ばれた思い出を書いておられます。

  別府町をゆく(51) 写真集・別府町(18) 

                 金沢新田(2)・金沢新田の風景

 僕にとって別府は海です。そして、海は別府でした。

 父親となって自分の娘、息子に話して聞かせる少年時代の想い出は、あの遠浅の別府の海の話しばかりなのです。

 小学校に入る頃に始めた釣りは未だに続いていますが、エサを買わなければならないことと、魚が釣れなくなったことは、当時と比べて大きな変化です。

           シンガイ・ワンド・マガリ

 「シンガイ、ワンド、マガリ」この言葉を懐かしく感じるのは30代後半(それも男性かナァ)までではないでしょうか。(*この原稿は平成5年に書いておられます)

 別府海岸は、加古川の東岸から別府川の西岸にかけて、加古川市のほぼ南限いっぱいの尾上町と別府町の海岸線約3.5キロメートルのうち東半分を占めておリ、逮浅の海水浴、汐千狩、釣りに最適の海岸でした。

 「アマの泣き潮」と呼ばれていた、一年で一番潮の引く日には沖合300メートルまでいっても背が立つほどでした。

 海岸線には別府から尾上まで延々と防波堤が続いていました。

 防波堤の北側には平行して大小二筋の溝があり、「大ミゾ」「小ミゾ」と呼ぶ一種の気水域(海水と真水の混入域)で、さらにその北側には干拓田跡「シンガイ」が広がっていました。

 小ミゾより大ミゾの方が塩分が多く、小ミゾにはフナもたくさんいたし、シンガイは真水に近く、シンガイの北側にも東西に細長いミゾがあって、フナやナマズが釣れました。

 大ミゾが気水域なのは、海と大ミゾの水を調整する「ワンド」と呼ばれる石積みのバームクーヘンのような樋が防波堤に接して大ミゾ側にあリ、海側に一ケ所、大ミゾ側に三ケ所の水門がありました。

 そして、防波堤は真ん中にあたり、別府と尾上の境界付近で大きくカーブを描いており「マガリ」と呼んでいました。

 マガリ付近からは投げ釣りでカレイ、キスなどがよく釣れましたが、小学生特代はこのマガリで隣町の尾上の小学生と知り合ったり、にらみあったりした、子供の領分の境界でもありました。

 シンガイ、ワンド、マガリ、ここで、僕達は多くの魚の種類と獲り方を覚えたのです。

 *写真:ワンド(上)と金沢新田跡(下)の風景(呉田利明氏提供)

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別府町をゆく(50) 写真集・別府町(17) 金沢新田(1)・金沢町

2022-11-18 01:21:42 | 加古川市歴史探訪・別府町編

    別府町をゆく(50) 写真集・別府町(17) 金沢新田(1)・金沢町 

 金沢新田(地図の赤く彩色した部分)の話をしましょう。

 金沢新田の風景です。

 遠景に4本の煙突がみえます。

 多木製肥所の煙突です。

 現在イトーヨーカ堂となっており、この写真の場所は大体のお分かりになると思います。

 もちろん、この新田に現在、神戸製鋼所がデンと建設されています。 

 この地(写真)にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村(現在:加古川市東神吉町砂部)の金沢九郎兵衛でした。

 金沢家に残る文書等から判断して、「金沢新田」は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。

 この時の新田は84町4反21畝でした。

 開墾費用は、銀854貫85匁五分と莫大で、九郎兵衛にそんな金はありません。スポンサーは加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村の近藤亀蔵でした。



 以下は、余話です。

 ・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫という集落があり、昔、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいました。

 「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門通れば後光さす・・」と、当時の俗謡にも歌われるほどのお金持ちでした。

 享保年間にはじまる『日本長者鑑』という長者番付が出たとき、東西の横綱として上げられたのは、東が出羽の本間の財産40万両で、西は播磨の近藤60万両であり、近藤家は日本一の金持ちでした。

 ともかく、近藤一族をスポンサーに、開発願主は九郎兵衛で、金沢新田は完成しました。

 お気づきと思います。現在の金沢町は金沢新田の上につくられており、そこから名づけられた町名です。そのもとになったのは九郎兵衛の姓です。

 *写真:呉田利明氏提供(浜側から見る昭和32年の別府町の風景)と地図:金沢新田の一部



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別府町をゆく(49) 写真集・別府町(16)  浜の風景(2)・潮干狩り(2)

2022-11-17 07:15:37 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

    別府町をゆく(49) 写真集・別府町(16)

           浜の風景(2)・潮干狩り(2)

 

『加古川市史(第三巻)』の次の指摘に注目します。

 ・・・(浜の埋め立てにより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名の下に、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

 このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないだろうか・・・」



 以下は「広報かこがわ」からの引用です。

 ・・・このしゅんせつにより遠浅の浜辺がなくなり、潮干狩り、海水浴場が姿を消し、昔の面影は一変し、壮観な工場群が建設されようとしている。(「広報かこがわ」1967415日号)

