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常光寺(1)・赤松義村の五輪塔
昨日(24日・水)、神野町の常光寺をお伺いしました。お話の後、境内を案内していただきました。
北の林の中に、なんと赤松義村の五輪塔があるではありませんか。真偽のほどはともかく、東播の赤松一族のことを知りたいですね。
今「懐かしい風景(別府町)」を連載していますが、テンションが下がらないうちに赤松氏のこと・常光寺のことを少しだけ書いておきます。そのあと「懐かしい風景」続けることにします。
赤松一族の衰亡
嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)は自害しました。この歴史は、学校でも教科書で学習します。
赤松一族の断絶でした。この時、赤松が再び復活するとは、誰も考えたものはいなかったと想像されます。その顛末は、省かせていただきます。
赤松氏復活
赤松政則の時です。長享年二年(1488)、なんとか山名勢を追い出すことに成功します。
政則は、赤松家の勢力を保つために細川家に近づきました。
そして、政則の娘の松に養子・義村を迎え赤松家を託しました。
ところが、事態は暗転します。
明応六年(1497)四月二十五日でした。
政則は鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で心臓発作のため、あえなく亡くなってしまいます。政則は42才でした。
政則の政治力があってこその赤松一族の結束でした。
赤松家が盤石なものとなっていない段階での無念の他界でした。
お決まりの一族内での下剋上が始まりました。
紙面の関係上、年表を追うことにします。
〈赤松家、没落の年譜〉
・明応 八年(1499) 赤松一族のナンバー2であった浦上則村が赤松家の乗っ取りをはかる。
・永正 四年(1507) 義村と洞松院(政則の妻)の対立が深まる。
・永正十五年(1518) 義村は浦上追討の兵をあげる。
・大永 二年(1522) 義村は、室津の寺に幽閉され殺害される。
赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきました。
政則を継いだ義村は、室津の寺に幽閉され殺害されてしました。
常光寺の五輪塔は義村の五輪塔(墓)だと伝えられています。
*写真:赤松義村の墓と伝える五輪塔