ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

懐かしい風景(35) 別府町編(16) イトーヨーカ堂ができました

2021-11-30 11:01:31 | 懐かしい風景

 懐かしい風景(35) 別府町編(16)

     イトーヨーカ堂ができました

 先に、山陽電車別府駅の新築中の写真を紹介しました。昭和63年撮影の写真です。

 きょうのキトーヨーカ堂の建設中の写真も昭和63年の写真です。

 ですから、別府駅界隈の風景が激変したのは、昭和63年のようです。

 神戸製鋼ができ、関連企業が増え、人口が増え、そしてイトーヨーカ堂ができ駅舎が完成しました。

 昭和42年に浜が消えてから20年ほどの年月が経ち、別府町は、全く違う街に生まれかわりました。

 *蛇足です。

 イトーヨーカ堂のある場所は、もと多木製肥所があった場所です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(34) 別府町編(15) 別府鉄道(2)  そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

2021-11-29 07:39:46 | 懐かしい風景

 途中で急に常光寺(神野町)をとりあげましたが、神野町は別府辺の後に取り上げることにします。もうしばらく「懐かしい風景:別府町編」を続けます。お付き合いください。

  

     懐かしい風景(34) 別府町編(15) 別府鉄道(2)

      そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

 別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の月でした。
 現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線でした。
 別府鉄道の主な役割は、別府の多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。
 最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、肥料のほかに別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。
 しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。
 モータリゼーションの波で乗客は激減し、さらに同59月、土山駅での貨物取り扱いの停止が決定的な打撃になり、高砂線と同じ昭和59年に、63年の歴史を閉じました。

 写真は、山電車別府駅の西の道を少し北へ行った街中を走る別府鉄道。

 不思議な光景のようですね。

 *写真:県道八幡-別線を横切って野口へ向かう別府鉄道

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として 常光寺(4) 天徳学校(神野小学校の前身)の誕生

2021-11-27 21:29:32 | 余話として

  余話として 常光寺(4)

   天徳学校(神野小学校の前身)の誕生

 

 時代は、江戸時代から明治へとバトンタッチされました。

 世界に目を開いた日本は、その遅れを取りもどすために、まず教育に力を注ぎます。

 そして、明治5年(1872)8月「・・・一般の人民は、必ず不学の戸なく、家に不学の人がいないようにする・・・」という大目標をかかげて教育の普及につとめました。これが「学制」です。