 (見出し) 「来春完成めざし  埋め立て始まる  尾上町・別府町地先の公有水面」

 ・・・現在約十隻のしゅんせつ船がか動しており、排砂管より勢よく土砂が吹き出している、日々海岸が変ぼうしております・・・(「広報かこがわ」1968515日号)



 かくして、別府・尾上町から市民のウオーターフロントは消えてしまいました。



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別府町をゆく(48) 写真集・別府町(15)  浜の風景(1)・潮干狩り(1)

2022-11-16 07:11:47 | 加古川市歴史探訪・別府町編

     

      別府町をゆく(48) 写真集・別府町(15) 浜の風景(1)・潮干狩(1)

 「なつかし別府町の風景」満載の写真ばかりです。紹介しましょう。

 近年、加古川市南部、特に別府町は大きく変貌しました。

 別府にお住いの呉田利明(ごでんとしあき)さんから別府町の写真を紹介していただきました。

 懐かしい貴重な記録満載の写真ばかりです。その一部を呉田さんの許可を得て紹介します。

 説明は、わかる範囲で取材しますが、間違いや、さらに付け加えることがあると思います。ご指摘ください。

 

 浜には強烈な海の匂いがありました。

 別府の町から浜が消えました。

 その間の事情を『加古川市史(第三巻)』で確かめておきましょう。



  ・1967(昭和42 4.1  別府浜開き、最後の潮干狩り(~6月12日まで)

             4.4  臨海部の埋め立て始まる

  ・1970(昭和45    臨海部の埋立て完成

              5.1  東播磨港別府港区開港     



 別府の潮干狩りは、昭和42612日で終了しました。そして、神戸製鋼所がつくられ、東播磨港が開港しました。

 別府の浜は工場とコンクリートの風景に激変しました。

  *『加古川市史(第三巻)』・『明治・大正・昭和初期の加古川』(加古川総合文化センター)参照





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別府町をゆく(47) 写真集・別府町(14) 多木久米次郎・将棋屋(割烹うなぎ料理店)

2022-11-15 06:42:42 | 加古川市歴史探訪・別府町編

   

       別府町をゆく(47) 写真集・別府町(14) 

       多木久米次郎・将棋屋(割烹うなぎ料理店)

 将棋を打っている写真をご覧く下さい。

 中央の将棋を打っているようすを見ているのは、多木久米次郎です。かれは将棋が好きで、得意でした。

 左は、当時の三十四銀行頭取・小山健三で、その相手は貴多文太郎です。

 この写真は、大正元年に撮影です。

 貴多文太郎(初代:将棋屋)と将棋屋を紹介しておきます。

 貴多文太郎は、江戸時代も終わりの頃、西宮に生まれました。

 明治になり、多木化学の荷夫の頭として働いていました。

 彼は、当時の将棋名人・関根金次郎より六段の免許を与えられました。

 しばしば、久米次郎や健三に将棋を伝授しました。

 小山健三は、明治41年に料理屋兼旅館業をはじめ、大正5・6年頃から、うなぎの蒲焼を始めました。

 その時、店の名を特技であった将棋から名づけ「将棋屋」としたのです。

 「将棋屋」は、宝蔵寺から北東に徒歩2・3分の所です。

 「将棋屋(写真下)」の前を散策したとき、「うなぎ屋」なのに「将棋屋」とは不思議な名前と思われた人も多いのではないでしょうか。

 *『手枕』(別府小学校創立百周年誌)参照

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別府町をゆく(46) 写真集・別府町(13) 多木争議

2022-11-14 09:09:48 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

      別府町をゆく(46) 写真集・別府町(13) 多木争議

 お詫びです。いま写真集・別府町を連載してますが、今回の多木争議については適当な写真がみつかりませんでした。お持ちの方は一報ください。

 

 昭和6年(193112月、大恐慌のさなかに激烈な争議が加古川地域におきました。

 「多木争議」です。

 多木製肥所は、勤続5年以上の勤続者を解雇し、若い人を新しく使い、年をとった者を首にしようとしました。

 この解雇への不安により労働組合を結成しました。

 未曾有の不況の中での解雇は、労働者にとって生活の根底をゆるがすものでした。

 会社は、この解雇の方針を変えません。

 12月16日、会社側は、水杉重一他32名に「五ヵ年の労働契約が切れた」と解雇を通告しました。

 組合は、生活防衛のため、直ちにストライキに突入しました。

 17日から、警察の暴力的弾圧も加わり争議は激しい様相をていしました。

 そして、22日、争議団は会社に会見を求めた。会社はこれを拒否しました。

 警察側は、明石署にも応援を求め、翌23日、警察署員と争議団は激しく衝突しました。

 争議団の水杉重一は、屋上から落下して死亡。岡田小市も投石により頭部を裂傷し死亡に至るという凄まじい衝突になりました。

 争議団員149名が検束収容されました。大恐慌下、しかも満州事変という日本全体のファッショ的な雰囲気の中で、会社側は、187名の解雇を強行しました。

 解雇手当として2万円、争議費用5000円を争議団に支払うことで決着し、争議は、労働側の惨敗に終わりました。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

 写真:多木製肥所全景:『写真集・加古川(玉岡松一郎編著)』(国書刊行会)より

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