 この学制が実施された。3年後の明治8年には、全国に24,225の小学校がつくられました。

 政府の財政は、火の車でした。建設費は、国や県から支給されません。苦肉の策として、ほとんどお寺が利用されました。まさに、「明治版・寺子屋」です。

 実質就学率は3割程度であったといわれています。

 簡単に言うと「各村の責任で学校を作れ、そして学校経営をしろ・・・」という命令でした。

 1872年(明治5)10月、加古郡神野村では、常光寺を利用して天徳学校」としました。そして、1877年(明治10)4月1日神埜小学校と改称しています。

    天徳学校」は、常光寺の山号から

 神野の天徳学校は、常光寺の山号からの命名です。

 来年(令和4年・2022)、常光寺で誕生した天徳学校(神野小学校)が150年の誕生を迎えます。

 *写真:常光寺の山門にかかる「天徳山」の額

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として 常光寺(3) 南北朝正閏論

2021-11-27 09:35:14 | 余話として

            余話として 常光寺(3) 南北朝正閏論

 「南北朝正閏論(なんぼくせいじゅんろん)」。あまり聞かれなくなった言葉です。

 「南北朝正閏論」の発端は、明治44115日の「読売新聞」の社説でした。

 ここでは、水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。

 第二次桂内閣の時でした。 

 野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。

 この時、桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められました。

 以来、足利尊氏は南朝に敵対した『逆賊』とされました。

 昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は辞職に追い込まれるという事件もおきました。

 戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。

     足利・赤松一族の研究は戦後

 ことは足利一族だけにとどまりません。私たちの地域・播磨地域を支配したのは赤松一族で、播磨地域は足利の家来として活躍した武将です。

 となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。

 東播磨地域は、赤松の勢力下にありました。つまり、北朝方でした。

 そのため、戦前赤松一族の公平な評価・研究はなされませんでした。

 明治以降赤松の研究は不当にゆがめられました。

 史実(歴史)としての赤松氏の研究は戦後になってからの事です。

 赤松氏の研究は、史料が失われたり、伝承が語られることもなくなり、赤松氏の実像が伝えられていません。

 常光寺は、赤松氏につながるお寺ですが、史料はほとんど伝えられていません。

 *写真:常光寺本堂とモミジ(1124日撮影)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として 常光寺(2) 播磨西国三十三ヵ寺の観音霊場 :常光寺の南室和尚が定める

2021-11-26 08:48:07 | 余話として

     常徳寺(2) 播磨西国三十三ヵ寺の観音霊場

         常光寺の南室和尚が定める

 

 西国三十三観音霊場巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねをするようになりました。
 人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音霊場めぐりに出かけました。
 第一番の那智山青岸渡寺から、最後の三十三番目の谷汲山華厳寺までの寺めぐりでした。
 それは、まさに苦行の旅でした。  
 江戸時代になり、治安もよくなりました。
 交通機関も整備され、西国三十三観音霊場めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼も、レクレーション的な性格さえ持つようになりました。
 それでも、誰にでもできる気軽な巡礼の旅ではありません。
 苦しい生活の庶民にとって、三十三観音霊場巡りは現在の外国旅行よりも、ずっと縁の遠いものでした。
 そこで考えられたのが「播磨の国に三十三ヵ寺の観音霊場を定め、それらの寺を巡礼すれば、同じ功徳がある」としてはじまったのが「播磨西国三十三所霊場めぐり」です
 このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。

 常光寺は、建武の三年(1336)、 開山されたとされていますが、その後、火災・戦火に会い衰えます。

 慶安元年(1648)、赤松氏の後裔である南室和尚を招き、中興の開山の祖として寺号も天徳山として再出発をしました。

 南室禅師は、播磨西国三十三ヵ寺を定め播磨の国の三十三ヵ寺めぐりを盛んにさせたのです。

 ここでも赤松一族が登場します。常光寺は「赤松」「足利」につながるお寺であったようです。

 お寺の庫裏の前に元山門の瓦でしょうか、足利氏の家紋のある瓦(写真)が保存されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余話として 常光寺(1)  赤松義村の五輪塔

2021-11-25 08:32:54 | 余話として

 

    常光寺(1)・赤松義村の五輪塔

 昨日(24日・水)、神野町の常光寺をお伺いしました。お話の後、境内を案内していただきました。

 北の林の中に、なんと赤松義村の五輪塔があるではありませんか。真偽のほどはともかく、東播の赤松一族のことを知りたいですね。

 今「懐かしい風景(別府町)」を連載していますが、テンションが下がらないうちに赤松氏のこと・常光寺のことを少しだけ書いておきます。そのあと「懐かしい風景」続けることにします。

      赤松一族の衰亡 

 嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)は自害しました。この歴史は、学校でも教科書で学習します。

 赤松一族の断絶でした。この時、赤松が再び復活するとは、誰も考えたものはいなかったと想像されます。その顛末は、省かせていただきます。

      赤松氏復活

 赤松政則の時です。長享年二年(1488)、なんとか山名勢を追い出すことに成功します。

 政則は、赤松家の勢力を保つために細川家に近づきました。

 そして、政則の娘の松に養子・義村を迎え赤松家を託しました。

 ところが、事態は暗転します。

 明応六年(1497)四月二十五日でした。

 政則は鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で心臓発作のため、あえなく亡くなってしまいます。政則は42才でした。

 政則の政治力があってこその赤松一族の結束でした。

 赤松家が盤石なものとなっていない段階での無念の他界でした。

 お決まりの一族内での下剋上が始まりました。

 紙面の関係上、年表を追うことにします。

    赤松家、没落の年譜〉 

 ・明応 八年(1499)  赤松一族のナンバー2であった浦上則村が赤松家の乗っ取りをはかる。

 ・永正 四年(1507)  義村と洞松院(政則の妻)の対立が深まる。

 ・永正十五年(1518)  義村は浦上追討の兵をあげる。

 ・大永 二年(1522)  義村は、室津の寺に幽閉され殺害される。

 赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきました。

 政則を継いだ義村は、室津の寺に幽閉され殺害されてしました。

 常光寺の五輪塔は義村の五輪塔(墓)だと伝えられています。

 *写真:赤松義村の墓と伝える五輪塔

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(33) 別府町編(14) 別府鉄道(1) 

2021-11-24 09:17:03 | 懐かしい風景

 懐かしい風景(33) 別府町編(14)

         別府鉄道(1)
 

 別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の月です。
 現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線がありました。
 別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。
 最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。
 しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。
 モータリゼーションの波で乗客は激減し、さらに同59年月、土山駅での貨物取り扱いの停止が決定的な打撃になり、高砂線と同じ昭和59年に、63年の歴史を閉じました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(32) 別府町編(13) 別府の浜(2) ノリづくり②

2021-11-23 10:34:34 | 懐かしい風景

 

     懐かしい風景(32) 別府町編(13)

      別府の浜(2)・ノリづくり②  

 「ノリづくり・①」の続きです

 特に説明はありません。

 昭和32年当時の、浜の日常の風景です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(31) 別府町編(12)・別府の浜(1) ノリづくり①

2021-11-23 09:52:36 | 懐かしい風景

 

   

  懐かしい風景(31) 別府町編(12)

       別府の浜(1) ノリづくり①

 昭和26年、別府町が加古川市になって以来、別府の町の風景は、まさに激変でした。

 これが半世紀の間の変わりようかと思えないほどの変化でした。

 子どもたちは、想像ができないでしょうね。

 別府の子どもは、別府は海辺の町と思っていないのかもしれません。

 それほどの変わりようです。

 しばらくは、昔の別府の海辺を潮風に誘われて散策してみましょう。

 きょうは、別府の浜での「別府の浜:ノリづくり①」です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(30) 別府町編(11)・浜が消える(3) 埋め立て

2021-11-22 07:58:55 | 懐かしい風景

       懐かしい風景(3) 別府町編(11)

           浜が消える(3)

 『加古川市史(第三巻)』の著者は、加古川市のウォーター・フロントが完全にまで企業のものになったことの異常さを指摘されています。

 およそ、市史らしくない感情をこめた表現で、次のように述べています。



 (『加古川市史・第三巻』896pより)

 ・・・かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名のもとに、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

 このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないのだろうか。(以下略)・・・



 「出来てしまったものは、仕方がない」ではすまされません。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(29) 別府町編(10)・浜が消える(2) 埋め立て

2021-11-21 09:39:52 | 懐かしい風景

 懐かしい風景(29) 別府町編(10)・

     消える海(2) 埋め立て

 『加古川市史(第三巻)』の次の指摘に注目します。

 ・・・(埋め立てにより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名の下に、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

 このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないだろうか・・・・



 以下は「広報かこがわ」からの引用です。

 ・・・このしゅんせつで浜辺がなくなり、潮干狩り、海水浴場が姿を消し、昔の面影は一変し、壮観な工場群が建設されようとしている。(「広報かこがわ」1967415日号)

 (見出し) 「来春完成めざし  埋め立て始まる  尾上町・別府町地先の公有水面」

 ・・・現在約十隻のしゅんせつ船がか動しており、排砂管より勢よく土砂が吹き出している、日々海岸が変ぼうしております・・・(「広報かこがわ」1968515日号)



 かくして、別府・尾上町から海岸線が消え、市民のウオーターフロントはなくなりました。

 *写真:浜の埋め立て(昭和4243年)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(28) 別府町編(9)・浜が消える(1) 神戸製鋼所の建設始まる

2021-11-20 08:08:53 | 懐かしい風景

 

  懐かしい風景(28) 別府町編(9)

    浜が消える(1) 神戸製鋼所の建設始まる

 昭和36年(1961)2月、加古川市は、3億8000万円の赤字を抱えて、財政は火の車でした。

 この時(昭和37年)甘いささやきがありました。

 東は、明石から西は赤穂にいたる地域が「播磨工業地帯」として指定を受け、昭和37年、加古川市・兵庫県・神戸製鋼所は、神戸製鋼所加古川工場建設に関する協定書に調印し、加古川市は工業都市に向けて一歩をふみだしました。

 神戸製鋼所が本格的創業を始めた昭和45年(1970)頃から、加古川市の財政は徐々に改善されました。

 この意味ではある程度評価できます。

 「・・・第二次産業の中で素材産業が大きなウエイトを占める加古川市の産業構造は不安な状況にあり、今後活力ある街づくりを推進するためには、バランスのとれた産業構造を確立し経済活動を活発化することが必要である。・・・」と『平成二年度商工概要』(加古川市経済部商工労政部)は指摘しています。

 でも、その後、水質汚濁や大気汚染といった公害とも無縁ではありませんでした。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(27) 別府町編(8)・山陽電車別府駅(3) 山陽電車駅舎改築

2021-11-19 09:03:38 | 懐かしい風景

   懐かしい風景(27) 別府町編(8)

       山陽電車別府駅(3)・山陽電車駅舎改築



 1970(昭和451月、臨海部の埋立てが完成し、いよいよ神戸製鋼所が別府に進出してきました。

 そして、昭和63年にイトウヨーカ堂の工事がに始まります。

 別府町の人口は急増し、別府駅周辺の風景は、激変します。

 それに伴い、山陽電車別府駅手狭になりました。大きく改築されました。

 写真は、昭和63年当時の山陽電車別府駅の改築のようすです。

 神戸製鋼所の別府町進出については、次回から少し述べてみましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(26) 別府町編(7)・山陽電車別府駅(2) 山陽電車周辺

2021-11-18 12:50:06 | 懐かしい風景
 
 
  懐かしい風景(26) 別府町編(7)
    山陽電車別府駅(2)・山陽電車周辺
 
 前号の別府駅舎の写真をご覧ください。
 今日の写真は、昭和40年当時の別府駅周辺の風景です。
 駅舎のあたりは畑です。
 子どもたちにとっては、とっても想像できないでしょうね。
 風景は、激変しました。
 畑は、商店にかわり、駅周辺に「イトーヨーカ堂」ができ、神戸製鋼所が別府に進出し、人口は急増しました。
 別府駅は、現在の駅に改築されました。
 
  *写真:旧山陽電車周辺の風景(撮影年次不明)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしい風景(25) 別府町編(6)・山陽電車別府駅(1)

2021-11-18 10:27:26 | 懐かしい風景

  懐かしい風景(25) 別府町編(6)山陽電車別府駅(1)

 この駅舎は、以前にも紹介した写真です。昭和34年に撮られた懐かしい山陽電車の別府駅舎です。

 年配の方にとっては、たまらなく懐かしい写真だと思います。

 最初にクイズです。



 (クイズ)「考えたことがない」と答える人も多いのではないかと想像しますが、別府駅は、何故高架になっているのでしょう?。

  

 答えは、簡単ですね。

 山陽鉄道が姫路まで開通するのは、大正12年です。その時、別府鉄道がすでに営業をしていました。別府鉄道の開通は大正10年です。

 そのため、別府鉄道は高架にする必要がありました。

 もちろん、まだこのころに神戸製鋼所はありません。

 乗り降りの客も、少なかったのでしょうね。

 その後、神戸製鋼所ができ、イトーヨーカ堂もできました。

 山陽電車・別府駅の利用者が増え、手狭になり、別府駅は改築され、今日に至っています。

 *写真:旧山陽電車、昭和34年撮影(呉田利明氏提供)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする